「……壊れ、ない?」
「おめでとうございます、フラン」
クマのぬいぐるみを両手で持ち、恐る恐ると呟く彼女に賛辞を述べる。
ついに力の加減が道具を手に取っても大丈夫な段階までたどりついた。ぬいぐるみは地味に中の綿が圧縮されて破裂しそうではあるものの、なんとかフランの力に耐えている。
フランは胸に抱いて「わぁ」と柔らかさに感動したように顔を埋めた。
「これもお姉さまが作ったの?」
「魔法研究と道具作りは私の二大趣味ですからね。もちろん手作りです」
「……ありがとう、お姉さま」
「どういたしましてですね」
心からの笑顔は見ている側も幸せな気持ちになる。
ぬいぐるみの耳をちょんちょんと触ったり、意思でも通わすかのようにじーっと目を合わせたり。
あとはラストスパートをかけるだけだ。数年もあれば力を完全にコントロールできるようになる。人間と遜色ないレベルまで自在に力を落とせるようになり、自分の意思と関係なく物を壊してしまうことがなくなる。
「……なんか、涙出てきちゃった」
「え? フ、フラン、大丈夫ですか?」
「よくわかんないけど……お姉さま、いい?」
返事をまたず、フランが胸に飛び込んできた。倒れそうになりながら受け止めて、妹が震えていることをようやく理解する。
よくよく考えれば、彼女はこうして壊さずして物に触れるようになるために数百年もの時間を費やしてきたのだ。その努力がついに実った。それで泣かないはずがない。
フランをあやすように背中をポンポンと叩く。ずっとがんばってきた妹へのご褒美だ。今くらいは、服が涙で濡れるのも、感動の感情で力の加減が微妙な感じになって痛いことも許容してあげよう。
「おめでとうございます、フラン」
もう一度そのセリフを告げて、妹の頭を優しく撫でた。
□ □ □ □ □ □ □ □ □ □
「近々、幻想郷に攻め入ろうと考えているの」
とある、あまり使われていない一室。レミリアの開口一番に放たれた言葉に、この場にいるほとんどの者がなにかしらの反応を見せた。
美鈴は「幻想郷? なんですかそれ?」みたいに首を傾げ、パチュリーは興味深そうに目を細める。俺は表情は変わらないものの一瞬思考が止まり、咲夜だけがいつもと変わらず紅茶を俺やレミリア、パチュリーへと差し出していた。
脈絡もなく突然集められたかと思えばこれである。わけがわからない。
「えーっと、その、幻想郷って言うのはなんでしょう」
いい質問ね、とレミリアが美鈴を指差した。
「昨今、神々や妖怪がその力を落とし、妖精が数を減らしていることは当然理解しているわよね」
「ええ、まぁ、私も一応妖怪ですからねー」
「幻想郷とは遠い島国にある変な結界に囲まれた土地のことなのだけど、どうやら一部の妖怪には楽園とまで呼ばれているみたいでね。人は神秘の存在を信じ、妖精はそこらに闊歩して、妖怪の力は衰えることを知らない」
「なんだか凄そうですねー………」
ほへぇ、と目を瞬かせる美鈴。
続いて反応を見せたのはパチュリーだ。紅茶を一口飲んで、口元を緩ませる。
「聞いたことがあるわ。世界の各地で起こっている妖精や妖怪の神隠しとでも言うべき消滅現象……一説では、幻想郷に引き込まれたとか」
「そうそう、それよ。同胞から聞いた話によるとそこには変な結界が張られているらしくてねぇ、存在を否定された妖怪を引きずり込むようにできているんだってさ」
「まぁ、それなら私やレミィたちはまだまだ大丈夫でしょうね。美鈴はどうか知らないけど」
「え、きっと私も大丈夫ですよ! なんたって紅魔館の関門ですよ! 関門! 人間たちにも知れ渡ってるに決まってます!」
「そうねぇ。そうだといいわね」
「いじめないでくださいよー、パチュリーさまー」
不敵に笑うパチュリー、涙目になる美鈴。パチュリーの方が後から来たのに、気づいたらこんな関係になっていた。ちなみに咲夜も同様だ。咲夜が「美鈴」と呼ぶのに対し、美鈴は「咲夜さん」と下手に出る。きちんと仕事をこなす咲夜と昼寝をよくする門番との違いであった。
そんなことより、同胞? 頭の中で疑問を抱く。他の吸血鬼たちだろうか。
俺は未だレミリアとフラン以外の同族には会ったことがない。姉がそんな話し合いをしていたことだって初耳なのだ。
「この前来たのよ、私たち以外の吸血鬼が。それから一緒に幻想郷を侵略しないかってお誘いがね」
「……そう、なんですか」
俺の思考を察したらしいレミリアがご丁寧に説明してくれる。同胞、吸血鬼、侵略――幻想郷に攻め入るとは、その名の通り本当に乗っ取るという意味での発言で間違いない。
魂に刻まれた記憶を瞬時に探ると、一つだけこの話題に通じる出来事の知識があった。
『吸血鬼異変』。幻想郷――原作、東方Projectの舞台となる土地へと、初めて吸血鬼が襲来した事件だ。力のままに暴れまくり、危うく幻想郷が乗っ取られそうになる。
最後はもっとも力のある妖怪によって鎮圧されたらしいが、詳しいことは不明とされている。公開されていた情報は曖昧なものばかりで、具体的になにが起こったのかはわかっていない。
「……危なくないですか?」
だから、思わずそんな言葉が口をついて出てしまった。
「そうねぇ、大手を振って大丈夫とは言えないわね。なにせ戦争だから」
