―――― こんなにも早くこの時が来るとは思っていなかった ――――
3日間の仕事を終え、王都に戻る時が来た。王妃様との約束であったレスターさんを連れて。
王都モンテマールへは駅馬車で移動するしか手段がない。そのためには、まずはカノーラの町に戻らなくてはならない。既にレスターさんや木下君、土屋君は町に向かって歩き始めている。私も彼らの後を追い、乾いた砂の大地を歩き出した。
「アイちゃん、行きますよ」
「ミェ~」
この3日間でアイちゃんの鳴き声は少し変わった。ここに来るまでは猫のような「ミィ」だったのだけれど、少し山羊らしくなったように思う。身体の大きさはほとんど変わっていないけど、少しずつ大人になっていってるのかな。そんなことを考えながら私は歩き始めた。
カノーラの町までは歩いて10分ほど。その間に遮蔽物は無く、短い草の生える大地の先には”万里の長城”のような壁が聳え立つ。私たちはその壁に備え付けられている大きな扉を目標に歩いていた。そうして歩いて5分くらいした頃のことだった。
「おや? またお会いしましたね」
突然、横からスッと1人の男性が現れた。緑色のマントを肩に巻き、首には黄色いマフラー。そして頭にはターバンのような緑色の帽子を乗せている。
この姿には見覚えがある。確か数日前のマトーヤ山の洞窟の前ですれ違った、2頭の山羊を連れていた遊牧民風の人。
「こんにちは。えっと……」
あの時、名前を聞いていたはず。なんだか長い名前で、略した呼び方を教えていただいて……えっと……ルイスさん……でしたっけ?
「ヒメジ君、君の知り合いか?」
「あっ、はい。知り合いというかお会いしたことがあるというか……」
「以前すれ違って言葉を交わした程度の関係じゃ」
「フーン。そうか」
レスターさんはターバンの彼が連れている1頭の山羊をじっと見つめている。何か思うところがあるのかしら。
「自己紹介が遅れました。
睨むレスターさんに彼はそう名乗り、にっこりと微笑んだ。そういえば前回お会いした時に私の方が名乗っていなかった気がする。
「すみません。私の方こそ自己紹介が遅くなりました。私は姫路瑞希といいます。よろしくお願いします」
「ワシは木下秀吉と申す。よろしく頼む」
「…………土屋康太」
「ヒメジミズキ様にキノシタヒデヨシ様。それにツチヤコウタ様ですね。こちらこそよろしく。ところで皆さん、こんなところでどうされたのですか?」
「ちょっと王都に用がありまして、今から行く所なんです」
「そうでしたか。しかしなぜ町の外を歩いていらっしゃるのですか? まさか徒歩で行かれるつもりで? 日中とはいえ、町の外は魔獣が出て危険ですよ?」
「あっ、そういうわけじゃないんです。実は少々事情があってレスターさんのお宅にお邪魔していたんですけど、王都に戻ることになったのでそこのカノーラの町に戻って馬車に乗るところなんです」
「なるほど。レスター様のお宅というと……ひょっとしてあそこに建っている一軒家のことでしょうか」
「はい。その通りです」
「そうでしたか。理解しました。大変失礼しました」
そう言って深々と頭を下げるルイスさん。なんて礼儀正しい人なんだろう。
「……おや? それはあの時の仔山羊ですか?」
私の足下に目をやってルイスさんが尋ねる。その視線の先にいるのは仔山羊のアイちゃん。アイちゃんは隠れるように私の足に身を寄せ、少し警戒した様子を見せている。
「はい、そうです」
「ふむ……少し成長しましたね」
「そうですか? 私には全然変わってないように見えるんですけど……」
「ははは、ずっと一緒にいると変化は感じにくいものですよ」
「確かにそうですね。ところでルイスさんはどうしてここに?」
「
彼はそう言って手に握った手綱を少し掲げてみせた。その紐の先には立派な
「そうなんですか。それは何よりです」
「えぇ、では
「はい。ご縁がありましたらまた」
ルイスさんは軽く会釈をすると、私たちの前を横切って歩き始めた。
「……ヒメジ君。彼はどういう人なんだ?」
去って行くルイスさんを見送っていると、レスターさんが尋ねてきた。
「実は私もお会いするのは2回目でよく知らないんです」
「王都付近で山羊を飼育しておられる方じゃな」
「ほう? すると彼は迷子の山羊を追ってこんなに遠くまでやってきたというのか」
「そうですね。きっと動物を大切にする方なんだと思います」
「フム……ヒメジ君、君たちは元の世界に戻るために旅をしているんだったね」
「はい。でもレスターさんのおかげで希望が見えてきました。本当にありがとうございます」
「それはいいんだが、ひとつ問題があるんじゃないのか?」
「問題……ですか?」
私はレスターさんの言おうとしていることが分からなかった。次の言葉を聞くその瞬間まで。
「君たちが元の世界に帰るとして、この子はどうするんだ? 連れて行くつもりなのか?」
レスターさんが私の足元を見て尋ねる。その言葉を聞いた瞬間、どうしても考えざるを得ない状況に追い込まれてしまった。
「それは……」
