――それは恋であり、そして憧れだった――――
□ □ □ Standpunkt verändert sich zu Remilia Scarlet □ □ □
東側からのぼる満月がトーキョーと名乗った少年を真正面から照らし出す。ここに来るまでずっと街を歩くさまを観察していたが、彼が今たたえている自身を嘲るかのごとく哀れな笑みは、見てきたうちのどれにも当てはまらない。
目の前の存在が核だと聞いて紫が警戒態勢を取っていたが、どうにも私にはこのトーキョーという少年に用心しようという気が起きなかった。
一切敵対の意思が感じられないからか、レーツェルの根幹を為すという存在だからか、あるいはその両方か。
トーキョーが核だと名乗り出てから一〇秒ほど。こちらもあちらもなにをするでもなく、ただただ見据え合っていた。そんな中、トーキョーが急に動き出したかと思えば、この世界を闊歩する魂のない人間たちが持っていたような携帯電話と思われる画面がでかい機械を取り出して、それの操作を始めた。
自分からなにかを語るつもりはない、という意志表明のつもりなのかもしれない。しばらくしても携帯電話をいじり続けていたままだったので、痺れを切らしたらしい紫が一歩前に踏み出た。
「あなたはいったい、何者なのかしら」
「『――』。名字も混ぜると『――』『――』。まぁ、なんだ。俺は覚えてるつもりなんだけど、やっぱり本当は忘れてるのかな。そっちには聞こえてないみたいだから、トーキョーって呼んでくれればいい」
「あなたがこの世界の核だというのは本当?」
「本当。そういう皆さんは、この世界の持ち主と親しい間柄にあった人たちかな」
「ええ」
質問されれば答えてはくれるらしい。
紫はニヤリと胡散臭い笑みを浮かべると、どこからともなく取り出した扇子で口元を隠した。
「じゃあ、あなたを殺したらレーツェル・スカーレットは救える?」
解放された多大な妖力が場の空気を圧縮する。こちら側はいずれもそれなりの強さを持っている妖怪ばかりなので特に威圧されたりはしないが、トーキョーは、これまで上から見てきた限りではただの人間だった。なにかしら反応を見せる。
そう思っていたのだが、しかし彼は紫が出した威圧感を少しも気にした様子もなかった。むしろそんなものは存在しないとばかりに、携帯電話をこちらにかざしてくる。一瞬だけ眩い光を発したが、他にはなにもない。
「んー……なんか変な顔してるけど、もしかして外界の力を使ったりした? ごめん、この世界は『普通の現代社会』だから、そういうあからさまな異常への対応はインプットされてないんだ。俺も核とは言え構成物の一つだし」
「……まぁ、いいわ。それで、どうなの? あなたを殺せば解決できる?」
「どうかな。たぶん再生するんじゃない?」
「核なのに?」
「核が二つあるって言ったら、信じるかな」
心の構造についてなんてよく知らない。たぶん、二つあると言われたら「ああ、そうなの」という具合で納得する。
しかし紫やさとりなどはその限りではないようで、訝しむように顔を顰めた。
「まぁ、そういう反応をするか。正確には二つあるわけじゃない。二つで一つにしたんだ」
「……あなたはその二つのうちの一つ、核の半分だと」
「そう。でもまぁ、そろそろ俺の役目も終わりってことなのかな。外界からこんなに人が紛れ込んでくるようじゃ……」
トーキョーが携帯電話をポケットの中に戻し、自身の手の平に視線を下ろした。
「俺は元々さ、もっと早くに消えてたはずなんだ。もう一つの核が核として完全なものになるまでの単なる繋ぎ、代替品のはずだった」
「どういうことかしら」
「その昔、心が壊れそうなくらい辛いことがあったんだ。故郷からの追放、見知らぬ地で見知らぬ人物として、見知らぬ親のもとで育たなければいけない……そんな程度のこと。俺はもう俺じゃない、これまで過ごしてきた人生はすべて紛い物だ。そう言われてるみたいでさ、痛くて痛くてしかたなかった」
そう言っては見下ろしていた手の平を胸の前まで持って行き、心臓のある辺りを強く握る。
