「ふぅ。姫路よ、少し休んでよいぞ」
「だ……大丈夫です。まだやれます!」
このローゼスコートの防衛を始めてから既に4時間以上が経過している。この頃になると元々体力の無い私はもちろん、木下君の表情にも疲労の色が見えはじめていた。
魔獣は絶え間なく襲ってくるわけではなく、ある程度の塊で襲ってくる。4、5匹くらいの群が一斉に襲って来ては数分の間隔を空け、また次の集団が襲ってくる。そんなことを何度も繰り返している。でもおかげで休憩を挟むことができて体力の無い私でもなんとか持ち堪えている。ただ、私はこの不自然な波状攻撃に違和感を感じ始めていた。
「のぅ姫路よ、おかしいと思わぬか?」
「何がですか?」
「この魔獣の襲来じゃ。魔障壁が消えてからこうして何度も迎え撃っておるが、なぜ一斉に襲いかかって来ぬのじゃ?」
木下君も私と同じ違和感を感じていたんですね。
「私もずっとそれを思ってました。最初は魔獣でも種族ごとに仲が悪かったりするのかと思いましたけど……」
「だとするならば狼と鹿が共に来るのは妙ではないか?」
「そうなんです。狼は鹿を食料として襲うものだと思うんです。だから一緒に行動するのって変ですよね」
「魔獣化とは動物の特性までも変えてしまうものなのじゃろうか」
「どうなんでしょう……たまたま通りかかった集団が襲って来てるのかもしれません」
「それにしては周期が一定過ぎる。まるでワシらを試すかのよう――っ!」
話の途中で急に木下君が身構えた。キッと正面を見据え、何かに警戒している。きっと次の魔獣が来たのだろう。そう思って私も剣を両手で構え、目を凝らしてみた。
「「……」」
じっと暗闇を見つめていると、1つの影が見えてきた。それは暗い庭園の中をこちらに向かってゆっくりと歩いてくる。ほとんどの魔石を魔障壁装置に回しているため、光は僅かな月明かりと背後の小さな松明1本のみ。あまりに暗くて薄らとしか見えないけれど、その影は人の形をしているように見えた。
《ンミ゛ェェ~……》
その小さな声を聞いた瞬間、私の心臓は一度大きく鼓動した。それは明らかに山羊の鳴き声だった。それも幼い仔山羊の声。山羊は私にとって辛い思い出の残る動物。
あれは白金の腕輪を求めてこのサラス王国に来た時のことだった。私は木下君、土屋君と共にこの国を治めている王妃様の宮殿を訪れた。そこで腕輪と交換条件として示されたのが”洞窟に巣くう魔獣の退治”だった。私たちはその依頼を受け、早速マトーヤ山の洞窟に行った。
魔獣は確かに洞窟内にいた。それは山羊の形をした魔獣だった。私たちはその2匹の魔獣と戦い、苦戦しながらもどうにか退治することができた。ただ、そこにいたのは魔獣だけではなかった。魔獣を退治した後に洞窟奥で発見した動物。それは小さな山羊の子だった。
仔山羊は洞窟の奥で震えていた。この子は恐らく退治した魔獣の子。両親を奪ってしまったことに私は責任を感じ、この仔山羊を保護した。
最初は怯えていた山羊の子は、洞窟から出してやると元気な姿を見せるようになった。トコトコと私の周りを走り回り、愛くるしい姿を見せる。私はこの子を「アイちゃん」と名付けた。
その後、私は腕輪探しの日々をアイちゃんと共に過ごした。
4日間という短い間だったけど、あの子との生活はとても楽しく、充実していた。けれど私はこの世界の住人ではない。アイちゃんとずっと一緒に過ごすわけにはいかなかった。だから私はあの子を何度か出会った遊牧民の人に預けた。
今ごろあの子は仲間と楽しく暮らしているはず。こんな所にいるわけがない。そうだ。目の前に現れた山羊は別の山羊なのだ。そう自分に言い聞かせた瞬間、我が目を疑った。
《……フゥッ……フッ……フゥッ……》
松明の光が照らす範囲に入ってきたのは声の通り、仔山羊だった。
つぶらな瞳。
まだ生えかけの小さな
