浴室の方からはルミナさんと美波の楽しそうな笑い声が聞こえてくる。一体何を話しているんだろう……。
以前この家で暮らしていた時、僕はルミナさんと色々な話をした。彼女は不幸な事故で一人の息子を亡くしている。きっと今まで辛い毎日を送ってきたに違いない。そう思った僕は少しでも寂しさが紛れればと思い、積極的に彼女の話し相手になったのだ。
その時、もちろん美波への想いも話している。今にして思えばなぜあれほど無遠慮に、赤裸々に語ってしまったのか
できることなら今すぐ飛び込んで僕の恥ずかしい台詞の数々が晒されるのを阻止したい。けれどそんなことをすれば僕の命は無いだろう。今できるのは天に祈り、ルミナさんが余計なことを言わないように願うことだけだ。
とはいえ、ただ待っているだけなんて耐えられない。だが止めにも行けない。じっとしていられない僕は席を立ったり座ったり、テーブルの周りをぐるぐると回ったりした。きっと
そうして30分ほどした頃――――
「どうだった? うちの石鹸、ミナミさんのお肌に合ったかしら」
「はいっ、見た目より滑らかでとっても良かったです。旅の疲れがすっかり取れました」
「そう? それは良かったわ」
ルミナさんと美波が戻ってきた。2人とも頭に白いタオルを巻き、桃色のワンピーススタイルの寝巻に身を包んでいる。こうして見るとまるで仲の良い姉妹のようだ。だが今はそんなことはどうでもいい。問題は”どんな話をしたのか”だ。
「あ、あのぉ……」
「どうしたのヨシイ君? そんな脅えた仔犬みたいな顔をして」
「いや、その……何を話したのかな、と、思いまして……」
「洗いざらい全部よ?」
「……」
も、もうダメだぁ……。
ザザァという音がするかのように頭から血の気が引いていく。目眩いのような感覚に襲われた僕は力が抜けてしまい、ガクリと床に両手をついて項垂れた。
「ねぇアキ、話したいことがあるの」
前方から美波の声が近付いてくる。すると今度は引いた血が一気に戻ってきて、火がついたように頭が熱くなってきてしまった。
「ウチね、今すっごく嬉しいの」
項垂れたまま動けない僕に美波が優しげな声で話し掛けてくる。僕は恥ずかしくて何も言えず、顔を上げることもできなかった。
「ルミナさんから全部聞いちゃった。アキがこっちの世界に来てからもずっとウチのことを思っててくれたって。逢いたいって飛び出そうとしたって」
美波はそんな僕に構わず語り掛けてくる。僕は床に両手をついたまま目を強く瞑り、恥ずかしさに耐えた。
「ウチも離れ離れになってすっごく不安だった。もうアキに会えないのかなって思って、ずっと泣いてた。…………でもアキは……探しに来てくれた。ウチを見つけてくれた」
美波の言葉が僕の頭を更に熱くしていく。そのマグマのような熱さは頭から耳、耳から頬へと伝わり、最後には全身を激しく燃え上がらせていった。
「ありがとアキ。ウチね、アキと出会えて本当に良かったって思ってる」
「っ――!?」
彼女は屈み、四つん這いの僕の頭をそっと抱き締めてきた。言葉で表わせないくらいの驚きに全身を硬直させ、思わず息を止める僕。
「最初の頃は変なやつって思ってた。近付いちゃいけない人なんだって思ってた。でも今は……離れたくない。ずっと一緒にいたいって、思ってる。だからウチを……ウチをずっと、
美波は僕の頭をぎゅっと抱き締め、自らの胸に押し当てる。恥ずかしい。堪らなく恥ずかしい。人前でこんなことを言われ、今すぐこの場に穴を掘って入りたいくらい恥ずかしかった。どうして美波はこんな台詞を平気で言えるんだろう。僕は聞いているだけでこんなにも恥ずかしくて顔から火を吹きそうだというのに。
「ミナミさん、それくらいにしてあげて。このままじゃヨシイ君が沸騰してしまいそうよ?」
「……そうですね。ふふふ……」
「ヨシイ君もそんなに恥ずかしがることないわよ? 人を愛するって素敵なことなんだから」
うぅ……それでも恥ずかしいものは恥ずかしいんだよ……。
「アキってこういう話になるとすぐこんな風に恥ずかしがっちゃうんですよ」
「あらそう? でも私にはとっても嬉しそうな顔をして話してくれたわよ?」
「そうなんですか?」
「きっと本人の前では恥ずかしいのね」
あぁその通りさ。恥ずかしいさ。この上なくね。そりゃ僕だって美波のように素直に言えればって常々思っていたよ。でも、いざとなるとどうしてもガチガチに緊張してしまって何も言えなくなってしまうんだ。我ながら情けないよ……。
「さ~て、それじゃのろけ話はこれくらいにしてお夕食にしましょうか。ヨシイ君はお風呂に入ってらっしゃい。あ、1人で入れる? お背中流しましょうか?」
ぶっ!?
