――彼女は、ただ――――。
置いてあるものは基本的に私の自室とそう変わらない。天蓋のついた大きなベッド、ベッドサイドテーブル、ぬいぐるみや人形等が飾られた扉つきの棚に、小さな机とイス等々。明確に違うと言えるのは、魔法の研究用に小さなものとはまた別の巨大なテーブルが用意されていたり、一人で過ごすにはおよそ大きすぎる部屋中を照らすため、かなり大きいシャンデリアがぶら下がっていたり、壁にランプが設置されていることだろう。
私の後に出てきた人妖たちも、境界の隙間の先がさきほどまでいたホールではないことを訝しんでいるようだった。特にフランなどは――再び不快という感情を抱けなくなったにしても、無断で、しかも一〇を越える数の人に一気に自室へと入られたのだから当然だが――非難するような目で紫を見据える。なにか正当な理由がなければ許さないという具合だった。
紫が、そんなフランの態度の変化に気づかないはずがない。
「ごめんなさいね。この異変が終わった後にお詫びくらいはするつもりよ。でも、あの子の心を揺さぶるにはおそらくここが一番効果的だから」
両手を上げて、他意はないと伝えてくる。フランはそんな紫を数秒だけじっと見つめ、「次があるなら、ちゃんと許可は取ってね」と鼻を鳴らした。どうやら不問にするようである。
それにしても、ここが一番効果的、か。紫はどうやらレーツェルが異変を起こすことを予期していた節があるし、もしかしたらそれに備えてレーツェルの経歴をなんらかの手を使って調べたのかもしれない。あるいはその情報のうちから私たちがしてきた経験について確率の高い予想でも立てていたか。なんにせよ、紫の言うことに間違いがないことを私は知っていた。
ここは実の父と義理の母親がフランに殺された場所――レーツェルが表情をなくす、決定的な原因を作っただろう部屋なのだから。
「ありがとう。それじゃあ全員、準備はいいかしら」
ええ。うん。もちろん。ばっちりだぜ。そんなセリフや、あるいは頷くだけ。それぞれがそれぞれの形で紫の確認に肯定の意を示す。
私も返事をして、目を閉じる。大きく息を吸って、吐いて。
……それから、瞼を上げた。
「霊夢」
「ええ」
霊夢は半透明な水色の宝石が特徴的な首飾りを外すと、大きく投擲の姿勢を取る。私は手元に霊力を込めたのを察知し、そして霊夢はそれごと壁の方へと首飾りをぶん投げた。
目で追う。
深呼吸をしたはずなのに、心は完全に落ちつけていない。心臓がドクンドクンと鳴るのが自覚でき、緊張した思考が目の前の現象を何分の一にも引き延ばす。吸血鬼としての超感覚が、目の前の事象を遅く捉える。
首飾りの宝石が風を切る音が耳に届くかのようだった。
――私は今まで、レーツェルが笑顔を見せなくなってしまったあの時から、ずっとこの手でありとあらゆる人妖の運命を操ってきた。
――レーツェルの能力を前にそれが通じているかは定かではなかった。むしろ無効化されている可能性の方が断然高い。それでも私は諦めずに何百年と続けてきた。
――他人を利用していることに罪悪感はあった。もしかしたらなんの意味もないのではと、無力感に苛まれることもあった。
――そして今より、その『答え』合わせが始まる。
――私がしてきたことに意味はあったのか、それともただただ無意味な足掻きだったのか。
首飾りが部屋の壁に激突した。水色の宝石が砕け散り、宙空に複雑怪奇な魔法陣が現れる。
たった二日しか離れていないだけなのに、吹き荒れる赤白い魔力はなんだかとても懐かしくて、不思議と涙が溢れそうになってきた。
だが、今は弱気になっていてはいけない。
目元を拭う。思いを改めた。そしてその手を下ろした瞬間、魔法陣が一際大きな光を放つ。
銀に幾房か金が混ざった美しい髪、翼膜のない不思議な翼――大切な妹。気がついた時には、首飾りが砕けた壁際に、膝を抱えてうずくまる一人の少女の姿があった。
「レーツェル……」
霧が消えたことにより、負の心が戻ってくる。
胸が痛む。それを受け入れる。悲痛が溢れ出る。それを受け止める。
かつかつと宝石の破片が床を叩く中、レーツェルが膝にうずめていた顔をゆっくりと上げた。
□ □ □ Ein Standpunkt wird wiederhergestellt □ □ □
始まりの中にいた。
終わりの中にいた。
目を閉じれば訪れる暗闇。誰もが平等に持ち得る無という現象。その内側に深く深く沈んでいる。
原初の黒が、およそ意識と呼べるものを包み込む。温かくなく、冷たくもなく、優しくもなく、厳しくもなく、ただなにもないだけの漆黒。
ここに時間はない。空間はない。ただ自分という個だけが存在する。自分という無だけが存在する。
これが俺の望んだ結末だった。
これからの生、そのすべてを越えて、永遠にここで生き続ける。無だけが占める暗闇の中で、ただ一人思い出に浸りながら、外界の負の『答え』をなくし続ける。
寂しいか。悲しいか。苦しいか。辛いか。
そんな感情、なくしてしまった。
でも、退屈だ。つまらない。
その感情もなくしてしまおうか。
それもいいかもしれない。
しかし、退屈という気持ちはどこからやってくるのだろう。
それがわからなければ、俺の能力は現象というものを、なくすことができない。
巡る。巡る。意識が思考を巡る。
急ぐ必要はない。時間は無限にある。有限をなくしている。
一秒、一分、一時間。あるいは一日?
