凪のあすから ~変わりゆく時の中で~   作:黒樹

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これは美和さんの一日


第三十六話 利用される形

 

 

 

side《美和》

 

 

土曜日、また心配なこの日が始まる。

長瀬誠哉、彼は家に借金を残して交通事故で死亡した。それも普通の金融機関であれば良かったのだけど、生憎と誠哉さんが借りたのはよくある利子の高い事務所だ。ガラの悪い人達が経営している、そんな会社。借金の返済が遅いと毎日のように取立てに来る。

 

だから、心配だった。

 

今日は土曜日。私は仕事で病院に行く。チサキちゃんは看護学校に試験をしに。

だけど、美空だけは中学校がない。一人で家に居たら危ないし、取立てに来られてもし美空が傷ついたら、なんて考えると凄く怖かった。

もしも連れて行かれたらどうしよう。もし風俗なんかで働かさせられたら、なんて不安しかない。

 

 

「美空、今日はどうするの?」

 

朝食を食べながら美空に質問を投げかける。対して、美空は困ったような笑顔を浮かべると、食べ終わった箸を皿の上に置いた。

 

「…えっと、ですね……」

 

歯切れが悪い。答えられなかった。

美空自身、どうしていいか決められないのだろう。ここら辺には図書館なんてないし、勉強する場所も満足に見つからない。もし図書館があったとしても、美空一人にして連れて行かれるなんて嫌だ。

 

……美海ちゃん、や友達にも頼れない。

 

もしバレてしまえば、美空は虐められるかもしれない。美空はそれが怖くて誰にも頼らない。離れていく友達が怖くて、何時も独りぼっち。

 

――誠君なら

そう考えるけど、あの子にだけはバレたくない。

 

きっと、美空もそんなことを考えているのだろう。頼りたくても頼れなくて、いざバレてしまえばそれが怖くて。誠君ならきっと自分を責めるから。

 

私は美空にある提案をする。

 

「美空、今日は私の職場に行こっか」

 

職場の人達は優しいから。理由を知っているから。美空を連れて行くことも何度か許してくれた。

彼女達の親切には本当にお世話になってる。借金取りが来るかもしれないというのに、ね。

少しだけ私のことをよく思っていない人もいる。

 

迷惑はかけたくなかったけど。

 

「……ママ、ありがとうございます」

 

「お礼なら、職場の人達にね」

 

顔を伏せてお礼を言う美空。本当は独りが怖いのだろう。独りで“あの人達”に会えばどうしていいのかわからなくて、怖くて、その声には涙の音色が混じって聞こえた。

 

なら、早く食器を片付けよう。そう言って食器を台所に持っていき、私が準備している間に美空が洗う。仕事に行く準備を終えると、美空は洗い物を全てこなして既に学校に行く時に持つ鞄を持ち、制服に着替えていた。

なんだか負けた気がする。それも娘に。

そんな小さな悪い感情を一蹴りすると、頭の隅に追いやった。相変わらず、娘の方が良くできていて、小さな冗談混じりの嫉妬は小さな微笑みになる。他愛もない会話が私の唯一の救いで、娘とチサキちゃんが支えだ。

 

家の戸締りをして、玄関で靴を履き、外に出るともう美空は一歩先で鍵を持って待っている。

最後に鍵をかけ、確認すると、私は美空の手を引いた。

嫌がることも無く、ただ「えへへ」と笑い返してくると今日一日を頑張れる気がした。

 

ふと、自然に視線を家に向けようとする。行ってきますと、挨拶を交わそうと見上げるように一階から二階まで顔を上げたとき、山の中腹に人影を見た。

 

……誠君?

 

私の願望だろうか。小さな少年がこちらを見下ろして、目が合った。

 

そんな筈ないよね。

 

よく見ようと首を伸ばした時、不意に鞄から携帯電話がプルプルと震えだし、マナーモードながらも着信を知らせた。山から目を逸らし、鞄から携帯電話を取ると着信相手はアカリさん、私の数少ない友達だった。友達と呼べるのかは微妙だけども。

 

「はい、もしもし?」

 

「あっ、やっと繋がった。美和さん?」

 

出るとやっぱりアカリさんだった。

その事に安堵しながら、美空に目を向ける。

電話の向こうのアカリさんは少し、切羽詰まったかのように、焦りを見せていた。

その様子に、私は不安を覚える……もしかしたら、アカリさんのところに借金取りがいったのかもしれない。

 

「……もしかして、そっちにあの人達が……誠君は!?」

 

一気に私の境界線は崩れさり、焦りは表に出る。

今まで装っていた平常心も形無しだ。

電話の向こうで、取り乱した私に声をかけるアカリさん。

 

「落ち着いて美和さん。来てないから。ただ……」

 