真っ白な体にピコピコと揺れる小さな尻尾。
それは紛れもなくあの子の姿。アイちゃんそのものだった。
なぜ? どうしてここに? 同じ山羊の子供だからあの子に見えてしまうの? もしかして私は夢を見ているの? 予想だにしなかった事態に頭が混乱してしまう。
「な……なぜじゃ! なぜお主がここに……!?」
隣では木下君が目を見開いて驚きの表情を見せている。混乱しているのは私だけではなかった。それと、今見ているのは夢でも見間違いでもなく、正真正銘、アイちゃんだった。なぜならあの尻尾の仕草と鳴き声は忘れたくても忘れられないから。
「……あ……アイちゃん……」
また会えるなんて……思わなかった……もう二度と……会えないって……諦めてたのに……。
「アイちゃん……アイちゃんですよね……?」
夢心地の私はふらふらと歩を進める。もう一度あの子を抱きしめたい。あの子の頭を撫でてやりたい。私の胸はそんな思いで一杯だった。
「待て姫路よ! 近寄るでない!」
「どうしてですか! アイちゃんが私に会いに来てくれたんですよ!?」
「よく見てみぃ! そやつの
「えっ?
木下君に言われてもう一度アイちゃんを見てみる。純白の毛で覆われた小さな体。ちょこんと飛び出た2本の
「っ――!? そ、そんな……!!」
それを目にした時、胸に突き刺すような痛みが走った。それはアイちゃんに再び会えたという喜びを示すものではなかった。
《ミェェ~……》
弱々しく
「そんな……アイちゃんが……魔獣……?」
腕の力が抜け、思わず剣を落としてしまう。ガランと音を立てて大剣が地面に横たわる。私はカクンと膝が折れ、その場にへたりこんでしまった。信じられない……一体……どうして……。
《クックックッ……どうだね? 我が傑作の姿は》
「……?」
放心状態であった私はその声に疑問を抱くことすらできなかった。このホテルを訪れている者は全員が館内に避難している。だから正面から人が入ってくることなどありえない。にも関わらず、その人は暗闇の庭園から現れた。
「む? お主は……?」
《久しいな。人間。確かヒメジと申したか?》
人間? そう、私は人間。アイちゃんは山羊の子。でも私たちは友達。大切な……友達。でもアイちゃんはあの時、遊牧民のルイスさんに預けたはず。どうしてここにいるの?
……
えっ? この声って、まさか……?
「ルイス……さん……?」
暗闇の中から現れた1人の男性。
遊牧民風の緑色の服。
ベージュ色のマフラー。
服の色に合わせた緑色の帽子。
その容姿は間違いなくアイちゃんを預けた遊牧民のルイスさんだった。けれど今日の彼は前回お会いした時とは様子が違っていた。暗い灯のせいかと思ったけれど、帽子の影から見える顔は明らかにあの時のものとは違う。
青。
そう。彼の顔は青かった。人間は病気や恐ろしい経験をした際、顔が青ざめる。でも彼の顔の青さはそんなものとはまるで違っていた。例えるならば塗装用のペンキ。まるで青いペンキでも塗っているかのような深い青だった。
「ルイス殿、なぜ主様がここ――っ! お主、何者じゃ! なぜルイス殿と同じ出で立ちをしておる!」
チャキッと薙刀を構え、木下君が意外なほどの大声を張り上げる。木下君もルイスさんの異変に気付いたみたい。
《ん~? ルイス? はて。誰のことかな?》
「何を言う! その容姿は紛れもなくルイスラーバット殿のもの! じゃがルイス殿はそのような青い肌はしておらぬ!」
《当然であろう。我が名はラーバ。ルイスなどという名ではない。……いや。ルイスを名乗っていたこともあったかな? クックックッ……》
「な、なんじゃと?」
あの服装はルイスさんに間違いない。でも喋り方が全然違う。あの人はとても紳士的で、こんな人を見下したような話し方はしなかった。そうか、この人はきっとルイスさんの姿を真似た悪い人なんだ!
