『ぅ……ん……?』
不意に何かの気配を感じ、僕は目を覚ました。なんだろう。何かが……ベッドの上に……?
『――――キ……。――て……アキ――――』
この声は……美波? 何かあったのか? 気になって目を開こうとしたものの、なぜか
『……起きてアキ……。ウチよ……美波よ……』
動けない僕の耳に美波の声が入ってくる。寝ている僕を起こそうとしているようだ。このシチュエーションには覚えがある。あれは確か夏休み前の強化合宿の時。あの時も寝ている僕のところに美波がやってきて……まずい! このまま起きなかったらバックブリーカーだ!
『うぐぐ……!』
僕は”これでもか”と顔面に力を込め、やっとのことで目を開けた。ぼんやりとした視界が次第にクリアになっていく。
『……やっと起きたのね……』
すると目の前には透け透けのネグリジェを着た美波がいて、トロンとした目をして僕を見下ろしていた。
『みっ! 美波!? どどどどうしたのその格好!?』
驚き慌てふためく僕に彼女は落ち着いた様子で答えた。
『……何言ってるの? アキが買ってくれたんじゃない……』
『え……僕が?』
そんなバカな……あの服は確か一昨日の夜に立ち寄ったレディースウェアの店でおじさんが勧めてきたもの。でも買ったのは萌黄色の寝巻が2着にリボンが1つで、あんな物は買わなかったはず。それなのにどうして美波があんな物を着ているんだ? いや待てよ? もしかして僕が無意識に買ってしまったのか? ……いやいや、そんなはずはない。あの時、確かに断った。会計時の値段を思い出しても間違って買ったりしていないはずだ。
『……ねぇ……アキ……?』
思いも寄らぬ事態に大混乱していると、美波はゆっくりと顔を近付け、呼び掛けてきた。彼女の首から下は薄いピンク色のネグリジェ。胸元はうっすらと緑色のブラが透けて見えているような気がした。今まで見たことのない危険な色気を感じさせる姿。その
『な、何?』
それでもなんとか平常心を保ち、返事をする僕。
『……』
だが美波は何も言わなかった。何も言わず、ベッドの上で動けない僕に覆い被さるように迫ってきた。こっ……! これってもしかして夜這いってやつ!?
『わぁーっ! 待って待って! ダメだよ美波! 早まっちゃダメだ!!』
抵抗しようにも身体が鉛のように重く、まったく動かない。だが声を出すことはできるようだった。そこで僕は懸命に呼び掛け、美波を止めようとした。
『とにかく待ってよ。落ち着いて話をしよう? ね、美波?』
すると彼女はピタリと動きを止めた。話をする気になってくれたのかな? よかった……。とにかく今の美波は様子がおかしい。まずは意図を確認しよう。
そう考えていると、目の前から彼女の姿がスゥッと消え、離れた場所に再び現れた。その姿は先程のネグリジェではなく、文月学園の制服であった。美波は遠くから悲しげな眼差しを向けてくる。とても悲しそうな目……今にも涙が溢れそうな目だった。
『……どうして……ウチを……避けるの……?』
暗闇の中に浮かび上がっている美波が呟くように尋ねる。この時、僕は既に今自分が置かれている状況が異常であることに気付いていた。すぐに状況を打破すれば良かったのだが、それができなかった。僕の意識が彼女を見ることに集中してしまっていたから。
『ぼ、僕が避ける? 美波を?』
美波は瞳を潤ませ、静かに頷く。そんなバカな。僕が美波を避けるなんてこと、あるわけがない。僕にとって美波は世界で一番大切な……かけがえの無い存在なのだから。きっと彼女は何か思い違いをしているのだ。そうだ。きっとそうに違いない。
『そんなことないよ? 僕が美波を避けたりなんかするはずが――』
『嘘! どうしてそんな嘘をつくの!』