レミリアが纏う空気が変わった――魔力を垂れ流しにして、この場の注目を集める。
「それでも、このままではいずれ私たちも人間たちに忘れ去られてしまうでしょうね。そうなれば幻想郷の変な結界で自動的に引き込まれる。だから遅かれ早かれの違いでしかないのよ」
「私たちが行く必要はあるのですか? たかが数人の吸血鬼が参加しない程度で戦局は変わらないと思いますが」
「吸血鬼とは一騎当千の存在よ。弱点を多く持つ代わりに、ありとあらゆる面で秀でている。一人でもいるのといないのとでは大違い」
吸血鬼の強さは俺もよく知っている。卓越した身体能力、スピード、魔力、再生能力、特殊能力。しかしそれらを持っていても決して無敵の存在ではない。
不安を抱いている俺の内心に気づいたのか、レミリアが肩を竦めた。
「そんなに心配しなくても大丈夫よ。それに私はそこまで熱心に戦うつもりもないわ。紅魔館には守らないといけないものもいっぱいあるしね」
「……お姉さまのその言葉、ちゃんと覚えましたから」
「ここにいる皆はもちろん、命が無限にあるからと言って妖精メイドたちも見捨てる気はない。私は紅魔館の主、誇り高き貴族よ。一度口にした言葉は違えないわ」
いずれ幻想郷に行かなければならない。あまり熱心に戦わない。守るべきものがある。
ここまで我が姉である彼女が言うのだ。反論の気持ちは未だあれど、それをもう口にはできない。
「で、レミィはその幻想郷への移動はどうするつもり? 海の向こうにある場所なんでしょう?」
「幻想郷の結界とやらを利用するわ。妖怪を引き込もうとしてるんなら、それに乗じて館ごと転移させるのよ」
「……そういう魔法を私に作れ、と?」
「話が早くて助かるわね」
パチュリーが一際大きなため息を吐いた。いきなりそんなことを頼まれれば当然だ。館全体を転移させるなんて大きなことは一朝一夕でできるものではない。
「……咲夜、手伝って。あなたの空間をいじる力が必要だわ」
「了解いたしましたわ、パチュリーさま」
最初に知識人とメイドがいなくなり、門番の仕事があるからと美鈴もいなくなった。
紅茶を口に含み、最後まで残っていた我が姉レミリアと向き合う。
「私は館を保護する魔法を即急に作ろうと思います。正直、攻め込むなんて物騒なことは賛成ではないのですが……私はお姉さまを信じてますから」
「それは嬉しいわね。ところで、レーツェルは侵略の方には参加しないのかしら」
「大切なものを守るためなら喜んで。それが、あの日に誓ったことの一つですから」
それだけ告げて、俺も足早に部屋を後にした。
館を守る魔法は前々から構想だけは考えていた。急いで完成させなければならない。
□ □ □ Standpunkt verändert sich zu Unbekannt □ □ □
「なんだか胸騒ぎがするのよねぇ」
博麗神社――そう呼ばれている建物の屋上で、私は半分だけ光る月を眺めていた。
「胸騒ぎ、ですか。外の増長した一部の妖怪どもが近々攻め入ってくるとおっしゃっていましたが、それのことでしょうか」
「幻想郷のためにもある程度はそいつらに暴れてもらわないといけないけどねぇ、そうじゃないのよ。もっと別の得体の知れない嫌な予感とでも言うべき……なにかとてつもない失敗を侵してしまいそうな、そんな胸騒ぎよ」
「はぁ、私は特になにも感じませんが」
隣を見れば、道教の法師のような衣に青い前がけを被せた服装の妖怪がいる。
金髪のショートボブに金色の眼、狐の耳を隠す二つの突起が作られた帽子をかぶっていた。しかし、誰もが最初に目が行くのはゆらゆらと揺れる九本の尻尾である。かつて九尾と畏れられ、今は私の式として配下に置かれている、名を八雲藍。
両腕を交差させて袖に隠す仕草は彼女のクセであり、同時に、そのせいでなにもしていないのに胡散臭さを感じさせてくる。まったく誰に似ているのやら。
「今回は、少しばかり慎重になろうと思うわ。こういう感覚を無視して痛い目を見て来た回数は数え切れないくらいたくさんあるから」
「年の功というやつですか?」
「殺すわよ。というかあなたが言うの?」
外の妖怪が攻めてくるタイミングはわかっている。もっとも彼らの力が高まる時、すなわち満月の夜だ。
上弦の月を見上げ、一瞬で満ちるまでの日づけを計算する。
「あまり時間はないわね」
「此度訪れる外の妖怪とはそんなに手強いのでしょうか。一〇〇〇年も生きていない新参しかいないと聞いていますが」
「力があるだけで大した歴史もない、私が出ればすぐに鎮められる程度の妖怪よ」
「そりゃあ紫さまにかかればどんな妖怪も一捻りでしょうけど……」
「そんなことはないわよ。鬼ほどの妖怪が相手なら疲れたりもするわ」
「疲れるだけなんですね」
吸血鬼も吸血『鬼』だ。大昔より畏れられるその字を名前の中に持つ以上、それなりの力があるとみて間違いない。
「この予感が果たして幻想郷に益となるか、はたまた害を為すか……」
嫌な感覚は未だ拭えない。胸騒ぎはどうも強くなるばかり。
いざという時に備えて、ここの博麗の巫女にも備えさせておく必要があるかもしれない。
――そうして一週間が経過し、吸血鬼たちによる幻想郷侵攻が始まった。
□ □ □ Ein Standpunkt wird wiederhergestellt □ □ □