「い、いいですいいです! 1人で入れますから! 入ってきますから!!」
僕は慌てて飛び上がり、風呂場に向かって駆け出した。これ以上恥ずかしい思いをさせないでくれ……。なんだかルミナさんが姉さんに見えてきた。そうだ、きっと姉さんみたいに僕を
☆
風呂から上がると、夕食の準備ができていた。どうやらルミナさんと美波の手作りハンバーグのようだ。芳ばしい香りとデミグラスソースの香りが相まって食欲をそそる。
「あれ? ところでマルコさんはどうしたんですか?」
この時の僕は既に冷静さを取り戻していた。風呂で汗と疲れと恥ずかしさを洗い流したおかげだ。そこで気付いたのが旦那さんであるマルコさんの不在。以前は夕食の時間には帰って来ていたのに、今日は姿を見ないのだ。
「あの人はドルムバーグに行っていて今日は帰らないの。明日の昼過ぎに戻るはずよ」
「あぁ、そうなんですか」
マルコさんは鍛冶職人で、剣などの武器の修理を
「腕輪のこともあの人が戻ったら聞いてみるわ。何か知ってるかもしれないから」
「はい、お願いします」
「それじゃお食事にしましょう。今日は独りの夕食かと思っていたから嬉しいわ」
「「いただきま~す」」
僕たちは和気あいあいとお喋りをしながら食事を取る。試獣装着や美波との再会。それに王子たちの争い。ここまでの道のりを説明しながら、僕らは楽しい時を過ごした。
会話は弾み、ルミナさんも笑顔を絶やさない。それが嬉しくて、食事が終わった後も僕らは話し続けた。そうして話しているうちに調子に乗ってきてしまい、いつの間にか文月学園での色々な行事についてまでも話してしまっていた。
清涼祭。
強化合宿。
中間試験や期末試験。
そしてクラス同士で教室を奪い合う試召戦争。
恐らくルミナさんには僕らの世界のことなんて想像し辛かっただろう。なにしろ文化や生活様式がまるで違うのだから。だがそれでも彼女は困ったような顔ひとつせず、僕らの話に熱心に耳を傾けてくれていた。
「ふぁ……」
食事が終わって1時間ほど話していただろうか。隣に座っている美波が口に手を当て、大あくびをしていることに気付いた。
「あら。眠いの? ミナミさん」
「あ……すみません。ちょっと眠いかも……」
「それじゃそろそろお開きにしましょうか。ヨシイ君、ミナミさんを寝室に案内してあげて」
「前に僕が使わせてもらった部屋でいいんですか?」
「えぇそうよ」
「分かりました。美波、こっちだよ」
美波は眠そうに片手で目を擦りながら席を立つ。いつもの勝ち気な吊り目はトロンと垂れ下がり、既に半分寝ているようにも見える。うん。これはすぐに寝室に案内した方が良さそうだ。
しかしこういう表情や仕草は葉月ちゃんによく似ているな。まぁ姉妹なのだから当然か。そんなことを思いながら僕は彼女の手を引いて寝室に向かった。
「ここだよ。この部屋はね、前に僕が使わせてもらっていた部屋なんだ」
「……」
美波の返事が無い。ちゃんとついて来てるよね? 手を繋いでいてこうして温もりも感じるから、置いて来てしまったなんてことは無いはず。確認のため後ろを振り向く僕。すると、
「すぅ…………すぅ…………」
た、立ったまま寝ている……だと……。なんて器用なんだ……。
「ちょっと美波、寝るならベッドに入ってから寝てよ」
「……」
「ねぇ美波ってば!」
「……」
ゆさゆさと肩を揺らしてみても彼女は反応しない。ダメだこりゃ……。しょうがない。このままじゃ倒れて頭を打ってしまうかもしれないし。
「よっ……っと」
僕は”お姫様抱っこ”の形で美波を抱え上げた。長い髪がふわりと舞い、白い喉が晒される。もう全身の力が抜けている。完全に眠ってしまっているようだ。
そういえば美波が風邪で休んだ時もこうして抱っこしたことがあったっけ。……あの時なんだよね。僕が美波の気持ちを知ったのは。
僕は彼女をそっとベッドに寝かせてやり、毛布を掛けてやった。すやすやと静かに寝息を立てる美波。気のせいだろうか。そんな彼女の口元には、薄らと笑みが浮かんでいるような気がした。
(……おやすみ、美波……)
僕は眠る美波の耳元でそう囁き、部屋を後にした。
☆
リビングに戻ると、ルミナさんが後片づけをしていた。
「あらヨシイ君。ミナミさんの様子はどう?」
彼女は何枚ものお皿を手に持ちながら尋ねる。これは僕も手伝うべきだろう。
「すぐ眠っちゃいました」
「そうなの。余程疲れていたのね」
「そうみたいですね」