先程までの物静かな雰囲気とは打って変わり、突然大声を張り上げる美波。彼女は大きな目を吊り上げ、遠くから僕を睨みつける。未だ指先ひとつ動かせない僕はただ驚いてその様子を見ることしかできなかった。
『そ、そんな……僕は嘘なんか……』
ショックだった。色々と至らない部分は多かったと思う。けれど今まで精一杯、美波のためを思って行動してきたつもりだった。それがすべて否定されたような気がして、胸が押し潰されそうな感覚に襲われてしまった。
『どうしたんだよ美波……。なんか変だよ?』
美波がこんな行動に出たのには何か理由があるに違いない。そう思った僕はとにかく冷静になるよう、自分に言い聞かせた。
『――変なのはアキの方よ。ウチはこんなに思ってるのにどうして気付いてくれないの?』
『えっ……? 気付くって……な、何を?』
『――ウチのことを大切にしてくれてるのは分かる。手だって繋いでくれる。でもどうしてそれ以上のことをしたがらないの?』
『そ、それ以上?』
『――ウチはもっとアキを感じたい。もっと触れ合いたいの。それなのにどうして逃げるの?』
『う……そ、それは……』
僕は答えられなかった。事実だったから。
美波は今までも後ろから抱きついてきたり、頬を寄せてきたりすることが何度もあった。でも僕はその度にそれとなく逃げてきた。他人に見られると恥ずかしいし、清水さんやFFF団の目も気になるから。でも一番の理由は、僕自身が1人の男として成長できていないからだった。それが申し訳なくて、どうしても素直に受け入れられなかったのだ。
『――ねぇ、どうして? ウチが触れるのがそんなに嫌? ウチのことが嫌いなの?』
!
『そんなことはない! 断じて!』
思わず僕は声を荒げた。しかし美波は動じる様子もなく、目に涙を浮かべて訴え掛ける。
『――やっとアキの恋人になれたと思ったのに……本当はウチのことが嫌いだったんでしょ?』
『そんな……』
どうしてそんな悲しいことを言うんだ……。二度と美波の気持ちを裏切らないって誓ったのに……。どうして信じてくれないんだ……。
『――アキのバカ……もうアキのことを信じられない』
美波がこちらに背を向け、スゥッと闇の中へ遠ざかり、消えていく。
『ま、待ってよ美波! 僕の話を聞いてよ!』
慌てて手を伸ばそうと腕に力を入れるが、やはり動かない。まるで金縛りのようだった。
『――知らない。もうアキの声なんて聞きたくない』
美波の姿が視界から完全に消え、真っ暗闇の中で彼女の声が響く。
『待って! 待ってよ美波! 美波ぃぃーーっ!!』
「みな――――!!」
目が覚めた。
「はぁっ……はぁっ……はぁっ……」
そこはベッドの上だった。昨晩、猛烈な睡魔に襲われ倒れ込むように入ったベッドの上。そこで僕は全身にじっとりと汗をかいていた。
ゆ……夢……? そうか、僕は夢を見ていたのか……。夢でよかった……。それにしてもなんて夢だ。美波が怒って消えてしまうなんて……どうしてこんな悲しい夢を見たんだろう……。
上半身を起こし、こめかみをトントンと叩いてみる。……頭が重い。それに胸の奥にモヤモヤした感覚が残っている。
――トントントン
『アキ? どうしたの? 何かあったの? 開けるわよ?』
垂れ流れる汗を袖で拭っていると、扉の向こうから美波の声が聞こえてきた。直後、僕の返事を待つことなく扉が開き、魔石灯の光と共に彼女が入ってきた。
「なんか大きな声が聞こえたけど……どうしたの?」
寝巻姿の美波がドアノブに片手を添えたまま尋ねる。逆光で表情はよく見えない。でも声の感じからして心配して駆け付けてくれたのだと思う。
「だ……大丈夫。なんでもないよ」
「ホントに? なんかウチを呼んでた気がするけど……」
しまった。うなされて美波を呼んでしまっていたのか……。幼稚園児じゃあるまいし、悪夢にうなされたなんて格好悪くて言えやしない。
