一.如月における菓子を送る日
□ □ □ Standpunkt verändert sich zu Sakuya Izayoi □ □ □
死とすべての痛みが消え失せるという未曽有の大異変――見えない霧が漂っていたことから、一部では透霧異変と呼ばれてるとかなんとか――から、およそ二か月の時が過ぎていた。
あの事件の犯人は未だ誰なのか判明はしていないらしい。神々が争い合っただとか、龍神さまが不機嫌になったからだとか、妖怪の賢者の謀略だとか、いろいろと説はあるようだが、世間では偶然世界の法則が乱れてしまっただけという結末に落ちついている。
元々幻想郷の住民は流されやすいというか、順応性の高い者が多いので、異変の影響はとっくになくなっている。もう誰も犯人のことなんて気にしようとはしていなかった。
昼は人間が里で活動をし、夜は外で魑魅魍魎が跋扈する。完全な平和とは言えないかもしれないが、けれど確かに幻想郷はいつも通りの日々を取り戻していた。
「前に異変のお詫びで渡した菓子折りが結構好評だったんですよね」
「ええ。私もいただきましたが、とてもおいしかったですわ。ちょっと甘すぎる気もしましたけれど」
紅魔館の厨房。私はそこで、銀に幾房か金の混じる髪を持った、一〇にも満たない幼児の見た目をした少女の相談を受けていた。
前の異変――そう。あまり広く知れ渡ってはいないが、二か月前に災厄を起こした者の正体こそが、まさに私の目の前にいる小さな女の子である。すべてを無に帰す『答えをなくす程度の能力』という力を操り、ありとあらゆる苦痛と日常に潜むわずかな脅威さえ根元から抹消することで幸福のみで満ち溢れた世界を創ろうとした。
その動機は至って単純で、どんな危険からも大切な人たちを守りつくすため。そして、自らの姉にずっと幸せでいてほしかったため。
「咲夜、あの時は菓子折りを作るのを手伝っていただいて、ありがとうございました」
「構いませんわ。私も楽しめましたから」
「それはよかったです……それでその、今日は一つお願いがあるんですけど……」
すでにこの少女に『答えをなくす程度の能力』は備わっていない。異変の終結に際して、その力は少女の中から消え去ってしまったのだ。
しかしそれから、少女はまるで憑き物が取れたように日々を謳歌するようになっていた。少し前まではずっと無表情だったその顔は、時には笑い、時には泣き、時には不満そうに口を尖らせたりと、生き生きとするようになっている。
今もそうだ。どこか申しわけなさそうに、けれど期待を隠せない色の瞳と顔で、彼女は私を見つめてきている。
「またお菓子作りを手伝って……いえ、違いますね。私のお菓子作りを見守っていただけませんか?」
少女――レーツェル・スカーレットという、館の主の妹の一人のお願いに、私は首を傾げた。
「見守る、ですか?」
「はい。前回は咲夜に任せてしまった部分が多いのですが、今回はそれらも全部私がやってみたいんです。でも、失敗したものを皆に食べてもらうのは、ちょっと気が引けますから……」
「なるほど、わかりましたわ。致命的な間違いをしそうになったら注意してほしい、と」
「はい。できるだけ自分だけで作りたいので、少しの失敗なら見逃してくれてもいいです。お願い、できますか?」
不安そうに小首を傾けるレーツェルお嬢さまに、くすり、と声を漏らす。
私はこの館のメイドだ。主であるレミリアお嬢さま、そして主の妹であるレーツェルお嬢さまや妹さまの命令を突っぱねることはまずできないし、しようとも思わない。それを目の前の少女は本当はわかっているはずなのに、命令ではなく『お願い』なんて言葉を使って、もしかしたら断られるかもしれない、なんて顔をして。
思わず頭を撫でるために伸ばしかけた手を引っ込める。さすがにそれをすることは立ち場の違い的に、私のメイドとしての矜持が許さない。
「もちろん、私のできる限りのせいいっぱいのことをさせていただきますわ」
「本当ですかっ? ありがとうございます!」
レーツェルお嬢さまが浮かべたのは、見ているだけでこちらまで自然と心地のいい気分になってしまうほどに、嬉しさが溢れんばかりの満面の笑み。
初めてレーツェルお嬢さまの笑顔を目にした人妖がたじろぐ姿は幾度となく見てきた。それほどまでに気持ちのいい、見惚れてしまうくらい正直な歓喜をそこに映しているのだ。
