――夢を見た。不可解な夢を。悲しい夢を。苦しい夢を。そして、愛おしい夢を――――
□ □ □ Standpunkt verändert sich zu Remilia Scarlet □ □ □
手を伸ばす。全力で、必死に、とにかく大切な妹のもとへ。
届け。届け。届け。
届いてくれ。
願いはどこまでも儚く、現実はどこまでも非情だ。
どう見てもこの手が及ぶ距離じゃない。この手で触れるよりも先に、レーツェルが呼び出した魂のない人形に捕らえられてしまう。
それでも、諦めない。諦めたくないんだ。
伸ばせ。届け。及べ。
――お姉さまが、大好きだから。
あの子をずっと支えてきた本心を知ったから。本当はなんのためにがんばってきたのか、あの子が教えてくれたから。
涙が溢れそうになる。
危険があるかどうかなんてどうでもよくて、不幸がない世界なんてどうでもよくて。
お父さまがいなくてもいい。お母さまがいなくてもいい。義理の母がいなくてもいい。
私はただ、あなたが隣にいるだけでよかったのに。
「まったく、手が焼けるわね!」
誰かがそう言って、前に足を踏み出そうとした私の手を掴んだ。
それを確認するよりも早く、私は床の中に――足元に空いた境界の裂け目の内部に吸い込まれていく。
手を伸ばす。落ちゆく中、人形がそれを掴もうとしたから、すぐに払った。
私が欲しいのは本物なんだ。妹の形をしただけの魂が入っていない紛い物じゃない。
――レーツェル!
叫びの最後、フランの部屋から完全にいなくなる前に見えたのは、拭っても拭い切れていなかった妹の涙だった。
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ぐねぐねと、曖昧な世界が形を変える。そのたびに感覚が乱れていく。
右へ左へ。上へ下へ。あるいは奥へ、近くへ。
見える。見えない。聞こえる。聞こえない。嗅げる。嗅げない。味わえる。味わえない。触れる。触れない。
まるで巨大なゴムの中にいて、それを外側から巨人に押されたり引っ張られたりしているような、うまく表しようのない不可思議な体験だった。
そんな中、なんの色もついていなかった視界に突如光が弾ける。そのあまりの洪水具合に、思わず片手で目元を塞ぐ。
ただ騒がしいだけの、どこまでも無感情を引き寄せる耳障りな喧騒。
もうとっくに冬だというのに、熱い――それもただの熱さではなく、自然がまったくなくて、人が密集するせいで生じるような嫌な暖かさ。
匂いだって最悪だった。幻想郷の済んだ空気とは違い、まるで毒が混じっているかのように汚れている。
なんだ。どこだ、これは。
まだ完全には目が慣れ切っていなかったが、好奇心に負けて手を下ろすと、そこには幻想郷とは程遠い灰色の世界が広がっていた。
大量の窓がついた、幻想郷では絶対に見られない高さの鉄色の塔が、そこら中に敷き詰めるように並んでいる。自然は一切見当たらず、代わりに赤青黄の三色を点滅させる細長い棒や街灯や灰色の柱などの無機質な細長いものが地面に刺さっている。数え切れないほどの大量の人間がそこら中を歩き回り、なにやら手元でコンパクトな機械を操作していた。一部人が歩いていない通りがあるが、そこは馬より少し全長が大きいくらいの変な乗り物――前後左右に窓がつき、形は凸の字のようで、地面に四つの輪っかをつけている――が走り回り、時には三色を示す棒の色で停止したりまた動いたりする。
私たちの近くにいる人間どもは立ち止まって、なにやら奇異そうに手元の機械をかざしてきているが、いったいなんのつもりだろうか。
いや、そんなことよりも、今なによりも注目すべきものは上空にあった。太陽が顔を出し、爛々と私の全身を照らしてきている。だというのに、本来ならば灰になるはずの体が、どういうわけかなんの反応も示さない。
「無事、入って来れたみたいね」
すぐ隣から声がして、顔を向ける。そこには八雲紫が立っており、ほっとしたように息を吐いていた。
もしかしたらと思い、辺りを見渡してみる。すると予想が半分当たったという具合で、三人の妖怪が近く私と同じように困惑しているのが窺えた。フラン、さとり、こいしの三人である。
