魔人ラーバは不気味な青い顔で牙をむき出し、フーッフーッと荒く息を吐く。今にも襲いかかってきそうな雰囲気だった。一瞬の判断の誤りが命取りになる。私は剣を持つ手にぐっと力を込め、いつでも動けるように身構えた。
「……決意は変わらぬようじゃな。分かった。お主の意思を尊重しよう。じゃが絶対に無理をするでないぞ」
「はいっ! 分かってます!」
きっと魔人はあの大きな魔獣を使って攻撃してくる。ただでさえ強い魔人に加え、あんな魔獣も相手にしなければならないとなれば苦戦は必至。ちゃんと作戦を考えないと、きっと3人がかりでも勝てない。
魔人の動きがとても早いことは身をもって知っている。たとえ召喚獣の力があったとしても動きの遅い私では守ることで精一杯だと思う。それに魔人は私の腕輪の力を知っている。きっと私を集中的に狙ってくるに違いない。だったら考えられる作戦はひとつ。私が囮になればいい。
「木下君、私が――」
「お主はあの魔獣を頼む」
「えっ? あの、でも私……」
「ラーバの奴めはワシとムッツリーニで抑える。その間に魔獣を地に還してやるのじゃ。今のお主ならばあの程度の魔獣など恐るるに足りぬじゃろう」
「そ、そんな危険な役を木下君や土屋君にお任せするなんてできません!」
「危険だからこそワシらがやるのじゃ。お主にもしものことがあれば明久に申し開きできぬからな」
木下君はそう言って微笑む。気遣いは嬉しい。でも状況からして一番の足手まといは私。だから囮なら私が一番適任だと思っているのだけど……。
「そのような顔をするでない。安心せい。遅れは取らぬ。じゃがお主が手間取っているとどうなるか分からぬ。早めに決着をつけるのじゃぞ」
木下君の目は本気だった。強い決意と優しさの入り交じった不思議な目だった。
――信頼してくれている。
彼の目を見た時、私はそう感じた。
「……分かりました」
私は大きな剣を両手で構え、魔人の後ろに聳え立つ魔獣を見据える。魔獣は「グルル……」と唸り声をあげ、白く濁った目で私たちを睨んでいる。
……まずは魔獣を引き離さないと。私が動けば魔人はこちらを追ってくるだろうか。それとも意表を突いて木下君を狙ってくる? どちらにしても初対面の土屋君を狙ってくることはないと思う。だとしたら、まず土屋君に動いてもらって……と思考を巡らせていると、魔人はキマイラに対して意外な指示を出した。
《こやつらは我が相手をする。お前は下がって”あやかし”を吐き続けるのだ》
魔獣はコクリと頷くような仕草をすると、スゥッっと霧の中へと消えていった。あの人……1人で私たち3人を相手にするつもり?
「ワシらもずいぶんと甘く見られたものじゃな」
「…………好都合」
3対1で戦おうとするなんて、余程自信があるのだろう。私たちは彼と一度戦い、不意を突いたとはいえ撃退している。それに加えて今回は土屋君もいるのだから当然私たちが優位であるはず。なのに何故あんなにも余裕を見せているのか。何か嫌な予感がする。あの魔人が自ら不利な状況を選ぶなんて考えられない。何か裏があるような気がする。
《さぁ! 始めようかァ!》
魔人は嬉々とした声で言うと、私たちの目の前で忽然と姿を消した。
「しもうた! 霧に紛れよったか!」
「…………あやかしの霧」
「っ……! そうか、明久たちとはぐれたのもあの魔獣の仕業というわけじゃな。やってくれるわい……」
《――――ククク……だから言ったであろう? 類を見ぬほどの傑作とな――――》
どこからともなく魔人の声が聞こえてくる。けれど姿は見えない。真っ白な霧で視界を遮られ、声も反響していて右なのか左なのかも分からない。土屋君も木下君にも分からないようで、2人とも私と同じようにキョロキョロと魔人の姿を追っていた。
「…………うっ!」
突然後ろからそんな声が聞こえたかと思うと、ガキンと金属のぶつかり合うような音が聞こえてきた。
「つ、土屋君!?」
「…………問題ない」
「今の、魔人の攻撃ですか?」
「…………そうだ」
「今行きます!」
「…………いや。また隠れた」
「そ、そんな――」
「むっ!?」
今度は木下君が声をあげた。振り向くとシュッと黒い影が横切るのが見えた。
「おのれっ!」
ブンッと大きく薙刀を振る木下君。けれどその刃は空を切っていた。
「くっ……どこじゃ! どこへ行きよった!」
木下君が叫ぶも当然ながら返事は無い。いけない……2人とも魔人の攻撃に翻弄されている。最大の要因は霧のせいで視界が悪く、相手の位置が特定できないこと。このままでは私もいつ攻撃されるか――っ!?
突如として黒くて尖った物がニュッと目の前に現れた。私は反応しきれず、驚きと恐怖で思わず強く目を瞑ってしまった。
……やられる!