レーツェルお嬢さまいわく、これまで能力でずっと無表情を装ってきたから、表情のコントロールは自分ではできないとのこと。だから彼女はどんな些細な感情もそのまま表情に直結して出てしまうし、しかしだからこそ、彼女と一緒にいるととても安心した気持ちでいられる。
「それでレーツェルお嬢さま、いったいなにをお作りするのですか?」
「んー……定番に、クッキーです。材料も実はもう揃えてあるんです」
「今からお作りに?」
「できればそうしたいんですけど、もしかして咲夜はなにか用事があったりします?」
「そんなことはありません。いつでも、もちろん今からでも大丈夫ですよ」
「よかったです。それじゃあその、いいでしょうか」
「ええ。私はここで見守らせていただきますので、どうぞがんばってください、レーツェルお嬢さま」
「はいっ!」
厨房の端に立ち、作業に取りかかるレーツェルお嬢さまを眺めることにした。
レーツェルお嬢さまは、魔法で自前の倉庫空間から一通りの材料を取り出し終えると、バターを潰してほぐし始める。続いてグラニュー糖を加えて、卵を解きほぐし始めて。
ふいと、自分の顔に触れてみて、頬が緩んでいることに気づく。レーツェルお嬢さまが楽しそうに作っているものだから、私も感化されたのだろうか。
私はただ立っているだけで、基本はなにもしていない。でもつまらなくないし、なんだか悪くない気分だ。
「レーツェルお嬢さま、いくつかお聞きしてもいいですか?」
「大丈夫、ですよ」
たまに作り方の載った雑誌とにらめっこをしながら製作に四苦八苦するレーツェルお嬢さまに、気になっていることを問いかけてみることにした。
「どうして急にまたお菓子作りをしようと考えたのですか? 特に最近はイベントらしいイベントもありませんし……いえ、レーツェルお嬢さまのことですから、ただ単に思い立ったが吉日という感じなのかもしれませんが」
パチュリーさまも「レーテはたまに変なことを真面目にやろうとする」と言うし、私もそれには頷かざるを得ない。今回のことはただのお菓子作りなのでそう変ではないにせよ、ちょっと不思議ではあった。
ちなみにパチュリーさまもよくわからないおかしなことを真面目にしでかすので、あまり人のことは言えないのではと思ったのは、ちょっと悩んだ結果言わないことにした。なにせそんなのは今に始まったことではないし、この館の住民はどちらかと言うと変なことをする者の方が多い。
「イベントならありますよ。今日は、それに向けての準備です」
「はあ。近いうちになにかがあるとは、あまり耳にしませんが」
「ふっふっふっ、まぁ、幻想郷ではあまりメジャーではないみたいですからね。一般人にお菓子を作るのがちょっと難しいからというのもあるかもしれませんが……」
この様子だと、そのイベントがどういうものなのかは具体的に教えてくれなさそうだ。いや、レーツェルお嬢さまのことだから、適当に話を誘導すれば勝手に自白してくれるかもしれないが、さすがに私の尊敬する一人である彼女にそれをするのはやめておく。
そのイベントとやらの当日には私にも教えてくれるだろう、と気にしないことにした。それは別に予想ではなく、人生の半分以上をこの館と少女とともに過ごしてきたゆえの、単なる確信だ。
「わかりました。ではレーツェルお嬢さまは、今回のお菓子はどんな方々に配るのでしょうか。やはり前回と同じメンバーに?」
「もちろん前にお詫びをした人たちの全員には配りますよ。それから萃香とか幽々子とか、たまに交流をするような人妖たちとか、館のメイドたちにも……」
とにかく知り合いに配りまくるらしい。なんだか材料が妙に多いような気がしていたが、レーツェルお嬢さまの回答に私は納得をした。
「あ、咲夜。このことは……お菓子を配ろうとしてるってことは、皆には秘密にしていてくれませんか? お姉さまにも、フランにも」
「ふふっ、わかりました」
実際に渡した時に驚く顔が見たいのだろう。私が首を縦に振ってみせると、レーツェルお嬢さまは満足そうにお菓子作りに没頭し始めた。
前回一緒に菓子折りの菓子を作った時にわかっていたことだが、レーツェルお嬢さまは決してお菓子作りが苦手というわけではない。やったことはなかったとのことらしいものの、レシピ通りに作るくらいならさして問題など発生するはずがなかった。
あとはシートを敷いた天板の上に形を整えた生地を置くだけ。しかし、その途中で一つの問題が発生した。
