日曜日の昼。早朝に借金返済を済ませた俺は日向ぼっこと呑気に夏の涼しい気候をぼーっとしながら身体に受けていた。やることはした。親父の尻拭いなど嫌であったが、迷惑を被っていたのは美和さん達である為に仕方ない。
しかし、これからはどうするか……院長の秘密を暴露して完全に社会的にも殺して刑務所に放るのもいいだろう。美和さんにちょっかいを出さないように、薬の密売ルートを探り証拠を掴み、その上で完全に消す。
やるなら徹底的に、言い逃れが出来ないようにしなければいけない。
そんな物騒な今後の方針を立てながら、思う。
何をしているんだか。家に帰るなどそんな気は一つもないくせに、未練しかないくせに、海に潜ることなくこうして海に帰る努力をしていない。
それは帰りたくない、という思いを表していた。無論のこと自分でも気づいている。
なんともまぁ自分勝手だ。切ると言いながら今だに美海が会いに来てくれるかもなんて希望論を並べて待っているのだ。
そんな時、目を閉じてもなお、指す光に影が差した。
瞼の裏に焼き付く光がなくなったことで、太陽に雲が多い被さったのかと思ったが、今日は雲一つない晴天である。
が、気づけば雲が空を被い隠していた。目を開けた先には一人の女性がいる。二十代前半にしか見えないその人は凄く綺麗で、昨日見たよりもずっとイキイキしている。
「誠君、ありがとね」
お礼をいう美和さん。何処か悲しげな表情で、寝転ぶ俺の頭の横に座った。覗いたらスカートの中が見えそうなほどの位置に正座する。実際、顔を横に向けたら見えるだろう。
――この人は何を見当違いの事を言っているのか。
俺のやったことは義務だ。ましてこの人が謝る必要などない。
なのでしらばっくれてやることにした。
「なんのことですか」
「借金のこと。誠君がどうにかしたんでしょ」
「さぁ? 知りませんよ」
「ヤクザの人達が言ってたよ。生意気で強がりで強い子供が返しに来たって。誠君以外にそんな子いないよ」
それ言ったの誰だ。言うなとは言ってないが、美和さんのそれは肯定しているのと同じなのだが。
「あっ! 違うからね。けっして誠君が生意気だとか思ってないからね!」
――私にとって誠君は、特別だから!
柔らかな笑みで微笑む。
止めてくれ、これ以上好意を向けるのは。
「……でもね、誠君が強がりなのは知ってるよ。全部一人で背負い込んじゃうところとか。ほら、今も借金のことも誰にも頼らずに終わらせちゃった」
えへへ、と笑って見せるが。
ごめんね、力不足で――と自責の念が瞳には込められていた。
一方的に、美和さんの話は続く。
本当なら美海ちゃんのところから出てくる必要はなかったのに。もう終わったのなら、帰ってもいい筈なのに、そんな見当違いのことを並べていく。
俺は逃げているだけだ。美海が誰を好きとか、自分ではなく誰かを好きなのが嫌で逃げたのに。
不意をついて美和さんが頭を撫でてくる。
その手は柔らかくて、絹のように滑らかで、心地いいくらいの暖かさだった。少々ひんやりしていて気持ちいい。
この小動物みたいに人懐こい人は近所の優しいお姉さん、と言ったところだろうか。
何時もは小動物みたいに可愛らしくしているくせに、たまにこうやってお姉さんぶる。近寄り難さがないと、寄ってくる男の人も多数で、しかもこんなゆるふわした人はそうそういない。今も二十歳にしか、それどころか間違えればそれ以下に見えてしまう。
それだけ、可愛らしく見えた。
――同時に、年上の威厳など消えてしまうが。
まぁ、元からないと言っても間違いじゃない。
ポツリ、と美和さんは呟く。
「私ね、誠君が帰ってきて嬉しかったんだ」
冗談を言うな。
「もし誠君と一緒にいれるなら、って……だからこうして借金に怯えても強く生きれたんだよ」
――そんなのおかしいだろ。
原因は俺の親父だ。なら、恨んだって当然の筈だ。
なのに、なのに――なんで!