レスターさんの言う”この子”とは、アイちゃんのことを指している。あの洞窟内でこの子を引き取ると決めた時、この子を野生に返さなければならない時が来るとは思っていた。けれどアイちゃんと一緒に過ごすうちに、いつしか私はこのことを考えなくなっていた。
――別れたくない
この気持ちが現実から目を背けさせたのかもしれない。
「考えてないのか?」
「いえ……」
考えていなかったわけではない。考えたくなかった。けれど、どんなに拒否してもその時は必ず訪れる。
王妃様との約束が果たされれば、目的である腕輪が手に入る。そうなれば私は明久君や坂本君たちと一緒に元の世界に帰ることになる。その時、アイちゃんはどうすべきなのか。
「この子は……この世界で生きるべきだと思っています」
「ならさっきの兄ちゃんに預けたらどうだ? 山羊は山羊の仲間と共に暮らすのが良いだろう」
「……」
最初は償いのつもりでアイちゃんを引き取った。でもこの子と一緒にいると楽しかった。この世界に飛ばされてから泣いてばかりいた私が、前向きに考えられるようになった。
「本当はオレが預かりたいところなんだけどな。けどオレは自分の食すら疎かにしているくらいだ。やはりこの子はあの兄ちゃんの元で暮らすのが幸せなんじゃないか?」
レスターさんの言うことは分かる。けれど別れるのは辛い。4日間という短い間のうちに、アイちゃんは私にとって大切な存在になってしまったから。できることならば私たちの世界にこの子を連れて行きたい。
でもそれは人間のエゴ。もともと野生のアイちゃんはそれを望んではいないと思う。それにまったく知らない異世界で暮らすことの心細さは痛いほど知っている。アイちゃんにそれを強要するわけにはいかない。
……結論は既に出ていた。
「……分かりました」
「姫路よ……良いのか?」
「はい。確かにレスターさんの仰るとおりです。山羊は山羊の仲間と暮らすのが一番です。私たちが元の世界に帰りたいのと同じなんです」
「そうか……分かった。この件はお主に任せるぞい」
「はいっ」
私はアイちゃんを抱っこして、去っていくルイスさんを追った。
「あのっ! 待ってください!」
「はい? 何でしょう」
「あの……この子を一緒に連れて行ってもらえませんか?」
「その仔山羊を? でもそれは貴方が飼っていたのでは?」
「そうなんですけど……でも一緒に連れて行けない事情があるんです。どうか……お願いします」
私は込み上げてくる悲しみを堪えながら頭を下げる。そう、これはアイちゃんのため。私の
「ふむ……」
そう呟くルイスさん。何か思案に暮れているようだった。けれどしばらくして、
「分かりました。お引き受けしましょう」
ルイスさんは
「……ありがとう……ございます」
私は再び深々と頭を下げ、礼を言う。でも内心は悲しくて堪らなかった。涙が溢れてきそうで堪らなかった。
「さぁ、アイちゃん。仲間の……ところに……行きなさい」
これは自分の決めたこと。後悔はしない。私はアイちゃんを降ろし、お尻をポンと叩いて仲間の元へと向かわせた。
……胸が張り裂けそうだった。
「ンミェ~……?」
数歩歩いたアイちゃんは振り向き、不思議そうな目を私に向ける。ダメ……そんな目で見ないで……。
「立派な山羊になるんですよ。…………元気でね」
私の声は涙交じりの震えた声になってしまっていた。するとアイちゃんは私の思いを感じ取ったのか、トットットッと跳ねるように仲間の山羊の元へと歩いて行った。
「メェ~」
「ミィ、ミィ! ミェェ~!」
「メェェ~」
会話するかのように鳴き合うアイちゃんと大きな山羊。私にはアイちゃんが言葉の通じる仲間に会えて喜んでいるように見えた。
「それではお預かりします」
アイちゃんが馴染んだのを見ると、ルイスさんはそう言って軽く会釈をした。
「はい。……よろしくお願い……します」
私もまた頭を下げ、彼を見送った。ルイスさんは緑のマントを翻し、サバンナのような大地をゆっくりと歩き、去って行く。彼の後ろには1頭の山羊が大きな
途中、アイちゃんは何度かこちらを向いては元気に
「よく頑張ったな。偉いぞ」
後ろからそんな声がして、頭を撫でられた。そんなレスターさんの優しい言葉に、私の我慢はついに限界を越えてしまった。堪えていた大量の涙がぽろぽろと零れ、頬を伝ってしまう。拭っても拭っても、
「こ……これで……よ……良かったんです……」
「そうじゃな。これであの子も幸せに暮らせるじゃろう」
木下君が微笑んでそう言ってくれた。私はその優しい言葉に少し救われた気がした。
―― 私の選択は間違っていなかった ――
と。
「さぁ王都へ向かうぞい。レスター殿の時間も惜しいでな」
「はいっ……」
木下君に促され、私は町に向かって歩き始めた。
……
最後にひと目だけ……。
私は立ち止まり、彼らの去って行った方を見つめた。既にアイちゃんたちの姿は点のように小さくなっている。
(……元気でね、アイちゃん)
私は呟き、再び歩き出した。
そして王都への馬車の中。
私は思いっきり、泣いた。