なんでもいい。ただ、『答え』は出た。
退屈とは、無から生まれたものの一つだ。
好まない現象の発現、同じことの繰り返し。そういうことの中で次第に擦り減っていく感情、逆に生まれてくる無に意識を向けた結果に生じるのが、退屈という情感だった。
わかったのは、俺の能力では退屈というものをなくすことができないこと。
俺の能力では、無と直結したその感情をなくすことはかなわない。
退屈だった。
心が擦り減っていく。感情が本当になくなっていく。
理解していた。
無の中にあるこの意識でさえ、いずれ擦り切れてなくなってしまうこと。
怖さはなかった。そんなものは捨てた。
でも、おかしいな。
渇く。
胸の内が渇く。心が渇く。
誰かこれを満たしてくれ。誰かこの気持ちのわけを教えてくれ。
叫びたい。
なにを?
欲しい、欲しい、欲しい。
行かないでくれ。消えないでくれ。
ダメだ。
なくす。全部、なくす。
なくせないよ。
わからない。理解できない。
でも、理解している。
なり切れない。染まり切れない。
かぶり切れない。誤魔化し切れない。
違う。
知らない。知らない。
知りたくない。
わかりたい。
わかっちゃいけない。
役割を自覚する。鎖が強く締めつけてくる。
口を開いた。喉を震わした。
なんて、言ったんだっけ。
助けて?
暗い、暗い、暗い。海の底。なにもない、誰も来ない、渇きに満ちた場所。
応じる声はない。けれど。
がしゃん、と。
ふいと、鎖に繋がれた手を引かれた気がした。
光のない世界で、確かに誰かが触れてきた気がした。
ほんの少しだけ、渇きが収まる。
もう一度、口を開いた。
君は、誰?
返事はない。
代わりにそれはただ、俺の手を強く引いてきたのだった。
「――――レーツェル……」
懐かしい声がした。空気を震わし、耳に届いてくるそれは、決して聞き間違いようのない彼女のものだった。
どうして?
