病院の一室、白い部屋に足を踏み入れた。昼の暖かい光が射す病室には、一人の少女がベッドで看護師と話をしていた。笑顔咲かす少女。彼女は扉の音に驚くもこちらを見て嬉しそうにまた、笑顔が満開へとなる。
「お兄ちゃん!」
「うん、こんにちわ、楓ちゃん」
お兄ちゃん、という言葉に若干の動揺をしつつも妥協をする。視線は、隣の看護師へと移す。
「ふふ、よく来たわね」
「お世話になります」
「いえいえ、寧ろお世話になるのはこちらの方かしら。楓ちゃんをよろしくね。何かあったらナースコールで呼べばいいから。それじゃあ私はもう行くから、楓ちゃんと適度に安静にしていてね」
隣のベッドメイキングされたベッドを指すと、看護師は足早に立ち去っていく。
と、思い出したかのように振り返った。
「そうそう、今日は文香ちゃんと美和さんが夜勤だからできるだけ手を貸してくれると助かるわ。……ほら、ちょっとあの二人だと不安だけどね」
「あはは…そうですね。わかりました」
よろしく頼んだわよ、看護師は今度こそ扉を開け出ると閉めて消えて行く。
思えば、入院なんて初めてかもしれない。
それをいきなり放置されても困るのだが、楓ちゃんは目の前の異質な光景に首を傾げた、
「お兄ちゃん、なにしてるの? “おようふく”着ないの?」
「あー、これかな」
楓ちゃんが指し示しているのは、彼女自身が着ている入院着のことだろう。薄い水色の、白い死者の服とは違った死人が着るのに近い色は何処か抵抗があった。
自分に割り当てられたベッドに鎮座するそれを見て、なんとも奇妙な感覚がする。
そう言えば、ドラマでは患者はいつの間にか着ているが俺は自分で袖を通すのである。意識不明で緊急オペをされた患者は何時の間にか着ているが、入院してから着るのはなんだか不思議な感じだ。
少女に配慮し、カーテンで仕切ってから服を脱ぐ。もぞもぞと服を脱ぎ、下着は脱ぐのかどうか曖昧な知識に迷いかけたところで――カーテンが開かれた。
「あっ! ご、ごめんなさい」
顔を覗かせたのは相部屋である隣のベッドの住人、楓ちゃんだが、顔を赤くすると引っ込んでしまう。
彼女は良識のある女の子のようだ――それはもう男の裸を見れば赤面するくらいには。つまり、女の子として自覚を始めた年頃の女の子ということで、俺は少なくとも注意し続けなければいけない。
取り敢えず、女の子の浴衣の下は下着を穿いていないなんて夢物語のような迷信を迷信と信じて、パンツは穿いたまま入院着を着る。
カーテンを開けてベッドに腰掛けると、楓ちゃんは顔を赤らめたまま、自分のベッドに腰掛けていた。
「あー、ごめん、見苦しいものを見せて」
「ぅ…ううん、お父さん以外の男の人の裸って初めてだったから、こっちも聞かずに顔を出して…ごめんなさい」
「いや、こっちも人声かけるべきだったよ」
少女がまさかカーテンを捲ってくるなんて思わず、更には油断していた自分のせいだろう。
まして、純粋無垢な少女のせいにできようか。
二人の間は気まずい。
重く、空気がのしかかる。
どんよりとした空気は、少女から発せられているものだった。俺も非がある。彼女にも一応の非はある。それなら彼女に自分のせいだと言っても、彼女自身が思っている限りこの話は終わらない。
「……えっと。俺も着替えるから、と人声かけなかったのは悪かったし。君がいきなりカーテンを開けたのも悪かった。でもね、楓ちゃん。君は君で早くお話がしたくて、カーテンを開けたんだろう?」
「うん…」
「それでも、君は君で助けてくれようとしてたんだよな。ありがとう」
実際、入院着を見てもたついてた俺を見て、楓ちゃん自身が力になりたくて、協力しようとしたのだろう。
