凪のあすから ~変わりゆく時の中で~   作:黒樹

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※胸糞注意



第五十話 桐宮燕の悲劇

 

 

 

薬の密売、それは許されないことだ。服用した者だろうと売るだけの者だろうとやがては身を滅ぼす。

俺はその一人、桐宮燕――麻薬密売の数少ない院長と繋がる者と腕を組み、歩いていた。周りの視線は彼女の艶めかしい姿に釘付けで腕を取られる俺も巻き添えをくらっている。いい意味でも悪い意味でも男性女性と視線を集め、男性の方はカップルであろう女性に耳を抓られたり頬を抓られたり、散々な仕打ち…いや自業自得な制裁を受けている。

 

しかし、なんだか不安だ…。

 

「燕さん、少し離れてください」

 

「えぇー親密な仲なのにそういうこと言うの?」

 

「親密ではないです。二度は言いませんよ」

 

仕方なく離れる燕さん、彼女が離れたことを確認すると俺は着ているパーカーを脱ぐ。脱ぐ姿を燕さんは赤い顔で見つめて硬直していたが、そこにパーカーを羽織らせることで思考が戻ってくる。

 

「ほら、寒いでしょ」

 

「う…うん」

 

ギュッとキツくパーカーの裾を握り、彼女は顔を逸らしてブツブツと独り言をつぶやく。

 

「なんで…これからヤろうって時に優しいのよ」

 

「何か言いました?」

 

「ううん、なんでもない」

 

なんでもないながら、顔は赤いまま伏せられている。独り言を聞き取れなかったことを残念に思うものの、まともじゃない内容な気がする。

つまり、俺に聞こえないように言ったとはそう言う事だ。

 

止めていた足を動かし、また進んでいく。進むにつれて彼女はどんどん浮かない顔になっていく。

やがて、一つのホテルらしきものが集まった路地に差し掛かると、彼女はその一つのホテルの前で立ち止まる。

 

「さ、行こ」

 

「ここですか……」

 

「ん、君は何処か野外が良かったの?」

 

「いや、そういうわけでは……まぁ、確かに野外よりはマシなような気がしますけど」

 

看板はピンクのネオン、周りには白いのもあったりするのだがここだけはなんとなく違う。なんかイヤラシイというかなんというか、周りの普通のホテルではない雰囲気に精神的に何処か引っ張られた。

ひっそりと佇む建物、彼女の目的地、遠回しにしたがここは俗に言う――――ラブホテル。

確かに彼女のような人なら何度も来ただろう。だからこそ此処が二人きりになれると踏んで、彼女自身がここを選んだのだと。

そう、不安ながらも願っていた。期待してないとか嘘になるだろう、言い訳を心の中で考えながら。

 

自動ドアが俺と燕さんの来訪を歓迎する。近寄っただけで開いたドアは、俺達を喰らうと逃がさないというように入口を閉じた。

そして、燕さんに腕を引かれてエントランスで券売機にて一つの選択肢を迫られる。

 

「――ねぇ、どの部屋がいい?」

 

「えっと…いや、一番安い部屋でいいのでは?」

 

男子中学生の財布なんて高が知れてる。

しかし、彼女はぼそりと体を震わせながら言う。

 

「空いてる部屋は一つだけ……この部屋ね、実は人がひとり死んでるんだ。幽霊が出るって噂もある」

 

「なら、この中くらいの値段で日帰りならば問題ないでしょう」

 

「うん」

 

彼女の肩は震えていた。幽霊とか、そういうのに弱いのか意外にも女の子らしいところを見せる。

別に俺は怖くないのだが……そんな部屋に震える声で忠告されて彼女を無理矢理入れるなど、俺には到底できない。

なればと目に付いたのは、空いてる部屋の中で中くらいの値段で入れる部屋、そこはランプがついていない。即ち、無人ということで決めたがやはり浮かない顔。

 

お金を入れ、無造作にボタンを押す。選んだ部屋の鍵は自販機からぽとりと落ちた。呆気なさに呆然と立ち尽くすも意識を再び呼び起こす。鍵を大きめの取り出し口から取ると彼女は財布を用意していた。