何を迷っているのか、声が段々と小さくなっていく。

そうして私に告げられたのは、嬉しい知らせか、悪い知らせか、胸の中でドクンッと何かが鳴った。

 

 

――漁協から連絡があったの。誠君に問い詰められて、あの事を話したんだって。それで誠君は出て行っちゃった。

 

 

 

 

 

「はぁ……」

 

溜息が口から漏れる。これで何度目だろうか、私の中のモヤモヤは拭い切れずに溜まっていく。

――誠君の行方不明

今思えば、山で見た小さな子供の影は誠君だったのか、確認しなかった自分を恨む。電話の途中で山を見たけどもうその姿は消えて幻の感覚だけが残った。

 

美空に確認したけど、誰も見ていない、って。

あの時、美空もちゃんと山を見ていて、確認したけどやっぱり私の思い違いかな。

 

手付かずの仕事に集中もせずナースステーションを見渡す。なんとか午後のこの時間まで耐えた。あとはあの人の呼び出しと、借金取りにさえ会わなければ。

そう思っていた矢先に、ナースステーションに内線の電話が届く。周りには一人しか看護師がいなく、近いのは私で必然的に出る必要が出てくる。

怯えながらも、その内線に私は受話器を取った。表記には見慣れた番号が並んでいる。

 

「はい、ナースステーションですが…院長」

 

最も嫌いな人の掲げる名称を呼ぶ。呼ばれた電話先の男の人は僅かに鼻息を荒くした。

……気持ち悪い。

私だとわかると、院長は興奮した声色で告げる。

 

「早瀬君か。丁度いい、院長室にきたまえ。話がある」

 

誰にも内緒の話だ。分かってるね?そう言うと電話は即座に切られた。

嫌だ……行きたくないよ。

弱音を誰かに向かって吐きながら、受話器を少し粗めに押し付けるように置くと、看護師から誰からだった?と問いに院長と答えると、あぁ……最近多いね、と同情のような視線を向けられる。それを背に歩き出す。

 

前の院長が代わってからそうだ。前の院長は優しくて人望のある熱い人だったけど、一年前に急に退職して、私を守ってくれていた後ろ盾もなくなった。借金取りが来るかもと言っても大丈夫だと言い張って私を解雇しないでくれた。評判も良かったのに。

その次の院長が今の院長、彼に代わってから病院の評判も下落していく一方だ。

理由は彼の裏の噂。

なんでも裏で怪しい粉の取引をしているとか。ヤクザと繋がっているとか。更に言うと、彼はよく女性の診察を引き受けるのだが、その診察の仕方や手付きがいやらしく、視線もいやらしいことから女性の評判は最も低い。

 

――その事は、私が一番知っている

 

最後の噂は事実だ。私は彼の診察の助手の看護師として幾度となくパートナーとして参加した。その度に女性患者から文句が飛んでくるが、私は見て見ぬふりをして、仕事に専念する。……私と家族を守るために。

 

 

長い廊下を終えて、目の前に電子ロックのついた大きな扉が鎮座する前に到着。院長室の扉。指紋認証装置に手を置いて――ピッと言う電子音が鳴ると、番号をゆっくりと叩いた。

また、ピッと言う電子音が鳴り、今度はガチャリという施錠の解除された音が鳴ると、扉を押し開ける。

 

そこには、中年男性が一人。

年齢は34歳、白髪混じりの髪、小太りした身体に白衣を着せた眼鏡の男――院長が、いた。

 

「おお!来たか!」

 

院長の高そうな椅子に座る彼は僅かに身を乗り出すと、私の体を舐め回すように眺める。

 

「……ご用はなんでしょうか。院長」

 

「またまた、わかっているくせに」

 

「……」

 

「……例の話、悪い話じゃないだろう?」

 

とぼけたふりをする。院長は鼻息荒く、欲望を剥き出しの目で私をもう一度舐め回すように眺めると、立ち上がり椅子を押し出して、私に近づく。

その脂身を纏った手が、不意にこちらに伸び。

 

「――あっ、やめてください…!」

 

涙が溢れそうになる。彼の手が私のお尻を撫でた。ナース服の上から、太腿へと渡るように。

……吐き気がする。気持ち悪い。

言葉を抑えながら、彼を睨むように見やる。

見ると、彼は満足というような顔をしていた。私の嘆く声に、上げる悲鳴に。嫌悪する声に。

 

「うん。君はやっぱり最高だ。でも、忘れたわけじゃなくて良かったよ。僕は君の何かな?」

 

「雇い……主です」

 

「そうだ。言わば、神だ。救世主だ」

 

崇めろと言わんばかりに自慢げに撫でる手を、揉むような手つきに変えた。

思わず、嫌悪感に振り払う。

すると院長は薄く笑い、また口を開いた。

 

「やっぱりいい体だ。思った通り。だが、君は後戻りできる訳が無い。解雇されたいのか?」

 