そう思った瞬間、
――ギィンッ!
けたたましいと感じるくらいの金属音が鼓膜を震えさせた。
…………
…………?
「……えっ?」
貫かれているのなら身体のどこかに痛みがあるはず。でもそのような痛みはどこにも無い。不思議に思った私は恐る恐る目を開けてみた。すると目の前には黒装束に身を包んだ土屋君の後ろ姿があった。彼は小太刀を逆手に持ち、枝のように伸びた黒い爪をその刃で受け止めていた。
《――――チッ。小賢しい――――》
呻くような声が聞こえ、黒い影が土屋君の前から消えた。
「…………
直後、土屋君がそう呟いたかと思うと私の前からシュッと姿を消した。あまりの展開の速さに目と頭が追いつかない。私はただ呆然とその様子を見守ることしかできなかった。
「姫路よ! 無事か!」
そうしていると木下君が駆けてきて声をかけてくれた。私はハッと我に返り、再び両手で剣を構えなおした。
「どうやら無事のようじゃな。姫路よ、この霧では至近距離しか見えぬ。分散して戦っては不利じゃ。背を合わせるのじゃ」
「は、はいっ!」
木下君が私の後ろで背を向けて立つ。魔人のあの速さとこの濃い霧では動きを目で追うのは厳しい。頼れるのは耳から入ってくる音。それと肌で感じる空気の動き。私は全神経を集中させ、耳を澄ませた。
「「……」」
背中合わせの木下君も動く気配が無い。私と同じように耳を澄ませて警戒しているみたい。
キンッ――キンッ――キィンッ――
遠くの方で音が聞こえる。それは金属同士がぶつかり合うような音だった。土屋君が魔人と刃を交えているのだと思う。けれどその音はトンネルの中で聞いているかのように反響していて、その方角を見極めるのは困難だった。
「どうやらこの霧、視覚のみならず聴覚までもあやかすようじゃな」
「……そうみたいですね」
「この状態で奴に対抗できるのはムッツリーニだけのようじゃ。ならばワシらはワシらにできることをやるぞい」
「私たちにできること……ですか?」
「んむ。この霧を打ち払うのじゃ。さすればワシらも奴の姿を捉えることもできよう」
「そうですね! でも霧を打ち払うって、どうすればいいんでしょう?」
美波ちゃんのような風を操る力があれば霧を吹き飛ばすことができるかもしれない。でも私も木下君もそんな力は持っていない。息を吹き掛けたり扇いだりするくらいじゃこの霧は晴れないと思う。
「先程奴が言っておったじゃろう? ”お前は下がってあやかしを出し続けるのだ”、とな」
「あっ! 魔獣ですね!」
「そういうことじゃ。霧の発生源である魔獣を倒せば視界も晴れるじゃろう。姫路よ、魔獣の位置は分かるか?」
私には土屋君のように気配で魔獣の存在を感じることはできない。だから記憶に頼るしかない。魔獣があの時の位置から動いていないとすれば、たぶん――
「あっちだと思います!」
私は先程腰かけていた岩を基準に記憶を辿り、魔人と対峙した際の方向を指差した。
「さすがお主は記憶力があるな。ムッツリーニよ! しばし頼む! ワシらはこの霧をなんとかする!」
『…………分かった』
土屋君の声も反響していて、どこから聞こえてくるのか分からない。でも意思は伝わったみたい。
「では行くぞい!」
「はいっ!」
私たちは魔獣がいるであろう場所に向かって走り出す。するとすぐに霧の中から低い声が響いてきた。
《――――やらせんぞ――――》
それと共に、ぬぅっと青い身体が霧の中から姿を現した。止むなく立ち止まり、私たちは魔人と対峙する。この霧は魔人が戦いを有利に進めるために魔獣に作らせているもの。今の話を聞いて私たちを阻止しようとするのは当然だった。
《――ッ!》
私たちが身構えると何かに感づいたのか、魔人はその場からパッと飛び退いた。するとすぐさまそこに黒装束の忍者が降り立った。
「…………行け」
土屋君は私たちに目も向けずにそう言うとシュッと姿を消した。なんだか忍者ものの時代劇を見ているみたい……。
「奴はムッツリーニが抑えてくれる。ワシらは魔獣を討つぞい」
「は、はいっ!」
☆
それから魔人が私たちを追って来ることはなかった。きっと土屋君が抑え込んでくれているのだと思う。
試召戦争の時、土屋君はいつも隠密行動を取っていた。だからこうして戦う姿を見ることはほとんどない。でも今日、私は知った。土屋君が動物好きで情に厚く、そして強いことを。
「このまま真っ直ぐのはずです」
「急に襲ってくるやもしれぬ。十分注意するのじゃぞ」
「はいっ」
私たちは先程の魔獣を探した。白い空間を慎重に、警戒しながら歩き、魔獣が姿を消した地点を目指した。
「――っ! 木下君、いました」
魔獣キマイラは真っ白な霧の中で足を畳み、静かに座っていた。それはまるで主人の言いつけを守り”伏せ”をしている犬のようであった。ただし、その姿は高さ8メートルほどもある怪物。ライオンの顔を付け、山羊の身体に蛇の尻尾を持つ怪物だった。よく見れば背中には山羊の頭も付いていて、その口からは白い霧が止めども無く吐き出されている。
「どうやら襲ってくる様子はないようじゃな」
「そうみたいですね。それに霧はあの上の頭が吐き出しているみたいです」
「よし、ではこやつを倒すぞい」
「……やっぱり倒すんですね」
私は
でもこの子を止めなければ魔人と戦っている土屋君が危ない。でも……私は……私は……どうしたらいいの……?