「レーツェルー? どこにいっちゃったのかしら……そこにいるの?」
厨房の外から、聞き慣れた幼い声音が響いてくる。館の主、レミリア・スカーレットの声だった。それには私だけでなく、レーツェルお嬢さまも反応する。
あたふたと使った器具や余った材料を自前の倉庫空間に放り込むのを眺めながら、しかしその片づけが間に合わないことを私は悟った。形を取った生地をシートの上に乗せていく最中だったので、いろいろと調理台の上に散らばっているのだ。
ここは私が時間を稼ぐしかない。
「時よ、止まれ」
ずいぶんと前にレーツェルお嬢さまに懇願されたまま、もはや能力発動の際のクセになっている一言を呟く。レーツェルお嬢さまが静止し、途中まで耳に届いていたレミリアお嬢さまの声が一瞬にして途切れた。
そうして厨房の外に出る際、なんとはなしにレーツェルお嬢さまの方に振り返る。
ちょっと前までは『答えをなくす程度の能力』を保有していた彼女を、私は時を止めている間は認識することができなかった。それでいてスペルカードルールにおける私の技のほとんどはこの『時を操る程度の能力』によるものだったため、これまで私はレーツェルお嬢さまとスペルカードで遊んだことはほとんどなかった。しかし今は違う。少し前にも、私と戦ってみたいというレーツェルお嬢さまと戦ったりした。
私にはそれが、ようやくレーツェルお嬢さまが『この世界の住民』になれたのだという証拠のように感じられている。彼女がやっと自分自身の存在を認めたという証のように勝手に思っている。
口元に笑みが浮かぶのを自覚しながら、厨房の扉を開け、きょろきょろと辺りを見渡した。厨房を覗こうとしていたレミリアお嬢さまの姿を確認し、扉をしめると、レミリアお嬢さまの進路を塞ぐように立ちはだかる。
「そして時は動き出す」
すべてが元に戻る。レミリアお嬢さまもまた動き始め、突然目の前に現れた私にちょっとだけ目を開いて、立ち止まった。
「咲夜。レーツェルを見なかった? あの子の部屋にも行ってみたんだけど見当たらなくて」
「あら、厨房にはいらっしゃいませんわ」
「いや、見なかったか聞いたんだけど? 別に厨房にいるかどうかなんて聞いてないじゃない」
訝しげにレミリアお嬢さまに目が細まる。かちゃかちゃと厨房の奥で鳴る音に気づかれてしまいそうだったので、ろくに言葉も思いつかないままに口を開いた。
「そうですね、レーツェルお嬢さまを見たか、ですか。そういえば……」
「なにか知ってるの?」
「ムカデが突然部屋の中に現れたので、殺虫剤を買いに行くと言っていた気がしますわ」
内心、土壇場でそれっぽい嘘が吐けた、と安堵する。
「はい? 突然現れたって?」
「こう、ぱっと電気がつくように出てきたそうです。新手の妖怪でしょうか」
「や、知らないけど……もしかしてあのスキマ妖怪? ってそれくらいしかいないわよね、そんなことできるの。まったく、レーツェルを困らせるなんて……」
ここにはいない胡散臭い妖怪に憤りを覚えた表情を浮かべるレミリアお嬢さま。このままならどうにか乗り切れそうだ。
その時、ばたんっ、と厨房の中で大きな音がした。食器などが落ちたような音ではなかったが……まさかレーツェルお嬢さま、慌てすぎてこけてしまったりでもしたのだろうか。
レミリアお嬢さまが、じとーっと私をねめつけてきている。
「……ねぇ、咲夜」
「いませんわ」
「その中に」
「いませんわ」
「へえ、そうなの。いないのね?」
「ええ、いません」
「じゃあ、別に見てもいいわよねぇ」
私が時を止めようとするよりも早く、レミリアお嬢さまが動き出す。さすがに瞬きする間もなく私の横を通りすぎる彼女を止めることはできなかった。
扉が開く音。振り向いた時には、すでにレミリアお嬢さまは厨房の中に視線を送っている。
「……ほんとにいないわね」
思わず出かけた疑惑の声を飲み込む。きっとレーツェルお嬢さまは咄嗟に隠れることに成功したのだ。なんとか話を合わせなければ。
「だから言いましたわ。厨房にはなにもありませんわ、と」
「うーん……怪しいと思ったんだけどなぁ。部屋にあの子の嫌いなムカデなんて出たら、殺虫剤買いに行くなんて理知的な選択なんてしないで、すぐ私に泣きついてくるだろうし……」
まぁ、いないならいいわ。そう呟き、難しい顔をして去っていくレミリアお嬢さまの背を見ながら、ほっと息を吐いた。