 

「何してるんですか、行きますよ」

 

「え、お金は……」

 

「あぁ、そんなのはいりません」

 

「……え?」

 

聞き返す燕さんは意外だと、驚いている。そしてすぐに翳りを見せると俯いた。

その行動に何の意味があったのか。中学生にお金を払わせる罪悪感か、年下にお金を払わせる罪悪感か、それとも他の何か――と、何も思いつかない。

 

すぐに燕さんは笑顔を振り撒くと、また腕を取り自然と歩き出す。階段を上がって2回へ。短い通路、落ち着くような激情を誘うような、そんな色の赤い床。それを進むと一つの部屋に辿り着く。

 

[202号室]

さっき買った、もとい借りた部屋の番号、それを確認すると足早に彼女は手を引き誘う。

閉まる扉、鍵を後ろ手に閉めて燕さんは手を離すと足早に奥へと向かう。

その後に続き俺も奥へと向かうとそこにあったのはピンク色の壁に、眠たくなるような薄暗い淡い光の照明、照らされて清潔感のある2人用ベッド、木編みのオシャレなゴミ箱、さらにはソファーが一つと簡素な家具配置だった。

燕さんはベッドの前で立ち止まり、こちらを見て数秒、大きく深呼吸してから意を決した声で小さく呟くようにこう言った。

 

「お風呂入ってきてもいいかな…」

 

「……えぇ、どうぞ」

 

辛うじて聞き取れた声に疑問に思いながらも俺はソファーに腰を下ろしながら答える。

ありがと、と礼を言うと燕さんはシャワーが常設されているであろう扉の向こうに消えて行く。

問題その1――なぜ風呂に入るのか?

答えは簡単だ。いくら好意を持っていない異性だとしても女性は男性に対して少なからず恥じ入るもの。体臭などを気にしている、そうであれば……匂いは極力落としたい筈。

問題その2――なぜ、ビジネスホテルとか普通のホテルではなくここを選んだのか。さっきも言ったように彼女自身がここを選んだのに理由はあるだろう。そこで俺がビジネスホテルへ変更しなかった理由は、血なまぐさい話、此処が誰にも聞かれにくいから。

 

やがて彼女が消えていった扉の向こうから、布が擦れる音が聞こえてきた。服を脱ぎ捨てる音に、洗濯機に服を突っ込む音、そこで気付き声をかける。

 

「燕さん、俺のパーカーは洗わなくていいです」

 

すると、ガチャり、扉を開けて彼女が顔だけひょこっと扉の向こうから出す。肩も鎖骨も見えている限りを見るに、服は着ていないようだ。

 

「……私の匂いついちゃってるよ」

 

「いや、乾燥機にかける時間も惜しいんで。それ以前に俺は気にしませんよ」

 

「あとで隠れて嗅いだりしない?」

 

「用心深いのはいいですけど、俺はそんな変態ではないですよ」

 

そんな事をするとしたら、多分美海の匂いや美空の匂い、美和さんやチサキの匂いにも反応していることだろう。

それを踏まえて、自信を持って返せる。

まぁ、彼女自信が嫌なのなら少しの遅れくらい仕方ない。

 

「洗ってもいいですよ」

 

「そう……やっぱり、返しとくね」

 

1度、扉の向こうに消えると姿を現すと同時にパーカーが投げられる。

それを上手くキャッチして、コート掛けに掛けるとソファーに戻る。もう姿はない、と思ったらゆっくりと1度だけこちらをのぞき込む瞳が扉の隙間にあった。

確認のつもりだろうか、燕さんは一応と言ったように聞いてくる。

 

「できれば覗いたりしないで欲しいな。あと、入ってきたり……盗撮したりとか」

 

「流石にしません」

 

それなら美海にとっくの昔にやっていても可笑しくない。

因みに、子供の頃、一緒にお風呂に入ったのはノーカンだ。

 