構って欲しい――遊びたい、親に構って欲しい盛の子からすれば親からお見舞いの回数の少ないこの状況では余計に思うことで、必然だ。
――急遽、病室に隣人が居住しに来る。それも若く子供であれば、年が近しいこともあって、尚更嬉しかったのだろう。
そんな、子供視点じみたことを言っている時点で俺も変わらないようなものなのだが。
頭を撫で、楓ちゃんはえへへと笑いながら擽ったそうに身をよじる。頭が押し付けられる感覚。もっと撫ででと自己主張してくる頭に何度も撫で、こちらまで楽しくなってしまった。
「ん……ねぇ、お兄ちゃん」
不快だったのだろうか、手を両手で触り止める楓ちゃんは哀しそうに呟く。
「お兄ちゃんは……私のこと、嫌いにならない?」
「なんでそう思うんだ?」
「だって、パパとママはもう……私のことを嫌いになったちゃったのか、来ないんだよ」
「……それは、いつから」
「もう、半年くらいは会ってないよ」
少女から発せられた言葉は意外なことだった。少なくともそれは、異常なこと。例え、どんなに俺と似たような境遇でも、次元が違う。
俺の方が酷かった――かもしれないが、違う。
少女の方が、死活問題だ。俺からすればまだ耐えられることでも、楓ちゃん自身からすればすごく悲しいことなのだろう。
――看護師から聞いた話、楓ちゃんの両親は催促しても会いにこないそうだ。俺が何か反発するだろうと隠していたのか、看護師たちは今になってその情報を開示した。
父性だろうか、途端に少女を抱き締めたい衝動に駆られる。気がつけば、楓ちゃんの手を縫うようにして脇下に手を入れて持ち上げ、次の瞬間には膝の上に乗せていた。
「半年かー、半年ねぇ」
抱き締め、語り出す。
まるで、自分も同じだと主張するように。
「俺はさぁ、両親とはもう会ってないんだ。君より小さい頃には一人暮らしを始めて、でもお金だけは送られてきてね、会って欲しいという要望は全部無視してやった。8年くらいはそれが続いたよ。ん、6年か?」
眠った時の後遺症か詳しくは思い出せない。
「……気がつけば一人だった。独りだった。でも、なんだか幼馴染みたちを見ていると馬鹿らしくなってね。全部どうでもよくて、楽しかった」
少女に強用しているわけではない。共感を得て欲しいわけではない。ただ、経験上の何かを生かそうと、少女に注意を呼びかける。
「でも、ね、後悔だけはしないほうがいいよ。君が望むなら俺は手を貸してあげるから」
「……じゃあ、パパとママが私をいらないって言ったら、私を貰ってくれる?」
予想外の返答――否、質問に驚くも1度だけ考える姿勢を見せると、そこで気づく。考えるだけ無駄だ。考える姿勢は逆に不安を与える要素でしかない。さらに言うと、彼女の視線で気づいたのだが、彼女の不安げな瞳がなんとも痛ましかった。
「…うん。君がそう望むなら」
楓ちゃんの表情、曇っていた顔は太陽の光が射すような笑顔となる。向日葵。高く伸びて、きれいな花を咲かせる、そんな様子を思わせた。
□■□
「よぉーっす! ……って、あら?」
静けさを保つ病室に来訪者が現れた。その手には、書籍が内蔵された紙袋を手にしている。
挨拶に返される声はなく、訝しげに病室を見回すと、一つのベッドに二人が眠っていた。方や高校生っぽい中学生、もう片方は小学生、それも二桁に満たすか満たさないかのロリータ。
犯罪臭がする光景に、元クラスメイトは元クラスメイトへとさらに視線をきつくさせ、やがて柔らかく笑った。
「おうおう、美海ちゃんと結ばれて即不倫とは……やっぱり欲求不満?」
「黙れ。狭山」
「うおっ!? 起きてたのか」
「底知れぬ悪意を感じた」
「なにそれ、俺って悪いヤツ?」
