化かすのがうまいのは狐か、狸か。どちらが上かという真実のほどはともかくとして、両者が『化ける』という分野において頂点を争っていることは周知の事実だ。だからこそ自然とそこには象徴といわれが存在するようになる。
化けると言えば狐と狸。幻想郷の誰に聞いても、よほど常識外れの者でない限りはこの答えが返ってくるはずだ。誰もその二種族に敵うような化けるのがうまい妖怪を挙げようともしない。それはその二匹が過去幾度とあらゆるものどもを化かしてきたいわれがあるからであり、それによって化けることの象徴と化しているからでもある。
だから狐と狸を象った道具には少なからず、そのいわれがこびりつく。さながら親が命名の際に子の名前へ意味を持たせるがごとく、化ける象徴としての伝説が残滓ほどに小さく宿るのだ。
なにもそれは狐や狸の道具に限った話ではない。ありとあらゆる道具には、元となったなにかの特質がほんの少し秘められている。
「……無理を聞いてくれてありがとうございます」
狐を象った仮面を片手に、今はここにいない相手に感謝を口にした。これをもらった時にきちんとお礼はしたけれど、数多くの妖怪の一匹でしかない俺の、幻想郷全体に問題を引き起こすかのような無理を聞いてくれたことには感謝してもし切れない。
――こいしが俺を、彼女の家であるという地霊殿に誘ってくれてから、すでに一か月が経過していた。
あの時の俺の返答は『地上の妖怪の出入りは禁止されているんですが』なんていうなんとも当たり触りのないものだった。こいしとしてはそんなことはどうでもよかったみたいだが、つい数年前に問題を起こしたばかりの吸血鬼としては、幻想郷全体に迷惑をかけかねない行為を起こすわけにはいかない。
こいしがとても残念そうな苦笑いで「そっかー」と呟いていたのが、記憶に焼きついている。彼女はそれからも変わらず遊びに来てくれていたが、そのたびに近いうちに行かなければと、使命感にも似た決意が心の内に生まれていた。
それからずっと暇な時は幻想郷中を飛び回るようにして、先日、ようやく彼女を見つけた。冬が近くなるとほとんど姿を見せなくなる妖怪、幻想郷の事実上の管理者である八雲紫を。
『ゆかりん、覚えてますか? 吸血鬼異変の際、お姉さまを殺しかけたあなたに"貸し一つ"と言ったことを』
『唐突ね。なにかあったの?』
『こんなことを言い出したんですから、その権利を使いたいという用事しかありませんよ。かなりの無理を承知でのお願いなんですけど……』
『……珍しいわねぇ。あなたが自分から誰かになにかを頼むなんて』
『私の力じゃどうしようもないんです。それに、これから私がすることは、どっちにしてもゆかりんに相談しなきゃやっちゃいけないかもしれないことですから』
誰にもなにも告げず、条約を破って地底に潜るわけにはいかない。紫に許可をもらうのが一番だと思い、俺は接触を図っていた。
『ふぅん。まぁ、聞いてみないことには無理かどうかはわからないわよ。要件を言ってみなさい』
『はい。実は、地底に行きたいんです。条約で行っちゃいけないってことにされてる、旧地獄に』
『……これはまた、本当に厄介なお願いね。あなたの力じゃどうしようもないどころか、一人の妖怪の意思程度じゃどうにもできない』
『どうにか許可をもらうことはできませんか?』
難しい顔をする紫に、無茶なことだと心苦しく思いながらも問いかける。彼女は扇子を開き、口元を隠した。
『あなたが幻想郷にありふれているような取るに足らない妖怪だったのなら、そんなに厳しいお願いでもないわ。けれどあなたは悪魔どころか全妖怪の中でもかなりの力を持つ存在、吸血鬼……残念ながら、不可能よ。たとえこっそりとでも、この私でさえ旧地獄には立ち入ることができないんだから。バレる危険性を考慮すると、ね』
『そうですか……ごめんなさい、それなら今のお願いは忘れてください。迷惑をおかけしました』
言葉通り、無理を承知のお願いだった。不可能ならば不可能でしかたがない。
そうして立ち去ろうとする俺を、彼女は「待ちなさい」と引き留めた。
『乞うだけ乞って立ち去ろうなんてダメよ。気になるじゃないの。どうして急にあんなところに行きたいと言い出したのかしら? 今の旧地獄は無条件に忌み嫌われるような厄い妖怪と何百年も前に移り住んだ鬼、それから怨霊くらいしかいないような無法でつまらないところよ』
『友達に誘われたんです。地底にある私の家に来ないか、って』
紫が顎に手を添える。
『……萃香のこと?』
『いえ、最近できた新しい友達です。古明地こいしと言って、サトリという妖怪ですよ』
『サトリ? もしかして、あのサトリかしら?』