今度こそ扉は閉まり、燕さんは消えて行く。その数秒後に蛇口を捻る音が聞こえ、水が流れだした。

水が体を跳ねる音。落ちる水音。

……何もしていないと全神経が自然と耳に向けられる。

風呂場へと耳を澄ませ――気が気ではない。仕方なくテレビをつけてニュースを確認しようとすると――

『あぁ♡』

思わず、反射的にテレビを消してしまった。

忘れていたが此処はラブホなるもので、そういう親父が隠していたようなビデオもあるだろう。次は一瞬で番組を現代放送に合わせようとつけるが――

『いやん♡』

たっぷり数秒、テレビはコマンドを受け付けない。地上の電波を受信していないよう。頭を抱えながら俺はテレビを消す。

家では極力節電でテレビをつけない。新聞も取っていない。何しろあの人達は新聞に興味が無いから。こうもなれば此処で情報収集をと思ったのだが、当てが外れた。

 

ぼーっと思考の海に嵌っていると数十分くらいでシャワーの音が消え、水が波紋する音が聞こえてくる。

彼女は湯船に使ったようだ――どうやらリラックスしているのか、その後の音は聞こえない。

 

――――ザバァッ!

 

湯船から立ち上がるような音がそれから数分。ひたひたと歩く音が聞こえ、浴室の扉を開ける音が聞こえた。

これでやっと本来の目的が行える。

そう思った直後、俺がいる部屋の扉が開かれた。

 

「ごめんなさい、待たせちゃって」

 

「いいえ、別に気にして……」

 

そこまで言いかけたところで言葉は止まる。

時が止まったように、二人の間は――湯気以外動かない。正確には心臓は絶え間無く動いているが、脳内はフリーズしている。

 

何故――バスタオル1枚なんだ? いや、何故人前にバスタオル1枚で出られる? 知らない男の前に。

 

見慣れた光景、棚に上げてしまっているが美和さんはよく裸で俺の前に出てくる。それを見慣れているが感性が狂ったわけではない。

白く細い首、鎖骨、細く括れた腰、胸の谷間、さらには細くも肉付きのいい足に腕と健康的な体がバスタオル1枚のせいか惜しげもなく晒されていた。

 

服は?――乾燥機に弄ばれている。

自問自答している間に近づいてくる燕さんがソファーに座る俺の手を取った。

 

「できるだけ早く終わらせて。私からじゃ無理だから、お兄さんからお願いね」

 

ベッドへと誘導される。燕さんは先にベッドの上に腰をストンと下ろすと、こちらを見上げた。

 

「……優しくしてね」

 

そして、謎の誘うような言葉――此処で俺は決定的な勘違いを彼女がしていることに気づく。

 

「………………非常に言いにくいんですが、覚悟を決めてもらったところ本当に申し訳なく……俺はあなたを慰み者にする気はサラサラありません」

 

「…………………えっ?」

 

長い空白の後に燕さんの声が部屋に響く。続けてだんだんと顔は赤く染まっていき、羞恥一色、彼女の顔から火が吹き出そうなほど真っ赤になり、煙を出したかのように見えた。実際はお風呂に入ったせいで湯気がそう見させたのだが彼女の熱は相応に上がっている。

瞳は潤み、涙を流し、まるで熱を追い出すかのように言葉は続けて発せられた。

 

「ほんとに、ほんとのほんとに……しないの?」

 

「ええ、そんな事をすれば……自分自身死にたくなります。嫌がる女の人にそういうことをするのは俺のポリシーに反するし、女の人の涙は見たくないです」

 

「で、でもお兄さんは院長の寄越した幹部の人じゃ…!」

 

「残念ながら違います。

俺は――――院長を潰す為にここに来たんです」

 

目の前の燕さんは泣いている。この涙は、俺にとっては心の痛みを生むものだ。ナイフで切り裂かれるような感覚に胸は痛い。

何故?――――それは、きっとわかっている。

薄汚れた世界で、昔見つけた。純粋であった頃、それは路地裏で寂しそうに、羨ましそうに、俺と母さんを見ていて世界を諦めた目をして。

親の趣味の映画、推理モノの小説、まるでそれみたいだった。俺も純粋に親の見る映画に興味を持って意味がわかるまで繰り返し何度も見ていた。純粋に楽しくて、小説も面白くて読んでいた。