「だから新しく核を手に入れる必要があった。じゃなきゃ、心が壊れてしまう。俺が俺でなくなってしまう……そして、見つけた」
トーキョーが、優しげな目線で私を見つめてきた。
「もう、あいつの本音は聞いたんだろ? あの気持ちがもう一つの核だよ。手に入れたばっかりの頃はまだまだ未完成だったから、『前世の記憶』である俺が代わりに収まる必要があったけど……きっともう、十分だ」
もはや、私の予想は確定的に合っているのだろう。
レーツェル・スカーレットという少女には前世の記憶があった。そしてその前世がトーキョーと名乗る目の前の少年であり、この原世界はその頃に過ごした世界を象ったもの。
レーツェルが幼い頃にいつも泣いていたのは、大切だったものをすべてなくしてしまったから。
レーツェルが幼い頃にいつも寂しそうにしていたのは、なくしてしまったものを探していたから。
目の前の少年をレーツェルの前世であることに疑う余地はなかった。なにせ彼女はどんなに自分を騙してこようと、好意の感情だけは決して誤魔化したりはしない。そしてそれは彼もまた同じ。
私はいったい、どんな顔をしていたのだろう。トーキョーは私をじっと見つめると、ふっと小さく笑った。
「やっぱりね。この秘密を知っても、やっぱり君はそんな風に労わるような顔をできるんだ。少しも落胆とか幻滅とかせずに、素直に受け入れてくれるんだ」
「……だって、そんな気持ちを抱く要素がない」
「本当、あいつは幸せ者だよ。独りでなにもかも見知らぬところに放り込まれて、なにもかもが不安で、どうしようもなくて……そういう君の態度にどれだけ救われたことか」
トーキョーが空を見上げた。私も同じように、天を仰いでみる。
星の数は幻想郷から見るものよりも明らかに少なく、観賞会などを開くのとは程遠い。顔を下ろすと、そんな景色もどこか愛おしそうに眺めているトーキョーの姿が目に入って、少しだけ胸が痛んだ。
「……あなたは、いったいなにを望んでいるの? あなたの態度は、まるで私たちの来訪を待っていたかのよう」
これまでの会話からなにかを察したか、紫はすでにトーキョーのことを警戒などはしていないようだった。それをどこか彼が嬉しそうにしているように見えたのは、ただの幻覚だろうか。
トーキョーは空から視線を元に戻すと、静かに首を横に振った。
「待ってはいなかった。でも、いつか来てくれると信じてた」
「意味がわからないわね」
「さっきも言ったけど、俺は単なる代わりでしかなかったんだ。それがあいつは帽子屋なんてバカなもん名乗って、大切なものを守るためだとかほざいて、無理矢理俺を自分の中に繋ぎ止めて……幸せなくせに、不幸なフリまでして。だから必要だった。あいつから、そんな借り物の仮面を引っぺがしてくれるような存在が」
前世の記憶なんていう、もう二度と取り戻せないとわかっているモノに縋りつき続けてまで、彼女は狂気に染まろうとした。帽子屋なんていう、染まり切れないとわかっている仮面をかぶってまで、彼女はチカラを手に入れようとした。
それはすべて、もう一つの核――レミリアが、私が大好きだという思いのもとに行われたことだった。
まったく、私たちはなにをやっていたのだろう。
私はただ、レーツェルが一緒にいるだけでよかった。そしてレーツェルにとってもただ、私が笑っているだけでよかった。
いつだって空回りしてきた。私はレーツェルに本音を吐かれるまで気づけなかったけれど、もしかしたら、彼女は最初からそれさえも理解していたのかもしれない。
「あいつを救いたいんだろ? レーツェル・スカーレットを、取り戻したいんだろう?」
トーキョーが問う。私たちは、少しも迷うことなく頷いた。
「なら、殺せ」
「ッ、それは」
反論しようとする私を、トーキョーは片手で押し留める。
「そうじゃない。殺されるべきはレーツェル・スカーレットじゃなくて、俺なんだよ」
「どういう……ことかしら」
