廊下のそこかしこに簡単な構成の魔法陣が出現すると、そこから液体と化した魔力が溢れ始めた。それは床に落ちることなく、無重力に宙を緩慢な速度で漂っている。
舞台は整った、あとは主役の登場だけ。スッと弓を持った手を横に切り、俺の目の前に面を上に下五メートルはくだらない魔法陣を描き出す。まるで召喚されるようにズズズと構築されていく魔力の塊に、霊夢が訝しげに首を傾げた。
「……犬?」
「狼ですよ」
現れるは召喚した図形と同程度の大きさを誇る、狼の形をした魔力の集合体。
腕を上げ、振り下ろす。目標は博麗霊夢だ。命令を組み込まれた魔力狼がワオーンと甲高い遠吠えをし、タンッと足元にあった液体の魔力を蹴った。
今もなお溢れ続けている液体魔力を跳び移りながら魔力狼が霊夢に接近する。
「わっ、と!」
この魔力狼は重力に従うようにできている。高いところに移動されたせいであと一歩牙が届かず、近場の液体魔力に着地、もう一度標的に向けて跳躍をした。
相手は大きかれど一匹の魔力狼で、重力が仕事をしていることもあって比較的避けやすい。霊夢は初めはそう考えているかのように余裕そうに回避していたが、すぐにこのスペルカードの本当の恐ろしさに気づいたようだった。
水飛沫だ。魔力狼が足場にした液体魔力が飛沫となって空中に移動し、拡散し、滞在し、霊夢の動きを妨害する。
彼女としては自分を優に越える巨大さの魔力狼には絶対に当たりたくないだろう。だからこそ完全に意識を外すことができない。だからと言って上がり続ける水飛沫を無視しているわけにもいかず――"光弓『デア・ボーゲン・フォン・シェキナー』"と同じようなカラクリの、両方に注意を向けなければならないスペルカード。
「こ、の! さっきからッ!」
躱すばかりだった霊夢が、ムカついたかどうかは知らないけれど不意に魔力狼にお札を投擲した。ジジジとせめぎ合う音と「きゃうんっ」と小さな悲鳴を立てて魔力狼がわずかばかりに後退し、その突進は避けるまでもなく対象に届かない。
そこで霊夢はこのスペルカードの仕組まれた攻略法に気づいたようだった。
"童話『赤ずきん』"はその名の通り、『赤ずきん』という童話をモチーフに作ったスペルカードだ。その童話の最後は主人公である赤ずきんを食べた狼を猟師が撃ち殺し、腹の中から救出するというもの。
この"童話『赤ずきん』"では狙われる者こそが赤ずきんであり猟師でもある。赤ずきんのようになすすべなく食べられるか、猟師のように戦って倒してしまうのか。
「だったら!」
――"霊符『夢想封印』"。
霊夢の霊力が高まり、その周囲に八つの霊力弾が出現した。そのどれもに封印の力が付与されているらしく、綺麗な虹色に輝いている。
彼女がお祓い棒で対象を指し示すと、封印霊力弾が魔力狼へと殺到した。さすがにマズいと思ったらしい――思考機能はないが、危機感知機能は装備させている――魔力狼がどうにか躱そうと辺りの水面を飛び回るも、封印霊力弾には追尾性能があるようで振り切れない。
すべてが容赦なく命中し、お札が当たった時よりも高い悲鳴を上げた。さすが吸血鬼の産物とでも言うべきかまだ生きていた。しかし封印で力が弱まっているせいでその後に撃ち出されていた大量のお札はどうにもできない。自らを構成する魔力を血飛沫に上げながら爆散した。
スペルカードが終了し、液体魔力とそれを生み出していた魔法陣が消滅する。
「狼と一緒にあんたも手を出した方が強いんじゃない?」
「あれは美しく魅せることを主眼に置いた、いわば演劇を行うスペルカードですから」
「なるほど、まさにスペルカードとしてしか意味をなさない技ってわけね」
ちなみに霊夢が食べられていた場合、俺が猟師役となって魔力狼に矢を放っていた。もちろん助けるためではなく、中身もろとも吹き飛ばして戦闘不能にするためである。
――"神霊『夢想封印 瞬』"。
今度は霊夢が先にしかけてきた。あらぬ方向へ直線移動を始めながら、上下左右あらゆるところへお札をまとめて投げていく。それは数メートル進んだ辺りで移動をやめ、空中で停滞していた。
右へ消えていったはずの霊夢が当たり前のように視界の左側から現れる。さすがにちょっと驚いた。今度は上に行ったはずなのに下から出現し、俺から見て前方へ移っていたかと思うと後ろから気配を感じ取る。
