外は暗闇になった。今も私は机の上に置いてあった誠の十字架を胸に抱いて、涙を流す。溢れてくる涙は止まらなくて、止めようとするけど見つからない、帰ってこない誠に不安が募った。
「おーい、飯だぞ」
「……いらない」
少し遅い夕食の時間に呼び出しに来た光、私は振り返らずにベッドの上で小さく呟いた。
「つっても腹減るだろ」
「誠が帰ってくるまで待つもん」
「あいつなら心配する必要ねぇだろ。どうせすぐに帰ってくるって」
「どうしてそんなことがわかるの!!?」
光がビクリ、と肩を震わせる。思わず叫んでしまった私は目も合わせずにまた誠の十字架を握り締めた。
本当なら、誠が持っていた私に託した十字架の色違い。何時も大切にしていたはずのそれは机の上に置かれていたのだ。それを私が持っている。
もしかしたら、誠が取りに戻ってくるかもしれないと…そんな淡い期待を込めて。
その時に止めるんだ。
もうどこにも行かないで、大好きだと。
光は不思議そうな顔で、確認するように聞く。
「なぁ…お前って、誠のこと好きなのか?」
「……そうだよ。悪い?」
少しの躊躇いのあと、呟く。
この気持ちを隠す気はない。
「いや、意外というか何と言うか、やっぱりお前らってそうなんだなって」
昔から私は誠に引っ付いて、誠が迷惑がらずに面倒を見て仲のいい兄妹に見えたのかも知れない。
光は驚いた様子もなく、私を柱に寄りかかりながら見ている。頬をかいて、気難しそうに呟いた。
「なんていうかさ、俺達は誠のことを全く知らずに友達だとか幼馴染みだとか曖昧な関係をしてたけどさ。それ気づいたのは中学生なって陸に来たあとで、アイツが本当に笑うところなんて見たことなくて。
でも、お前といるとアイツすぐに笑顔なって俺達には見せた事ない顔するからさ」
なんだろうな。
「だからアイツの今やってることがわかんねえ。どうして家からわざわざ出てくんだよ。一番近くにいたいとか抜かしてた奴が、っと……そういやアカリが呼んでたぞ。大事な話があるんだってよ」
何でも誠に関係ある話らしい、光はそう言うと先に行ってるぞ、右手を振りながら部屋から出ていく。
幼馴染みですらわからないのに、誠の気持ちを私が気づくことが出来るんだろうか。
不安だ……でもなんだか嬉しい。チサキさんの見たこと無い笑顔が私は見れていて、それを独り占めする事が出来ていたんだから。
私は部屋を出てお母さんのところに向かう。
胸には二つの十字架が煌めいていて、ぶつかり合う音が私に勇気を与えてくれる。誠が置いていった物。捨てて行ったのか私に託したのか、捨てきれなかったのかわからないけど、持ってなきゃ会えない気がする。
「……来た、よね…うん」
リビングに並ぶ何時もの顔。お父さんにお母さん、晃に目覚めたばかりの光がいた。真ん中のテーブルには何時も通りのご飯が並べられている。その数は6、お椀には白米が入ってないのが一つだけ伏せられていた。
お父さんは目を瞑って腕を組み、トントンと指で腕を叩くのを繰り返し。
お母さんは私が来たと同時にお椀を拾い上げ、少しのご飯を注ぐ。
光は腹減ったとか言いながら、目の前のご飯に『待て』をして犬みたいだ。
晃はキョロキョロと何かを探して、
「まぁとはー?」
そう呟いてはお椀を見る。誠のことを言っているのだろうか、意外にも懐いたらしい。
座ると同時にお父さんは目を開けて私を確認。溜め息をつくとお母さんに助けを乞うように顔を引き攣らせる。
「もう、お父さん、覚悟決めなよ」
「いや、だって……」
「誠君に、美海に、二人の未来に関係することなんだよ。誠君は決めたら絶対に自分じゃ帰ってこないし、探しに行くしかないでしょ。美海が説得するにしても、これを知らなきゃ始まらない」
二人の未来……?