「もう一つの核はとっくに育ち切ってる。あいつは心をとっくに持ち直してる。だから俺は余計な存在なんだよ。もう、いちゃいけない存在になってる」
最初に私たちに向けたような自嘲気味な笑みを、また彼は浮かべた。
「俺はここで殺されてもきっと再生してしまう。でも、一つだけそれを防ぐ手段がある。心が歪に歪を重ねてるからこそできる手段だ。そいつを実行したら君たちはここにいられなくなってしまうけど……俺の言う通りにすればきっと外側からでも俺を、『前世の記憶』を殺すことができるようになるはずだ」
「『前世の記憶』を殺すって、それってつまり――」
「ああ、忘れることになるな。この世界のことを、全部」
けれどそうすればレーツェル・スカーレットは救われる。トーキョーはそう言って、目を伏せた。
「俺がいなくなれば……前世をすべて忘れてしまえば、前世があったことさえ忘れてしまえば、あいつにとっての『後悔』は単なる『不幸』に成り下がる。両親が死んだことも、義理の母が死んだことも、フランのことも」
「後悔……?」
「あいつには未来を予測し得る要素があった。でも、しなかった。それをずっと後悔してる。それがずっと、あいつを苦しめてる。けどその鎖も前世を全部忘れてしまえば簡単に解けるんだよ。先の読めない未来だったからって、しかたなく受け入れられるようになる。あいつは救われる」
――でも、しかたないんだよ。それが『答え』なんだから。全部が全部、私のせいなんだから。
――考えることから逃げ続けて、生まれた意味すら失っちゃった。
かつて、レーツェルが表情をなくす直前に私に告げた言葉。それがようやっと本質を伴って、私の中に当てはまる。
「嫌なことを忘れて救われようだなんて、それは、逃げることと同義じゃないのかしら」
紫の鋭い目線に、トーキョーはそれをまっすぐと見据えて首肯する。
「でも、そうすれば前に進めるようになる。過去に捕らわれなくなる。あいつは本当の意味で、レミリアの妹、フランの姉、吸血鬼のレーツェル・スカーレットになるんだ。先の見えない未来を一緒に歩けるようになる。そしてあいつもそれを望んでる」
「……あなたは、それでいいの?」
「いいさ。本来ならとっくにいなくなってたはずの存在だ。もうなにもかも、とっくのとうに十分だったんだよ」
トーキョーが、前世のレーツェルが改めて私たちを一人ずつ見渡す。その顔に見えるのは、なにかを申しわけなく思いながらも、なんの心配もいらないと突っぱねるかのような、まるで気を遣っているかのような、あからさまな作り笑い。
あぁ、そうか。そういうことか。
彼の気持ちのなにもかもを理解して、私は拳を強く握った。
「方法は簡単だ。紫が……あぁ、ゆかりんって呼んだ方がいいかな。あいつは基本的にそう呼んでたみたいだし」
「……どっちでもいいわよ」
「そう? じゃあゆかりんって呼ぶよ。俺が手段を行使して君たちが外界に出たら、まず、ゆかりんがあいつの心にもう一度干渉する。そうして、心における精神と物質の境界を曖昧にする」
「それ、無効化されたりはしないのかしら」
「心配いらない。『自動発動機能』が出てくるのは、あいつと能力を引き離そうとした時だけだから」
咲夜から聞いたことがある。時を止めてる間は、その『自動発動機能』とやらのせいでレーツェルを認識することができないんだったか。
「で、曖昧にしたら後は簡単。俺が手段を行使してからしばらくは、心が二つに割れてるはずだ。核が二つで一つじゃなくて、二つで二つになってるはずだ。だからそのうちにその片方を、『前世の記憶』を壊せばいい。そうすれば再生はせず、そのまま消え失せるはずだから」
「壊すって、いくら精神と物質の境界をいじろうが、心に触れたりなんてことはできないのよ。しかも片方だけ壊すなんて、そんな器用なこと」
「心を壊すことも、選別することも、できるさ。だってそうだろ? 吸血鬼でも人形でも銃でも月人でも、それが物質だって言うなら、右手を握り締めるだけで容易に破壊し得る……そういう力を持った吸血鬼がここに一人いる」