咲夜のような単なる瞬間移動というよりも、限られた空間内をループしているという表現の方がしっくりきた。ゲームで例えれば画面の右側に行ったら左側から出てくるという感じの。
そうして考えごとをしている間も増え続けていたお札がついに動き出し、俺に目がけてゆっくりと近づいてくる。いつの間にか完全包囲されていて、全方位から幾重にもわたるお札の層が展開されていた。
どうにかして層と層のスキマを掻い潜って脱出してみたけれど、どういうわけかそこでも俺は包囲されていた。再度大量のお札が動き出し、それをまた抜けようとしたら今度は封印の力が込められた中くらいの大きさの霊力弾が無数に俺を狙って放たれてくる。辺りがお札だらけで逃げ道が小さなスキマしかなかった。
――"童話『長靴をはいた猫』"。
「にゃー、と!」
頭に猫耳、腰に尻尾を生やし、己の肉体へ一時的に猫の潜在能力を付加する。強化の魔法に変化の妖術を組み合わせた獣人化魔法とでも言うべき術で、これを使うと反応速度と柔軟性、機動力などが大幅に上昇する。
霊力弾を素早く飛び回ることで後ろ側に置き去りにし、自らを囲い続けるお札のスキマを
『長靴をはいた猫』とは、飄々とした猫が主人のために他の登場人物を騙して回り、最終的に主人を姫と結婚させるという、要するに猫が無双する童話だ。それを参考にした"童話『長靴をはいた猫』"は吸血鬼の身体能力と猫の性質をかけ合わせ、物理的に無双するスペルカードである。
接近を繰り返し、幾度となく惜しくも逃げられていくうちに段々と動きが最適化されていく。猫の感覚が獲物を捕らえるために無意識に頭を回転させ、なにをどうやれば追いつけるかが導き出された。
「シッ――」
弓を倉庫魔法で自分の空間にしまい、霊夢を追いかけるフリをして即座に逆側へ方向転換。お札をほぼ直線に、しかしギリギリで当たらないようにしながら、ループ現象で目の前に出現した霊夢へと妖力で形作った爪を振りかぶる。
「くっ」
お祓い棒で防がれた。逆の手で下から掬い上げるようにして、それも寸前で後退して回避させられる。
けれども猫がその程度で諦めるはずがない。
何度も追撃する。何度も爪を振り回す。そのたびに霊夢は後退し続け、直線に移動しながら戦うことになった。
やがてループする空間の境界に入った霊夢が目前から姿を消す。振り向けば大量のお札と霊力弾が近づいてきていたので、弾幕が薄い箇所に飛び込んで小刻みに右や左、上や下に移動しながら向こう側に抜けた。
霊夢はスペルカードを終わらせたようで、一時的に弾幕の生成をやめて再度対峙する。
「普通に近づいてくるってなによ、もう。よくあんな中を潜り抜けられるわね」
「猫ですから」
「猫の妖獣程度じゃ避けられないわよ」
さて、次はどう来る? どんなスペルカードを使う? 猫獣人モードの俺を仕留め得る技を持ってるのか?
そんな無表情ながらにワクワクとした感情を抱いていることが視線から伝わったようで、霊夢が深いため息を吐いた。
「あんた、自分の妹の心配はしないわけ?」
「フランは強いですから。信じてるんですよ」
「信じてる、ねぇ……うーん」
「どうかしましたか?」
考え込むように腕を組み始めたので、首を傾げて問いかけてみる。
「あんたはともかく、あのフランドールってのは四九五年も外に出てないんでしょ? こんな狭い世界しか知らないなんて不憫ねぇ。あんたが連れ出したりとかはしないわけ?」
「……連れ出すつもりですよ。この勝負が終わったら」
「はぁ、四九五年も一緒にいたってのに、口では信じてるとか言ってる割にはそこまで信じちゃいないのね。人間の何倍も生きてるんだから、外を歩かせるような機会はいくらでもあったでしょうに。もしかして下手に外に出すと問題を起こすんじゃないかって思ってたりするの?」
「そんなことは」
フランはすでに手加減をほとんど完璧に身につけている。原作で彼女を地下室から出して館内を出歩くようにしたのは、他でもない今行っている決闘によるものだ。だからこの決闘が終わったら俺も彼女を……。
自分の妹が問題を起こすことしか考えてない――ふと、彼女が生まれた時の光景と、父とその眷属を失った日のことが頭をよぎった。違う、と首を横に振る。あれは俺のせいだ。フランの狂気は俺の罪だ。
いや、罪だとか考えている時点で霊夢の言う通りなのか?