「そうだな。江川と悪友名乗っていたくらいには」
起きた少年――誠は少女が寝ているのを確認してから、目の前の来訪者である狭山に目を向ける。
その目は幾らか不機嫌だ。眠りを邪魔されたことと、起きて最初に見た顔がこれだというのもあるのだろう。
それに、だ。
御見舞に来たのだろが、そうでもないとも言える。
狭山はからかいに来た。間違いなく、アカリに美海と自分の関係を聞いて来たのだろうと、推測する。御見舞はそのついでに過ぎない。
見舞いの定番品である果物を持っていなければ、手にされている厚紙を見てやはり顔をしかめ――察してしまうのは自分も同じ思考だと肯定しているようで我慢ならない。
「いやー、誠が土砂崩れに巻き込まれて重傷って聞いたから見舞いだよ。見舞い。それ以外に何がある? ほら、俺っていいやつじゃん?」
明らかににこやかな笑が誠にとってじゃに見える中、手を広げて自分をアピールする狭山に『自分で言うな』とツッコミたくなったが我慢する。
なにせ、これからツッコムことは山程あるのだから。
「帰れ」
とりあえず、軽くあしらうつもりでそう言ったのだが、狭山は気にせず茶色い包を破ろうとする。
そして、ビリビリと音を立てて茶色い包を無造作に破くと、狭山は中身を広げて見せた。
出てきたのはピンク色の冊子、薄い本、裸に近い女の人の写真が表に載せられたそれはあまりにも刺激が強く、男にとっては魅力的な18禁の書籍。
「どうよ誠、どうせ持ってこれないだろうと思って持ってきてやったぜ」
自信満々に悪びれもなく言う狭山。
感謝しろと言わんばかりに胸を張る。
しかも、それだけではない。茶色い包からはまたビニール製の小さな包が出てきた。中身はゴム製品の様だが、中身が何に使う道具か知った誠は、プルプルとそれを指差して声を絞り出す。
「……お前、これ……」
「ああ、アカリさん公認だから安心してくれ」
「ファッ!? いや、そんな筈は――」
「もしもの時の為にだってさ。あ、あとこれも。こっちは薬だが使い方はわかるよな? 医学者目指してるんだし」
××と書かれた避妊具、もとい薬。そんなものまで、茶色い包から出てくる。
頭が痛くなってきた。それも、二つの要因で。
まさか、アカリと狭山が結託してまでこんなものを送り付けてくるなんて想定外、その範疇を超えている。
誠は少女を見て、心を保つことにした。
「……天使だ」
「おーい、お前の天使は美海ちゃんじゃなかったか」
「今学校、仕方ない」
「口調おかしくなってんぞ」
「誰のせいだよ……」
諦め気味に嘆息すると、対して狭山はニヤニヤと悪い笑みを浮かべた。
視線は自然とサヤマートの方角へ。きっとまだ、アカリさんは働いているんだろうな。と、恨めしい念を込めながら項垂れた。
「んっ……お兄ちゃん、なにこれ?」
――と、隣から無邪気な声が聞こえてくる。
ギギギ、と不快な音が似合うような、壊れたブリキの動きで誠はそちらを見た。
少女、楓は起きていた。正確には今起きた。
楓の手にはゴム製品の様なものが封をされたまま握られており、誠は胃が痛くなった。
「……風船?」
「違うよ、違うから! お願いだから楓ちゃん、それをこちらに渡してくれないかな」
「じゃあ、何に使うものなの?」
純粋な小学生がここまで恐ろしいと思ったことは無い。小首を傾げる楓に誠はたじろぐと、元凶である狭山へと視線を向ける。
「あのお兄ちゃんに聞きなさい」
「ん、ホントのことを言ってもいいの――?」
そこまで言ったところで、狭山は襲い来る視線に戦慄を覚え数歩後ずさる。
誠が、睨んでいる。蛇に睨まれたカエルの如く、金縛りにあったように動かない体と思考を凍りつかせた。