トーキョーが一人の少女を正面から見つめる。その瞳に宿るのは、絶対にできるという確信の念。
ああ、なんて笑えない冗談だ。なんて残酷な皮肉だ。
トーキョーからのまっすぐな目線を受けて、フランはただ、目を瞬かせていた。
それに彼はただ、慈しむように笑う。
「――君の破壊が、大好きな姉を救うんだ」
たとえ意図せずとも、無知という狂気が生んだものだとしても、私もレーツェルもフランのせいだとは考えていないけれど、両親や義理の母を殺したのがフランである事実は変えようもない。そして、レーツェルはそれが原因で狂気を装うことを決め、帽子屋という仮面をかぶることになった。
そうして最後にその仮面をはがすのが、すべての元凶たるフランだとは。
フランが目を見開き、口を開く。だが、なんの言葉も出てこない。なにを言おうとしたのかすら、まるで忘れてしまったかのように。
「こんな余計な記憶を引き剥がせ。気に入らないものを無理矢理ぶっ壊せ。欲望のままに、願望のままに、欲するままに。それができるのがきっと、妖怪って生き物だ。フランドールっていう悪魔なんだよ」
「で、でも……」
「『前世の記憶』がなくったって、君は、あいつにとってかけがえのないものの一つだよ。なにも心配はいらない」
トーキョーの言う通り、この世界がレーツェルにとって余計なものだとすれば、きっと『前世の記憶』を壊したところで彼女の人格にはなんの変化も生じないのだろう。
ただその重荷を崩して、なかったことにしてあげるだけ。
だが、それが本当に正しいことなのか。
なかったことにする。それは、レーツェルの能力と――これまでレーツェルが行ってきた所業の本質となんら変わりない。
助けに来たはずの私たちが、そんな方法を行使してもいいのか? 本当にそれで、レーツェルを救ったと胸を張れるのか?
そんな私の考えさえ、レーツェルの核の一つであるトーキョーにはお見通しのようだった。
「それでいい。それ以外の方法はもう、本当にあいつ自身を殺す以外にないから」
記憶の喪失を以て後悔から解放されるか、死を以てすべてから解放されるか。方法なんてそれしかないと、トーキョーは口にする。
なんて、自分勝手な。
トーキョーが苦笑いを浮かべた。手間をかけて、こんな方法しかなくて、申しわけないとでも言いたげに。
そんな風に思うくらいなら、最初から私たちと会わなければよかったのに。レーツェルを救うための方法だけ告げて、さっさと去ってしまえばよかったのに。
彼は、なにかを察したように空を見上げる。
「……そろそろ時間だ」
トーキョーがまっすぐと手を伸ばし、手の平を裏返す。すると次の瞬きを終えた瞬間には、その上に赤白い綺麗な宝石が浮かんでいた。
小さく、透き通っていて、なによりも綺麗な美しい塊。それを見て、紫とさとりが目を見開いていた。
「こいつはあいつの、レーツェル・スカーレットの『一番大事な思い出』だ。前世のあいつである俺がこの世界でこいつを解放すれば、この世界は形を保っていられなくなる。そして、もう一つの核と完全に分離するはずだ」
「いいのですか? 本当に、それで。わかっているのでしょう? その記憶をこちら側に持ち込むということは、その『一番大事な思い出』を『前世の記憶』とともに忘れるということ……」
さとりの確認に、トーキョーは少しだけ考え込んで、くすりと、少しだけ楽しそうに笑った。
「いいさ。これと一緒くらい大切なものを、あいつはもうこんなにたくさん持ってる」
「止めても、無駄……ですか?」
「止めたらレーツェルを助けられない。君たちの望みはかなわない。だから、やらなきゃいけない」
トーキョーが赤白い宝石を握り込む。おそらくそのままあれを潰してしまえば、彼の言う通りこの世界の崩壊が起こるのだろう。そうしたら後は、紫の能力で心の中から脱出して、フランの力でこの世界ごと彼を破壊するだけ。それでレーツェルを救える。
救える? 本当に?
彼女にとって大切だったかつてのものを全部捨てさせて、本当の意味でレーツェルを救える。私はそう、本気で信じている?