顔を見れなくなり、背けてしまう。
美和さんの膝とは反対方向に転がった。
「原因は俺の親父だ。当然のことをしたまでだ」
「違うよ。連帯保証人は私だった」
「それこそ親父が勝手にしたんだろ」
「うん。でもね、仕方ないんだ」
「……?」
――仕方ない?
思わず美和さんの方に首を向ける。真意を図ろうとそちらを見てしまった。見ないと決めていたのに、こんな不意打ちには勝てなかった。
――スカートの間、内股の間から、何か鮮やかな色の布が顔を覗かせる。
それを見た瞬間、顔を背ける。我ながら凄い反射神経だがこんな反応ができたなら、あの時も失わずに済んだだろう。
あまりにもこの人は無防備だ。院長につけ狙われたり、世の中の男が目を奪われるのも無理はないだろう。兼ね備えた魅力も男を誘惑する凶器だった。
「ふふ、誠君は紳士だね」
より優しく頭を撫でる手を強める美和さん。
しかし、そんな男ではない。
性欲だって、女の人への興味だって、人並み以上にはあるつもりだ。
昔は医学書を読んでも何も感じなかったが、今ではよくわからないが性欲を知った。もどかしく感じるが、胸の中のモヤモヤはそれだろう。
胸を押し付けられたり、肢体を擦り付けられたり、美海の肌が見えたり。下着が見えたり。
そんな時にモヤモヤは強くなる。
でもー
「ふざけないで下さい! なんで諦めてるんですか! だいたい美和さんは無防備で自分が綺麗だという自覚はないんですか!? そこにつけ狙われたりするんですよ! 頭は脳天気で騙されやすいし純粋だし、優しいし――」
言葉が続かない。美和さんの『優しさ』が俺の心には痛く突き刺さる。
仕方ない? ――ふざけるな!
確かに夫婦だったのかもしれない。だけどあんなことを聞いてしまえば親父が本気で美和さんのことを好きだとは思ってないことなどよっぽどの馬鹿でもわかる。あの部屋も見てしまえば、簡単だった。
この人はそれでも、なぜ――俺に構うのだ。
優しさが辛い。甘えが沸く。心の底から昔から求め続けた心の平静と愛が、欲しいと啼いている。
昔――失ってしまった愛されるということ。
欲しいと思いながら拒んで、中途半端な願いを矛盾したまま抱え続けた。
「――それに、知ってるんですか。親父はあなたを愛していたわけじゃない。俺も親父のように、何をするか……」
必死に胸の痛みを抑えながら吐き出す。
やっとの思いで吐き出したのは、そんな言葉だ。
「知ってるよ……誠君」
けれど、彼女は落ち着いた声音で返した。
「誠哉さんはね、何もない私に看護学校に行かせてくれたんだよ。だから、私は押し付けられても仕方ないよ」
それにね、と付け足す。
「私ね、誠君だったら……なにされてもいいよ」
言葉の意味を考える暇もなかった。
一瞬の思考の置いてけぼりをくらうが、同時に胸の中の苦しみがいっそう強くなる。
美和さんの優しさも甘さも全てに対して、モヤモヤが濃くなる。
彼女に対して、怒っていたのかもしれない。
「ぁ……」
身体を起こして驚く暇もない目の前の彼女を押し倒す。美和さんは艶かしい声をあげた。
――ほら、この人は無防備すぎる。
膝を内股の間に入れる。これでもう閉じることはできない。男に向かい、この人は股を開いたままだ。
あっという間の出来事だった。
「……抵抗しないんですか」
抵抗することに期待していた。
「……うん」
でも、美和さんはこくりと頷く。
ポタポタと雨は降り始める。
いつの間にか、空はどんよりとしていた。
服は濡れはじめて、美和さんの服がピタリと肌に吸い付いていく。美しい妖艶な身体だと思う。スタイルは美空と同じくらいか、美空のスタイルの良さが美和さんの遺伝だと
示している。
確かに男なら欲しがるだろう。それでも、俺が好きなのは美海でそれは変わらない。
「ねぇ、何をしてもいいからさ。誠君、私と一緒に住んでくれないかな?」