当時の俺は――未だ純粋でいたのに、チサキ達と変わらず何も知らない子供でいたのに、その少女を見た瞬間に世界が変わって見えた。変貌し、闇を見せ、映画が全て作り物ではないことを知らせたのだ。

 

「……わたし、覚悟したのに……お兄さんに何されてもいいように覚悟したのに……わたしバカみたいじゃない!」

 

目の前で泣く姿は誰かと重なる――もう既に失われた記憶であるから思い出せないのに、何かが刺さる。

今では子供の頃の約束など、思い出など、全て朧げだ。

 

「もう私に優しくしないでよ! 私を殺してよ! もう嫌だよこんなの! 優しくされて、またあそこに戻るのはやなのよ!」

 

吐き出される言葉はどんどん本心に変わっていく。

思った通り、彼女――桐宮燕は被害者だ。

泣き叫ぶ姿は俺に怒りをぶつけ、掴みかかると縋るように寄りかかり、ドンッと俺の胸を叩いた。

 

「信用してください。もし信用してくれれば、俺は貴女の力に――貴女の未来を道を切り開いてあげますよ」

 

「幸せに……してくれないんだぁぁ」

 

泣きながら彼女は言った。そんなのは約束できない。

 

「俺は幸せへの道を拓くだけ。チャンスと切っ掛け、それを提示はしますが選ぶのは貴女自身です」

 

グスリと泣きじゃくり、燕さんはおずおずと手を伸ばす。一歩を踏み出すことを恐れるように。

そこで信頼してもらうには……俺からも手を伸ばしてあげることが必要だとわかる。

そして俺は、安心させるように彼女の手を取った。

 

 

 

乾燥機の音はいつの間にか消えている。燕さんが泣きじゃくる間に慰めていたので、気づいたのは少しあと。

泣いて落ち着いた彼女に服を着るように言い聞かせると、ううんと首を横に振った。

 

「お兄さんの体温を感じさせて欲しいの。こんな温かな温もり、初めてだから」

 

「と言っても、恥ずかしいでしょ」

 

「……うん。でも、お兄さんに見られるのは…平気…だから」

 

――いや、バスタオル1枚は流石に俺も我慢できないです。

とか

――どうして俺の周りは……こんな人達ばかりなんだろう。

とは、言えない。口が裂けても。

やっと落ち着いたのに面倒な争いごとを増やすのは気が引ける。それに燕さんが満足しているならそれでいいかと、楽観視している自分がいたのだから。

まぁ、裸で美和さんに抱きつかれたりお風呂に入ってこられたり同じベッドに入られたりよりはマシだと自分に言い聞かせると、気が楽になった。

男の前で『裸を見られても平気』は流石に俺も心に小さなダメージを受けたが。

 

「さて、まずは自己紹介をしますね。俺の名前は長瀬誠、年齢は14くらい、中学二年です」

 

まずは信頼してもらうには、自己紹介……それも包み隠さずに教えるのが妥当だ。

 

「……ごめん、今なんて言ったの?」

 

聞き返す燕さんに繰り返し再生するように俺の身分を明かす。

 

「中学二年です」

 

「嘘だよね?」

 

「大真面目です」

 

「で、でもお兄さんって二十歳超えて」

 

「そんなに老けて見えますかね」

 

「ち、違うわよ! そ、そうではなくて…カッコイイからてっきり歳上なのかと…」

 

これが――彼女の素だろうか。

身分のいいお嬢様みたいな、それを感じさせる喋り方。今まで媚びるような話し方だったが、少し砕けた感じで少しでも信頼されたことがわかる。

 

このままでは終わらない。燕さんがいろいろなことに驚くも、信頼を得るためにたくさんの事を話した。

俺の過去、母親の死、親父の行方不明?、そして出会えたミヲリさんと温かい家族。

 

「……苦労したんだね」

 

過去を聞いた燕さんは別の涙を流し、俺の為に泣いた。

 

「でも、なんで私にそんな事を話したの? 私があなたを騙しているかも、そう思わなかったの?」

 