「ルイスさんをどうしたんですか! 返してください! それとアイちゃんも元に戻して返してください!」
《物分かりが悪いな人間。はっきり言わねば分からぬか。貴様が以前会ったのは我なのだよ。それに返すもなにも、この生物は元々我のものだ》
「違います! アイちゃんは誰かのものなんかじゃありません! アイちゃんは野生の山羊の子です! 山羊の仲間と幸せに暮らすべきなんです!」
《やれやれ。本当に理解力の乏しい者だな。元々この生物は実験体として保管庫に入れておいたものだ。それを貴様らが勝手に持ち出したに過ぎぬ》
実験体? 入れておいた? どういうこと?
《見張りとして置いた2体を
「あの洞窟はお主の保管庫であったとでも申すつもりか! 実験とは何じゃ! お主は一体何を研究しておったのじゃ!」
《ククク……そうか知りたいか。……そうかそうか……知りたいか!! よかろう! ならば教えてやろう!!》
赤く無気味な目をくわっと見開き、狂気に満ちた笑みを浮かべるルイスさん。そして彼は得意げに語り出した。
《貴様らの言う”魔獣”とは我ら一族の作り出したものだ。この鉱石を用い、死した屍に新たな命を与えるのだ。だがこうして作り出したものは知性を失い、また元来持っていた本能さえも失ってしまう。我はこの変容が気に入らんのだ。個体本来の性質を持ったままの従順な部下を作り出したいのだよ》
魔獣が死体から作り出されることは坂本君から聞いていた。だからその話自体は驚くことではなかった。けれどそれをこうも当たり前のように言われると改めて驚いてしまう。
「その実験のために山羊を用いたと申すのか!」
《我は研究を重ねた。どうすれば知性を失わずに魔獣化できるのか。どうすれば本能を失わない個体が作り出せるのか》
木下君の問い掛けを無視し、ルイスさんは得意げに語り続けた。それは身の毛もよだつような禍々しい研究だった。
《実験はなかなか成功しなかった。だがある時気付いたのだ。素体にしているもの自体に問題があるのではないか? 屍を素体にしているからではないのか? 生きたままの素体を魔獣化すれば良いのではないか? さすれば日中においても能力が低下することなく活動できる個体ができるのではないか? そう考えたのだよ》
この人、何を言ってるんだろう。言葉は理解できるけれど話の内容が私には理解できない。なぜこんなことをこうも平然と口にできるのか……。
《我は研究の方針を変更し、屍ではなく生体を素体にすることにした。そして長年の研究の末、答えを導き出したのだ。素体にするのはできるだけ幼い個体、それも自我の芽生えていない頃のものが良いとな!》
彼は青い顔で真っ赤な目を光らせ、ニィっと狂気の笑みを浮かべる。私はその内容と笑みに寒気を感じ、身が氷りつくような感覚に襲われた。
《この研究も協力者がおれば捗ったであろうに、ネロスの奴めは人間を魔獣化することに躍起。ギルベイトに至っては魔獣を遊び相手としか見ておらぬ。まったく、役に立たぬ連中よ》
ギルベイトって……確か明久君が言っていた魔人の名前? 話の内容からすると、魔人が仲間であるかのように聞こえる。ということは、もしかしてこの人も……。
「あ、あなたは……ま、魔人……なんですか?」
恐る恐る尋ねてみると、彼の口からは予想通りの答えが返ってきた。
《その通りだ。だがネロスやギルベイトの馬鹿と一緒にしないでもらおうか。奴らと同類と思われるだけで虫唾が走るわ》
「な……なぜ魔獣なんてものを作り出すんですか!」
《愚問だな。ただの戯れよ》
そんな……魔獣を作るのがただの遊びだっていうの? この世界の人たちは昔からずっと魔獣という存在に怯えている。命を落としてしまった人だって沢山いる。それなのに……遊びだって言うの……?