不思議に思う気持ちがあった。当然だ。俺は幻想郷中に広がり、負に類する痛みの『答え』をなくし、曖昧な意識の中で目を瞑った。
これは現状を正しく確認するためだと、頭の中で瞬時に理由づけをする。
でも実際はただ、あまりにその声が恋しくて、もう一度夢の世界を味わいたくなっただけなのだともわかっていた。
俺は膝を抱えて座り込んでいるらしい。膝にうずめていた顔を上げ、こみ上げてくる期待に少しだけ逆らうかのように、のんびりと目を開いた。
そこにいたのは予想に反して、一人だけではない。
俺が幻想郷で知り合ってきた中でも、およそ親しい仲だと言えるだろう人妖がほとんど勢ぞろいしていた。
視線を動かし、そのうちの一人の妖怪に目を留める。
「……あなたの仕業ですか」
「ええ。あの夜の宣言通り、私は私の全力を以てあなたを止めに来ました」
そう言って挑戦的に微笑む紫に、大きく一つため息を吐いてみせた。
脳内の魔法陣の確認。接続は正常、予備の肉体に破損や不備は見当たらない。
辺りを見渡す。ここはフランの部屋のようだった。そして散らばっているのは、俺が霊夢に上げた緊急のお守りである。
なるほど、これで俺を実体化させたのか。紫の結界や萃香の萃める力には対策を施していたが、さすがにこれは盲点だったと言えよう。把握していても、おそらくは無に帰す現象の中にはいれなかったはずである。
まんまと利用されたわけだ。
「それで……なにか用があって呼び出したんですよね。こんなに大勢で、いったいどうかしたんですか?」
すぐにもう一度霧になって幻想郷を覆い尽くすこともできたが、俺がしたことがいったいどういう影響を与えているのかを聞き出すのにいい機会だと思って、鬼化するのをやめておく。
なにか俺の予測していなかった事態が起こってしまった可能性もある。その場合、いったん能力でなくすものに修正を入れなくてはならない。
……そんな風に適当にそれっぽいことを考えてはいるものの、本音はただ単に、この瞬間をすぐに手放したくないだけなこともわかっていた。
もう会えないと思っていた人妖に会えた。そして、次に霧になればこんな事態が二度と起こらないこともなんとなく理解していたから。
頬に手を添える。無表情だ。
負に類する痛みをなくす対象は俺も例外ではなかった。そしてその能力は今も解いていない。
大丈夫、なんの問題もない。
「レーツェル」
そんな思考を広げている中、ふいとレミリアが俺の方に一歩踏み出してきた。
産まれた時からずっと一緒だった、とてもとても大切な姉。
彼女が悲しみに顔を歪めているのを見て、胸の内に虚無の念が生まれてくる。
おかしいな。なんだろう、これは。
「あなたを、助けに来た」
「助け、に?」
誰を? どうして? 俺?
首を傾げてみると、レミリアがこくりと頷いた。
「あなたを連れ戻しに来た」
「連れ戻す?」
「あの日の清算を……あなたの本当の心を取り戻しにきたわ」
そうまっすぐに俺を見つめてくるレミリアは、これまで見た中で一番真剣な感情を眼に灯していた。
一瞬、思考が止まる。心が無防備になる。
そこを突いたかのように感情が荒れ狂う。
感謝、懇願、安心、歓喜。
一拍の間を置いて、己への憎悪。
全部、唇ごと無理矢理噛み殺した。
「ふふっ、なんのことでしょう。本当の心って、私はいつも本心を口にしていますよ。それにあの日……もしかして海の最終調整を行ってる日、呼び止めに応じなかったことを怒ってるんですか? すみません、あの時は急いで――」
「その仮面を外しにきたのよ。自分を騙して、都合のいい思いだけを本心だと思い込んで……」
「なにを」
「あなたをもっと強く抱きしめてあげられなかった、あの日の清算に来た。あなたに救われてばかりだった、過去の私の清算に来た。あなたを暗い暗い海の底から、引き上げにきた」
「だから、なんのことを」
「レーツェル」
強い、強い意志のこもった目をしていた。
「レーツェル、私は本気よ」
なにかが喉につっかえる。さまざまな言葉が浮かんでは消え、どうしたらいいのかわからなくなる。
困惑? 違う。
虚ろが鳴りやまない。消えてくれない。
気づいた時には、あの日ってどの日だとか、清算ってなんのことだとか、そんなことを思えなくなっていた。
どうしてか、平常心でいられなくなっていた。
すぐに頬に手を添える。無表情だった。それでも、変わらない。変わってくれなかった。心が揺れているのを自覚できる。いつものように、感情が無に帰らないのがわかってしまう。
どうして? そんな疑問。しかしその答えを、なんとなく理解している自分がいる。
どこまでも俺という存在に対して真摯なレミリアの態度を前にして、心に塗り固められた嘘というメッキが、ほんの少しだけ剥れてしまっていたのだった。
本当はわかっているんだろう? 本当は覚えているんだろう?
なによりも強く、思い出しているんだろう?
