鬼。古来より人間の天敵とされ、強さの代名詞とまでされた妖怪だ。昔は天狗と並んで恐れられてきた存在であるが、現在はどことも知れぬ別の世界に行ってしまったと噂され、幻想郷でさえも伝説の妖怪とされていることがある。歴史の浅い妖怪には実在していたことが信じられていないくらいだ。
逆にかつて鬼とともにそこら中に名を馳せていた天狗たちは、妖怪の山に独自の社会を作って生活している。鬼とは違ってきちんと存在を認識されているため、人間に「地上で最強の妖怪はなんだと思う」と問えば、大半が鬼ではなく天狗だと答えるはずだ。今の人間は鬼の恐怖を、強さを忘れた。ちなみに、残念ながら吸血鬼は幻想郷では新参なのでおそらく挙げられない。
そんな、妖怪の中でも最強格とされる天狗だからこそ痛いほどに知っている。何百、何千年の時を生きる妖怪は知っている。
鬼は実在する。
鬼はまさしく、間違いなく最強の妖怪だ。
それは不変の真理である。たとえこれからどれだけの時が経とうとも、強さという一つの枠において鬼を越える妖怪の種族が生まれることは決してない。個体としてはともかく、種として越えることだけは絶対にありえない。
吸血鬼が吸血『鬼』であるように、鬼とは強さの代名詞なのだから。
「それで、あの三人に挨拶は済みましたか、ゆかりん」
「あれは、あなたがけしかけたのね」
「私が言わなくても自然とそうなっていましたよ」
春雪異変と呼ばれるようになった幽々子の起こした事件から、すでに数か月の時が経過していた。
俺が霊夢たちに幽々子へ話を聞くように言った数日後、藍と紫は彼女たちと顔を合わせることになったようだった。弾幕ごっこで遊んだようだが、その勝敗がどうなったかは聞いていない。あまり興味もなかった。
桜の季節は終わり、今年もまた暑い季節がやってくる。去年と違って幽霊の数が格段に多いので、人間たちは非常に迷惑することになるだろう。けれど幽霊は基本的になにかに危害を加えたりとかはしないし、近くにいると涼しいし、できるだけ多めに見てあげてほしいものだ。
もう少しで新月になる月を見上げ、あと半月近く経てばまた満月になる、と思いを巡らせる。わずかにしか光を発さない月と、それの代わりとでも言うように爛々と輝く星々の海を泳ぐように、遠くの空で半透明の白い塊が横ぎった。
紫は冥界と顕界の境を引き直さなかった。だからこうして今も幽霊たちが闊歩しているし、幽々子や妖夢も今行われている宴会に平気で参加している。別に結界を張り直さなくても幻想郷全体としては大して影響はないので放っておいてあるようだ。
「もしかしてあなたは、この異変のこともすべて把握しているのかしら」
「なんのことでしょう」
「知っているのね。それなら幻想郷中に漂う妖霧のもとが、とてつもなく大きなものであることもわかっているんでしょう? 心配性なあなたがどうして動かないのかしら」
俺は紫と縁側に座って、一歩離れた位置で皆が騒いでいる様子を眺めていた。
ほとんどの者たちはただ純粋に宴会を楽しんでいるようだが、何人かは、そこら中に不可思議な力が蔓延していることに気がついている。それはここ数日は続いているものなのだが、原因が特定できないゆえに訝しんではいても誰も行動に移さない。
三日おきの宴会。春が終わってすでに桜は深い緑に包まれ始めているというのに、異常な頻度での花見、大騒ぎ。これが異変であるということは、もしかすれば何人かはすでに思い至っているかもしれない。
――誰かが故意的に多くの者たちを博麗神社に萃めて、宴会を行わせている。
「この異変は危険がほとんどないからです。それにきちんと注意はしていますよ。ほら、今日だって紫を呼びましたし。紫がいれば危険はないですし」
「私なんかを信頼して大丈夫? というより、ひょっとすると知り合いだったりするかしら」
「いえ、元凶さんとは会ったこともありません」
「あらそう。まぁ、確かに危険は少ないかもしれないわね。アレはおふざけでなにかを殺したりなんてことはしない性格でしょうし。おふざけとしか思えないことを本気でやることも多いけど」
藍に酌をしようとしていた橙が急に態勢を崩して、そのまま中身を相手へぶちまけた。キョトンとした表情の藍を見やり、紫が面白そうに口の端を吊り上げた。