「ごめんなさいね。あの土壇場で全員は連れて来れなかったのよ。ちょうど近くにいたのがあなたたちだったから、一緒に来てもらうことにしたわ」
「いえ、それはいいのですが……あの、もしかしてここは」
さとりはこの場所に心当たりがあるようだった。私も似たような世界を知っているが、しかしどこか違うという確信がある。
紫はさとりの確認するような視線に、こくりと頷いてみせた。
「ええ。ここは、あの子の心の中です」
「ふむ……吸血鬼に太陽が効いていないのもそのせいですか」
「ええ、本物ではないもの。とにかく、あの子の心を大きく揺さぶることに成功したおかげで、そこに私の能力で入り込めるだけの隙間を作ることができた。上々ね」
紫の能力のでたらめさを改めて味わった気がした。ただ、それよりも今ここで気になるのはレーツェルの心の中とやらの光景である。
凸の形をした乗り物は、車というものだ。三色を点滅させる細長い棒は信号機というものだ。
しばらく科学とは無縁の小さな世界で暮らしていたせいで見た直後はわからなかったが、段々思い出してきた。幻想郷に来たのは車や信号機が発明された後だったから、私は元々知っているのである。
車は人間が馬よりも高性能な乗り物を求めて手に入れた科学の塊。信号機は、車の行き交いを制御するための機能を持っている。
あいにくと、人形が持っている小さな機械はなんなのかイマイチわからないが……たぶん携帯電話というやつだろう。なんだか画面の部分がでかすぎる感じがするが、河童が似た感じのものを持っていた。
「説得がダメだった場合の策っていうのがこれなの?」
きょろきょろと物珍しげに周囲を見渡しながらのフランの質問。たまに空に目を向ける辺り、彼女も私と同様に太陽が平気なことに驚嘆している様子である。
「ええ。あの子の心の深層に入り込んで、それを直接刺激する。心の外側から語りかけるよりもよっぽど効果的よ」
「勝手にって、なんだかかなり失礼な感じがするけど」
「私も普段ならこんなことしませんわ。でも、この窮地にそんなことも言ってられないでしょう? それにそもそも、心に他人が入り込めるだけの隙間なんて普通ならできるはずがないのよ。これは、あの子の心がそれだけ歪になってしまっている証拠……」
そんな風にフランが納得するような説明を口にする紫もしかし、どこか訝しげに周囲の景色を見渡していた。さとりもまた、空や車などに目を向けながら眉をひそめている。
「どうしたのよ」
二人に問いかけてみる。なにかレーツェルの心におかしな部分があったのだろうか、と。
紫はまるで「見てわからないの?」とでも言いたげに私に半眼を向けてきた。
「ここ、つまりレーツェルという吸血鬼の心の深層に、外の世界のおよそ現代と呼べる……いえ、それさえも越えた高度な文明を備えた都市が根づいていて、それもあなたやあの子の故郷たる西洋ではなく、東洋のそれと酷似している……明らかにおかしいでしょう? なぜ、あの子の心はこんな世界を体現することができているのか。なぜ吸血鬼であるはずのあの子が、こんな太陽の照りつける暖かみのある世界を知っているのか」
「あぁ、そうか」
改めて辺りを見回してみる。無駄に高い建物ばかり立ち並び、植物はと言えば、申しわけ程度に置かれた街路樹だけ。自然に満ち溢れた幻想郷とは大違いである。
当然のことながら、私はこんな場所を見たことは一度たりともありはしない。レーツェルとはいつも一緒に暮らしてきたし、旅行なんてろくにしたこともなかったから、彼女もこのような景色を一目でも見たことがないことを知っている。
しかも紫はこれを東洋と酷似していると言った。元々住んでいたのは西洋の方だし、私たちは東洋なんて幻想郷のことしか知らない。
加えて言えば、現代の文明を越えているかもしれない、と。
でも、レーツェルはそれらを知るすべなんてなかったはず。大図書館には東洋の本はあまり保管されていないし、その文明のさらに先を予測することも不可能に近い……。
どういうことだ?