一度意識すると、戻れない。暗示が効かなくなる。思考の荒波を抑え切れなくなる。
表情をなくした日のことが頭の中に過ぎった。
やめてくれ。お願いだから。
自分を誤魔化せなくなってしまう。
「あなたはいつも私を助けてくれたわよね。ちょっとでも危険かもしれないことに私が挑戦する時は、いつもどこかから見守ってくれて……肝を冷やすことがあった時は、私よりも先にあなたが対処してくれていた。遊びだって、私やフランがどれだけ楽しんでるかをいっつも気にしてる。自分のことよりも私たちのことを第一に考えてくれてた。だから、たとえどんなにあなたが心を偽っていても、その好意だけは本物なんだって本当に強く伝わってくる」
なにが嬉しいのか、なにが悲しいのか。なにが本物で、なにが偽物なのか。
胸に浮かぶ感情のうち、なにが嬉しさでなにが悲しさなのか。どれが本当でどれが嘘なのか。
なぁ、おかしいだろ?
どうして俺に、そんな迷いのない優しげな目を向けることができるんだ。どうしてそんな、なにもかもを確信したような瞳をすることができるんだ。
俺ですら、もう全部疑わしいというのに。
「レーツェル。私はね、本当は……最初の頃、あなたが煩わしかったの。あなたが産まれたばっかりの頃、お父さまとお母さまは泣きじゃくるあなたにかかりっきりで……羨ましくて、妬ましかったのよ」
レミリアから、目が離せない。
「ふふっ、失望しちゃった? ごめんね……私はきっと、あなたが思ってるほど強い姉じゃないの。あの頃の私なんて親離れができなくて、どこまでも甘え盛りで、自分よりちっちゃい子に嫉妬心を抱いちゃうくらい醜くて……どこまでもか弱い子どもだったわ」
レミリアの言葉を一つ一つ耳にするたび、心に塗りたくった雑なペンキが、ぱりぱりと剥がれ落ちてしまっていくのがわかっていた。
「いえ、今もそれは変わらないわね。あなたに守られてばかり……本当なら、あなたに好いてもらう資格なんてないのかもしれない。怨まれたってしかたないかもしれない」
自分が、心の底から嫌だと思ったことから逃げるためにかぶった仮面が、"狂った帽子屋"が剥離していく。
「……お母さまが亡くなった時ね、本当に辛くて……平気そうにしてたあなたを見て、ちょっと嫌な気持ちになったのを覚えてる。嫌悪感、だったのかな。どうしてあんなに悲しいことがあったのに、そんな平然と私に接せられるんだ、って」
守るために手に入れたチカラが遠くなっていく。
「でもすぐに気づいたわ。あなたが、私に気負ってほしくなくて、そんな風を装ってたこと。私を必要以上に悲しませたくなくて、わざと平気そうにしてたこと……自分で自分が情けなくなった。妹にまで気を遣われて……いえ、妹に気を遣ってあげられなかった、私自身が」
そしてその事実に、心が拒否反応を起こさない。チカラを失ってしまうという変化を、なにもせずに受け入れてしまっている。それに恐怖を覚える自分がいる。憎しみと焦りを覚える自分がいる。
「あなたが私をなによりも大切にしてくれてるのがわかって、私があなたにしてたようにフランに優しくするのを見て……お母さまがいなくなった寂しさとか、無意識に抱いてたフランへの怒りとか、全部抜けていっちゃったわ。それから思い出したの。お母さまに託された最後の願い……長女として、二人を守ってほしいって」
おかしいな。ああ、本当におかしい。
憎しみとか、焦りとか、そんな負に類する思い、全部なくしてしまっているはずなのに。
「それからがんばったつもりだったんだけどね……やっぱり私じゃ、力不足だったみたい。今度はお父さまたちまでいなくなっちゃって……それでも、お母さまがいなくなっちゃった時、レーツェルに助けられたことだけは覚えてた」
いつの間にか、胸に空いた穴が浮き彫りになっていた。
「だから今度は私がレーツェルを助けたいって思った。レーツェルの力になりたいって……でも、あの時の私には覚悟が足りなかったの。自分の心の整理で手いっぱいで……あなたがあんなに悲しい顔をしてる時、拒絶しても離さないくらい、強く抱きしめることができなかった」
自分を傷つけて。フランの笑顔を見て。自分が幸せなんかじゃないと思い込んで。
「いつもいつも私は力不足だった。あの後の人間との戦いでもあなたに頼って……それからもずっと。初めて幻想郷に来た時だって、私一人の力じゃどうにもできなくて、あなたに助けられて……本当に情けない姉よね」
いつだって埋めたつもりで、いつだって埋まっているつもりで、でも気づけばまた空いている穴。
「あなたがそんなに悲しくて、辛くて、苦しいって思うことをしなくちゃ……妹にそんなことをさせなくちゃ、妹に安心してもらえないようなくらい……ごめんね、レーツェル。姉がこんなに不出来で、弱くて」
渇く。欲しいものはすぐそこにあるのだと、心が呟く。
「でも、これからはもうそうじゃない。これからは、もっと強くなるから。あなたが安心して頼れるくらい、強くなるから。あなたの隣を歩けるくらい、強くなるから」
手を伸ばせば、届くのだろうか。
ずっと暗い海の底にいた。自分でつけた鎖の重みで、這い上がれないようにした。
それでも、確かに光がそこにある気がした。今日まで当てもなく探し続けていたものが、そこにある気がした。
手を伸ばせば……届くのか? 本当に?