私が救いたいのは――――。
「じゃあ、やるよ」
気持ちが固まり切らぬまま、トーキョーのそんな言葉に意識が引き戻される。
心臓が鼓動を打っていた。
それから、トーキョーの手にしていた小さく赤白い宝石が、彼が力を入れると同時に一気に砕け散った。
その瞬間、視界が揺れる。音が惑う。この世界に来た直前のような、すべてがぐちゃぐちゃに混じり合う感覚が訪れる。
頭の中に情報が、感覚が、感情が溢れ返った。
でも、嫌な感覚ではない。
これは、なんだ?
小さいけれど、すべてを包み込むような温かい記憶。
私の中に入ってくるそんな異物へと、注意を向ける――。
□ □ □ □ □ □ □ □ □ □
夢はなかった。生きることに目的なんてなかった。
そして、きっと大部分の人間が自分と同じで、ただ流されるままに心臓を動かしているだけだとも理解していた。
学校に行って、友達といろんな話をして笑い合って、授業を受けて、家に帰って。
いつだって勉強をするのを嫌に思っていて、それでも将来のためだと言われてがんばって、その他にもいろいろな不満を毎日抱え続けていて。思春期だったせいで唐突に憂鬱になってしまう時もあったのを覚えている。
なにかと心の中で不平を吐き続けていた。だけれど、その日々が充実していたことに、過ごしていた日常が幸せだということに間違いはなかったように思う。
家族に愛されて、友達とバカやって、勉強や運動に打ち込んで。
どこかで、大切なものは失ってから気づくものだというセリフを聞いたことがあった。その時は「へえ」とただ流すだけだったそれが、すべてがなくなってしまってから、ようやく実感できるようになった。
――そ、そうだ。これを聞いて落ち着くんだ。レーツェル・スカーレット、それがお前の名前だぞ。
一人の男性が思い浮かぶ。父であって、父ではない者の、赤ん坊を安心させるための言葉が頭をよぎる。
違う。違うんだよ。俺は、違う。俺の名前は、そんなんじゃない。俺の父親は、あなたじゃなくて。
――はいはい、お母さんはここにいますよー。
一人の女性が思い浮かぶ。母であって、母ではない者の、赤ん坊を愛する感情がこもった言葉が頭をよぎる。
違う。違うんだ、俺は。俺はあなたの子どもじゃない。俺の母親は、あなたじゃなくて。
ああ、ごめんなさい。
こんな紛い物の魂が娘の中に入り込んでしまったことが、二人に申しわけない。
胸が痛い。痛くて痛くてしかたがない。泣き叫んで、堪え切れない感情を吐露しても、それでもなにも変わらない。
新しく手に入れたものは俺のものなんかじゃなくて、俺とはなんら関係ない別の他人の人生のもの。
なにもかもを受け入れてしまえば楽になれるかもしれない。別人でも構わないと、開き直ることができれば楽になれたのかもしれない。でも、すべてを失ったばかりの俺の脆弱な心では、なにも為すことができない。
痛みが引かない。毎日毎日、何日経っても何十日経っても痛いまま。
泣いた。泣いて、泣いて、泣いて、また泣いた。
前世の両親の顔が頭に浮かぶ。中学に上がってからは遊んでばかりじゃいけないと叱ってきて、定期的に勉強させられるようになって、ちょっと不満だった。それでもいい点数を取った時は褒めてくれたし、休みの日は一緒に旅行をしたりした。
前世の友達の顔が頭に浮かぶ。最初に出てきたのが腐れ縁の顔だったのが癪だった。ゲームで遊んだり部活に勤しんだり、たまに一緒に先生から怒られたり。二人組作ってー、なんて言われた時は、互いに口に出さずとも毎回一緒に組んだりした。
他にもいろいろある。そしてその全部が全部、かけがえのない大切な記憶――そのはずなのに。
今の両親の愛や心配を通して、まるでその記憶のすべてが嘘だったと嘲笑われているかのようだった。お前はそんなところには最初からいないんだと、最初から別人だったのだと、彼らと向き合うたびに突きつけられる。
俺はいったい、なんのために。
大切な記憶だから、忘れたくない。でもそれと同時に、こんなものがあるからいけないんだと胸が張り裂けそうなくらいに痛み続ける。
どうにもならない板挟み。なにをしようにしても、なにも為せやしない幼子の体。
孤独だった。
孤独という言葉の本当の意味を、理解してしまった。
今日も、いつまで経っても痛みは消えない。
死ねもしない。
――あー、えーっと……よ、よしよしー……?
