どれくらいの時間気を失っていただろう。1時間? 2時間? いや、もっとだろうか。風にざわめく草木の音がやけに騒々しい。時計の目覚ましをうるさく感じるのは毎朝のことだが、こういった騒音は感じることはあまりない。違和感を覚えた僕は目を覚ました。
「………………は?」
目を開けてすぐに我が目を疑った。
見渡す限りの大平原。
「へ? 何これ? どういうこと?」
まったく状況が飲み込めず、とりあえず右を見てみる。視界に入ってくるのは緑の草原。
「……は?」
自分の目を信じられず、今度は左を見てみる。けれどやはり視界に入ってくるのは腰丈ほどの草が生い茂る草原だけだった。所々に木は生えているが、建物も無ければ人の姿も無い。遥か遠くに見える緑の山の上では太陽が今まさに沈もうとしている。
どうして僕はこんな所で寝ているんだろう。そもそもいつの間に外に出たんだろう。Fクラスの教室でゲームをしていたはずなのに……。そうか、これは夢なんだ。僕は変な夢を見ているんだ。こんな夢を見ている場合ではない! 美波が待ってるんだから早く夢から覚めてレベルを上げなくちゃ!
バシッ! と両手で思いっきり自らの頬を叩き、目を覚まさせる。
…………痛い。
痛覚まであるとは、なんてリアルな夢なんだ。だがこんなことで負けるわけにはいかない! なんとしても目を覚まさせてやる!
って……あれ? 夢じゃない?
冷静になって再び周囲に目を配る。先程と変わらず緑色の草が生い茂る平原。春風のような心地よい風が頬を撫でるように吹き抜ける。その風に
僕はおもむろに手を伸ばし、足元に生える草の葉に触れてみた。ガサゴソとした草の手触り。幻覚ではない。でも見たことの無い植物だ。……間違い無い。これは夢ではない。なぜか分からないけど、どこか人里離れた大平原に放り出されてしまったんだ。
まぁいい。とにかく帰らなくちゃ。きっと道に出ればここがどこなのか分かるだろう。道があればどこかの町に通じているはず。そこの交番で帰り道を聞いてみよう。この時の僕はそんな風に楽観的に考えていた。
――この後、自分がどんな災厄に見舞われるかも知らずに。
草を踏み鳴らしながら、とりあえず太陽の方に向かって僕は歩き出す。
それにしてもここは一体どこなんだろう。どうして僕だけこんなところに来てしまったんだろう。今頃皆は僕がいなくなったことで大騒ぎしているのだろうか。それともトイレに行った、あるいは先に帰ったとでも思われているのだろうか。
太陽は既に山の陰に入り込んでいる。もうじきこの辺りも暗闇に包まれるだろう。道が見つからずに日が暮れてしまったらどうしよう……。こんな所では食べるものも無い。かと言って、そこら辺に生えている得体の知れない草を口に入れるわけにもいかない。やはり望ましいのはどこかの町へ辿り着くことだ。とにかく今は進むしかない。
そんなことを考えながら僕は歩き続ける。ところが行けども行けども道など見当たらず、似たような感じの植物がびっしりと生えるのみ。30分以上も変わらない景色が続くと、さすがに心細くなってきて焦りを感じはじめた。
マズい……もう日が暮れる。このままじゃここで野宿だ。そうだ! こんな時のための携帯電話じゃないか! なんで思いつかなかったんだろう。よし、早速美波に電話を……! と上着のポケットに手を突っ込んでみるが、
「あ、あれ?」
ポケットには何も入っていなかった。おかしいな。いつもここに入れてるのに。もしかして落としちゃった!?
慌てて周りを見回す。僕の携帯はグレーに近い青色だ。落ちていればすぐに分かるはず。しかし歩いて来た方向をじっと見つめても、そのような色の物は見当たらなかった。もしかして目が覚めた時の所だろうか。もうだいぶ遠くまで歩いて来てしまったけど……。
ここで僕は選択を迫られることになった。選択肢は2つ。
1つは引き返して携帯電話を探しに戻ること。
もう1つはこのまま先に進んで道を探すこと。
この日の沈み方からすると、さっきの場所に戻る頃には真っ暗になっているだろう。そうなれば足元も見えなくなり、崖に気付かず踏み外して――なんてこともあり得る。つまり必然的に野宿せざるを得ない状況に陥る。ではこのまま進むか? だが進んでも暗くなる前に道に出られるという保証は無い。どうする、吉井明久……?
……
たとえ携帯を拾えたとしても現在位置が分からないから助けを呼ぶこともできない。そもそも周囲の様子からして電波が届いているかも怪しい。よし、選択肢は決まった。今は先に進むべきだ。
意を決し、僕は再び草原を歩きはじめた。日が沈んだせいで周囲はみるみる暗くなっていく。空に星などは見えず、黒い空間が広がっている。……どこか違和感を感じる。けれどこの時の僕は何がおかしいのか気付いていなかった。とにかく道を探すことで頭が一杯だったのだ。
一心不乱に道を探す僕。するとしばらくして植物の合間に茶色いラインがある場所を見つけた。やった! きっとあそこに道があるに違いない!
