side《美空》
ガタンゴトンッ――!!
揺れる電車から規則的な音が聞こえる。一定間隔で耳に届く音は心地いいのだが、私はそれどころではなく必死に目の前の茫然自失する塊へと説得を続けていた。
――どうしてこうなってしまったんでしょうか?
和んでいる筈の空気がやけに重苦しい。美海ちゃんは結構なダメージを(冗談で)心に受けたようで、今も泣きそうなくらい暗い顔で俯いている。
というか、私だって泣きたいくらい心にダメージを受けたのです。ママは冗談を言っても何時もふわふわしているから余計に分かりにくく、兄さんも表情は余り変わらないから信憑性に大きく誤解を生ませた。
兄さんは窓側の席をママに譲り、楽しそうに外を見ているママを見ている。これではまるで親子としての立場が真逆だとか、そんなものは今更気にならなかった。
そして二人が座るのを見計らって、私が美海ちゃんを兄さんと同じく通路側に押しやったのだが……何の会話も行われないことから空気が重い。唯一の救いは、ママがはしゃいでいることだけだった。
しかし、ここだけではないのです。何故か光さんとチサキさんまでもが暗いムード、チサキさんの横に座るサユちゃんは完全に蚊帳の外と言うか、場違いというか……計二人の場違いさんが居た堪れない表情で座っていた。
「それでですね、美海ちゃんと光さん、さっきのは誤解というか冗談というか……いや単なる悪ふざけでして、兄さんは童貞で潔白ですよ!?」
何か失った気がしますがどうでもいいです!
『童貞』という言葉に兄さんの耳がぴくりと動きましたが反論する気は無いご様子、いやここで童貞じゃないとか言われたら相当ショックですけど。
それは兄さんだって医学の勉強をしていれば、生体について知らなければいけませんし隅々まで理解していないと治すにも実践だけでは何かと戸惑うでしょうし……そうともなれば基本としては体について勉強しているわけで、やはりすべての病気を治すには体のデータが必要不可欠で、勿論のこと男の子と女の子の違いも理解しているわけで、でも何時かは私の体を治すのであれば隅々まで知られてしまうわけで……今からでも結局は同じで……
ッ〜〜――って、私は何を考えてるんですか!
暴走しかけた思考を元に戻し、一旦落ち着かせると心拍数の上がった胸を抑える。どうやら私は何処かで枷が外れてしまったみたいだ。
危ない……まずは誤解を解かないと、そう決めてもう一度美海ちゃんと光さんに向き直る。
兄さんは依然として誤解を解く気がないようだ。それも計画のうちなのか、苦しいくせに我慢するところは生まれ持っていたのか後天的か、きっと私と同じなんだろう。
家族がいても、それは何処かでバラバラに別れていたのだから。壊れたと言ってもいい。独りぼっちのような感覚がどうしても抜け切れずに、私達は何時も一人だった。
私の目には意地を張っている子供にしか見えない。いや、昔の私と同じ小さな姿が映る。なんとなく影を重ねてみても私と似ていた。
我慢するから、兄さんは美海ちゃんのことを諦めた。
正確には諦め切れていないのだけど、それがかえって兄さんを苦しめている。
兄さんは気づきそうなのに何があったのやら。
「……」
「……」
「……」
私とママ以外全員が沈黙する。しかし、何処か光さんが見かねたようで口を開く。
「なぁ、ほんとに何もないんだよな?」
「どうだろうな」
素っ気なく返す兄さんの言葉が事実を有耶無耶に使用とする。そこまでして美海ちゃんに嫌われたい訳とはいったい……、と私の視線を受ける兄さんが言いながらママに視線を移すと、ママはもうさっきの出来事を忘れたように呆ける。
「ふぇ? な、なに?」
「あのですねママ、さっきの冗談は冗談だったのか聞いてる訳でしてそれを知っているのはママだけというか…」
寝込みを襲われたら気づかなければ知っているのは加害者だけだ。ジト目で早く否定してください!と促すも、どこか抜けきっているのか忘れているのか、数秒考えると理解したのか否定する。
「うん! 私だって無理矢理なんて、そんなことはしないよ」
後半については聞き流したことにしましょう。確かに気持ちも大切だから、というより気持ちが篭っている方がいいとは思う。