気づいた時、慣れない手つきで、二歳とちょっとという見た目にしか見えない幼児が俺を抱えていた。
首を傾げる。
なんだろう。ただ漠然と、なにかを不思議に思う。
それからなんとなく、手を伸ばしてみた。手を繋ぐ。そうしたら彼女は、嬉しそうに笑う。
その途端、どうしてか、自分がとてつもなく情けない存在に思えてきた。
心の底から、この幼児へとごめんなさいと謝りたくなった。
生まれてきてしまってごめんなさい。俺なんかがこんなところにいて、ごめんなさい。
俺のせいで、彼女へ向かう両親からの愛を少しでも奪ってしまう。こんな小さな子の人生までも、俺は狂わせてしまう。
こんな、ニセモノが。
――じつはね、いもうとがほしいっておもってたのよ。だから、あなたがうまれたってときはうれしかったわ。
どこまでもつたない言葉。嘘なんて吐けるはずもない、純粋な心からの気持ちの吐露。
ねぇ、どうして?
俺は紛い物だよ。俺は偽物だよ。
なのに、どうして君は、そんな風に嬉しそうに笑えるんだ?
俺のことを煩わしく思っているんだろう? 俺のせいで両親からの愛が向けられないことに、不平を感じているんだろう?
知っている。君はいつも俺に対しては笑っているけれど、俺が見てないフリをしている時は、ふいと不満そうに口を尖らせる。
もっと醜いところを見せてくれていい。もっと俺に鬱憤をぶつけてくれていい。
それだけのことをされる過失が、俺にはある。そのはずなのに。
どうしていつも、俺が見ているところでは笑顔を浮かべている? どうしていつも、そんな幼い心で俺なんかを慈しんでくれる?
俺にはそんな価値、微塵もありはしないのに。
――どう……して……?
初めて会ってから、どれだけ経ったか。
自分がすでにしゃべれるようになっていると気づいて、俺が初めて口にした言葉は、そんなものだった。
両親の名前じゃない。姉の名前じゃない。ただただ、疑問を問いただすためだけの問いかけ。
両親に愛を向けられておきながら、薄情者だと自嘲する。
こんなに姉に迷惑をかけておきながら、どこまでもどうしようもないと自身を嘲笑う。
姉は目を瞬かせていた。俺以上に、不思議そうにしていた。
どうして。俺はたったそれだけの意味のない質問の果てに、いったいどんな『答え』を欲していたのだろう。
見当違いの回答? それとも、彼女から不満をぶつけられること?
なにも欲していなかったのかもしれない。ただ、痛みに耐えられなかっただけで。
主語も述語もない俺からの問いの内容を、姉は理解できなかったのだろう。ずいぶんと困惑したように顔を歪ませて――しかしそうしながらも、彼女は、当たり前のことのようにそれを口にする。
――いもうと、だから?
なんだ、それ。
その返答を理解するのには、十数秒ほどの時間がかかった。
妹だから。彼女は確かに、そう言った。
見つめる。すると姉は、きょとんとした顔で俺を見つめ返した。
わからない。
妹だから、不満をぶつけないのか?
妹だから、いつだって笑いながら構ってくれるのか?
妹だから、泣いているとなぐさめてくれるのか?
――あ、わたしはあなたのあねの、レミリアよ。おぼえておいてね。
そうやって胸を張る姉を見て、思う。
あぁ、これは、本気だ。
妹だから。本当にただそれだけの理由で、俺を受け入れてくれている。
こんな幼児が血縁関係を理解しているとは思えない。こんな幼児に家族とそれ以外の区別がついているとは思えない。
だからきっと、他に理由なんてなんにもなくて、ただ自分が年上だからと、彼女はそれだけの理由で優しくしてくれているのだろう。
ただ単に見栄を張っているだけ。年下に、年上の自分をよく見せたいだけ。
子どもだ。見た目通りの。
それがなんだかおかしくなって、少しだけ、笑う。
そしてそれに驚く。
転生してから、初めて笑顔を浮かべた気がした。初めて、泣き顔以外を浮かべたことを意識した気がした。
口を開く。
――えみ、れあ。
――レミリアよ、レミリア。
――れみえあ。
――レ、ミ、リ、ア、よ。
――れみりあ。
――そうそう。
――れみりあ、おねえさま?