許されるのだろうか、それが。
許してもいいのだろうか、それを。
「ねぇ、レーツェル。さっきも言った通り、私は最初の頃はあなたのことをよくは思ってなかったわ。でもね」
俺は、ただ目を見開く。
レミリアは俺を見て、満面の笑みを浮かべたのだった。
「今の私はあなたを、レーツェル・スカーレットのことを、心の底から愛しているわ」
嘘ではなかった。そんなことを、一片たりとも疑う必要も、意味すらなかった。
それほどまでに彼女の思いは緩みなく、ひたすらで、視線を通して強く伝わってきて。
あれ?
おかしいな。なんでだろう。
なんでなんだろう。
「どう、して」
手を頬に添えた。そこを、温かい雫が伝っている。
無表情なのに。なにも感じていないはずなのに。
苦痛も悲痛も、負に類する痛みのなにもかもを押さえ込んでいるはずなのに。
嬉しさから? 確かにそれも交じっている。でも違う、それだけじゃない。
わからない。わからない。わからない。
わかりたいのに、自分の心はなにもかも疑わしくて、どうしようもなくて。
ただただ止めようのない涙が、とめどなく溢れていた。
「レーツェル・スカーレット」
紫が口を開いた。俺を含め、全員の視線がそちらを向く。
「ここにいるのは皆、あなたを慕って集まった者。あなたの姉ほど強い思いとは行かないかもしれないけれど、誰もが皆、あなたを少なからず気にかけている人妖なのよ」
全員の顔を見る。皆、心配そうで、怒ったようで、そしてどこか優しげな表情をしていた。
「……あなたが幻想郷を侵した結果として残るのは、ただただなにもない世界。感情に正負に区分されるものがあるのは、それぞれがそれぞれの逆と相関しているから。悲しみがなくなれば、喜びはいずれ消え失せる。苦しさがなくなれば、いずれ楽しさもなくなってしまう。あなたの装う偽る狂気にはなんの意味もない。すべてを無に帰すだけ……」
あなたも本当はそれを理解していたはずでしょう? と。
じっと紫に見据えられる。
そうかもしれない。でも、そうじゃないかもしれない。
もうなにもかもわからない。自分が何者なのか、自分がなにを考えているのか。
でも、もしも紫の言う通りだとすれば、俺はなにをするのが正解だったのだろうか。
この身に宿る力ですべてを包み込み、守り通す以外に、俺になにができたと言うのだろうか。
「さて、それを知ったあなたはなにをする? これからどう動く?」
「…………わから、ない」
「異変を起こすことをやめる? それとも、また別のことを考える?」
「わ、からない」
思考がぐちゃぐちゃに混じり合う。感情がぐにゃぐにゃと複雑に形を変える。
なにが正解で、なにが間違いで、なにが『答え』なのか。
「では、質問を変えましょう。あなたはいったい、なんのためにがんばってきたのかしら。罪悪感? 使命感? それとも、皆が大切だと言う強い思い?」
「なんの、ために……?」
「そう。ずっと不思議だったのよ。いったいどんなものが根底にあれば、そんなに自分を騙し続けていることができるのか……こんな異変を起こしてまで、あんな実験をしてまで、今日までずっと心の奥底で苦しみながら、それでも生きてきた
「こん、てい……」
よぎるのは、両親と義理の母が死んだ光景――でも、違う。
その先がある。
そこになによりも強烈で、凶悪で、いつまでも心に張りついて離れないモノが一つだけあるのだ。
「…………それは……」
罪悪感なんて建前だ。皆を守るための行動だなんてのは、それから逃げる行為が派生しただけだった。
俺が本当に恐れているものはただ一つ、俺が本当に感じたくなかったのは、見たくなかったのはただ一つ。
"狂った帽子屋"に成り切らなければならないと誓った決定的な理由は、ただ一つ。
どんなに狂っても忘れないと胸に刻んでいた思い。
どんなに偽っても誤魔化さないと決めていた思い。
それだけは今までも、これからもずっと変わらない。
「――――お姉さまが、大好きだから」
――柔らかくて、甘くて優しい安らかな匂い。俺が慕う大好きな姉の胸の中。
――失いたくないと思った。自分のどんな正や負の感情よりも、自分の存在を賭けてでも、自分のどんなものを犠牲にしても。
――この少女にだけは、たとえこれからなにがあろうとも、幸せに過ごし続けてほしいと思った。
――これからどんなに俺の心が擦り減ろうと、どれだけ死にたくなったとしても、その果てに心がすべてなくなってしまったとしても、それだけは絶対に。
「大好き、だから……」
目の前が滲み続ける。
解答を。
誰か、教えてくれ。誰か、頼むから。
ねぇ、どうしてなんだ?
