凪のあすから ~変わりゆく時の中で~   作:黒樹

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第三十九話 日陰者の暗躍

 

 

夕暮れ、沈みゆく太陽を見ながらどさっと腰を下ろし倒れ込むように寝転がった。景色は朧げで腕に巻いた包帯の朱と夕日のオレンジが溶け込むように混ざり合う。

血が足りない。意識が飛びそうだ。

けれど、なんとかここまで帰ってこれた。

安堵と共に眠気が襲う。このまま痛みも忘れて眠りにつけたらどんなに楽だろう、と思考は全てを捨てようとする。

その痛みは腕を刺した傷の所為か、この胸の中で苦しみ締め付けるような痛みか。はたしてどちらの痛みから逃れたいのか。

 

傷なんて別に気にしていなかった。

だとしたら……

馬鹿みたいだな、未練しかないじゃないか。

 

この気持ちを墓場まで持っていこうと決めた。

何よりこの気持ちを忘れたくない。もしも叶わなければ、これよりも辛い、そうなるだろう。

ならば現実なんて見ない方がいい。これ以上深入りしなければ、俺は……

 

 

日が沈んでいく。

海は陽の光を反射させて、オレンジに染まっている。

そして、俺の意識は朧気に世界を映していく。眠気に抗うことなく目を閉じた。

身体は動かず、目も開けられず、動くことを拒絶するかのように鉛のような重さが身体にある。

 

不意にぬくみ雪がきゅっと音を鳴らした。

その足音は、近づいてくる。

早足で走っているかのようなその人は、こちらに向かい慌てているようだ。

 

その足音は俺の隣に来ると『兄さん』と儚い声で呼んだ。

愛おしい何かを呼ぶような声で――俺を。

泣きそうな声を振り絞り、また『兄さん』と。

もう誰だかわかった。美空が来たんだと、久しぶりに聞いた声は昔と違うが綺麗な声だった。

 

その声は段々と近づく。

気づけばお腹の上に美空はのしかかり、四肢は檻を作るようにピタリと身体につけられた。柔らかく、暖かい、擦り付けるように、蛇のように絡まっていく。

 

やがて…………

 

 

美空の息は荒く、悲しそうに呟いた何かとを聞いたかと思うと口を突然塞がれた。

 

柔らかい。

あたたかい。

しっとりとして。

 

キスされたと気づくのに数秒を有する。しかし、気づいたところで動くこともできなかった。

頭の中が妙な感じだ。

言い表せない、官能的な、扇情的、甘美な時間が流れる。

俺はそれに抵抗することができない……いや、抵抗することをしなかったのかもしれない。

悪い気はしなかった。目を開けることも出来たはずだ。だが拒む事を身体が許さない。少女の期待に答えようとしていたのか、俺の心が突き放すことを許さない。予想できず不意打ちされたとしても、今なら美空を離すことができたが。

 

だって、彼女の唇は――

 

 

 

涙の味がしたのだから。

 

泣いているのか、唇を重ねられる合間にしょっぱい何かが流れ込んでくる。

少女はキスをする前に泣き言を言った。おそらく、もう既にいろいろと限界なのだろう。心優しい美空には目の前の現実が過酷すぎて、しかし――

何故、俺がキスされたのか。

答えは簡単だ。美空は俺のことを好いているのか、でないとこんなことをするはずもない。が、そこには矛盾点も発生する。

 

兄妹、という俺と美空の関係。

 

これは近親相姦、に入るのだろうか。

それ以前に俺は一度として美空を家族として、妹として見たことがあるだろうか。

 

わからない。家族とは……美空は俺の何か。

 

数分間、美空にされるがままにキスさせた。美空は美空で体温を感じ取ろうと体中を密着させてくる。股下もはしたなく密着させて、夢中でキスしてきた。

嫌だと思わない。思えない。

 

美空の長くしっとりとした髪が頬を擽る。

鼻腔をほのかな甘い香りが過ぎ去る。

今すぐ美空を抱き締めてあげたい。そうして安心して欲しい。こんなに涙を流して縋るまで耐えたのだからこれくらいは正当な報酬だろう、俺は美空に手を伸ばそうとした。

 

――きゅっ!