「…そうなんだ」
やっと理解したのか美海ちゃんは安心したように胸を撫で下ろすと、ゆっくりと座席に背中を預けた。
□■□
誤解も解け、少しだけ空気が軽くなり皆各々の時間を過ごし始める。美海ちゃんは最初からずっと兄さんをチラチラと何度も盗み見ては、目を逸らして目を合わせることを怖がっては繰り返し何度も何度も……まるで同じ曲を延々と繰り返しているCDみたいだ。
方や、兄さんははしゃぐママを心配そうに見ては幼馴染み二人にすら目も呉れず、その幼馴染み二人はさっきまでの重い空気が嘘のように兄さんを見ていた。事実的には大人しい二人なのですが、暗中模索といった感じで二人はコソコソと兄さんに聞かれないように話している。
「どうしたんですか? チサキさん」
「あっ、美空ちゃん……」
思わず声をかけて私も会話に入ることにした。美海ちゃんと兄さん二人、どちらを放置しても進展はしないでしょうと考えていたらしく、私も同じ思いで見ていたのだ。
だから光さん達の提案『二人の関係を修復』を聞いた時には驚いてしまう。チサキさんも大概だが、光さんが恋愛に関してお節介を焼くなんて想像できない。
「悪かったな…俺が他人の恋愛に口出しして!」
「いえいえ、そういう意味では……」
「確かに光が誠の恋愛について口出しするなんて考えられないよね。だってマナカのことも不器用なのに」
私のフォローが届く間もなくチサキさんまでもが肯定し、ピクピクと眉間をひくつかせるが人物の名前で怒りは最高点に到達する。
マナカさんの名前に光さんはいち早く耳を動かす。が、怒りは一週回って冷静になる。
「あのな……いやもういいわ。それより誠だよ誠、つうか家もやべえんだぞ。あいつ家で飯も喉を通らねえし、食いにもこねえし、美海がなんか寝不足みてえな顔ばっかしてやがるし」
光も成長したんだね、と漏らすチサキさん。
しかし、それ以前にどうやらあちらも大変らしい。兄さんに至っては手間もかかることなく(寧ろお世話がしたいくらいです)不自由なく暮らしている。だが美海ちゃん自体は調子が悪いようでそれどころではないらしい。聞いてみると美海ちゃんが元気ないことから部屋の中が暗いのだとか。
一応、叔父としては心配しているよう。
この歳で叔父さんとはこれ如何に、聞き間違えたらとんでもないことになりそうだけど。
数分見守るが進展もない。こうなっては誰かの手助けが必要だと判断したのか、光さんはチサキさんに問う。
「なぁ、チサキ菓子もってないか?」
「えっ、あるけど……」
お腹が空いたのか、光さんにしては光さんらしい話だった。
見直した私が馬鹿みたいです。
そう思いながら、お菓子を取り出すチサキさんが光さんに渡すのを見る。取り出されたお菓子は慣れしたんだチョコ味の細長い棒、棒状のスナックにチョコレートがかかった甘いお菓子だ。
私自身そのお菓子は好きだけど、それを受け取る光さんは受け取っても開けることなく持ったまま、チサキさんに昔の話を始める。
「前にあっただろ。みんなで美海の案でアカリにプレゼントを買いに行った時、お前ら誠に雛鳥みたくあげてただろ」
「はぅ…!」
何かを思い出して顔を真っ赤にするチサキさん。私には理由がわからず問いかけるもチサキさんはなんでもないと言って誤魔化す。
これで何もないわけが無い。
でもチサキさんの口は意外にも固く、強固なため破ることはできない。
話を逸らすようにチサキさんが光さんの案を理解したのかお菓子の箱を奪い取る。
「つ、つまり誠に同じことをすればいいんだよね」
「おう」
「でも、美海ちゃんが誠にしないと意味ないような気が……」
「……そん時はそん時だ」
それは解決になってないよ!?とチサキさんはお菓子の箱を光さんに押し返す。
いったい何がダメなのか。
「何がダメなんですか?」
「うっ…だってさ、こんな大勢の前で『はいあーん』なんてできる!?」
二度目の質問にチサキさんは顔を赤くしながら箱を受け取らない光さんに業を煮やしたのか、今度は私に差し出してくる。
なんだ簡単じゃないですか……何時も家でやっていることになぜ恥ずかしがるのか。