「い、いやぁ! それがさ! ちょっと寝相が悪かったみたいでベッドから落っこちちゃったんだよね! まったく、何やってるんだろうね僕! あはははっ!」
なんとか誤魔化そうと色々考えた末、僕は笑って誤魔化す作戦に出た。
「そう? それならいいけど……」
美波はどこか釈然としない様子で、じっとこちらを見つめている。やはり白々しかっただろうか。そうは言っても他に誤魔化す手段なんて思いつかなかったし……。
「さ、さぁもう寝よう。美波も戻って寝てよ。明日も体力を使いそうだし」
僕はベッドに寝転がり、毛布を頭から被って寝る体勢を見せた。今もまだ胸の辺りにモヤモヤした黒い感覚が残っている。こんな状態ではなかなか眠れそうにない。でも今はこれ以上美波と話せそうになかった。だから無理やりにでも寝ようとしたのだ。
「うん……。じゃあ、おやすみ」
美波がそう言ってパタンと扉を閉める。すると部屋の中は再び暗闇に包まれた。
「……くそっ……」
シンと静まり返った暗い部屋。耳が痛くなるくらいに
☆
いつの間にか夜が明け、僕は仕方なく起きた。
「……はぁ」
ベッドから降りた僕は大きく溜め息をつく。結局あれから一睡もできなかった。寝ようとしても夢の中での美波の言葉が頭の中をぐるぐると駆け巡り、眠りを妨げた。でも今日は西の地区で聞き込みを行なうことを決めている。とにかく忘れよう。
キッチンに出てみたが、美波はいなかった。まぁ当然かもしれない。まだ夜が明けたばかりなのだから。ひとまず僕は顔を洗い、眠気を払うことにした。洗面所に入り、敢えてお湯を使わず水のみで顔を洗う。かなり冷たかったが、おかげで目は覚めたようだ。さて、次にやるべきことは朝食の準備だ。
「アキ? もう起きたの?」
しばらくすると美波がキッチンに入ってきた。
「っ……! う、うん。…………おはよう」
彼女の姿を目にした瞬間、ズキッと胸が痛んだ。気付かれないように大きく一度深呼吸をしてから挨拶をしたが、目を合わせることはできなかった。
「おはよ。今日は早いのね」
美波が自然に話し掛けてくる。彼女の声を聞くと頭が真っ白になってきてしまう。胸が苦しくなってきてしまう。いや、あれは美波が言ったわけではない。あれは夢なんだ。夢と現実を混同してはいけない。そう自分に言い聞かせ、僕はなんとか心に平静を呼び戻す。
「昨日は美波に朝食を作ってもらったからね。今日は僕が作ろうと思ってさ」
そうだ。これでいい。僕は間違いなく彼女を大切にしている。自分に自信を持つんだ。
「そんなの気にしなくていいのに。なんなら毎日ウチが作ってあげてもいいわよ?」
「いやぁ、そうはいかないよ。あ、それはまだ塩振ってないよ」
「オッケー。それじゃこっちはウチに任せて」
「う、うん」
だがこうして話している最中も言い知れぬ不安が胸の奥から湧き上がってくる。一体僕はどうしてしまったんだろう。夢のことなんか気にしても仕方がない。分かっているはずなのに……。
☆
軽めの朝食を済ませ、僕たちは予定通り西側地区に向かった。太陽の光がやけに目に眩しい。眠気のせいだろうか。日光を浴びると頭がクラクラする。
「大丈夫? アキ、なんだか顔色が悪いわよ?」
「っ――!?」
不意に右手に暖かいものが触れ、僕は咄嗟に腕を引っ込めた。
「……アキ?」
触れたのは美波の手だった。いつものように手を繋ごうと彼女が僕の手に触れたのだ。ダメだ……どうしても意識してしまう。こんな態度を取ったら僕が悩んでいることがバレてしまう。とにかく平常心だ!
「顔色? 別にいつもと変わりないよ? そんなことより行こうよ」
いつも通りに美波と手を繋ぎ、僕は歩き出した。
……
いつまでもモヤモヤした気持ちが頭の中を支配している。今までも夢を見ることはあったけど、こんなにも後を引くことなんて無かった。どうしてこんなに気にしてしまうんだろう……。