「それを言うなら、俺が過去の話をでっち上げていると思わないのか」

 

「……嘘だったの?」

 

いや、紛れもない事実を話した。確かに嘘をついても良かったが、この人にあまり嘘はつきたくない。

嘘ではないと笑うと、燕さんはほっとしたような複雑な表情で俯く。

これだから、この人は信用できるのだ。他人の痛みをわかる人間は少なからず優しく、世界の残酷さを知っている。燕さんもその1人であり、俺も同類であるから。

 

しかし、俺の年齢を知ると不安になるものだ。

 

「……本当に、君は私の味方で、私を助けてくれるんだよね」

 

消え入りそうな声で最後の確認をとる。彼女の瞳は真剣に俺を信じようとしていた。

彼女なら、院長の目的を知っているだろう。その使い捨ての駒にされていることも、全て。

 

だから、話せるもう一つの事実。

 

「俺には新しい家族、と言っていいのか微妙ですけど。大切な守りたい人達がいます」

 

早瀬美和――俺の母親を自称しながら慎みを持たない自由奔放な人でありながらも、真っ直ぐな人。俺にはない真っ直ぐな性格。それが、俺を惹きつけた。

綺麗で素直で、儚く散りそうな弱さを持っていて、でも負けを知らない真っ直ぐな性格が好きだ。

親としてではない。人として。女性として見ている側面もあるだろうが、彼女をどうやら嫌いになれないのだ。

 

そして大切だと思えたから、守るために院長の目的を阻止して尚且これからも手出しできないようにする。

美海も、美空も、チサキも、その余波に曝されて安心できない状態なのだ。

 

「……君には大切な人達がいるのね」

 

「あなたも例外ではないですよ。言ったでしょう?――俺は理不尽を許せないんです」

 

寂しそうな燕さんの顔が薄らと赤くなる。別にそういうつもりではなかったのだが。

 

「信頼できなくてもいい。俺は貴女の協力がなくても、俺は別のやり方で院長を潰す。もちろん、此処で会ったのも何かの縁、燕さんも助けてあげますよ」

 

燕さんは唖然とした顔で俺を見つめる。その距離は僅か数センチ、燕さんのいい匂いが鼻腔を擽り、胸の柔らかさが腕に伝わる――そして彼女はハンドバッグから何枚もの紙を取り出したのだった。

 

 

 

 

 

□■□■□■

 

 

 

 

 

それは桐宮燕――彼女が二十歳になり、成人式を“友達”と楽しんだあとのことだ。実家は大きな病院を営んでおり、親はそこの院長、つまりは経営者である。桐宮燕は小さな頃から医学の本に囲まれて育ち、『後継ぎ』として育てられてきた。

自由は許されず『男女関係』『友達関係』『作法』と様々なものを義務付けられてきた。管理されていたと言ってもいい。小さい頃から言う通りに習い事もしたし、家庭教師もいた。

そんな彼女の成人式、その後に訪れた、否――もたらされた縁談は衝撃的であったと言える。

昔からそんな予感はしていた。だが、彼女自身は恋に恋する少女そのもので恋にも憧れていた相応の乙女であった。故にそんな縁談は蹴ってやろうと、彼女自身初めての反抗を決心した。

 

「初めまして、田部太志です」

 

「……初めまして。私は桐宮燕、です」

 

しかし、親の選んだ相手との縁談の回避法を彼女は知らずして縁談は親と相手に進められてゆく。元々、桐宮燕はお嬢様で今の今まで親に従ってきたがために、反抗の仕方を知らなかった。いい娘と言えば体はいいが、完全な操り人形であるのだ。彼女自身は本当にいい娘であり性格的にも普通の女の子で未だ『悪』を知らない。

 

だが、自分の理想像とは違う太めの男性に桐宮燕はやはり落ち込んだ。

 

カッコ良くて、優しくて、スラッとしていて、自分を守ってくれるようなそんな男性。

年上であれば甘えたり、でも年下に甘えるのも憧れる。どちらかと言えば甘える願望があったのだろう。言い聞かされてきた身から言えば、たまには甘えたくなる。

今まで甘えられなかった分、全てを受け止めてくれる、愚痴を聞いてくれる優しい相手。

 