「き……貴様……なんということをするのじゃ! 命を弄ぶでない! 恥を知れ!」
「そうです! この世界の皆さんが迷惑しています! こんなことすぐにやめてください!」
《何故だ?》
「なぜって……あなたには人の苦しみが分からないんですか!? 人々が今までどれだけ苦しんできたと思っているんですか!」
《それがどうしたというのだ?》
「どうしたって、そんな……」
私は彼の返事に愕然とした。
この人、私たち人間とは考え方が根本的に違う。ここまで人の迷惑に無頓着な人格に出会ったのは初めてです。やっぱり魔人って人間とは相容れない存在なんでしょうか……。
《そんなことはどうでもよい。それよりずいぶん探したぞ。よもやこのような小屋におるとは思わなかったがな》
「えっ……? 探した? 私たちをですか?」
《そうだ。貴様らにこの作品を見てもらいたくてな》
魔人はそう言いながらゆっくりと屈み込むとアイちゃんの背を一度撫でた。その瞬間、私の背筋にゾクリと悪寒が走った。それは私自身、今まで感じたことのない激しい嫌悪感だった。
「アイちゃんに触らないでください!!」
《アイチャン? なんだ? それは》
「その仔山羊の名前です! 私の大切な友達です!!」
《何を言っているのか分からんな。これは我が実験体9713号。勝手に名前を付けてもらっては困る》
「きゅ、9713号……?」
《そうだ。9713番目の実験体だ》
つまり今まで9713もの命を弄んできたということ? なんて……なんて酷いことを……!
「あなたこそ勝手に実験体なんかにしないでください!! 命は遊び道具なんかじゃりません! アイちゃんを今すぐ元の姿に戻してください!」
《分からぬ奴だな。これは元々我の実験動物だと言うておろう。ならば我がどう扱おうと自由であろう?》
「アイちゃんはアイちゃんです! 決してあなたのものなんかじゃありません!」
私は心底震えていた。いつもの私ならこのような異形の者を前にしたら、怖くて堪らなくて目を塞いで小さくなっていたと思う。けれどこの時の私は心の底から怒りに打ち震えていた。
「待て姫路よ。落ち着くのじゃ。怒ってはならぬ。怒れば奴の思うツボじゃ」
そんな私を抑えてくれたのは木下君だった。こうして止めてくれなければ私は我武者羅に攻撃を仕掛けていたかもしれない。
《勝手なことを言うでないわ!! 我の大事な研究材料を奪っておいてイケシャアシャアと! 盗っ人猛々しいわ!!》
今までの静かな言葉が嘘のように怒りを顕にする魔人。開けた大きな口からは牙がむき出しになり、その姿はまるで悪魔のようだった。そう、明久君も言っていた、まるで悪魔のような存在。それが魔人という存在……。
《ふん。まぁ良い。我もそのような議論をするために来たのではない。今宵は貴様らに成果を見せてやろうと思うて来たのだ》
「成果……ですか?」
《まったく、このような
「なぜワシらを探しておったのじゃ! お主の目的は研究ではないのか!」
《たわけが!! 我の研究材料を奪った貴様らに仕置きをするために決まっておろう!! でなければネロスの実験体を使ってまでして面倒な障壁を排除したりせぬわ!!》
障壁を排除……? まさか……!