 

しかし、動かそうとする前にぬくみ雪が悲鳴を上げた。枝が折れる音も重なり、誰かが立つことを知らせる。

 

叫ぶような声の主は――美海だった。

 

「……美空、自分が何をしたかわかってるの!?」

 

 

□■□

 

 

 

「行ったか……って、あれ? いつの間に寝たんだっけ」

 

誰もいない丘で目を開ける。夕日が異様に眩しく感じたがそれだけ長く目を閉じていた。それだけだ。

なんか後頭部をぶつけたようだが、顎の方も痛む。

思い出すのは柔らかな魅惑の感触……何かがいきなり口に落ちてきて、そのまま意識は朦朧とする。

 

覚えているのは、美海は激怒したかと思うと美空が先に走り去り、その後に美海は泣きながら走り去った。

『こんなのってないよ……!』

走り去る前に震えた声で、そう呟く。

その意図は……俺にはわからない。検索し続けても答えは今だ空欄だった。

 

「随分モテるな。坊主」

 

「なんだ、覗きですか?」

 

茂みから一人の男性が現れる。

組長、その男――赤城は微笑ましそうにしていた。

いったいどこから覗いていたのか、いつから覗いていたのか、

 

「ちなみにどこから」

 

「お前さんが夕日に倒れたところだ」

 

飄々と答えられた答えに顔をしかめる。

なんだ、最初からじゃないか。

だとしたら、美空のキスも当然見ていたわけで、さらに言えばキスもこの人の所為なわけで……

 

だが、この人は知っている筈だ。

美空が半分とはいえ、血が繋がっていることも。

 

「美空は妹だぞ?」

 

「よういうわ。満更でもねえクセして」

 

「そりゃあ、あんな綺麗で可愛い娘にキスされて、頼られてあんなことされたら、誰でも断れないですよ」

 

「ほう。矛盾してるな。じゃあ、何故起きなかった?」

 

む……そう言われれば返せない。嫌というわけではない。寧ろあんな可愛い娘にキスされて、嫌がる理由もない。

だが美空――妹のキスをなぜ受け入れたか、聞いているのだろう。

どかっと赤城は草原の上に腰を下ろす。

タバコを取り出し、火をつけた。

 

「……俺が好きなのはもう一人の方だ」

 

「ん――あの海のハーフか。ふむ、ちとばかし胸も小ぶりで妹ちゃんより…いやすまん、悪かったって」

 

ナイフを取り出して脅したら赤城は両手を挙げて降参だと意を示す。ナイフは紅く塗られ、妙な説得力がある。

俺は冷めた表情で自嘲するように呟く。

 

「だいたい、あの子には好きな人がいるし、美空は兄妹だからモテてません。と、それより――」

 

携帯電話を赤城に催促する。

右手には美空に握らされた紙が一切れ、そこに書かれているのは美空の携帯電話の番号だ。

 

「いいけど、何に使うんだ?いきなり口説き落としにかかるのか」

 

携帯電話を取り出しながらも赤城は愚痴るが、無視してひったくる様に受け取る。

そうして携帯電話を開くと、紙に書かれた番号ではなく、頭の中から浮き出てくる番号を押した。

発信。

これは昔の電話の番号だ。もし美空の慌てようと何かが重なり、その向こうに原因があるなら、この電話の先には俺の救うべき人がいる。

無論、その番号が今も続けて使われているならだが。

 

ワンコール、ツーコール、スリーコール、その後に苛立たしげに電話に男が出た。

開口一番にこういう。

 

「おい、院長だな? 薬の密売とその他の犯罪行為をバラされたくなければ、その目の前にいる女から手を退け」

 

確信はすぐそこにあった。

まず、来た時の美空の慌てよう。次に苛立たしげな院長らしき男の対応。普通、病院の院長であれば電話に出るときこんなに不機嫌さを表に出すことはない。

すなわち、これらの情報から予想される今の状況は、院長の評判と重なる。

 

「な、何を根拠に……」

 

「早瀬美和がそこにいるだろ?」

 

「ま、まさか何処かから見てるのか!?」

 

名前を言い当てられたことに若干の動揺が奔る。

 

「お、お前は誰だ?」

 

続けて放たれた言葉は愚問だ。

答えるわけが無いだろう。

 

「見えてるぞお前の行動は。権力を盾にセクハラとはいいご身分だな」

 

「――っ!?」

 

電話の向こうで見回すような音が聞こえる。

話によれば、院長室は改装され完全防音になったらしいが、それが逆に不自然な不信感を与えている。さらに窓ガラスは特殊な構造のガラスが張り巡らされ、白く曇って外からは中で何が起きているか見えない。中からは見える構造のようだが、そこに院長の意図も大方読める。

 

犯罪を起こすなら、全てはバレないように。

院長の権力を使い作り上げた部屋だ。

前任の院長は無論、窓は外からも見えるように作られ、防音もしない人だったが。

 

「いくら窓から覗けないようにしても無駄だぞ? お前の行動は全て、筒抜けだ」

 

「な、何が目的だ? 金か、金なのか?」

 

そんなものいらない。

が、話の流れはこちらに有利だ。

 