――ええ。
全部、正しく理解していた。
彼女は俺に不満を抱いている。両親の愛を取られていることを煩わしく思っている。
害しか及ぼしていない俺みたいな存在にいい感情を抱いてるはずがない。それもまた当たり前のことだ。
彼女の態度は全部嘘――自分をよく見せたいだけ。見栄。そう、単なる虚栄心。
理解して、それでも確かにその時、俺はそんな虚勢に救われた。
この気持ちを、人はいったいなんと呼ぶのだろう。
わからない。でも敢えて言葉にするのなら、それはきっと恋であり、憧れだった。
ほんの少しだけ、胸の痛みが引いた気がした。
もちろん完全になくなったわけじゃない。こんな三歳にも満たない幼児に、見栄ばっかり張っているような幼子に、心のすべてを依存させられるはずがない。
だから、俺も見栄を張ろうと思った。
彼女の見栄が俺の心を救ってくれた。だから、俺もまた見栄を張る。
きっともう、俺は大丈夫だ。
どんなに壊れそうになっても、どんなに泣きそうになっても、俺には誰よりも頼れる姉がいる。誰よりも尊敬できる姉がいる。
単なる見栄でも、勘違いだってわかっていても、構わない。
それでも信じる。
――れみりあおねえさま。
見てみたい。
ふと、そう思う。
俺が恋をした彼女の人生を、俺が憧れた彼女の描く未来を。
この先に歩む軌跡を、この目で見てみたい。この足で一緒に歩んでみたい。
そのことに理由なんてなかった。
強く、強く、前世でも抱いたことがないくらい強く感じた。
ただ、それだけ。
悲しいこともあるだろう。苦しいこともあるだろう。辛いこともあるだろう。
でも、きっと彼女なら、どんな時だって見栄を張って、いつかは本当に乗り越えてしまうような気がした。
それもまた勘違い? いや、きっとそれだけは間違いない。
どうしてそんな、迷いもなく信じることができるのか。
どうしてそんな、安心して心を預けることができるのか。
その『答え』はなによりも簡単で、単純で、簡潔にすべてを表す。
だって、彼女は俺の姉で、俺は彼女の妹なんだから。
――だいすき。
少しずつ。少しずつでいい。
まだ完全に決別はできていない。でも、ほんの少しずつ、今の人生を受け入れて行こう。
これからもたくさん泣くかもしれない。これからもいっぱい迷惑をかけてしまうかもしれない。
でも、どんな時だって明日は泣かないって決めて、見栄を張って。
いつかはそれを本当にしてしまおう。
――……ええ、わたしもあなたのこと、だいすきよ。
嘘だ。心がこもってなさすぎる。
あからさますぎて、笑った。
でも、いつかはそれも本物になるのかな。
……本当にしてくれると、いいな。
今は勘違いでもいい。単なる虚栄でも構わない。
甘えよう。でもいつの日か、全部の障害を乗り越えて。
生まれた時から好きでしたって、そんなキザなセリフでも吐こうかな。
――レミリアおねえさま、だいすき。
そんな言葉を再度吐いて、もう一度笑みを浮かべる。
ありがとう。
胸の痛みもなにもかも受け入れて、感謝の念を心に浮かべながら、ただただ純粋に笑ってみせた。
□ □ □ □ □ □ □ □ □ □
空にヒビが入り、音を立てて崩れ落ちる。色のない外側が顔を出し、徐々に世界を侵し始めた。
どこもかしこも吸い込まれるかのごとく剥がれ落ちていく。呆気なく、すべてが幻であったかのように。
「さぁ、つまらない童話の終わりは見えた」
トーキョーが空を見上げ、どこか寂しげに呟いた。『一番大事な思い出』を砕いた影響からか、彼の片手は周りの景色と同じように色が失われている。
徐々にそれも広がって、彼を覆い尽くして消し去ってしまうに違いない。そしてその時こそ、彼の目論見通りレーツェルの心が二つに分かれるということなのだろう。
「さとり! こいし! 早くこっちに来なさい! さっさとここから出ないと巻き込まれるわよ!」