いずれ誰か――霊夢や魔理沙、咲夜に限らず、多くの者たちが妖霧の正体を求めて動き出すだろう。そして突き止め、そこで思い知る。失われた真の最強、人も妖怪もその名を知らぬ者など誰一人としていないほどの種族、鬼の力を。
「そんなことより、今は宴会を楽しみましょう。ほら、霊夢が呼んでいますよ」
「あらあら、なにか面白いことやれ、ですって。ずいぶんと勝手な提案ねぇ。どうしましょう」
「期待していますよ」
「期待されたわ」
紫がスキマに消えて、バアッと霊夢の背後に現れて脅かしていた。奇声を上げた霊夢がキッとした表情で紫を睨んで、そんな様子を見て周りが爆笑する。どうやら無事に面白いことができたようだ。
ゆっくりと、静かに右手を上げる。そしてそこにある見えないなにかを掴もうとするように、手を伸ばした。
指先が紅い霧に変わっていき、すでにあった妖霧と混じり合う。己の霧に突然違うものが混じって、妖霧の犯人も少しくらいは驚いてくれたかもしれない。せっかくの花見……桜は咲いてないけど、とにかく宴会なんだからちょっとはサプライズがあった方がきっといい。
手を元に戻す。俺も縁側から立ち上がって、霊夢たちの方へと足を進めた。
「まだまだ宴会は続きそうですね」
今年は異変続きで大変そうだ、と他人事のように感想を抱いた。
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あれから十数日。レミリアから話を聞くと、その間、宴会に出ていた何人かが唐突に押しかけて来ては異変の犯人呼ばわりして勝負をしかけてきていたらしい。さすがに三日おきに宴会をやっていると少しは疲れてくるもので、皆、解決するために思慮を巡らせて……というより、体を動かしているようだ。ちなみに俺は、フランが疲れている時は一緒に紅魔館で休んでいたりしていた。やっぱり適度が一番である。
それでも宴会が頻繁にあるというのはとても楽しい日々だった。たくさん騒いで、そういう場所で仲良くなって、日常で会った時に「あの時の」となったりするものだ。仲を深めるのに祭事はとても適している。
「だから、感謝しているんですよ」
昨日まで幻想郷中に広がっていた妖気が、少し前から俺に纏わりついていた。
無名の丘、と呼ばれる場所のさらに奥。なにもなく、ただっ広い草原だけがここにある。あらかじめ広い場所に移動しておいてよかった。ここなら多少暴れても文句は言われない。
――異変はすでに解決していた。具体的に言うと、霊夢が昨日解決した。解決というか犯人が飽きてきたから自然にというか、とにかく終わったのだ。
それでも妖霧は収まらなかった。いや、正確に言えば俺の周りから消えてくれないのだ。三日おきに行っていた宴会は終わっていて、俺の周囲にだけ妖霧が浸透している。
どうやら犯人は、今度は俺に用があるらしい。
「用があるなら、いい加減姿を現してくださいよ」
あいもかわらず反応はない。昨日からずっとこうなのだ。
はあ、と小さくため息を吐く。少々乱暴だけれど、能力を使おう。
「あなたの能力は、ただ広がっているだけ……私はあなたに触れている。さぁ、姿を現してください。あなたが能力で己が身を霧にしている『答え』をなくします」
能力を発動、揺蕩っていた妖気が一瞬にして消え失せ、頭上に何者かが具現化した。このままでは衝突するので、素早く三歩ほど後ろに下がる。
タン、とその何者かが――幻想郷から失われて久しい最強の妖怪、鬼が目の前に着地した。
「あれ、あんたも紫と似たようなことができるの? 私を萃めて元に戻すなんて」
それはあまりにも拍子抜けな、鬼だと言われてもすぐには信じられないくらいに幼く可愛らしい少女であった。
髪型はロングヘアーで、薄めの茶色の髪を先っぽの方で一つに縛ってまとめている。瞳は吸血鬼ほどではないにせよ美しき真紅を誇り、お酒が入っているようでその顔には赤みが差している。服は白のノースリーブ――袖が破けているようなデザインが印象的だ――で、胸元に赤いリボン。紫が主体のロングスカートを穿いていて、腰や手首には三角錐、球、立方体の分銅をそれぞれ鎖で吊るしていた。人間には単なる重しにしかならないが、力のある妖怪にはアクセサリーを名乗れるのかもしれない。
そして頭には彼女が鬼であることを表す、鹿のような、されどどこか異質な捻じくれた長い角。頭の後ろに大きな赤いリボン、左側の角に小さな青いリボンを巻いている。