『紫の言うあのサトリがどのサトリなのかわかりませんけど、たぶんそのサトリです』
呆れたようにため息を吐く紫に、俺は不思議そうに首を傾げた。
『よりにもよってあんなのを友達だなんて……地底でも群を抜いて嫌われてるようなどうしようもない妖怪なのに』
『あ、こいしは瞳を閉じてるから心は読めないんです。ですからそこは問題ありませんよ』
『……わけがわからないわ。そんなの角がない鬼、翼のない天狗、牙を備えない吸血鬼……己が妖怪としての象徴と誇りをなくした"意味のない存在"じゃない』
在り方を見失った彼女はまさしくその通りなのだろう。そして未来を予測し得る知識を持っていたくせに、それを考えもせず、あの三人の思いとともに『答え』を失った俺はとてもこいしと似ている。
『それにサトリの住処に行くということは、他のサトリ……きちんと心を読める輩に会う可能性があることでもあるわよ。それを考慮して私にお願いに来たの?』
『ああ、そういえばそうですね。こいしには姉がいるんですけど、遊びに行くならそっちにも会うことになるはずです。もしも行けるようになったら菓子折りとか持ってきましょうか』
『……心を読まれるのよ?』
『そんなの関係ありませんよ。友達が自分の家に、遊びに誘ってくれたんです。ずっと断ったままじゃ失礼ですし、なにより私も行ってみたいですから』
あいかわらずね、と紫は言う。別に、俺だって心を読まれたいわけではなかった。というか、言葉を介す生物の中に心を読まれたいと思う者がいるはずがない。誰しも他人に言いたくないこと、見透かされたくないことなんて多々あるものだ。
それに実際に会うとなると『心を読まれる』と意識して、逆に気づかれたくないことを気づかれまいと考えてしまい、それを読まれてしまうような気がしてならない。悪循環というかなんというか。サトリと対面する時は、もしかしたら開き直るのが一番いいのかもしれない。開き直ろうと意識してると、開き直れなさそうだが。
『さ、引っかかることは聞いたから、もう行ってもいいわよ』
『あ、はい』
『それにしても地底に、ねぇ……あなたが半妖だったのなら、まだ手はあったのですけれど』
『えっ?』
去り際、紫が何気なく放った一言に、ピタリと脚と翼が止まった。
『えっと、ゆかりん』
『あら、まだなにかあるのかしら』
『そうではなくて……その、私、魔法である程度までなら人間に近くなることができるんです。最大で五〇……いえ、四〇パーセントほどでしょうか』
五〇はさすがに危険すぎるので撤回しておく。半分を越えるとなにが起こるかわからないし、四〇をギリギリの安全ラインと見定めておくことが賢明だ。
俺の発言に、紫が考え込むように目を閉じた。そして数秒後、パチンと開いていた扇子を閉じる。
『さっきの不可能という言葉、取り消すわ。一つだけ手があります』
『本当ですかっ?』
『ええ。レーテ、なにか狐か狸を象った身につけるものは持ってないかしら?』
『え? んー……こんなのはどうですか』
倉庫魔法を行使。取り出したのは、ずいぶんと前に珍しいからと人間の里で買ってしまった狐の仮面だった。
『それなら問題ないわね。さて、私が思いついた方法で本当に大丈夫かの実験を始めましょうか。まずは――――』
「レーチェル?」
――こいしの声に、視線を上げる。彼女は覗き込むようにして俺の顔を覗き込んでいた。どうやらぼーっとしてしまっていたようなので、「ごめんなさい。あとレーツェルです」と謝って飛行を再開する。
つい昨日、地底に行くことができるようになったと告げた時のこいしの嬉しそうな微笑みもまた、彼女の残念そうな顔と同等以上に印象に残っていた。紫に無理を言った、紫に無理をしてもらった価値があったというものだ。
元々そこそこの時間は飛び続けていたので、目を凝らせば、すでに視界の先には地底への入り口とされる深い深い縦穴が見えてきている。
『実験は成功、ね』
『ありがとうございます。なんというか、もう頭が上がらないというか』
『はいはい、そんなことよりおさらいよ。まず大前提として、地底に入る時は必ずその人間化魔法とやらを使い、狐の仮面をつけて、地上に戻ってくるまでは絶対に解かず外さないこと。そうしていれば仮面に宿る残滓にも似た騙しの力と、私の境界を操る能力が合わさって、他の者どもには人間として判断されるようになる。それは相当な力を持った付喪神くらいしか見抜けないようなものだから、魔法を解いたり仮面を外したりしない限りは絶対にバレないと思ってくれていいわよ』
『っていうか人間は別にいいんですね。妖怪は行っちゃダメなのに』