「……えっとだな、それはなぁ」
言い淀む。誠が説明を押し付けたのはこんな小さな子に嫌われたくないからなのだが、狭山は自分が生贄だということを知らない。元からそういうキャラなのだからと、見捨てられたのだが……ニヤリと口元を歪めると、心底楽しそうに説明を始める。
「男の人と女の人が仲よーくなるための道具なのだよ。これを使えば心も体も一つなんだぜ☆」
「うん。でも、楓ちゃんにはちょっと早いかな」
ちょっとではない。だいぶだ。そう言いたいのを堪えて誠は優しく幼子をあやす様に言い聞かせる。
が、なにか思うところがあるのか、少女はその袋を握りしめると抗議してきた。
「そんなことないもん! 私もっともっとお兄ちゃんと仲良くなる!」
顔が青くなる誠。
対して、赤く怒ったように楓はずいっと迫った。
「いや、これは仲がいい男女が使うものでね」
「ん! 私はお兄ちゃんと仲良くないの?」
これまた返答に困る質問である。個人的には仲がいいとは思っているが、そういう意味ではない。
そこを説明しなかった誠にも非があるだろうが、助けを求め用とベッド脇を見れば――
「――って、あいついないっ!」
狭山は既に逃亡していた。楓に気を取られていたうちに逃げられたのだが、そう勘づいた誠は心の中で悪態を吐く。
素直に、率直に、少女に告げることにした。
「えっとね。俺は楓ちゃんとは仲がいいとは思ってるよ。思っているんだけど、これは親密な関係じゃないと使えないものというか、夫婦とか恋人同士が使うものでね」
「……グスッ。私じゃダメなの?」
ついには泣きそうな顔で、見つめてくる少女。
聞き間違えたら大変なことになりそうだ。
かと言って、『ダメ』と言えば泣き出しそうな少女にかける言葉が見つからない。
こんな展開初めてだ。対処できない。
膝上に乗っている楓に頭を撫でることしかできず、窓の外を仰ぎ見た。
「ダメというわけではないのだけど。俺がそんなことをすると不倫というか浮気というか、それ以前に犯罪になっちゃうからさ。いやそれ以前に浮気か」
どっちが先に来てもアウトである。
「――とにかく、そういうことは大人になったらわかるよ。楓ちゃんが大人になって、好きな人ができて、いつか添い遂げたい人と愛し合いたいと思ったらね」
「……私のこと、嫌いなの?」
まだ、諦めていないのか。悲しそうな表情、何もわかっていない状況でそんな顔をされると辛い。
だから、この場だけは捌こうと、意を決する。
主に自分の胃が破裂しないためにも。少女に無駄な知識がつかないためにも。もしも、間違った行動に出ようとすれば、悪漢に騙されるかもしれない。
離れていく家族を見て不安になったんだろう。なら、少しでもわかってもらおうと、最終手段に出た。
「楓ちゃんのことは好きだよ。だから、君が大きくなってそれでも理解して、使いたいと思うなら……その時はその時で受け入れるよ」
小さな嘘をついた。少女が大きくなって忘れてくれることを祈りながら、反応を見る。
無知は――罪だ。
楓はわかっていない。いないのだが、好奇心旺盛なのか頬を膨らませて怒っていた。
「もういい! 看護師さんたちに聞いてくる!」
勢いよく楓が立ち上がり、床に降りる。誠はもちろん追おうとしたのだが、膝に乗られていたせいか若干痺れてしまってまともに立てない。
それに、楓が立ち上がる時に胸を蹴られ、傷口にヒットするという事故が起き、悶える誠。
このままではまずい。一番まずい。何よりも他の人に聞きに行くことが……そう思っても、看護師たちに誤解されないことを祈ることしかできないのだった。
狭山を絡ませようと思ったらこうなった。
サヤマートには何でもござれなんですよ。