歯車がかみ合わない。なにかがおかしい。
決定的に、なにかが根本から間違っている。
「不思議なのはそれだけじゃありません」
さとりが目を細め、ちらりと私たちへと視線をやってきた。
「世界の形があまりにもくっきりとし過ぎています。心というのはいつも曖昧なものでして、たとえこのような人の心の奥底に潜む原初の風景であろうとも、少なからず夢じみた世界になるはず。こんなにはっきりと輪郭がわかり、声が聞こえ、ましてや匂いや空気の暖かささえわかるなんて……」
レーツェルの心が歪になってしまっているから。それだけでは説明がつかないほど、奇妙で理解しがたい作りをしていると二人は言った。
レーツェルの心の奥底に潜む原初の風景、すなわち原風景。その者の思想形成に大きな影響を与えたもののうち、風景の形を取っているもの。いや、実際に感覚を持って降り立つことができた私たちにとっては、あるいはここを原世界とでも呼ぶのが正しいのかもしれない。
そんな世界が、どうして東洋の未来の形を取っているのか。
一瞬、幼い頃のレーツェルの泣き顔が頭をよぎった。
これは、まさか……いや、でも、そういうことなのか? とても信じがたい話だ。単なる予想にしか過ぎない確率が高いし、なにせ閻魔がそんなことを許すとは思えない。けれど、もしもそうなのだとすれば、これは……。
「まぁ、今はそんなことを気にしてる時じゃないわね。急がなければ外が危ない。それにあの子の心の隙間が閉じてしまったら、私たちも容易にはここから出られなくなってしまうわ」
紫の声が、思索に耽りかけた私を遮った。未だレーツェルの心について考え込みたくなる気持ちがあったが、優先しなければならないことは心得ている。
まずはレーツェルを救う。気になることなんて、その後レーツェルから直接聞けばいいのだ。
「それで、直接刺激するとか言ってたけどどうするつもり? まさか辺りの建物を手当たり次第に壊しまくるとか、さっきからずっと見世物みたいに見てきて鬱陶しいこいつらを片づけるとかじゃないわよね」
いい加減めざわりになってきた。ざわざわとうるさいし。
返答によっては周囲の人間どもを吹き飛ばす、という意志を見せる私を見て、紫は呆れたように首を横に振った。
「そんなことしても無駄よ。せいぜいが思考をほんのちょっと鈍らせる程度かしら。壊したところで、どうせ人も建物も空も太陽もすぐに再生していく。そもそも心の中よ? 私たちを見てるやつらに魂なんて入ってない。こんなものにいちいちイラついててもしかたがない」
「じゃあ、どうしろって言うのよ」
「核を探すの。心の根本を担う、この原風景の中でも再生が不可能なただ唯一の存在を。そしてそれを壊すとは言わないまでも、叩く」
紫はそう説明し、大きく肩を竦めた。
「……ただ、あいにくと私にはそんなものを探し当てる力は備わってないわ。それにその唯一の存在がどんな形をしているのかもわからない。学校や病院と言った建物かもしれないし、あの太陽かもしれないし、そこの人間どもの行き交いに混じっているのかもしれないし、私たちの見える範囲にはないのかもしれない」
「要するに、手がかりはないってことね」
「ええ。残念ながら。私には心に入るまでしかすることができないから……それで、この世界での動き方をレクチャーしていただこうと、説得失敗に備えて心に詳しいサトリ妖怪の二人の近くで待機していたのだけれど」
さきほど紫は、ちょうど近くにいたのがあなたたちだったから、なんて口にしていたが、実のところはある程度狙っていたようだ。さとりやこいしは入れるのを確定として、その付近にいた中でも、レーツェルにとっておよそ重要な立ち位置にいると思われる私とフランをメンバーに引き入れたのだろう。
幻想郷の管理者たる紫の立ち位置からしてみれば、ここには霊夢や魔理沙と言った面々も連れて来たかったはずだ。それができていないということは、レーツェルの人形に迫られるという状況がそれほどまでに切羽づまっていたということ。妖怪の賢者と呼ばれる紫でさえそれほど慌てなければならなかったのだから、なるほど、あれだけの人数が揃っていながらレーツェルには実力で勝てないと言う話も真実味を帯びてくる。
どうやら私が想像している以上に、レーツェルの妖怪としての脅威は高位のレベルに在るらしい。
紫の言葉に期待するような視線を向ける私たちに、しかしさとりは申しわけなさそうな顔をした。
「すみません。私が読み取れるのは表層心理に限られていまして、こんな単純怪奇複雑明快な深層の構造を把握するのは不可能なのです」