「要求は1つ。早瀬美和と美空に手を出すな」

 

ドスの効いた声で精一杯の脅しを食らわせる。

もちろん、脅しで済めばいいが…それはあちら次第。

 

「そ、それ以外だ! 私の獲物だぞ! どこの誰だかしらんが、こちらには龍神会がついてるんだ! 貴様のことなど調べて殺して――」

 

龍神会――言わば、赤城の組合とは違うヤクザのグループで張り合っている相手だ。過激な組織でありながら警察にしっぽを掴ませないことが有名だ。

 

「い、今、手を退くなら許してやっても――」

 

院長は必死に捲し立てるが、その気ははなからない。

いや、美和さんを脅す理由も明日には失くなるが。

 

「ええ、いいでしょう。こちらは手をひきますが、くれぐれも馬鹿な行動は謹んで下さい」

 

――荒事にならないように、ね。

もしこの人が手を出せば、迷わず潰す――そんな意味を込めて。

もし脅す理由がなくなっても足掻くのなら、その時はその時で全力で潰す。

社会的にも、全ての地位を奪う。

 

こちらから一方的に電話を切り、携帯電話を赤城へと投げ返した。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆

 

 

 

涙が止まらない。

ベッドの上で私は泣き崩れていた。

好きな人が親友とキスをしていた。ただ好きな人は寝ていたようだけど、それでも哀しくて、やっと見つけたと思ったのに……胸をナイフで刺されたみたいに痛い。

 

「ひっく…うぅ…ひどい、よ…」

 

誠の一番のキスが欲しかった。

なのに、わかっていた美空の好きの度合いに気付かずに先を越されたことが悔しい。

あんな方法が許されるなら、私だって……でも、嫌われたらと思うと……私には無理だ。それに、私にはそんな勇気なんてない。

 

結局は羨望しているだけだった。

美空の勇気と、あの位置に代われたらなんて、希望はただの欲望で、全部妬んでいるだけだ。

 

 

 

 

 

side《アカリ》

 

 

大きな音がしたかと思うと、ドタバタと足音は美海の部屋に向かった。美海が帰ってくるには早く、呼び掛けても誰も答えない。

仕方なく玄関に向かうと、靴はやはり美海のだった。普通なら見つけるまで探そうとする筈だと思ったのに、美海ならギリギリまで探すと思ったのに、どうしてか美海は予想よりも早く帰った。

 

「ねぇ、美海ー? 帰ってるの?」

 

部屋の前に行き、声をかけた。

静寂が返ってくる。美海は返事をしない。

何があったのだろうか? 気になる私は。

 

「美海、入るよー?」

 

扉に手をかけたところで気がつく。部屋の中から小さな啜り泣き、それが聞こえたのだ。

急いで扉を開ける。どうして泣いているのか、部屋の中には俯いたままの美海が膝を抱えて踞っていた。

 

「ちょっ、どうしたの美海!?」

 

何があったのだろうか、駆け寄り隣に腰掛けて背中を撫でる。美海は目も向けず、ただ泣くだけだ。

 

何があったの?

誰かになにかされたの?

怪我してない?

 

思いつく限りの言葉を並べていく。でも全てハズレなのか美海は俯いたまま首を振った。

あとは……もしかして、誠君を見つけた。とか。

 

「もしかして、誠君を見つけたの?」

 

誠――名前を聞いた美海はピクリと肩を震わせ、初めて顔を上げた。その顔は酷い。まるで大泣き寸前のように留めているが、泣けないから溜め込んでいる、そんな顔だ。

でも、なんで美海が誠君を連れ帰らなかったのか、引き摺ってでも連れ帰りそうなのに……。

 

「そっか……ダメだった、か」

 

「……違う!」

 

誠君が拒んだのだと思った。けれど、美海は首を横に振りながら叫ぶ。

 

そこからは何も喋らない。喋りたくないのだろう。

啜り泣きは止まず、決壊しかけのダムのように、少しずつ涙を流していく。いや寧ろ、涙の量と啜り泣く声の対比が可笑しかった。釣り合わない泣き方をして、涙だけがポタポタとベッドを濡らす。声だけが抑えられている。

 

「美海、なにがあったか知らないけど、今は全部吐き出して泣いていいよ」

 

寄り添うように美海を抱き締める。その肩は小刻みに震えていた。

 

――――……。

 

――……。

 

そうして何十分か待つと、美海は大泣きした。

長い間、大きな声で、私にしがみついて。それはもう昔の小さな頃の美海を思い出させた。その頃は誠君に何時も引っ付いていた。ミヲリさんと同じくらいの頻度で、それはもう凄く懐いていて。