『妖怪同士の条約ですからねぇ』
『あと仮面で必ず顔を覆ってなくちゃダメなんですか?』
『身につけてるだけで大丈夫よ。仮面部分が邪魔なら、頭の側面にでも回しておけばいいわ。でも絶対に外れないようにお願いね。バレたら私にめんどうがかかるんだから、絶対よ』
そろそろ行使しておいた方がいい。人間の遺伝子を呼び起こし、魔法を発動、自身を構成する三〇パーセントを人間の細胞へと変化させる。
急激に力が衰え、翼もなくなったのがわかった。代わりに俺の中に霊力と思しき力が芽生えるものの、やはり弱体化した感じは否めない。
紫は、地底には忌み嫌われるような能力を持った妖怪が数多くいると言っていた。原作知識からもそれは明らかだった。体の四分の一以上を肉体的に弱い人間で行くのは正直ちょっとだけ不安があるが、それ以外の部分は吸血鬼である。きっと大丈夫だと自分に言い聞かせて、すでに真下となっていた巨大な縦穴に近づいていった。
こいしとともに穴の端に着地をし、そっと中を覗き込む。
「準備はいい?」
「……いいですよ」
深い深い穴の奥は暗闇に包まれて、まったく果てが窺えない。そもそも終着点がないのではと思わせるほどの奈落だった。
こいしが先に体を投げ出してゆっくりと下降し始めたのを見て、狐の仮面をつけた俺も、意を決してそれについていく。
「あ、そうだ」
「どうかしましたか?」
「私の手、握って。そうすれば誰にも見つからないから」
こいしは周りに見えないから、他人からは人間が一人で地底にやって来ていると見られることになる。そうなると当然注目されて変な妖怪に絡まれるだろうし、こいしの提案はありがたいものだった。
女の子らしい柔らかい手に自身のそれを重ねると、こいしは離れないようにとぎゅっと握り返してくる。
……というかよく考えたら、能力で気配を消してくれるのならバレずに行けるんだから、人間化魔法とか仮面とか必要ないような。
「そういえば……」
「なに?」
「その、あんまり気分がいい話ではないんですけど」
桶に入った小さな少女の妖怪、続いてスカートが膨らんだ少女の妖怪の、それぞれの何メートルか横を通りすぎた。俺たちを一瞥すらせず、まったく気づいていなかったようで、それをすごいと感心すると同時にどこかもの寂しい気分も覚える。
「こいしは誰にも見つけられないでいること、どう思っているんですか? 寂しくは、ないんです?」
自分がなにを言っても、なにをしても注目してもらえない。常に自分がいないものとして扱われる。こいしには、そんな環境が心地いいと思えているのだろうか。
俺の質問に特に考えている様子もなく、いつも通り、彼女はほとんど反射的に答えていた。
「どうも思ってないかなー。適当にふらふらっと歩いてるだけでも楽しいし、そもそも寂しいなんて感じる心は持ち合わせてないもん」
「……寂しさを意識したことがないだけじゃなくてですか?」
「うーん、よくわかんない。でも寂しく思わないんなら、寂しくないんじゃないの?」
否定しようとして、できなかった。なにせ、俺も同じだった。
ほぼすべての負の感情を無表情の裏側、心の奥底に押し込み、苦しくない辛くない悲しくないと必死に自己暗示をかけている。萃香に言わせれば、本来直結するはずの感情と思考に齟齬が生じるくらい自身を騙している、と。
こいしは無意識で行動することで考えることをやめているから、寂しいとすら思わない。思わないようにしている。それは俺のやり方とほとんど同じで、やはり俺は彼女と似ているのだと再認識することとなった。
同時に、ふと一瞬、俺のやっていることが本当にいいことなのかわからなくなる。
俺はこいしが寂しいと感じないことが、どこか心苦しく思った。でもこいしが俺とほぼ同等の存在だと言うのなら、俺もまた他人からは彼女と同じくらい痛々しく見えているのではないか?
……心配、かけたくないな。
もしもそうだと言うのなら、修正をするだけだ。騙すのは自分だけではない。俺を親しく感じてくれている人たちに迷惑をかけないように、いつだって幸福なていを装っていればいい。
嘘はバレなければ、それが真実となる。レーツェル・スカーレットは幸福だ。俺の内心はともかく、世界の真実はそういうことにしておくが吉だろう。
「そろそろ洞窟を抜けるよー。地霊殿まではまだちょっと遠いけど」
太陽の光はもはや届いていない。なのに若干明るいとは不思議なものだと思いながら、かぶっていたフードを脱いだ。
耳の尖った妖怪少女の近くをこいしの能力で気づかれずに通りすぎると、一分もしないうちに穴の終着点へとたどりつく。
そこに広がっていたのは、広大な和風の都であった。