僕は突然奇妙な生き物に襲われ、危ない所を通りすがりのおじさんに助けられた。おじさんはこの先の町で鍛冶屋を
最初に馬車と言われた時は何の冗談かと思った。しかし案内された車両は確かに
おじさんは前の座席に座り、巧みに手綱を操って馬を走らせる。荷台はガタガタと上下左右に激しく揺れ、お世辞にも乗り心地が良いとは言えなかった。でも贅沢は言えない。タダで町まで乗せてくれるというのだから。
「ところであんた名前は?」
「よ、吉井明久です」
「ヨヨシイアキヒサ? なんだか変わった名前だな」
「あ、いや、最初の”ヨ”はいりません。吉井明久です」
「フ~ン……それでも変わった名前だな」
そうだろうか? 自分では凄く一般的な名前だと思ってるんだけど……。
「呼びにくいから略してヨシイでいいか?」
「あ、はい」
もともとそれが苗字なんだけどな。
「おっと、俺も名乗ってなかったな。俺はマルコだ」
「丸子さん……ですか?」
「おう。よろしくな、ヨシイ」
「は、はい。よろしくお願いします」
変わった名前って、どっちがだよ。男なのに”丸子”だなんて、そっちの方が変わってるじゃないか。まぁいいや。人の名前にケチを付けるつもりはないさ。そんなことよりここはどこなんだろう? 見たところ山奥のようだけど、まだ馬車を使っている地域なんて日本にあるんだろうか。
「あの、マルコさん、ひとつ聞いていいですか?」
「うん? 何だ?」
「ここって日本なんですか?」
「ニッポン? 何だそりゃ?」
マルコさんは頭の上にクエスチョンマークを浮かべて首を
僕はこうしてマルコさんと普通に会話をしている。当然僕は日本語で話しているわけで、マルコさんが話している言葉も日本語だ。日本を知らないのに日本語を話せる。これがどういうことなのか、この時の僕にはさっぱり分からなかった。ただ、彼と話しているうちにここが確実に日本ではないということが分かった。
彼はここをハルニア王国と呼んだ。”王国”と言うからには王政なのだろう。日本は王政ではない。やはり外国に飛ばされてしまったのか……。でもこの国の名前、どこかで聞いたような?
「それでヨシイ、お前さんはあんな所で何をしてたんだ?」
マルコさんは
「えっと、実は僕もよく分からないんです」
「はぁ? 何だそりゃ?」
「僕、学校の教室で仲間とゲームで遊んでたんです。それで電池が切れたからコンセントに電源を繋げたらコードに足を引っ掻けてしまって、そしたら急に目の前が真っ暗になって……。気付いたらあそこに居たんです」
「う、うぅ~む……さっぱり分からん」
ありのままを説明してみたけど、やっぱり理解してもらえないようだ。そりゃそうだよね。説明してる僕だって分かってないんだから。
「まぁいい。それでお前さんはそのキョーシツとやらに帰りたいってわけだな?」
「はい、そうなんです!」
「けどなぁ、俺はその”ニッポン”って国を聞いたことがねぇんだよなぁ」
「そうですか……」
っていうか日本語で話してるじゃん。なのにどうして日本を知らないのさ。ひょっとして僕をからかっているんだろうか。
「ま、とりあえず町に行くぞ。そうすりゃ何か思い出すかもしれん」
「はい。ところでもうひとつ聞いていいですか?」
「ん? なんだ?」
「さっき襲ってきた生き物って何ですか?」
「あぁん? なんだお前、そんなことも知らねぇのか? 魔獣だよ、魔獣」
「魔獣……ですか?」
この人、本気で言ってるのかな。そんなものが実在するわけないじゃないか。ゲームや漫画では良く聞く名前だけどさ。
「おいおい、本当に知らないのか?」
「はい」
「やれやれ。本当に変わった奴だな。じゃあ教えてやる。あいつらは動物の姿をしているが動物じゃない。人間を襲うんだ」
「人間を? なんで?」
「なんでって、そんなこと俺が知るかよ。知りたきゃ魔獣に聞きな」
「えぇっ!? あれって言葉が通じるんですか!?」
「いんや」
「……」
やっぱりからかわれている気がする。そうか、どこかに隠しカメラがあってこっそり撮ってるんだな? きっと馬車なんて物を使ってるのもドッキリのネタなんだ。そうやって僕の反応をバカにするつもりなんだ。
「とにかくこれに懲りたら1人で外に出たりするんじゃねぇぞ。……って、何してんだ?」
「いや、ちょっと隠しカメラを探して……」
「カメラ? 何だそりゃ? 荷台には
「またまたそんなことを言って、僕を騙そうって言うんでしょ?」
「なんか変な奴を拾っちまったなぁ。っと、見えてきたぜ。見ろ、あれが俺の住む町、ラドンだ」