それがどうだ。こんな、キモデブで……いくら彼の技術が優れていようと、許容出来なかった。

 

「写真で見るより、綺麗だな」

 

「ふふ、気に入ってくれて何よりだよ田部君」

 

田部の言葉に危機感を覚える燕、彼の舐め回すような視線が体を撫で回す。そのおぞましさに恐怖し、そして察してしまった。

 

(この人は……私の体が目的なんだ)

 

初めから心なんて、中身なんて必要ないのだ。あるのは殻だけで人の本質には興味がない。

せめて優しければ、そう思った。そう彼女は願うがこうも何度か経験した視線は事実を示す。

学部でも、中学でも、高校でも、少なからずモテた彼女は自分がどういう目を向けられていたか知っている。異性にイヤラシイ目で見られ、脳内では散々男子生徒の欲望の掃き溜めになったことも。

 

「さて、顔合わせも済んだことだし、あとは若い者達だけでデートでもしてきてはどうかね?」

 

流石に顔合わせからいきなりデート、と思わなかった燕は親の言葉に振り返り睨む。

キッと睨んだはずなのに、文句があるのか?と脅すような目に彼女はまた、臆してしまう。

 

「……いえ、何もありませんお父様」

 

「では2人で楽しんできなさい。……彼は類間れない天才だ、私達の病院の存続は彼にかかっている…わかるな」

 

機嫌を損ねるなよ、と田部には聞こえない声音で燕の親は耳元で囁いて、退出していく。

彼女の親の営む病院――桐宮病院は祖父の代から続く大きな病院だ。それが今年に陥り経営難、さらには連日の手術の失敗により名声も危うくなっている。そのための捨て駒だと、知っていた。彼女の頭では――救えないとも。

だからこその縁談だと、彼女自身理解していた。元々頭の出来はいい方ではなく看護師ならぎりぎり目指せるとかそれくらい。

だがしかし、彼女自身夢見る乙女なので疑いなくデートを楽しむことにした。

 

 

 

が、ただのデートは全くの嘘だ。別に彼女の親が嘘をついたわけでもない。

割り切り、田部が話しかけて来るのに数分。

 

「じゃあ、行こうか桐宮燕さん」

 

その言葉に燕は違和感を持つも彼に仕方なくついていくことにする。しかし、彼は手を引くわけでも腕を取らせるわけでもなくスタスタと歩いていってしまった。

 

こうも味気の無いものだと、流石に燕も憧れていたデートに落胆し。

ホテルを出て、電車を乗り継ぎ、彼の足の向くままに鷲大師を目指す。

その鷲大師の中に彼の家はあった。

 

「入って」

 

「え、でも……」

 

「いいから。君も疲れただろう、周りに振り回されるのは。私自身、君とは結婚する気は無いから安心してくれ」

 

急かすように田部は燕を連れ込み、鍵をかける。甘い言葉に一瞬だけ「この人、いい人かも」と思い世間知らずのお嬢様はそのまま家の奥へと進んでしまう。

ソファーにゆっくり座ったところで、妙なことに気がついた。

 

 

家具が少ない……

 

 

一人暮らしで必要の無いものがあるのはわかるが、家具として、ソファー、テレビ、冷蔵庫。それらが配置してあるだけで机も一つと味気ない。

本来なら他にも電子レンジとかあってもいいのだが、まるで真新しくも高級な家具に、家に清潔感が強過ぎることがわかった。

 

「はい、お祝いにシャンパンなんてどうかな」

 

「あ、ありがとうございます」

 

いつの間にか冷蔵庫から取り出されたシャンパンをお盆に載せて田部が現れる。

二十歳――これでようやく大人になったわけで、お酒を飲める年頃。初めてのシャンパンに初めての男の部屋と、緊張していて――彼が自分に渡したシャンパンに何らかの粉を入れていたなどと気づくはずもなかった。

 

グラスは二つ、田部が選んで燕に渡す。シャンパンは目の前でなくキッチンで開けられていて、グラスに3分の一と注がれているだけだ。

受け取り、田部の嬉々とした表情と共に告げられる祝の言葉。

 