僕はテーブルに残っていたお皿を取りキッチンに運び始めた。
「あら、手伝ってくれるの?」
「はい。ご馳走になりましたので」
「そんなこと気にしなくていいのよ?」
「いやぁ性分なもので」
ルミナさんのおかげで楽しい夕食になったし。そのお礼も含めて、ね。
「そう? それじゃお言葉に甘えようかしら」
「はいっ」
僕は以前、この家で数日間を過ごしている。キッチンの配置もしっかり覚えている。だから違和感なく片付けも熟せるのだ。そしてやはり2人で食器を洗うと効率がいい。5分足らずで全てを片付け終え、僕はルミナさんと共にリビングに戻ってきた。
「ありがとうねヨシイ君」
「へへっ、どういたしまして」
テーブル席で暖かい紅茶を口にしながら僕はルミナさんと話す。
「それにしてもミナミさんと仲がいいのね。妹さんなの?」
「へ? い、妹?」
「だって”ミナミ”なんて呼び捨てにしてるじゃない?」
「あ……えっと、それは美波がそう呼べと言うからであって……妹なんかじゃないですよ?」
そもそも
……
そういえば居たよ。こんなことを平気で言いそうな
「それじゃお姉さん?」
「へっ? あ、いや、そういう意味じゃなくて……そもそも苗字が違うじゃないですか」
「苗字? 苗字って何かしら?」
「は? いや、苗字は苗字であって……ほら、僕が吉井で、美波が島田ってやつです」
「?」
ルミナさんがキョトンとしている。もしかしてこの世界じゃ苗字って言葉は使わないのかな。そういえばここの人たちって皆名前がカタカナだ。つまり英語圏の人たちなんだろうか。えぇと、苗字を英語で言うと、えーと、えーと……お、思い出せない……。
「ほ、ほら、ルミナさんだってあるでしょ? ルミナ・なんとかって後ろの名前がさ」
「あぁ、ファミリーネームのことかしら?」
「そう! それです!」
「そういうことだったのね。やっと分かったわ」
ルミナさんがポンと手を叩いて納得を示す。良かった。理解してもらえたようだ。
「じゃあヨシイ君は良家のご子息なのね? それにミナミさんも」
「はぁ?」
なぜそうなる……。
「だってお2人ともファミリーネームをお持ちなんでしょう? これを付けて良いのは王家か上級貴族だけだもの」
「へ? そうなんですか?」
「知らなかったの?」
「初めて知りました……」
確かに今まで出会ってきた人は皆苗字を名乗っていなかった気がする。ただ1人、レナード王を除いて。王様の名前はなんていったっけ。確かあの熊の魔獣と戦った谷で名乗っていたな。レナード・エルなんとか? 忘れてしまった……。
「あ、でも僕や美波は王家や貴族じゃないですよ? 僕らの世界じゃこれを苗字といって、誰もが持ってるんです」
「あら、そうなの? 変わってるのね」
「僕にしてみればこっちの世界の常識の方が驚きなんですけど……」
「それもそうね。ウフフ……。それじゃミナミさんとはご夫婦なの?」
「ブーッ!」
思わず紅茶を吹き出してしまった。
「ち、違います! 違います! だから苗字が違うって言ったじゃないですか!」
「あらそうね。私ったらうっかりしてたわ。ウフフ……」
いけない。このままではまた冷やかされてしまう。話題を変えよう。えぇと……そうだっ!
「もしルミナさんがファミリーネームを持つならどんな名前がいいですか?」
「……そうね……」
他愛のない話のつもりだった。けれどこの話をした瞬間、ルミナさんは表情を曇らせて俯いてしまった。どうしてそんなに悲しそうな目をするんだろう……?
「あの……すみません。もしかして聞いちゃいけないこと聞いちゃいましたか?」
恐る恐る尋ねてみると、彼女は笑顔を見せ、答えてくれた。
「ううん。そんなことないわよ。そうね……私は夫が決めた名前に従うと思うわ」
「そ、そっか。そうですよね。あははっ……!」
……なんだったんだろう、今の悲しげな目は。過去に名前のことで何かあったんだろうか。ちょっと気になるけど、なんとなく聞いちゃいけない気がする。
「そ、それじゃ僕もそろそろ寝ますね」
「あらそう? それじゃヨシイ君は夫のベッドを使って。今日は空いてるから」
「はい。それじゃおやすみなさい」
「おやすみなさい」
僕はリビングを後にし、寝室に向かった。
……なんか変な雰囲気になっちゃったな。でもあんな顔をしたってことはあまり詮索してほしくないってことだろうし、これ以上考えるのはやめておこう。
さぁ、明日は町に出て腕輪探しだ。僕もしっかり寝て体力を回復しておかないと。