「ほぇ?」
言われる通り馬車の前方に目を向けると、辺りが次第に明るくなっていくのが見えた。あれは町の灯か? なんだか不思議な光だ。電球色のような橙色の光。それでいてうっすらと緑がかった色。それと……気のせいだろうか。町の上空にとてつもなく大きくて透明な膜が、まるで笠のように覆い被さっているようにも見える。
そうして見ているうちに町はどんどん近付いてきて、今度は石垣でできた大きな壁が見えてきた。馬車は壁に向かってガタゴトと音を立てて進む。
ずいぶん高い壁だな……。3階分くらいの高さがありそうだ。
道は真っ直ぐ壁に向かって伸び、その先には扉が付いているようだった。馬車が近付くと扉は自然と開き、馬車はそこへ吸い込まれるように入っていく。町に到着だ。
☆
「どうだ、何か思い出せそうか?」
馬車を降りた僕にマルコさんが問い掛ける。その声は聞こえていた。けれど僕は目の前の光景に驚愕し、ただ呆然と立ち尽くしていた。
土が剥き出しの道。
茶褐色のレンガや白い石で作られた家。
カッポカッポと蹄の音を響かせて行き交う馬車。
この光景、見たことがある。それも学校の教室で。そう、あれは世界史の授業中だった。教科書に載っていたあの挿絵。あれは確か中世ヨーロッパの町を描いたものだった。
なんてことだ……僕は時間を越えて……タイムスリップしてしまったというのか? アニメや漫画じゃあるまいし、そんなことあるわけが……。いやでもこの町並みはどう見ても……。
「おいヨシイ!」
ハッ!
「あ……な、何でしょう?」
「どうしたボーっとしちまって。何か思い出せたか?」
思い出したというか絶望したというか……。こんな状況、僕はどうしたらいいんだろう。せっかく町に辿り着いたのに、これじゃどうにもならないじゃないか……。
「……」
途方に暮れた僕は何も言えず、ただ黙って俯くことしかできなかった。
「やれやれ……しょうがねぇ。ヨシイ、今夜は俺の家に泊まって行け」
「え? でも……」
「部屋は
確かにお金は持っていない。お金どころか何も無い。あるのは体ひとつだけだ。財布は教室の鞄の中だし、携帯電話だって無くしてしまった。それにたとえ財布があったとしても、こんな時代のこの国のお金なんて持っているわけがない。今の僕にできることは何も無い。マルコさんの言う通りにするしかないだろう。
「すみません……。お世話になります」
「いいってことよ。乗り掛かった船だしな」
こっちだと言って歩き始めるマルコさん。僕は彼について歩き、見慣れぬ町の中を進む。道は幅10メートルほどの大きな道だった。だが通行人は無いに等しく、数人が足早に通り抜けていくのみ。もともと人の少ない町なんだろうか? それとも日が暮れて皆家に帰ったのだろうか。
既に日は落ち、見上げれば黒い空が視界に広がる。だが道は真っ暗というわけでもなかった。道の両脇には街灯のような柱が所々に立ち、道を明るく照らしている。そこで輝くのは電灯ではなく、ゆらゆらと炎の揺れる
「あぁそうだ言い忘れた。家には俺以外にもう1人いるんだが、遠慮しなくていいからな」
もう1人? マルコさんの家にもう1人……。あ、そうか。
「奥さんですか?」
「へへっ、ま、そういうこった。いやぁこれがまた俺には出来過ぎた嫁さんでな。この前も俺が忘れ物をしちまった時にも――――」
何かのスイッチが入ったのか、マルコさんは奥さんの話をしながら楽しげに歩く。正直言って知らない人のノロケ話はあまり面白くない。僕は軽く相槌を打ちながら聞き流し、彼について歩いた。ただその時に気付いた。鉄人並の高い身長。茶色い髪に高い鼻。それに青い瞳。彼の顔立ちはどう見ても日本人ではなかった。
信じたくは無かったけど、やっぱりここは日本じゃないんだな……。どうしてこんなことになっちゃったんだろう。美波にはもう……会えないのかな……。
「着いたぜ。ここだ」
そう言ってマルコさんが指差したのはレンガ造りのがっしりとした家。2階は無いようだが、
「さ、遠慮なく入ってくれ」
「お邪魔します」
僕はマルコさんの後について家に入る。見ず知らずの人の家に入るのって緊張するな……。
「お帰りなさい、あなた」
家に入ると1人の女性が出迎えてくれた。茶色い髪を腰まで延ばしたストレートヘアに青い瞳。長いロングスカートに包んだ細い身体と控えめな胸部は美波によく似ていた。
この人がマルコさんの奥さんかな? 綺麗な人だなぁ……。
「遅かったのね。あら? その子は?」
「ん? あぁ、途中で拾ったんだ」