「君の新しい人生を願って。乾杯」

 

「……乾杯」

 

グラスはぶつかる事なく上げるだけで、燕自身の手で口元へと持っていく。

こちらを見て、ニヤニヤしている姿に彼女は感想が欲しいのだろうと黙って飲んだ。

お酒なんかに負けられるかと、ぐいっと一気に飲み干す。

 

ちょっと苦くて、甘い……何かが混ざったような味。

突如、お酒を飲んだからか……体が芯から熱くなり、下腹部に妙な疼きを覚えた。

 

「なに…これ…」

 

バたりと音を立てて倒れる燕の体。

手足が――動かない。身動ぎすらできない。

でも、意識はある……言葉も辛うじて喋れる。

 

「あ、私の体…可笑しいの。何が起こってるの?」

 

燕の疑問に答えたのは、なおも嗤う目の前の婚約者。

 

「大丈夫だ。私が治してあげよう。だがな、君はもう少し人を疑うことを覚えた方がいい。私が実験として入れた薬も効いたことがわかったが、この先そんなのでは生きていけないぞ?」

 

治す、その言葉にほっとしながら。

田部が薬を入れたという事実に――恐怖を覚える燕。

 

グラスを机に置いて田部は燕の体にのしかかるようにして陣取ると“本当に動かない体”をまさぐり始めた。

 

「ふむ。どうやら思った通りの成果を上げたな。体は動かずこちらも……イヤらしく湿っているじゃないか」

 

「な、なに、して…」

 

「ナニって、ここまで来てわからないのか。いいだろう答えてやる。君に飲ませた薬は私が研究している一種の“媚薬”のようなものでね。体の自由を奪うと同時に発情させる効果を持っている、と仮説はしたがまだ試験段階でターゲットより先に実験をと思ったのだが、思いのほか上手くいったようだ。君は記念すべき第一被験者だよ」

 

第一被験者――人に実検していない薬をこうも容易く婚約者になるであろう燕に飲ませた。もし副作用などが出ても、それは何が起こるかわからない。

……体を拘束する以上、考えられるのは心肺停止で死亡という結末。

可能性だけでは、無いとは言いきれない。

最も近いとも言えた。麻酔に近いようだが、逆に感覚神経が鋭敏になっていて反転したような効果をもたらしていることがわかる。

 

「……やだ。私…帰ります…解毒剤を…」

 

口だけは辛うじて動く。

しかし、田部は動かない。

それどころか、燕の体をまさぐる手は服を脱がしはじめてしまっている。

生理的恐怖に、彼女は懇願するように唯一残された声だけを発した。

 

「お願い…帰して…もう実験は…済んだでしょう」

 

涙が流れゆく感覚も熱い何かに変わっていく。

それを見て、田部は喜色を浮かべて感嘆すると服をビリビリと破き捨てた。

 

「素晴らしいッ! 本来であれば“涙”など流せない筈であったが、これは予想以上だ!」

 

ああそれと、そう付け足すと田部は下卑た目を曝け出された肢体に向ける。彼女は半裸の状態で横たわっている身、胸元も何もかもが下着で見えないところ以外は露出していた。

 

「まだ終わってないよ。本番はこれから、そしてその後も君には協力してもらわなければいけないのだから。例えば」

 

 

――犯された後の感想とかね。

 

 

燕の儚い夢と、初めては貪るような男の前に無惨にも散りゆく。

激しい悔しさと激痛の中で、彼女は思った。

痛い、痛い痛い――殺してやる!