家ではママが兄さんにいきなり箸で食べ物を出しても、黙って食べてくれるからいいものの、私達も対抗するように兄さんに食べさせるから、というより兄さん自体は遠慮して食べないからそうしているわけで(まあそれは言い訳ですけど)。
お菓子の箱を受け取ると私は席を立ち、二人の視線を受けながら兄さんの元へと戻る。僅か1mの距離、今までのひそひそ話は聞こえていなかったようで、目を瞑る兄さんを見ていると、気配に気づいたのか兄さんは目を開けた。
「……」
また、目を閉じる兄さん。よほど美海ちゃんと目を合わせたくないのか、必死だ。
その様をじっと見ながら手探りでお菓子の袋と箱をわざとらしく音を立てて開ける、その音に僅かながら美海ちゃんとママは反応した。
「はい、ママあーん」
「あー……っん」
自然にママに差し出すと彼女は口を開けて素直に受け取った。もちろん、これはお膳立てだ。兄さんに食べさせるための布石であり、しかしこの構図は親が雛鳥に餌を与えるのとは逆で子供が与えるという珍しい構図。
まあ、家族としてはこんなの当たり前でしょう。
ママが咀嚼してありがとうとお礼を言っている間に、またもう一本お菓子を取り出して今度は兄さんに向ける。
「兄さん。あーん」
「……何してんだ美空」
「差し出しても食べないでしょう。兄さんは」
「……そうだな」
潔く兄さんは負けを認めて肯定すると座席にもたれかかると目をこちらに向ける。
そうして、ようやく兄さんも折れて素直に受け取ると思ったら、私の持つお菓子は美海ちゃんに軽く奪い取られて無慈悲にも彼の口に突っ込まれる。
ぐむっ、と咳き込みながら数秒で咀嚼する兄さん、美海ちゃんはそれを見ながら何処吹く風というかのように目を伏せて睨む。
それは明確な嫉妬。私と兄さんに見せつけられることにより生じた、小さな心のズレでした。
兄さんは何も言いません。美味しいとも、不味いとも、文句も何も言いません。
でも、少しだけ顔の赤い兄さんは目を逸らして私の方を見ると、すぐに別の場所に視線を移す。
視線の先には、通路を歩く一人の男性。見た目三十代のおじさん?はサラリーマンのように堅苦しいスーツを着て、これまた似た色の営業用のカバンを手にしている。
それを見て邪魔だと判断したのか、兄さんは冷たい声で注意する。
「美空、席に座れ」
グイッと引っ張る兄さんにされるがまま、私は腕を引かれて元の席に戻る。美海ちゃんの隣、そこに収まろうとした時に――――私のお尻を何かが撫でた。
「ひぅっ!?」
変な声が出てしまい慌てて口を抑える。兄さんの目は冷たいままでまるで今の海のようだ。
撫でられた気味の悪い感触が残る。その感触に嫌悪感を覚え、思い出し、目尻が熱くなっていく。
私が耐えれば終わる話、今から買い物に行こういうのにみんなして暗くなることはない。そう決めて一人耐えようとしても、兄さんは私とすれ違い去り行く男の後ろ姿を見て睨んでいた。
「美空」
「…私…お尻…触られて…」
声をかけられるとどうしても耐えられない。漏れでる嗚咽に手を当てるも、栓は意味無くして涙が壊れ掛けのダムのように溢れてくる。
「……悪いさっきの人に落し物届けてくるわ」
「お、おう」
「だ、大丈夫、誠君っ。美空も顔色悪いけど……って泣いてる!? え。どうしたの美空」
どうやらママは気づいていないようで、私自身どこかでほっとしている。
誰も、兄さん以外は気づいていなかった。漏れ出た声は小さく、聞き取れたのは兄さんだけ。
いや、確実に美海ちゃんには聞こえていただろう。
慰めるママ、私の背中を優しく撫でて同じく優しい声音で落ち着かせてくる。
そんな中、私のすれ違った男の消えた車両へと、兄さんは静かに消えていった。
その背中を追うように、親友もまた消えてゆく。
ただでは終わらない!
よくやるね、痴漢さん、そんなすれ違いざまに触るなんて…
そこに痺れ――(憧れるわけ無いだろ)
そして用を思い出し席を立つ誠、
ガクガクブルブル……なんか最近主人様が凶暴になっている気が。
席を立つ誠、その背中を追うように美海は席を立つ。
しかし、恋する乙女が見た最も愛するものの所業とは……
次回は美海視点で話をすすめるでござる。