駆け寄ってみると、それは確かに道だった。ただし舗装されておらず、まるで”あぜ道”のように土が剥き出しの道であった。よく見ると道には車が通った跡のような2本の溝がずっと続いている。だが車にしてはやけに線が細い。それに2本の溝の間にはU字の窪みがいくつもある。これは……馬の
何にしてもここを車両が通ったのは間違い無さそうだ。それならこの道を辿って行けばどこかの町に出るはず。そこで助けを求めることにしよう。
僕は道に沿って歩き始めた。
☆
事態は思っていた以上に深刻であった。どんなに歩いても同じ風景が続くのみで人どころか動物すら見かけない。一体どれだけ歩けばいいんだろう……。時計が無いから正確な時間は分からないけど、かれこれ1時間は歩いていると思う。
……ちょっと休憩しよう。
疲れ果てた僕は、道を少し外れた所に生えている木の
木の幹に寄りかかり、ふぅ、と一息つく。辺りは既に真っ暗になっている。ふと空を見上げると頭上では大きな丸い月が神秘的な光を放っていた。どうやらこの光のおかげで完全な暗闇にはなっていないようだ。
……
あれからだいぶ歩いたけど、まったく車が通らないな。道が舗装されていないところを見ると、かなりの田舎という感じもする。そうなると車が通る可能性も低いか。幸いなことに寒くないし、今夜はここで野宿するしかないかな……。
ん? ちょっと待てよ? 確か今は1月だったはず。1月といえば冬真っ盛りで、吐く息が白くなるくらい気温も低いはず。今朝だってコートを買おうかと考えたくらいに寒かった。それなのにここは暑くもなく寒くもなく、まるで春のような陽気だ。もしかしてここって日本じゃなくて外国――――っ!?
その時、妙な気配を感じてドキリとした。
気付けば周囲には赤く光るものが多数浮かび上がり、暗闇の中で不気味に揺らめいていた。
何だろう? ホタル? ぐるりと辺りを見回すと、その赤い光は円を描くように僕を包囲していた。光はチラリチラリと瞬くように見え隠れし、にじり寄るように徐々に近付いてくる。おかしい。ホタルにしては動きが直線的だ。
《キ……》
《キキッ……》
暗闇の中で奇妙な声がする。ホタルじゃない。獣だ! しかも囲まれている!?
それが分かった時、僕は背筋が凍り付くような感覚に襲われた。野生動物――ハイエナのような肉食動物か!? 逃げなければ食われてしまう! しかし恐怖で体中の筋肉が萎縮してしまい、思うように動けない……!
「うわ……わ……わ……」
動けず固まっているうちに赤い光は次第に包囲を狭め、姿が視認できるほど近くに寄って来た。
ふさふさした毛並み。
背中に乗せた大きな尻尾。
つぶらな瞳に、ぴょこんと立った2つの耳。
長く突き出た鼻の左右には数本の毛がピンと伸びている。
それは僕の知っている”リス”と呼ばれる動物に酷似していた。しかし決定的に違う部分がある。リスは小動物に分類され、通常は手の平に乗るほどに小さい動物だ。ところが目の前の動物たちはその通常サイズを大きく超えるのだ。
僕の座高は1メートル弱。座っている僕と目線が合うということは、奴らは約1メートルもの大きさがあるということになる。これだけ大きなリスは見たことがない。いや、これほど大きいともはやリスとは呼べない。”リスのようなもの”だ。それにこの奇妙な生き物たちは妙に殺気立っている。
リスは主に木の実などを食料としていて、肉などは食べないはず。だから人を襲うなんてことはしないはずだ。大丈夫。きっと僕が住み処に侵入してしまったから警戒しているだけさ。そうに決まってる。
……
と、ポジティブに考えようと努力したものの、見るからに異様な姿をした動物を前に僕は身体を震わせてしまう。
い、嫌な予感がする……。
堪え切れなくなった僕はそ~っと立ち上がり、刺激しないように逃げ出そうと試みる。だが時既に遅し。周囲は360度、完全にこの奇妙な集団に包囲されていた。その数10……いや、20匹。
「ひ……!」
異様な光景に恐怖し、思わず声をあげる僕。すると奴らはそれを合図にするかのように、一斉に飛び掛かってきた。
《キィィーーッ!!》
「う、うわぁぁーーっ!!」
叫びながら目を強く瞑る。もうダメだ。この変な生物に食われてしまうんだ……。そう覚悟を決めた瞬間、
《ギュゥッ……!》
その生き物が突然、潰れたような声を上げた。
……?
恐る恐る目を開けると、足元には先程の動物のうち1匹が横たわっていた。わけが分からず、呆然とそれを見つめる。するとそれは急に煙のような気体を吹き出し、音もなく消滅してしまった。一体何が起こって――――
「おいあんた、大丈夫か?」
あまりに不可解な出来事に混乱しはじめている僕に誰かが声を掛ける。声のする方を見ると、あごヒゲをたくわえた体格のいい男がこちらをじっと見下ろしていた。
「なんだ? あんた武器を持ってないのか?」
と男が話すうちに、謎の生物がその男に襲い掛かる。だが男は片手に持った銀色に輝く棒のような物で、飛び掛かるそれらをあっという間に斬り捨ててしまった。斬られた動物たちは次々に倒れ、先程と同じように煙となって消えていく。
何だコレ……何が起きてるんだ……?
「あんたこんな所で何をしてるんだ? とにかくここは危ねぇから馬車に乗んな」
「ふぇ?」
「笛? 笛がどうかしたか?」
「あ……いや、笛じゃなくて……」
「まぁいい。とにかく早く乗んな。また襲われてぇのか?」
何だかよく分からないけど、とにかくこの人のおかげで助かったみたいだ。でも良かった。やっと人に会えた。これでやっと帰れそうだ。それに頼む前に車に乗せ――――
……………………馬車?