「まぁ、拾っただなんて犬や猫じゃないんだから。あなた、お名前は?」
にっこりと笑顔を見せながら女性が尋ねる。ふんわりとした柔らかい物腰はどこか姫路さんを思わせる。
「えっと、吉井明久といいます」
「ヨシイアキヒサ? ずいぶん長いお名前なのね」
「そうですか? むしろ短い方じゃないかと思うんですけど……」
「ちょっと短くしてヨシイ君でいいかしら?」
「あ、はい。それでいいです」
「よろしくねヨシイ君。私はルミナよ」
「こちらこそよろしくお願いします」
優しそうな人だな……。美人だし、マルコさんがノロケ話を聞かせたがるのも分かる気がする。
「ヨシイ、お前さん酒は飲めるか?」
「さ、酒ですか!? 僕、未成年ですよ!?」
「あぁ? 未成年?」
あ……そうか、僕の時代の常識は通用しないのか。
「えっと、飲めないです」
未成年の定義を説明するより、こう言った方が理解してくれるだろう。
「そうか。ルミナ、すまんが暖かいミルクを出してやってくれ。俺は受注品を工房に置いてくる」
「はい、すぐ暖めますね。ヨシイ君、そこの席で待っててね」
僕はテーブルに案内され、言われた通り席に着く。それを見届けるとルミナさんは静かにリビングを出て行き、マルコさんは沢山の剣を背負って玄関を出て行った。テーブルの木目模様をぼんやりと見つめながら、僕はルミナさんを待つ。
「……」
僕はこの後どうするべきなんだろう。いや、やるべきことは決まっている。もちろん元の時代に――美波の元に帰りたい。でも帰るにはどうしたらいいんだろう。
ここが日本以外の別の国であり、しかも時代さえも違うことは間違いない。ドッキリでないことも確実だ。けれどここに飛ばされてしまった原因が分からない今、帰る術を知るわけも無い。一体どうすればいいんだろう……。
「お待たせ」
思案に暮れているとルミナさんが戻ってきた。彼女は湯気の上がっているカップを乗せたお盆を持ち、こちらへ歩いてくる。背筋をスッと伸ばし、静かに歩くルミナさん。その姿はどこか気品のようなものを感じさせる。
「はい、どうぞ召し上がれ」
「……ありがとうございます」
テーブルに置かれたカップを手に取り、口を付ける。そして少量を口に含んでコクリと飲み込む。
……美味しい。
これほどホットミルクを美味しく感じたことはなかった。僕はカップをひっくり返すような勢いでミルクを口に流し込み、一気に飲み干す。
「ふぅ……」
程よく暖かいミルクが乾いた喉に染み渡る。それは不安で押し潰されそうな僕の心に落ち着きを取り戻させてくれた。
「ねぇヨシイ君、あなたどこから来たの?」
向かいの席に座ったルミナさんが僕に問う。その質問はマルコさんからも受けた。けれど僕の回答は彼に理解してもらえなかった。
マルコさんはこの国を”ハルニア王国”と言い、この町を”ラドン”と呼んだ。だが僕の世界史知識の中にそんな国や町の名は無い。確かに世界のすべての国を記憶しているわけじゃないけど……あれ? 待てよ? ハルニア王国? ラドン?
そうだ……思い出した……!
この世界に来る直前にやっていたあのゲーム。あの時キャラクターを作って最初に降り立った町がラドン。そしてその町のある国がハルニア王国。
そうか……そうだったのか! ここはゲームの世界なんだ! 僕はゲームの世界に迷い込んでしまったんだ!
「ヨシイ君? どうしたの?」
「へ?」
気付いたらルミナさんが心配そうな顔ををして僕の顔を覗き込んでいた。考え込んでいて呼び掛けに気付いていなかったようだ。
「あ、と、すみません。考え事をしていまして……」
「大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
ようやく合点が行った。ここは僕の住む世界とは別次元の世界。つまり”異世界”なんだ! だから中世みたいな町並みだったり、日本を知らないのに日本語で話したりしていたんだ!
……じゃあどうやってここから出ればいいんだ?
この世界のことが分かっても帰る方法が分からない。それによく考えると町の様子も全然違う。ゲーム内の町にこんな外壁は無かったし、マルコさんやルミナさんもいなかった。
加えてあの魔獣という存在。あれは何なんだ? ゲーム内のモンスターはすべて実在しない架空の生物だった。でもさっき襲ってきた魔獣はどう見ても”リス”の姿をしていた。人類にとっての脅威ということに変わりは無いが、少し違うような気がする。ということは単純にゲームの世界ではないのか……?