「……嫌です」
美和さんの身体から退いて、逃げようとする。元からこんな事をするつもりはない。
雨の中ではバレないだろう。――だけど、熱くなった目を見られるわけにはいかない。
しかし、逃げようとした矢先に美和さんに腕を引っ張られて転倒し美和さんの胸に引き寄せられる。しかも左腕だ。
ズキリッと痛んだ腕に顔をしかめて、気がつけば美和さんに抱き締められていた。美和さんの豊かな果実の双丘が視界を塞ぐ。予想以上に柔らかく、甘い香りが鼻腔をくすぶった。数秒で、美和さんの顔が目の前に来る。
「……泣いてる?」
「っ!? ――だとしても」
振り払い腕から摺り抜ける、が――
急にまた腕を掴まれて、激痛がはしる。腕を刺したのは昨日のはずだが傷口が開いたようで、パーカーの裾は紅く染まりかけていた。
「誠君? あ……うそ!?」
気づいた美和さんがパーカーの裾を捲る。
予想通り――傷口は開き、新たな鮮血を流している。
雨が染みた。美和さんが焦る。
昨日に引き続いた流血の所為か、意識はそこで途切れた。
□■□
低い天井、フローリングの床、白い壁、本棚にクローゼットにタンス、ぬいぐるみ。
洋風の部屋で目を覚ます。辺りを見渡せばそんな簡素な部屋で、状況を整理する。記憶は曖昧でなぜここにいるのかと思い出すのに時間がかかった。
服も何故かないが、雨が降り濡れたせいだと推測する。美和さんが脱がした。俺は素っ裸だった。
逃げようと思うも、服がなくては外に出ることすらできない。
見慣れない、とまではいかないがいつか見た部屋に似ている。
そうだ、美空の部屋――似ているのは最近見たからだろう。
「……すぅ……くぅ……」
俺はその部屋で眠っていた。おそらく、美和さんが運んで治療してくれたのか、ベッドの横では美和さんが膝をついてベッドそのものに突っ伏していた。
無防備にすやすやと寝息を立てて、安心したような顔で、あどけない顔で眠りについている。
今までまともに眠れなかったのだろう。借金の取立てに神経を張り詰めさせ、院長の権力の暴力に耐えて、嫌気をさして逃げ出したい思いの中でも必死に生きた。
「……ほんと、素直で無防備で、優しくて」
この世の中の悪など、濁りなどいくらでも見た筈だ。それでもなお、この人は変わらない。
無意識にも美和さんの頭に手を伸ばす。頭を撫でる。髪を梳く。
髪はふわふわとして綿菓子みたいだ。
流れるように自然と手は頬に……彼女は美容もしっかりしているのか、頬は柔らかくマシュマロみたいに弾み、触り心地は絹より繊細なものを思わせた。
「……あれ? あれれ?」
寝ていた美和さんを起こしてしまった。罪悪感があるが美和さんは寝惚け眼で俺を見る。
うーん、と唸ってから目をパチりと開ける。
「――あっ、誠君!」
意識を覚醒させること数秒で抱き着いてくる。寝起きだというのに、この人は元気だった。
しかし、考えても見て欲しい。お現在、俺は素っ裸にひん剥かれた状態で服を着ていない。服を着ていない分、美和さんとの布の壁は薄さを生む。
実った果実が自己主張するように、ほぼ感触は直に伝わっている。
「だから、あなたは――ッ!!」
「あぅっ!! ――ぁ、うごいちゃ」
抱き着いた美和さんを思い切り引き剥がす。押し返した為に美和さんは痛そうに呻いた。
――だから、無防備過ぎるんだこの人は。
俺は睨みつけた。これ以上関わるな、意思を込めて睨んだ瞳を美和さんが見る。
悲しそうに、愛おしそうに、切なそうに、零れた何かを見るような、すり抜けて行くあたたかみを追うような目で俺を見る。
俺の心の中は罪悪感が波のように襲う。
「無防備にも程がある。あなたはもう少し考えるべきだ。自分がどれだけ綺麗か、人を惹くのか」
「……名前で呼んでくれないんだね」
説教じみた言葉は美和さんの悲しそうな声で遮られた。
――……。
長い沈黙が続く。