「まさか魔障壁が消えたのって……」
《ネロスのやつは気に入らんが、我らの意思下にあるものを障壁内に入れられる物を作ったことだけは評価に値する。おかげでこうして貴様らをおびき出せたのだからな》
「く……なんということを……そんなことのためにこの町を襲ったと申すのか!」
《そんなことだと!? 我の崇高な研究を邪魔した罪、万死に値する! 貴様らには最高の苦しみを与えてやる! このアイチャンとやらの素体を用いて完成した新たな魔獣によってな!!》
「どこまで性根が腐っておるのじゃ……」
《腐る? 違うな。この素体は生きているのだよ。屍を用いると細胞が膨張して体が大きくなってしまう。だがこの作品はどうだ? まだ不安定ではあるが、このとおり細胞の膨張もない。素晴らしい出来映えであろう?》
出来映え? アイちゃんをまるでお菓子を作るかのように言うなんて……。許せない……許せない……! 許せませんっ!!
「い、命を一体なんだと思ってるんですか!! 命は大切な……掛け替えのないものなんです! 弄ぶなんて以てのほかです! 私はあなたを絶っ対に許しません!!」
《フハハハハ! 我を許せぬと申すか! ならば何とする! 我が命を奪うか! だがこれもまた命! 貴様の言う掛け替えのないものぞ!》
「う……」
《それに貴様らとて家畜と称して生物を飼育するではないか! そしていつしか貴様の言う大切な命を奪い、あまつさえその血肉を食らう! それは罪とは言わぬのか! 違うか! 答えてみよ! 人間!》
「そ……それは……」
《そもそも貴様の主張は矛盾しておるのだよ! 偽善なのだよ! 貴様の主張は!》
「……」
私は魔人の言うことに言い返せなかった。彼の主張が正しいのか、私の考えが正しいのか分からなくなってしまったから。
確かに私たち人間は食肉用として牛や豚、鳥などを育てる。そして時として出された料理が多いと言って残し、廃棄している。これを命の無駄と言わずして何と言おう。であるならば、人間の本質は彼ら魔人と大差無いのかもしれない。
「姫路よ。惑わされるでない。ヤツの言葉に耳を貸してはならぬ」
「木下君……」
「確かにワシらは家畜を育て、食料として命を奪う。じゃがその命は血となり、肉となり、ワシらの中で生きておるのじゃ。ワシらはその者たちに感謝しておる。食料となり、ワシらの命となってくれたことに感謝の気持ちは忘れてはおらぬ。じゃがお主は単に命を弄んでおるに過ぎぬ! お主とは根本からして違うのじゃ!」
《クク……戯れ言を。どうやらこれ以上話しても無駄のようだな。ではそろそろ始めるとしようか! さぁ行け! あの者たちを喰い尽くすのだ!》
魔人がスッと右手を前に差し出す。
《…………》
するとアイちゃんは歩き始めた。一歩一歩、ゆっくりと。
「アイちゃん……」
瞬きひとつせず、無表情のアイちゃんがこちらに向かって来る。とてもあの無邪気で元気だったアイちゃんとは思えない表情だった。悲しい。山羊の仲間と一緒に元気に暮らしていると思ったのに。こんなことならあの時預けなければよかった。私の胸の内は後悔と悲しみでいっぱいだった。
「完全に操られておるようじゃな……姫路よ! しっかりせい! 呆けていてはアイ殿を救えぬぞ!」
木下君の声で我に返った。そうですね。こうなってしまった責任は私にある。私がアイちゃんを助けなくちゃ!
「アイちゃん! 目を覚ましてくださいアイちゃん! あなたは強い子です! そんな人に操られたりしません! 人を襲ったりできない優しい子のはずです! だから……目を覚ましてください!」
《…………》
アイちゃんは私の声に反応しない。ただ無表情のまま、ゆっくりとこちらに向かってくる。私の声が聞こえないの……?