「ッ!? それは……」

 

俯き涙を堪えるしか、することは出来ない。

私がこの人を嫌いな理由。

一年前に院長にこの人がなってからだ。院長は私の弱味を握る事で、こうしてセクハラをして、耐え続ける日々が続いている。解雇をすれば私は仕事がなくなり、美空も学校に行かせることが出来なくなり、借金も返せない。それを知った院長がこうして何時ものように、触ってくる。

 

だけど、これだけじゃない。

何時しか私を利用して患者にまでセクハラをするようになった。それを私は黙認する。パートナーとはそういう関係で、そうした汚れ仕事を……私は自分の家庭を守るために続けた。

 

院長がまた、口を開く。

今度は、胸に手を伸ばして、撫でるように触ってくる。

 

「あの約束も早く決めた方がいい。何より、今の美味しいうちに君を頂きたいからね」

 

“あの約束”

私はある提案を持ちかけられていた。

私がこの人と結婚をする。そうすれば、借金を肩代わりしてくれる。言わば、結婚をすれば私は院長に身体を差し出し、私の体を目的とした結婚をしろと言うのだ。

結婚をすれば、私は彼に体を差し出し続けなければならない。愛していない人に、身体を触られ続ける。私の未来を売る代わりに、安定を得られる。

それが嫌で、私はこうして断り続けている。

 

「……御免なさい。いい話ですが、私は…」

 

と、そこまで言った時、院長がニヤリと笑った。

 

「そう言うと思ったよ。けど、確かこの前に陸に上がってきた子供、なんて名前だったかな…」

 

誠、院長がその名前を口にした時、嫌な予感が全身を駆け巡る。

そうして告げられたのは、残酷な選択肢だった。

 

「あの子、君の大切な子だそうじゃないか。男が死んで何年も立つのに、今も気にして、可哀想に……あの子を消してあげようか?」

 

体が凍りつく。手足の感覚が麻痺する。声も喉の奥から出なくなり、恐怖だけが残った。

やめて!と叫べない。叫びたいのに声は空回りして、自分の身体と彼の命を天秤に掛ける。

 

院長はナース服の上から私の胸を揉み、私の反応を伺うと今度はするりとボタンの間から手を滑り込ませた。

肉厚の手が肌に直接触れる。

嫌悪感すら忘れ、やめて欲しいのに、逃げたいのに体はいう事を聞かない。

ボタンが次々と外される。一番上のボタン、二番目のボタン、三番目のボタン、順番にプチプチと外されていきライトグリーンの下着と白い素肌が露になった。

 

ブラのホックを外そうと院長の手が伸びる。

――ピリリリリッ

しかし、その行動は突然、鳴り響いた電話に遮られる。こんな時に誰かと、院長は電話を取り受話器に耳を当てると次第に顔が青くなっていった。急いで部屋から飛び出すと

私は解放されたことに安堵して、生まれたての子鹿のように床に倒れ込んだ。

 

――助かった

 

電話がなければ、どうなっていたか。

私は……誠君の事しか思い浮かばない。

助けて、そう願って思い浮かんだのは誠君の優しい笑顔とカッコイイ姿だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……どうも、電話を貸してくれてありがとうございました」

 

「あぁ、だが坊主。本当に明日払えるのか?」

 

携帯電話を返す少年に、右目に傷をつけた男が聞く。歳は五十代だろうか、白髪混じりの髪、着物に身を包む姿は風格が感じられる。

誰もが近寄り難い雰囲気を出す男。職業はヤクザ、所謂、金貸しや薬の売買、他勢力との抗争をする世間から嫌われた存在だ。

しかし、隣の少年は歳の所為かヤクザには見えない。それどころか関わりすら見えない。

男が、今度は違う質問をした。

 

「何処にかけた?あんな脅し文句は普通じゃねぇぞ」

 

少年は溜め息を吐き、男に答える。

萎縮すらしておらず、堂々たる振る舞いで悪気もなく、

 

「病院ですよ。馬鹿な院長がこれ以上、あの人を傷つけないように。それが美空の願いです」

 

ただ、ちょっとした料金を払われたのは予想外だった。

少年は口元に手を当てる。まだ、微かに残る温かみの愛しさに惚けて、目を瞑る。

――これは、最終警告だ。馬鹿な院長が大切な人達に手を出さないように、少し冗談の効かない冗談。

 

非情になった少年は、今だに甘さを残している。

持て余し、脅し程度で済んだ。

院長は命拾いをして、電話向こうの美和は助かり、少年の願いは成就し続ける。

誰にとっても、幸せな選択だ。ただ少し、隣の男は不満げに海を見ているが。

 

――少年にとっては今できる最高の選択肢だった。




次は美空視点か、誠視点の話を予定。
時間軸は同じくらい。
最後に院長の説明。
ゲス。……以上です。

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