素を見せるのは誠君、至さん、ミヲリさんの三人だけで泣く時はミヲリさんと誠君にだけだった。

 

「それで、どうしたの」

 

「…………誠を見つけた」

 

か細い声で呟くように美海は答える。その声は消え入りそうなほど小さく、気をつけないと聞き逃しそうだ。

でもね、と――間を置いて美海は口を開く。

声を出そうとするけど、声は出ない。もう一度。声を出そうとゆっくり喋り出した。

 

美海はちゃんと誠君を見つけた。そこまでは良かった。けれど、見つけた誠君は寝ていて、その上に美空ちゃんがのしかかりキスをしていた。それを見たのだという。

女の子にはショックな光景だろうな。好きな人が他の人にキスされているのを見るのは。

でも、誠君なら、美空ちゃんの意思を汲み取ってしまったのだろう。妹であれ何であれ、苦しんでいる女の子を放っておけるような性格ではない。その行動が間違いだとしても。

美海は知らないだろうけど恐らく美空ちゃんは泣いていたのだとしたら、誠君は起きていても、黙認して見逃していた筈だ。美空ちゃんの行動を、誰に見られたとしても。

 

例えそれを見たのが好きな人だったとしても。

今の誠君は勘違いしているから、余計に心配だ。

 

「それで、美海はそれをどう思った?」

 

「……嫌だった」

 

「兄妹でキスしてるのは、気持ち悪いと思った?」

 

美海は困ったような顔でぎこちなくこちらを見た。その質問に何の意味があるのか知らない。

 

「……ううん。嫉妬したよ。私があそこにいたら、美空の代わりにキスできたら、そう思ったよ」

 

おお、これは意外。

もしかしたら、美海と美空ちゃんはまた元に戻れる。

というか嫉妬? もしかして――

 

「ねぇ美海、もしかして、美空ちゃんに対して怒ってないんじゃない?」

 

あの子の事情を少なからず知っている。それを踏まえて美海は考えたのだろう。自分が美空ちゃんだったら、同じ事をするかもしれない。

それを羨ましがっただけで、美空ちゃんにも誠君にも、怒りなど向けていない。

 

ただ誠君が好きなだけなんだ。

好きだから誠君の一番を欲しがる。一番じゃなかったのが嫌なだけで、この子は……兄妹でキスしたのを怒ったわけじゃない。寧ろ推奨?

 

悔しかっただけで、もしかしたら……

 

 

 

◇◆◇◆◇◆

 

 

 

翌日、事務所の机の上には5束くらいの札束が積み上げられた。全て一万円札、偽札なしの本物だ。その札束を前に赤城のおっさんは浮かない顔で、子分たちは驚いたように、俺を見た。

 

「すげぇな。ほんとに持ってきやがった」

「口だけの坊主かと思ったぞ」

「まさか、偽札が入ってるんじゃねぇだろうな」

 

口々に感心しているが、最後の言葉は最もだろう。子供がこんな大金、総額五百万円を現金で用意したのだ。不審に思わない筈がない。

 

「いや、引き出すところを直接見た。預金通帳もこのとおりだな」

 

しかし、俺は赤城のオッサンの前で――これ以降は赤城さんと呼ぶが、確かに目の前で引き出した。

さて、これで俺も保々預金はゼロ……一文無し寸前と言ったところか、本当のホームレスになったわけだ。勿論、家に帰ろうにも渦が邪魔して帰れない。

立ち去り際、返済済みの判子を押された借用書を手に赤城さんへと向き直る。このまま放置も美和さん達の不安を逆に煽るだけで、それを解決するには一つ報告して置かなければならない。

 

「すみませんがこの借用書、美和さんの家に返しといてください」

 

「それはいいが坊主。一緒に暮らさねえのか?」

 

確かにそれも考えたが、それを今更頼むなど無理だ。筋違いにも程がある。

というか、美空が可愛すぎて手を出しかねない。主に好きだと告白されている時点で無理だ。勿論、好きな人は美海だが美空は美空で理性を破壊しかねない。俺も男でありあの身体は凶器だと言える。

 

「さぁてね。海に戻れるまでなんとか生きますよ」

 

「まぁ、何時でも来い坊主。飯や寝床もあるし、何より俺らはお前の男気を気に入った」

 

組長の次の座はお前だ! そういう気迫が籠っている。

笑顔の人達は何時でも頼れよ、と前のような威圧は見られなかった。

案外、この人達は優しいのかもしれない。




実はいい人たちなのです。このヤクザ!
いや、評判もそこまで悪くないんですよ?
赤城さんは五十代のオッサン。
ほか、チンピラ多数。
構成員、みな赤城に忠実。
温厚な人達です。挑発しなければ……

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