この日まで俺がフランを連れ出さなかったのは、原作でも外に出始めたのはこの日の出来事だからということもあるが、大半の理由は彼女の手加減の修行が完璧ではなかったからだ。物を、人を壊してしまうかもしれない。また俺が大切だと思うものを失ってしまうかもしれない。
けれど言い方を変えれば、それはフランを信じてやれなかったということに他ならないのではないか。彼女の深層には狂気が存在し、意図せず物を壊してしまったりすることはあるが、きちんと確固たる意思があって、俺を慕ってくれてもいる。俺の言いつけは守ってくれるはずで、それを心の底から信じていたのなら、加減が完璧でなくても外の世界を見せることは十分に可能だったんじゃないか。
今に至るまで、四九五年間も外に出そうとしなかったのは、俺の中で大切な妹であると同時に、腫れ物のような存在だったからではないか?
頭の中でさまざまな見解が浮かんでは交錯する。
フランがその身に狂気を宿している原因はまさしく俺にあり、その原因とは俺が生きる意味を考えもせずに過ごしてしまったことにある。こんなどうしようもない俺を愛してくれたかけがえのない人たちを自分の過失で殺してしまい、その責任と己が罪の塊であるフランへの償いを胸に今日まで生きてきた。
俺がフランを大切に思っていることは、本当だ。狂気などとは無関係に、ともに四九五年間を過ごしてきた仲が軽いはずがない。彼女も俺を慕ってくれているのがいつも伝わってくるし、俺も家族として愛しているかと問われれば迷う間もなく頷くことができる。
けれどそれとは別に、霊夢が言うように俺はフランを真の意味で信じ切れているのだろうか。
最近の彼女は感情が高ぶっても狂気が表に出ないことが多い。最初の五〇年はほんの少し興奮するたびに暴走していたが、手加減を覚えるための修行を始めてからはそれも徐々に減っていった。
いくらでも外に連れ出す機会はあったのだ。
俺はフランが自分の意志以外で物を壊さないようになりたいと言い出した時、フランの狂気が鳴りを潜めていく中、それでも「下手をすればまた大切なものを失うかもしれない」という気持ちが拭えなかったのではないか?
――ああ、そうだ。
ふふっ、と小さく口元に作り笑いを浮かべる。
俺が彼女の幸せを奪ったというのに、その償いと贖いのためだけに今もなお生きているというのに、俺は自分で思っているほどフランを信頼し切れていない。それもそうか。なにせ感情から生じる表情をなくした。自分の一部の感情に気づかないようにしたのだから、齟齬が出るのは当然で……。
「フランを信じる、か……」
「ん? なにか言った?」
母や父、そしてその眷属を殺したのは間違いなく俺の過失だ。フランに直接手を下させてしまった。そんな後ろめたい気持ちを抱えていたから、彼女自身を俺の罪だと認識していたから、心の底では信じ切ることができていなかった。
心を改める必要がある。
フランを大切な妹だと謳うならば、真の意味で信頼をしなければならない。責任を、義務を、贖罪を果たすために、彼女に奪ってしまった『日常』を見せなければならない。それができなければ俺は"答えのない存在"ではなくて、"他者の答えを害する存在"になってしまう。そんなのは生きる意味がない以前に、生きていてはいけない存在になってしまう。
大きく深呼吸をして、霊夢に向き直った。
「いえ……なんでもありませんよ。続きをしましょう。ちょっとキツいお言葉でしたが、ありがとうございますと言っておきます」
「……や、私も悪かったわ。ちょっとむやみに首を突っ込みすぎたわね」
「大丈夫ですよ。本当に助かりましたから」
そろそろ再開しよう。霊夢と戦えたことはいい刺激になった。なにせ俺では気づけなかった――気づこうとしなかったであろうことに目を向けられたのだから。
「そちらから来ないならこちらからいきますよ。今、スペルカード発動中ですし」
「私から行くなら来ないでくれる?」
「そんなわけないじゃないですか」
「ですよねー」
不意に、迷路のように複雑な廊下を縫うようにして高速でこちらに近づいてくる物体を感知した。かなり離れたところにそれを追うようにして親しみを覚える魔力も移動している。
これはまさかと霊夢の方を向くと彼女は「やっと来たわね」と呟いていた。
「お待たせだ! これで二対一、仕留めるぜ霊夢!」
推進力として後方にマスタースパークを噴射している黒白の魔法使いが、廊下の角から姿を現した。