俺が在るわけは? 俺がここにいるわけは?
レミリアを守れない俺に、レミリアを幸せにできない俺に、どれだけの価値があるって言うんだ。
こんな右も左も、本当も嘘も、喜びも悲しみもわからなくなってしまった"狂った帽子屋"の存在に、どんな意味があるっていうんだ。
俺の正体は、いったいなんだって言うんだよ。
胸が渇く。渇く。渇く。
目を見開いたレミリアを見て。
彼女が、悲しそうな顔をしているのを見て。
ああ、ダメだ。
どうしてこうなる。どうしてそんな表情にしてしまう。
足りない。届かない。俺では為し得ない。
叶わない。願望も、欲望も。
無理だったのか、と。
為せなかったのか、と。
ああ。
また、失敗したのか――――いや。
――……まだだ。手はまだ、ある。
「アクセス……正常。全個体、召喚」
魔力の限り、見ゆる場所すべてに倉庫空間へと通じる穴を開く。それは数えるのも億劫なくらいたくさんあって、とにかくそのすべてから、俺と同じ形をした人形が現れた。
すべての個体にパスを通す。その時に数もわかる。たったの三八七体。
魔力を循環させ、あらかじめ体内に仕込んでおいた魔法陣を起動すると、全部の人形が立ち上がった。
その様子に、俺以外の全員が冷や汗を流すのが窺える。
「な、なによこれ。前に見た時はこんな術式……」
「バレないように、仕込んでおきました。紫は転生魔法を知ってますから、きっと対策を練られるだろうと思いまして……"童話『狂った帽子屋』"、とでもしましょうか」
俺はまた失敗を犯した。だったらもう一度、やり直せばいい。今ならまだそれが間に合う。
まずはここで全員を捕らえる。そうして、俺の能力を無視して俺を呼び出すという暴挙に出られた理由を究明するのだ。
そうしたらそのミスを修正して、紫の言っていた正負の相関とやらを実験しつつ、幻想郷をもう一度霧で覆い尽くす。
ずっと目を閉じているのがダメだとわかった。ならば、定期的に見張っているようにしよう。おかしなことにならないように調整していくようにしよう。その辺のことはこの俺の形をした人形を使えば、おそらくすぐにでもできるようになる。
必ず手に入れる。次は絶対に間違えない。
偽れ。もう一度、自分を。
涙を拭った。胸の穴を無視するかのように、再生していた唇を再度強く噛む。
今度こそ、二度とレミリアに悲しい思いなんてさせやしない。そして皆を守ってみせる。フランに正しい幸福を与えてみせる。
「帽子屋より命令――」
「レー、ツェルっ!」
レミリアが俺の名を叫んでいた。叱るように、優しくするように、愛おしい声で。
笑う。作り笑いを浮かべる。
俺の心がどれほど痛もうが、知ったことか。
なにを犠牲にしてでも進むと誓ったんだ。だから。
「そこの一二人を、捕獲してください」
――――助けて。
自分と同じ形をした大量の人形が一気に飛びかかっていくさまを眺めながら、俺は、咄嗟に浮かんでしまった一つの言葉に注意を向けないように自身を誘導する。
どうしてだろう。
胸の穴が渇きすぎて、心に、ヒビが入ってしまったような気がした。