紫のそんな叫び声に、慌てたように二人がこちらに駆けてくる。
それとすれ違うように、私は足を進めた。
背後から紫の静止する声が聞こえてくる。皆が驚いている気配が伝わってくる。
関係ない。
レーツェルの心が私の中に流入してきた。彼女の『一番大事な思い出』が、その記憶のクオリアが流れ込んできた。
彼女がどれだけ私を好きでいるか。彼女がどれだけ私を信頼しているか。彼女がどれだけ私に憧れているのか。
溢れるほどに。
わかっていたはずだろう。救うべきはいつだって一人だった。
理解したはずだろう。彼女を本当に救うということが、どういうことなのか。
だからこそ、伝えなければならない。今ここで、宣言しなければならない。
でなければ、私が納得できない。してはいけない。
トーキョーと名乗った少年の前に立つ。彼は、不思議そうに私を見下ろした。
早く紫のもとに行け、と。ここにいたら危ない、と。
口を開きかけ、そんなことを吐こうとしただろう彼を遮って、強く見つめ返した。
「さっきから言いたかったんだけど、今は背が高いからって、この私を見下ろしちゃダメよ」
「は……?」
「あなたは私の妹なんだから、私より背が高くちゃダメ。それから勝手に私を守るためだとか言い出すのもダメ。だって、それであなたが傷ついてたら意味ないんだから」
トーキョーに――背が高くなって性別が変わっちゃってるだけのレーツェルに、私はそう告げた。
彼は五秒くらい目をぱちぱちとさせて呆けていた。私はその間に彼の腕を掴んで地面に膝をつかせて、身長を自分より下に押さえる作業をする。
うん、これでいい。
満足そうに胸を張ってみせると、彼はおかしそうに――それでいて本当に嬉しそうに、笑った。
「ああ、ごめん」
「わかればよろしい。それじゃ、私はもう行くから……しばらく一人にしちゃうけど」
「いいって、そんなの。俺だって、君と何百年も一緒にいたんだ。それくらい我慢できる」
「そう? 本当に?」
「はは、そうやって過剰に心配するのは俺の役目だったはずだけど……やっぱり妹は、姉には逆らえないってことなのかな」
「当然よ。おこがましいわ」
「これは手厳しい」
気づけば、もはや世界は完全に崩れ去って、残ったのはこの橋だけになっていた。
背を向け、紫のもとに足を進める。そろそろ出なければ本当にやばそうだ。
でもその途中、ちょっとだけ振り返る。
「また会いましょう」
「見栄かな」
「本当よ」
「じゃあ、期待してる」
彼ももうそろそろ、形を保っていられないようだった。
紫は戻ってきた私を責めるように睨んでくる。私はただ、ふてぶてしさを装って鼻で笑った。
「行くわよ。レーツェルを救いに」
見栄を張った。だから、それを本当にしに行かなくてはならない。
レーツェルはそうなることを信じている。疑うことも知らず、誰よりも私を信じてる。
だったら迷う必要なんて最初からないじゃないか。
足元に、外界へと通じる境界の隙間が現れた。それに落ちながら、もう一度彼の方に視線を向けてみる。
私にはただ、そこに一人の少女がうずくまっているように見えた。
拳を強く握る。
まだ、運命を操れ。
道筋は見えた。そしてその上で、それから逸れてみせろ。レーツェルを助けてみせろ。
できるはずだ。私なら。レーツェルが信じる私なら――私とフランなら。
――レミリアおねえさま、だいすき。
――お姉さまが、大好きだから。
ずっと昔から変わっていない、彼女の本心。それはどうして生まれた?
全部、守ってみせろ。
見栄を張れ。そして、本当にしろ。
そう、心に誓う。
ぐにゃぐにゃと歪んだ空間を通り抜け、私たちはフランの部屋へと帰還した。
□ □ □ Ein Standpunkt wird wiederhergestellt □ □ □