「いや、原理が違うねぇ。あいつのは大きく囲んだ境界を一気に小さくしてるだけ。でもあんたのは」
「根源から無効化した、ただそれだけですよ」
少女が手に持っていた紫色の瓢箪に口をつける。飲んでいることが当たり前かのような自然な動作だった。
瓢箪を離すと、彼女は「ふぅん」と鋭く目を細める。
「やっぱり思った通り。あんたの姉なんかより、あんたの方が何倍も強い」
「……別に、そんなに変わらないと思いますけど」
「嘘。そう、前々からずっと言いたかった。そのためにあんたを追いかけて来たんだ」
雲が払われて、満月が顔を出した。ここは二人の鬼以外は誰も見当たらない静かな場所だけれど、きっと丘の向こう側では多くの妖怪たちがワイワイと騒いでいるに違いない。
「あんたは嘘を吐きすぎる。それは我ら鬼が一番嫌悪する部分だ」
「本気で言ってるんですけど」
「本気もなにも、あんたは本当のことを言っているのか嘘を口にしているのか、自分でも全然理解していないじゃないか。笑えるくらい自分に正直じゃないから、なにが本当でなにが嘘かもわからなくなってる。そしてそのことを本当は知ってるくせに、それさえ気づかないフリをしてるんだ。滑稽だねぇ」
「……違いますよ。なにが言いたいんですか?」
「私はあんたのことをよく知ってるよ。ずっと見てきたもの」
一際風が強く吹いて、目の前の小さな鬼の長い髪がバサバサとなびいた。
また瓢箪の中身を口に運んで、しばらく間を開けてから言葉を放ってくる。
「宴会ではいつもいろんなやつらと話してたね。なにかを頼まれれば絶対に断らないくせに、自分からなにかを頼んだりはほとんどしない。八方美人は楽しい? 本当は息苦しく感じてるんじゃないの?」
「そんなことはありません。私は自分から望んでやってるんですから」
「それも本当かどうか。あんたはまるでなにかに囚われているかのよう。鎖で必死に自分を押さえつけようとしてて、自分ではうまくできてるつもりなのかもしれないけど、私から見たらまるでなっちゃいない。表面ではなにも見せないくせに、奥底では気づいてほしいって願ってる。本当と嘘の境界が曖昧なせいで自分が矛盾してることにさえ気づいてない。いや、気づこうとしないのか」
気づいた時には、すでに目が離せなくなっていた。脳がその言葉を聞こうと神経を集中させて、体を固まらせている。
どうして?
拳を強く握る。なんだか無性に、目の前の小さな鬼の言葉を否定したいような気分だった。よくわからないけれど、とにかく無理矢理に口を開かせる。
「私は!」
「……私は?」
「……私はただ、皆が楽しければいいんですよ。霊夢や魔理沙、お姉さまにフラン、咲夜や紫、他にもたくさん、皆が楽しく騒いでいればそれだけで私も満足です。というかそもそも私だってお酒を飲んで楽しんだりしてますし」
「満足、ねぇ。それも嘘。あんたはそう思い込もうとしてるだけ。本当は誰よりも寂しくて構ってほしいくせに、中途半端に自分を隠してる。だから自分からいろんなやつらに近づくんだ。気づいて気づいてって思いながら会話を重ねて、万が一奇跡的にあんたの気持ちが察せられることがあっても、どうせ否定するくせに」
「だからそんなことはないと言って」
「嘘、嘘、嘘……鬼は嘘が嫌いなのよ。他のなによりもね」
これ以上は聞く耳を持たない、とでも言うように小さな鬼がその身に宿る妖力を解放した。
草木が揺らめき、空気が震える。レミリアやフランとは比べ物にならない、紫クラスの莫大な力の奔流がこの場を埋め尽くした。
最強の種族、鬼。さらにその中で、かつては山の四天王の一人とまでされた鬼――酒呑童子、伊吹萃香。戦う気は最初から満々だったようだ。
「さぁて、嘘ばかりなその根性、叩き直してあげないといけないよねぇ」
「……勝負のお誘いなら受けますよ。なんだか今……よくわかんないんですけど、もしかしたら、イラついてるのかもしれません」
「そいつは奇遇だ。私もだよ」
最初はお礼を言ってちょっと戦うだけのつもりだった。しかし、その時に思っていたよりも激しいものになりそうだ。
どうして俺は、強引にでも否定しようとしたんだろう。萃香の言っていたことなんて単なる戯言だ。気にする必要はない。
小さな百鬼夜行と一触即発の雰囲気でにらみ合っている中、ふとそんな考えが浮かぶ。そしてその隙を突いて、萃香が一歩踏み込んできた。