廊下の端に消えて完全に見えなくなったのを確認してから、私は開いている扉から厨房の中に戻った。
調理台の上は綺麗に片づけられている。流し台の中には洗う前の泡立て器などが入っているが、入り口から覗いた限りでは見えない位置にあった。
さて、本当にレーツェルお嬢さまが見当たらない。どこに隠れたのか。
もしかして自前の倉庫空間に隠れたのでは、と考え始めた辺りで、がたんっと冷蔵庫が大きく揺れた。
「……レーツェルお嬢さま」
「…………冷蔵庫の中って、暗いんですね」
縮こまって入り込んでいたレーツェルお嬢さまを引っ張り出す。そんなところにいて大丈夫だったのかと問いかけると、吸血鬼だから寒さには強い、と胸を張られた。得意げな顔がどこか微笑ましい。
「どうして材料などと一緒に倉庫空間に隠れなかったのですか?」
「あ」
普通に思い至らなかったらしかった。その方がはるかに隠れるのが楽だった、とレーツェルお嬢さまが肩を落とす。
その後は特にトラブルもなくお菓子作りが再開し、きちんとクッキーが完成して、翌日――――。
「はい、咲夜っ! バレンタインのお菓子です!」
「バレンタイン……?」
そういえば、まだ外の世界にいた頃にそんな行事があるとどこかで小耳に挟んだような気がする。確か、主には女性から男性にお菓子を送る日だとかなんとか。本来はそういう行事ではないらしいけれど。
「その、本当は咲夜にもサプライズみたいに渡したかったんですけどね……手伝わせてしまってすみません。でも、その、咲夜からしてみれば下手なお菓子かもしれませんけど、一生懸命作ったので、えっと」
「ふふっ」
レーツェルお嬢さまが差し出してきていた小包を受け取る。その中からクッキーを一枚取り出して、その場で食べてみせた。
「おいしいです。とても」
「ほ、本当ですか?」
「もちろんですわ。ありがとうございます、レーツェルお嬢さま」
「いえ、咲夜には私の方がお世話になってますから。その、改めて……いつも紅魔館のメイドとしてたくさんがんばってもらって、ありがとうございます」
「私も、レーツェルお嬢さまにはよく気を遣わせていただいて、嬉しい限りです」
「……煩わしかったりしませんか? 余計だったり、ありがた迷惑だったり」
「いえいえ、とっても心地がいいですよ。これは本心です」
「それは、よかったです。安心しました」
安堵、歓喜、感謝。すべてがごちゃ混ぜに、それでいてそれぞれがはっきりと窺える微笑みを前に、私の頬も緩んだ。
「それじゃあ、私はメイドたちに配りに行ってきます。その後はお姉さまとフランに……ふふふ。あと、宴会で皆にも配って……」
今にもスキップしそうなほどに上機嫌に去っていくレーツェルお嬢さまを見送りつつ、小包からもう一枚クッキーを取り出した。
かりっ、と一口ぶん含んで、しっかりと味わう。私に甘すぎると言われたからか、ちょっとだけ甘さが控えめになっていたが、やっぱりまだちょっと甘すぎる。でも、おいしいと言ったのは私の本心だった。
「……レーツェルお嬢さまは、甘すぎるくらいがちょうどいいのね、きっと」
今度、レーツェルお嬢さまに紅茶を入れるのをお願いでもしてみようか。あまりメイドとして褒められたことではないけれど……なんだか、レーツェルお嬢さまの甘すぎるミルクティーがまた飲みたくなってしまった。
目を閉じれば、いつでも思い出せる。紅霧異変が終わった頃、彼女の入れてくれた紅茶の味が。私の頭を撫でてくれた、あの手の温かさは。
胸が熱い。想像の紅茶を本当に飲み干したかのように、体の内側が熱を持っていた。
「さて、メイドたちにクッキーの欠片をぽろぽろ落とさないよう、注意しに行かないといけないわね」
甘いものの味に我を忘れて周囲を汚してしまう、なんてことは容易に考えつく。妖精のメイドは館中にたくさんいるし、全員にこぼされると掃除がちょっと大変だ。虫が館の中に入り込む可能性も出てきてしまう。
「来年のバレンタインは、私も、お嬢さまがたにあげるお菓子でも作ってみようかしら」
悪くないアイディアだった。忘れないように頭の中に刻みつつ、小包を懐に入れて、レーツェルお嬢さまの後を追うようにして歩き出した。
落ちついた時に、またこれを食べよう。一仕事終えた後にでも食べられれば、もっとおいしく感じられそうだった。
□ □ □ Ein Standpunkt wird wiederhergestellt □ □ □