いたたまれなくなって、口を開いた。
「服、返して下さい」
「やだよ。帰っちゃうもん」
そういいながらぷくっと頬を膨らませて、ぷいっと顔を逸らす。
子供かと、ツッコミたかったが抑える。
なんでこうも人の心を掻き乱すのか。まるで、純粋無垢な子供に『ねぇ、赤ちゃんってどうやって生まれたの?』と聞かれたみたいに自然と美和さんは隙間に入りいる。
おそらく、悪気はないけれど、全て自分の純粋な想いに従っているのだろう。
「……襲いますよ」
「うん、いいよ」
ほぼ即答だった。
よく観察してみれば、僅かに頬は赤く染まっている。
こちらを見つめて、期待するような眼差しを向けていた。
「……もういいです」
立ち上がり、背を向ける。
美和さんは悲しそうに小さな声を漏らすと、やはりまた俺の右手を掴んだ。
踏み出そうとした所為で、僅かに引っ張られる。
「逃げるの?」
もう、なんとでも言って欲しかった。
美和さんの掴む手の力が弱々しくなる。が、一瞬で迷いを吹っ切ったのか、強く確かに掴んだ。
「逃げるって、何からですか?」
「私から。美海ちゃんから。チサキちゃんから。美空から」
確かに逃げているのかもしれない。
恨んで欲しい。いっそのことそうされた方が楽だ。美海からも早くフラれた方がいいのだろう。
でも、美海の邪魔もしたくない。
そして、的を射るような、動揺を誘う言葉が予想外の言葉が美和さんの口から放たれた。
「……美空にキスされたんだよね」
――なぜ、知っている?
別段怒ったような声音でもない。
しかし、十分……俺は美和さんがそれを知っていることに動揺した。思わぬ不意打ちに、美和さんは顔をしかめて動揺を確認した。
不機嫌だと言うように、腕の力が強くなる。
「やっぱり起きてたんだ」
「……怒らないんですか?」
兄妹でキスとか笑い話にもならない。美空は妹で半分とはいえ血は繋がっている。それも、親である美和さんが怒らないはずも――あれ?
と、思ったが矢先に美和さんは柔らかい声音で呟いた。
「怒らないよ」
ううん。怒れない。そんな資格ない。
美和さんが腕に力を込めて、力に引っ張られ、俺は美和さんに寄られたと思うと。
ふと、口に何かが触れる。目の前には目を閉じた美和さんの顔がある。頬には何かが光る。一筋の雫だと、気づくには少しの時間を要した。
美和さんは硬直した俺に――キスをした。それも唇同士が重なり合う。親子の関係を求めたわけではない、美和さんは家族としてじゃなく違うことを求めていたようだ。
「――だって、私も誠君が好きなんだもん。家族としてじゃないよ。男の人として……好きだよ」
ほら、これで誠君に襲われても合法でしょ?
と言い訳じみた言葉に呆れる。確かにそれなら今までの行動も納得できた。
いや、納得したらいけない気がするが。
「やっぱり……わたしみたいな歳の離れた人とじゃ嫌?」
返事がこないことにおどおどと俯き、上目遣いでチラチラと美和さんはこちらを見上げる。
ため息を吐いて、呆れるしかない。今にも泣きそうな顔で訴えていた。
でも、まあ……
「わかりました。家に住むだけですよ」
妥協してみるのもいいのかもしれない。
美和さんは似ていた。いや、思い出させた。
母さんとミヲリさん、大切だった二人を。
強引なところが一緒で、でもそれ以上に美和さんは危なかしくて、不安になる。
美和さんは子供のように喜ぶと抱き着いてきて泣く。俺はその頭を撫で続けて、やがて美和さんは緊張の糸が張り詰めていたのが切れたように、眠りについた。
やはりまだ眠かったのか、疲れが溜まっていたのか、明日に備えて……眠気に抗うことなく目を閉じた。
楽園か巣窟か、誠は美和さん達と一緒に住むことに……
困惑する誠。
新しい生活、向けられた好意。
全てが新鮮だが……
と、なんとなくの次回予告。
まさか、美和さんとの言い争いが一話分続くとは思ってなかった。