「そんな人の言うことを聞いてはダメです! アイちゃん! アイちゃん!!」
私は必死に呼びかける。それでもアイちゃんは歩みを止めなかった。私の声が全然聞こえていないみたい。一体どうしたら……。
「……お願いです……アイちゃん……元に戻って……お願い……」
これ以上どう呼びかければよいか分からず、涙が出てきてしまう。
「アイ殿! 姫路の想いが分からぬのか! いい加減に目を覚ますのじゃ!!」
木下君も共に呼びかけてくれる。諦めちゃいけない。私にそう訴えかけているようだった。でも私にはもう打つ手がない。
「ごめんね……私のせいで……怖かったよね…………ごめんね…………」
ぽろぽろと涙が溢れてきてしまう。どうにもできない自分が情けなくて。
《…………》
その時、アイちゃんがピタリと足を止めた。
《ん? どうした。早く行け。行って奴らを噛み殺せ!》
《…………》
魔人の言うことにも従わない。アイちゃんは完全に動きを止めていた。まるで剥製のようにピクリとも動かない。
「きっとお主の声が届いたのじゃ! 姫路よ! もっと呼びかけるのじゃ!」
本当に呼びかけに応じたのかは分からない。でもアイちゃんは魔人の指示にも従っていない。今なら
……
ダメ。マトーヤ山の洞窟で出会った2頭の山羊は
「……アイちゃん……おいで」
私はあの子を受け入れる覚悟を決めた。魔獣だっていい。私は膝を突いて両腕を広げ、今のままのアイちゃんを受け入れた。
《…………》
「…………」
薔薇の園を静寂が包み込んだ。時が止まったかのようだった。
《メ……ミ゛……ミ゛ェ……ェェ……ッ!》
しばらくして硬直していたアイちゃんが苦しそうに呻き声をあげた。そしてブルブルと身悶えし、小さな頭を左右に振って抵抗する様子を見せる。アイちゃんも戦ってる……操られまいと一生懸命に抵抗している……!
《どうした! 行かぬか! 貴様は数々の失敗から生まれた初の成功体なのだぞ! 行け! 行って奴らに貴様の完成度を見せてやるのだ!》
《……フゥッ、フゥッ、ブフッ……ミ……ンミ゛……ミィ…………》
息遣いが荒くなりはじめ、頭を激しく振って一層苦しそうに声をあげるアイちゃん。アイちゃん……頑張って! 魔石の力を追い出すんです……!
《えぇい! 行かぬか! この期に及んで抵抗などするでないわ!! 貴様にどれだけの労力を注いだと思っている!》
魔人は黒い鞭を取り出すと、ピシッとアイちゃんに向かって振り下ろした。
《ピィッ!?》
甲高い声をあげ、アイちゃんが小さな体を仰け反らせる。
「アイちゃん!!」
「待て姫路!」
「でもアイちゃんが!」
「行くでない! 危険じゃ!」
「このままじゃアイちゃんが死んじゃいます!」
「まだアイ殿の魔獣化は解けておらぬ! 今行けば奴の思う壺じゃ! 堪えるのじゃ!」
「でも、だからって……!」
「お主が倒れれば誰がアイ殿を救い出すのじゃ!」
「っ……ア、アイ……ちゃん……」
本当なら木下君を振り払ってでも助けに行きたい。けれどこのまま飛び込んで行けば、木下君の言うようにあの魔人に襲われる。そう、きっと魔人は私がアイちゃんを助けに行くのを待ち構えている。そんなことは分かっているのだけど……!
《貴ッ様ァァ! 我に恥を掻かせるつもりか!》
《ンミ゛ッ! ミ……ミェ……ェ……》
《クッ……この役立たずめがァァ!!》
――ヒュッ!
苛立った魔人が黒い鞭を振るう。長い鞭は彼の頭上からアイちゃん目がけて落ちてくる。それはまるで獲物を襲う蛇のようだった。
《ッ……!》
その瞬間、アイちゃんがパッと体を反転させた。
――ビシィッ!
乾いた音がして鞭はあの子の顔に命中した。
《な、何……ィ……ッ!?》
「アイちゃぁぁーーん!!」
頭が真っ白になった私は立ち塞がる木下君を払い除け、無我夢中で走った。
真っ直ぐアイちゃんの元へ。