そう口にすると、目を伏せる。単純でありながら怪奇、複雑でありながら明快とは、なんとも表しようのない言い方をする。いや、心のことをよく知る彼女ならではの心というものの表現法なのかもしれない。
ならばと、今度はさとりも含めた視線がもう一人のサトリ妖怪の方へ向いた。古明地こいし。そういえばさきほどから一切声を発していないが、いったいどうしたのだろうか。
あ、と。全員の口から共通した声が漏れる。
「こいしっ!」
こいしはふらふらと、人ごみの中へと歩みを進めていた。それに一番最初に気づいたさとりが走って追いかけ始め、それを止めようと紫が手を伸ばすが、空を切る。
そうして二人は、人ごみの中に消えてしまった。行き交いする人間は大人ばかりだったので、さとりやこいしのような、人間で言う十代の外見しかない彼女たちはすぐに埋もれて見えなくなってしまう。
「ちょっと、ばらけたら帰れなくなるわよ! ここじゃ私の能力での空間移動もうまくできないし、妖気の察知だって――」
「そんな理屈こねてないで、いいから追いかけるよ!」
紫の腕を掴んで、地面を蹴る。紫の能力やらはうまく扱えないようだが、私の吸血鬼としての身体能力は、レーツェルの原世界の中でも問題なく機能しているようであった。
近くの街灯の上に乗り、素早く視線を張り巡らせて、三階建て程度の比較的小さい鉄の塔に目をつける。もう一度高く跳び上がり、さきほど選んだ建物の屋上に着地する。私がたどった跡をフランもついてきた。
ここから街道を見下ろし、さとりとこいしの二人がどのあたりにいるのかと、きょろきょろと顔を動かす。この世界の特徴なのか、歩いている人間はすべて黒色の髪をしていた。桃色だとか緑に近い灰色だとか、そんな目立つ髪色をしているさとりとこいしはすぐに見つけることができる。
さとりはこいしのもとにちょうどたどりついたようで、その手をがっしりと掴んでいた。しかしこいしはそれに気づいた様子もなく、まるでなにかに取り憑かれたように歩みを進めている。
その様子をほんの少し、訝しむ。不思議に思う。
そういえば紅魔館に遊びに来た時に、こいし自身から聞いたことがあった。彼女というサトリ妖怪は心を読めるという第三の目を閉じることで、己の心さえ閉じてしまった、それゆえに存在感の薄い妖怪なのだと。考えることをやめ、無意識だけで行動するようになった妖怪なのだと。
無意識――つまり、深層心理。
古明地こいしという存在はもしかしたら、このレーツェルの深層たる世界において、核を探し得る重要なファクターなのではないか。そしてそんな彼女があれほどまでに夢中になっているのは、この原世界で重要な役割を担っているなにかを察知したからではないのか。
紫もバカではない。むしろ聡明だ。私と同じような答えに思い至ったらしく、二人を連れ戻そうと飛び出そうとしていた体を止めていた。こいしがどこへたどりつくのか、知る必要があるから。
「レミリアお姉さま? 紫?」
「フラン、このまま上からあの二人を追うわよ。降りるのはすぐにじゃなくて、機を見てからに変更」
フランにそう告げて、そろそろさとりとこいしを見失いそうだったので、次の建物の屋上に移動した。また見えなくなりかけたらさらに次へ、次へ、次へ。繰り返す。
さとりは妙に夢中に人をかき分けて歩くこいしの様子に困惑しているようであった。
どれほどの回数、屋上から屋上への移動を繰り返しただろうか。そろそろ痺れを切らして下に降りたくなってきた頃、不意にこいしが立ち止まった。
まさか見つけたのだろうか。こいしとその周囲の様子に目を凝らす。
そこは私たちが最初にいた街道からずいぶんとずれた細い脇道だった。細いと言っても車とやらがギリギリ二つ一緒に通れるか通れないかという具合で、狭いというわけではない。地面が灰色で辺りに自然があまりなく、御柱のような柱が建っていたりというのは相変わらずだったが、本道でないためか人通りが少ないのが特徴的だった。
だからこそ、こいしがさとりの静止を振り切って回り込み、じっと見上げた二人の人間の姿が私たちの目によく留まる。
こいしが止まらなければすぐに目を逸らしていただろう、どこにでもいそうな、これまで見下ろしてきた街道でも幾度と目にしてきたような平凡な黒髪の少年が二人。特筆するようなことなんてなに一つとして存在しない。
けれどもなぜか、こいしから見て左側の少年に、私は親近感にも似た言いようのない不思議な感覚を覚えたのだった。
□ □ □ Ein Standpunkt wird wiederhergestellt □ □ □