「お主、この魔獣を気の毒に思うておるのじゃな」
「えっ……?」
木下君の思わぬ発言に私は驚く。隣では優しい目をした木下君が微笑んでいた。
「図星のようじゃな」
「いえ! そんなことは……!」
「誤魔化さずともよい。誰も責めはせぬ」
「……すみません……」
「お主は優しいな。じゃがこやつを放っておけば他の魔獣のように人を襲うやもしれぬ。放っておくわけにはいかぬのじゃ」
「それは……そうなんですけど……」
「こやつも恐らくは屍より作られた魔獣じゃ。あの目を見てみぃ」
木下君がそう言ってライオンの顔を指差す。その指が指す先には、人間なんてひと呑みにできそうなくらいに大きな顔があった。魔獣は大きな目を見開いたまま、私たちがこうして目の前で会話をしていてもまるで反応を示さない。
「目があれほど白く濁っておるのは死んでおる証拠じゃ」
「……」
「雄二も言うておったじゃろ。このように無理やり生かされておる方が気の毒じゃ。地に還してやるべきなのじゃ」
「……そう……ですね……」
気が進まなかった。これまでも魔獣とは何度か戦ってきた。その度に考えていた。人間を襲うのを止めてもらう方法はないのかな……と。でも答えは出なかった。
坂本君が言うには、魔獣とは動物の死骸に魔石の力で再び命を吹き込まれたもの。知能は無く、植え付けられた本能で動くゾンビのようなものだと言う。だから言葉はもちろん、思いなど通じないのだと。
「……分かりました」
私は大剣を真っ向に構え、魔獣を見つめる。すると魔獣は私に気付いたのか、首を動かすこともなく、ギロリと視線のみを下ろした。その額には赤く大きな宝石のようなものが輝いている。あれを破壊すれば魔獣は活動を停止するはず。そう、あのマトーヤ山の山羊のように。
……やはり気が進まない。でも……やらなくちゃいけない!
「ごめんなさいっ……!」
意を決し、私はライオンの顔に向かって飛び上がる。そして空中で剣を逆手に持ち替え、振りかぶると、
《ガオォン!》
魔獣は突然ガバッ起き上がり、雄叫びをあげた。そして片方の前足を振り上げ、私を払い落とそうとする。それはまるでハエでも落とすかのような仕草だった。
「あ……っ!?」
空中にいた私はどうすることもできず、身体を硬直させることしかできない。
「
その時、木下君の叫びにも似た声が聞こえた。直後、魔獣は前足を掲げたままピタッと動きを止めた。
一瞬、何が起ったのか分からなかった。けれどすぐに木下君が動きを止めてくれたのだと理解し、私は構えた剣を眉間の魔石めがけて突き下ろした。
「やぁぁーーっ!!」
――ガシッ!
剣の切っ先が魔石を捕らえた。赤い魔石はパリンと音を立て、砕ける。
「ごめんね……助けられなくて……」
謝罪の言葉を残し、私は剣から手を放して地面に降り立つ。そして前髪で顔を隠し、更に両手で顔を覆った。涙を見られないように。
……悲しい。もうこんなこと終わりにしたい。
《……グ……グル……ゥ……ゥ…………》
魔獣はぐぐっと天を仰ぎ、苦しそうに呻いた。その声は「ありがとう」と言っているようにも聞こえた。私がその言葉を望んでいたからそう聞こえたのかもしれない。
「危ういところであったな。姫路」
木下君が駆け寄り、声をかけてくれる。でも私は返事をすることができなかった。声を出せば泣いているのがばれてしまうから。
「姫路……辛い役を押しつけてしまったな。すまぬ」
「……いえ」
魔獣の身体は徐々に崩れていき、煙となって消えていく。私は涙を袖で拭い、空を見上げた。
黒い煙は気泡となり、白い霧の中をゆらゆらと登っていく。その光景はとても綺麗で……とても悲しく私の胸に刻まれていった。
「……姫路よ」
「……はい」
「決着をつけに行くぞい。もうこのような悲劇を生まぬためにな」
「……はいっ!」
周囲にはまだ白い霧が充満している。でも僅かながら薄れてきたような気もする。しばらくすれば周囲の様子も見えるようになってくると思う。
私は木下君と共に魔人と戦う土屋君の元へと急いだ。