「どうだヨシイ、少しは落ち着いたか?」
考え込んでいたら後ろからマルコさんの声が聞こえてきた。工房から戻ってきたようだ。
「あ、あなた。お帰りなさい。ヨシイ君ったら無口なのね。何も話してくれないのよ?」
「うん? そうか? 馬車に乗せていた時は結構喋っていたぞ?」
「あら。じゃあ私が嫌われちゃったのかしら」
なんだって!? まずい、誤解されている!
「あぁぁごごごめんなさいっ! ちょっと色々と分かってきたことがあって、考えていたんです! 決して嫌いとかそんなんじゃないですから!」
「あらそう? それなら良かったわ。うふふ……」
ふぅ、とりあえず悪い印象は防げたかな。
「ヨシイ、分かってきたことって何だ? 帰り道でも分かったのか?」
「あ、いえ。それはまだ分からないんですけど……」
「じゃあ何が分かったってんだ?」
「えっと……」
ここがゲームの世界で、僕が外の世界の人間だなんて言って理解してもらえるはずがない。なんて説明すればいいんだろう……。
「……」
僕は返答に困り、再び黙り込んでしまった。
「さっきからこんな調子なのよ? 何か言いたそうなんだけど、すぐ黙っちゃうの」
「ふむ……。ヨシイ、今日はもう寝ておけ。混乱して頭が追いついてないんだろう」
「まぁ、そういうつもりで連れてきたのね? それならそうと言ってくださればいいのに」
「はっはっ、すまんすまん。これから犬猫を拾う時は気を付けるとしよう」
「もう、あなたったら。ヨシイ君は犬猫じゃありませんよ。ふふふ……」
2人は僕の答えを聞かずに楽しそうに話を進める。この夫婦、仲が良いんだな。僕も将来、美波とこんな感じになれるのかな……。
「それじゃルミナ、ヨシイを
「はい。ヨシイ君、こっちよ」
将来を考えるならまずは元の世界に帰らなくちゃな。でも今日は彼らの言う通り寝た方が良さそうだ。短時間で色々なことが起こり過ぎて僕の頭はオーバーヒート気味だし。
「すみません。お世話になります」
☆
「この部屋を使ってね」
僕はリビングの隣の8畳ほどの広さの部屋に案内された。部屋にはベッドや机が置いてあり、それから……木でできた……積み木? まるで子供部屋じゃないか。ひょっとしてこの家には子供がいるのか?
「あの、この部屋ってもしかして……?」
「息子が使っていた部屋よ。でも今はいないから遠慮なく使ってね」
ルミナさんはそう言って笑顔を作る。けれどその表情は花が
「あの……どうかしましたか?」
「ごめんなさいね。なんでもないわ」
目尻を指で拭いながらそんな台詞を言われて「そうですか」と引き下がれるわけがない。これだけ世話になっているのだから、何か悩んでいることがあるのなら少しでも力になりたい。
「あの、僕で良かったら相談に……」
しかし現実は厳しかった。ルミナさんはこの部屋の元の持ち主の話をしてくれた。この部屋の持ち主は、マルコさんとルミナさんの間に生まれた1人の息子だった。
2年前、その子は仕事で別の町に向かったマルコさんを追い、1人で町の外に出てしまったらしい。そして僕と同じように魔獣に襲われた。ただ今日の僕と違うのは、助けが来なかったことで……その子は……。
「こんな話をしてごめんなさい。ヨシイ君は気にしないでいいのよ」
「はい……」
僕にできることは何も無い……。
余計なことを聞くんじゃなかった。ルミナさんの辛そうな笑顔を見た時、僕は心の底から後悔した。
「それじゃゆっくり休んでね。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
……
僕はベッドに入り、考え耽ける。
魔獣……。
下手をすれば僕も命を落としていたかもしれない。奴らに対抗するには、さっきのマルコさんのように武器を持って戦えばいいのだろう。でもさっき馬車の中に転がっていた剣を持とうとしたら重くて持ち上げるのがやっとだった。マルコさんは軽々と振り回していたが僕には無理だ。もし魔獣に出会ってしまったら逃げるしかない。というか、そもそも出会ってしまう前に元の世界に帰りたい。
ゲームと何かしら関係があるのなら、この世界に飛ばされた引き金は見当が付く。恐らくあのコンセントに繋いだ時のビリビリだ。じゃあまたビリビリっとなれば帰れるのか? でもこの家やさっきの町の感じでは電気なんてものは無さそうだ。他に何か電気に似たものは……。何か……。
………………
…………
……
考えても何も思いつかなかった。そうしているうちに睡魔に襲われ、僕は
次に目を覚ました時、元の世界の自分のベッドの上であってほしいと願いつつ。