私はただ普通に恋して普通の幸せが欲しかっただけなのになんでこんな…こんなのってないよ。

 

 

薄れつつある意識は辛うじて下腹部の激痛によって何度も目覚めさせられ、また意識が遠のいて。

血だらけのシーツ、血だらけの下腹部、ズタズタの体からは尋常ではない量の燕の血が流れている。

精神も体も傷だらけの彼女は……ようやく終わったと顔をぐしゃぐしゃにしながら眠りについた。

 

 

それから、数ヶ月が経ち……未だに田部太志を殺せずに桐宮燕は生きている。

写真を撮られ、脅されて仕方なく薬の売人をさせられながらも機会を伺い……自分自身も薬の依存症になりながら、必死に生き続けていた。

自分では殺せない事にも気づいている。もし万が一の場合に失敗してしまい、報復されるとしたら、怖くて動けない。それ以前に優しい彼女はそんな事を到底出来るはずもなかった。

 

 

 

 

 

□■□■□■

 

 

 

 

 

瞳を潤ませ、震える声で燕さんは過去を語った。

あまりにも予想以上の過酷な現実に――胸が痛い。

震える手で、彼女は紙束を差し出す。

 

「…はい、これは薬を売った人の情報。私自身が警察に持っていっても良かったのだけど……」

 

途切れる言葉は続く事は無かった。もう一杯いっぱいで疲労困憊していることが伺える。

それを受け取る俺の頭は、脳は、胸は熱暴走を起こし怒りに燃えている。はっきり言って、胸糞悪い。

こんなに綺麗な人を無碍に扱い、優しいのに裏切り、捨石のように扱ったことが。

 

抱き締めてあげたい……しかし、それは恋人がするような行動だろう。美海が好きである俺は――どうしたらいいかわからない。

いや、違う。抱き締めてあげる事くらいできないわけはない。打ち明けるのは、それは覚悟のいることで、誰かに温もりを求めている時なのだから。

 

「……えっと、どうしたの?」

 

優しく抱きしめられた燕さんは戸惑う。抱き締められたことにどう反応していいかわからない。

情報を受け取るだけと思っていたのだから。その紙を素通りし、抱き締めてきた俺に戸惑っている。

 

「泣いていいですよ。辛かったでしょう。怖かったでしょう。今日からは――もう怖がることは無いですから。責任を持って貴女の身の安全を約束します」

 

「え、でも私は……このあと院長に会わないと」

 

「心配ありません。貴女の写真のデータは全て持っています」

 

事実。この人に目をつけたのは、写真のデータを見つけたからだ。写真がなければこの人に接触すらしなかっただろう。

 

予め用意していた赤城さんから借りた携帯を取り出し、鷹白警部に連絡する。

 

「予定通り手に入れましたよ。あぁそれと……少しだけある方達と協力して身柄を保護してほしい方がいるのですが」

 

一応の了解を取り、電話を切った。次は相容れない面倒な方、できればこちらはあまり燕さんにも会わせたくない相手。

 

「赤城さん、終わりました。それでちょっとの間だけ協力して欲しいことが……え、また女を誑し込んだのか? いやいやそうではなくて。あっ、先に言っておきますが手を出したりしたら“ブ・チ・キ・レますよ”。いや違いますって、俺は幸せになって欲しいだけで。取り敢えず組の人には釘を刺しておいてください。もし破れば、警部に引き渡すどころか生命の保証はしかねますので」

 

今度は、疲れる電話相手だ。

なんだ、女を誑し込んだのかって。まるで俺が何か悪いことしたみたいじゃないか。ナンパなんてしてないし、そういう行動をとった覚えはない。

 

電話を切ったところで、俺は忘れていた事実に気づく。胸には泣き腫らした目の燕さんが不思議そうな顔をしながら赤い顔で顔を隠している。

チラチラとこちらを盗み見る姿に、密着していることを忘れていた。それもバスタオルで。

 

着替えさせる前に、聞いて置かなければいけないことがある。

 

「警察の方と893の方と、どちらに保護して欲しいですか?」

 

――瞬間、彼女が絶望を目の前に叩きつけられたような表情で硬直したのだった。




院長――田部太志、と言う名が判明。
元は頭が良く桐宮燕のお見合い相手として一度会うが、その頃にはもう早瀬美和に惹かれている模様。
しかし、人体実験などとイカレタ人格を持っている。

桐宮燕――日本のどこかにある桐宮病院のご令嬢で大学に行っていたが休学、田部太志とのお見合いから学校には行っていない。両親は学校に行っていないことを知っているが田部太志の嘘を信じて2人の仲が良いと思っている。


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