あぁ、そうか。そうだよね。
なにも自分の自己満足だけじゃダメだ。誠が少し強情で決めたことは変えないのは知ってる。自分じゃ変えられないと、そんな不器用さも。
何より、私が誠を説得して連れ戻せるか、それで誠の未来も私の未来も変わるのだから。
――って、何言ってんだろ私。まるで、私が告白するのが成功するみたいに。そんな筈は……
お母さんは私を見て、確信したように微笑んだ。
「それにこのままじゃ終われないよ。美海の初恋だもん、あの子はもう私達の家族だもん。美和さんにあんな事があったのに託されて、心配されて、そんなの勘違いなんかじゃ終わらせないよ」
光は終始解らない、そんな顔でお母さんを見る。私もなんだか顔が熱くなるのを忘れて、惚けるしかない。
初恋の指摘をされて、恥ずかしいのに。けれど、お母さんがお母さんだと、その姿に見惚れていた。
お父さんもお母さんの姿に触発されたのか、よしっ!と頬を叩くとスッと目を真剣なものへと変える。ようやくお父さんは喋り出した。
「話は戻るけど、美海、美空のお父さん……長瀬誠哉が死んだのは知っているよね?」
「…はっ?えっ、ちょっと待て…美空の親父さんが死んだ?」
驚く光は動揺する。それとこれと誠とどういう関係が、叫ぶように怒鳴ると頭の鈍さに私は頭が痛くなる。誠の事を知りたいのにいきなり中断して。
本当なら誠の父親の名前くらい知っているだろう。それに誠の名前も“長瀬”なのに。
「長瀬誠哉……美空のお父さん。でもね、誠君のお父さんは美空ちゃんのお父さんと同一の人だよ。美空ちゃんは腹違いの兄妹なの、誠君のね」
「じゃあ……墓参りか? え?誠と美空って、あれ?」
頭を抱える光はひどく困惑した。
本当に訳が分らない、瞳は驚きに揺れている。
整理できない頭の光に、黙ってて!と怒るとすぐにお母さんの理解しやすい話に大人しくなった。
ここから先は子供達に教えられなかった話だと、お母さんとお父さんは顔を合わせる。
「ねぇ美海、誠君がもし、酷い人になってしまったら、美海はそれでも愛する?もし罪を背負って生きていたなら、同じ苦しみに耐えれる?」
これは最後の確認。足を突っ込むか突っ込まないか、再度確認するお母さんの目は真剣だった。
まるで、誠が悪い人のように……何でそんなことを言うの?
この時、お母さんは悪役を買ったのだと。誠のために決意は先にしていたんだ、誠を理解していたのだと解った。
「私は誠を……好きだよ。愛してる。だから私は誠が何をしていても、何のために出ていったか知りたい。そして何をしていたとしても、それは変わらないよ」
最大の告白――みんな見ているけど、言い切ってしまう。
お母さんはそれを聞くと、クスッと笑って話し出す。
美空のお父さんの死因、その経緯。誠のお父さんがどんな人に変わり果てたか、その行く末を。
そうして……美空の家に出来た借金。誠のお父さんが美和さんや美空、チサキさんに手を上げたこと。
そして一番辛そうに言ったのが、
――二人を強姦しようとしたこと。
誠もそうなるかもしれない。冗談混じりにお母さんはそう言うけど、私にはそう思えなかった。
「ねぇ美海、いきなり誠君に襲われたらどうする?」
お母さんは期待するかのような、心配していないような声で聞く。全く何を聞いているのか、光は顔が真っ赤だ。
私は……きっと、そんなことを誠から望んでいるのかも。多分だけど、私は許しちゃうんだろうな。
それくらい誠が好きだ。
でも!
「誠は誠だよ。長瀬誠哉っていう美空のお父さんでも、誠のお父さんだった長瀬誠哉じゃない。誠は優しくて、人に優しすぎるだけだよ」
夜の、誠が居なくなった部屋で私は布団に入る。話が終わるとお父さんとお母さんは溜息を吐いた。娘の初恋の溺れぶりに呆れているのか、深さに感嘆しているのか。それでも誠のことは信じているらしく、誠君を探すのは明日にして今日は寝よう、そう言った。
疲れていては力が出ない。いざ誠君を見つけても逃げられたら、意味ない。引き止めるだけの理由と声が誠にいる。
「……誠」
本当に責任感だけで出ていったのだろうか?
家を出ていくのが効率の悪い方法だと誠なら知っている。巻き込まないように、そう考えたのかもしれない。
勘違いもあるかも。
お母さんはそう言うけど、何を勘違いしたのかおしえてくれなかった。自分で気づかなければいけない事だと、クスクスと笑うお母さんがちょっと憎い。
「どうして……誠は、私を…」
捨てたんだろう。捨てたのかな……?
胸が痛い。勘違いが関係しているのかな?
今の私には解らない。わからないことだらけだ。
美空が悩んでいた事も。借金に苦しんでいた事も。気づけずに私は、友達の事に盲目で。他人の気持ちに疎い私は凄く鈍感で。
あぁ、眠くなってきたな……
明日は休みだから、誠を一日中探そう。
◇◆◇◆◇◆
side《アカリ》
「僕らが知らない間に、本当に成長したね」
至さんは烏龍茶を飲みながら、呟く。美海の、娘の静かなる成長、これは誠君の影響で、ある意味、誠君が育てたと言っていいほどに。
私達、親は見守るだけで勝手に成長するものなのだ。
「本当、美海は成長したね」
「最初は誠君がミヲリに強引に連れてこられて」
ミヲリさんらしいな、誠君らしい。
「美海に誠君を紹介してすぐに懐いちゃったな」
運命って、こんなことを言うんだろうな。
幼い頃の美海には運命の赤い糸が見えていた。そんな気がする。
至さんは穏やかに笑みを浮かべながら続ける。
「ほんっと、ベッタリくっついて。誠君は嫌がらずに美海の面倒を毎日のように見てくれて、遊んでくれて、少しだけ嫉妬しちゃったよ」
「えー何それ。至さん、嫉妬してたの?」
「美海はその頃から、僕とお風呂に入ってくれなくなったからね……」
寂しそうに至さんは語る。もうその歳でお父さん離れしたんだと、誠君に娘を盗られたようだと。
思わず、その情景を想像して吹き出してしまう。
「あはは、女の子だねー」
「ああ、もう一度でいいから美海とお風呂に入りたいな」
その場合、美海に物凄く嫌われる事になるだろうが大丈夫だろうか。
それより、警察にお世話になる至さんが浮かぶ。
「至さん、それは犯罪だよ」
「だよね……」
ガックリ、と肩を落とす至さん。そんなに落ち込む事なら美海が幼い頃に、一緒にもっといれば良かったのに。
けれど、私は至さんの気苦労を知っている。あの頃から少しでミヲリさんが死んで、至さんが美海へ構うことが少しだけ減って。私はその後釜に入るように至さんに寄り添って今のこの場にいる。
誠君が、酷い男の子でも私は文句を言える立場ではないことくらい解っている。
「ふふっ、美海とお風呂に入るのは犯罪だけど、私が至さんと一緒に入ってあげようか?」
「ええっ!?」
少しだけ至さんの顔に朱が指す。やっぱり親と言っても流石は男の子。美海に見られていたら、どうなっていたか。
「まっ、冗談だけどね」
「ええっ!?!?」
そこまで落ち込まなくても……
私も少しだけ本気だったけど。主に誠君と美海の愛の深さに触発されて、私も至さんともっとラブラブになれたらなー、なんて嫉妬。
「羨ましいなー美海は。あんなにいっぱい愛されて、誠君に本気で嫉妬されるんだから」
思わず思っていた事が漏れてしまう。
実はあの日、巴日の日、私は心配で誠君を付け回していたのだ。
美和さんと一緒に。
美海が告白されたのも知っているし。それを見て誠君が嫉妬して美海の手を引っ張ったのも。美和さんの泣き言も知っているし、私達は本当に仲が良くなったと思う。
けれど、一つわかった事は……あの人は誠君の事を子供として見ていながら、見ていない。
『私ね、最初は傷の舐め合いだったんだ』
あの日、美和さんが漏らした言葉は覚えている。その言葉は私ではなく誠君に向けられていて、美和さんが誠君に熱っぽい視線を向けていた。
それは……紛れもない。美海と同じ。誠君に向けられたのは愛ではなく、恋だ。
弱々しく疲れた表情の美和さんには、私は何も言えず、理由を知っているからか小さな愚痴を見逃した。彼女はすぐにでも決壊してしまいそうな程ボロボロな心で、私には手に負えない状態だった。
まあ、それでも私には結局は止められない。なんだか苦しんできた美和さんが可愛そうだと思ったから。
――と、話が逸れたけど。
誠君は誠哉さんみたいにはならないと思っている。美海にはあんなこと言って確認したけど、誰よりも厳しく、誰よりも大人に育ったのは彼だ。
……多少、愛を知らない気がするけど。
誠君は誠君、美海が言った通り個であるのだ。
……それに私自身、孫の顔に期待しちゃっている。誠君と美海がどんな子を産むのか、ね?
「ほんと、誠君に美海の愛は届くかな……」
「……届くさ。届かなくても、美海は諦めないよ」
私達は笑いあった。
誠君の強情さと、美海の負けず嫌い、どちらが勝つか。
――妥協、和解もあるかなと
少々、至さんのヘタレぶりが……こんなのでしたよね。
アカリさんに尻に敷かれるみたいな。
アカリさんは酷い人でもないですけど。
何より、恋する乙女は強い。