東方帽子屋   作:納豆チーズV

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 Hatte keinen Mut zu nehmen. Wurde also verwendet, um aufzugeben. Und sie hat es am meisten gehasst.
 ――踏み出すだけの勇気がなかった。諦めることに慣れていた。そして彼女は誰よりも、そんな自分が大嫌いだった――――。


四.bester Freund

 □ □ □ Standpunkt verändert sich zu Satori Komeiji □ □ □

 

 

 

 

 

 ――部屋の前で、私は呆然と立ち竦んでいた。

 ――大切な妹が泣いている声をただただ聞いていて。

 ――扉に手をかけた。でも。

 ――私には、それを開ける勇気が欠けていた。

 

 

 

 

 

 幻想郷における地底には季節は存在すれど、昼と夜に明確な違いは存在しない。外に出て空を見上げてみても、薄暗い暗闇が広がるか、雪などの四季に沿ったなにかが降り注いでくるだけだ。

 妖怪は人間と違って肉体的に丈夫なため、睡眠なんてものは本来ならばあまり必要ない。妖怪が基本的に夜に活動すると言われるのは、ただ単に昼間に行動するデメリットが大きいから暇で寝る者が多いだけで、決して動けないというわけではない。

 だからこそ、昼も夜もない地底の都は静まることを知らない。そこらに設置された街灯や提灯等が必要以上に明るさを振りまき、いつ行っても賑やかな空気は、地底の住民の大半を占める鬼たちにとっては理想郷に限りなく近い空気なのかもしれなかった。

 けれど、今はどうなのだろう。

 紅霧が一瞬にして地底中に広まったかと思えば、それが見えなくなった。その瞬間からすべてが変わったのだ。どんなことをしても肉体的にも心理的にも痛みを感じなくなり、ありとあらゆることを不満と思う心がなくなった。

 これは明らかな異変である。そしてこの異変のさなか、それでも鬼たちは変わらず過ごせているのだろうか。

 いや、鬼だけではない。すべての種族が変わらず楽しく日々を生きることができているのだろうか。

 不幸がなくなった世界。なるほど、理想の一つが叶った世界と言えよう。しかしだからと言って、そこは本当に幸福だけで満ち足りた世界なのか――。

 すべてはコインの裏表のようにして存在する。ありとあらゆる物事には表と裏が存在する。そのことはいろいろな人々の心の裏側を垣間見てきた私は、誰よりも理解しているつもりだった。

 不幸をなくせば、いずれ幸福は消え失せる。苦しみがなくなれば、楽しさはいずれ消え失せる。悲しさがなくなれば、嬉しさはいずれ消え失せる。

 人間も妖怪もそのことは本能的に理解していることだった。たとえば、過去にした苦い経験も、時間が経てば笑って他人に話せるようになるだろう。苦しみの裏表が曖昧になり、楽しさが顔を見せ始めたと言えるだろう。

 この世の物事はそのようにして多分に曖昧さを含む。その片方だけでもなくしてしまえば、いずれはなにもかもが無に帰ってしまうはずなのだった。

 

「……でも」

 

 目が覚めて、しかし起きる気が起きず、今の旧都の様子を想像しながらベッドに寝転んでいた。目を開けば、異変の最中にもかかわらず、いつも通りの日常を見せる自室の天井が目に入った。

 なにもかもが無に帰る。でも、それで救われる人もいるかもしれない。それでしか救われない人もいるかもしれない、なんて思う。

 裏表が明確になりすぎているほどに深すぎる絶望は、果たしてどう処理することができるのだろうか。

 裏表が明確になりすぎているほどに強すぎる悲痛は、果たしてどう処理することができるのだろうか。

 すでに裏へは返せない、表へは返せない、どれだけ時間が経とうとも曖昧になることはありえない。そういう圧倒的なまでの負の感情、出来事への処理は、きっと無に帰す以外に『答え』はない。

 多くの者はプラスの世界に身を置くだろう。だから今の異変を拒む。だが限りなく少ない、それでも確かにいるだろうマイナスの世界の者は、むしろなにもかもが無に帰った世界の方が理想の世界なのではないか。

 そう考えると、この異変もなんだか仕方がないものかもしれないと思ってしまう。胸の内に抱いていたわずかな反抗心が消え失せ、流されるままに受け入れるのが摂理なのかもしれないなんて思ってきてしまう。

 だって私も心を読むことでいつも傷ついてきた。数々の強烈な嫌悪感を第三の目(この瞳)で見つめてきて、絶対に治すことができない深い傷を負ってきた。

 それをなくすことができる。痛みを忘れることができる。決して裏切らない心地のいい暗闇へと、己が心を預けることができる。

 ああ、それはとても残酷ながらにして、なんて甘く優しい世界なのかと――。

 

「やめましょう」

 

 混沌に迷いそうになる思考を断ち切る。なにを考えたところで結局無意味だと判断して、無理矢理に頭の中を切り替える。

 上半身を起こし、ベッドの端から足を投げ出した。

 さて、今日はなにをしようか。本でも読むか、それとも書くか、もっと別のことをするか。正直どれも気分ではないが、無心でし続けていれば没頭できるようになるだろう。

 そうして立ち上がったところで、ふいと、机の上に置いてある電話機が目に留まる。ふらふらと半ば無意識に近づき、しげしげと観察していた。

 形は本で見た外の世界のものに酷似している。受話器を取って、それを耳に当てて使うタイプのものだ。

 まるで当然のように、一瞬この部屋にあるのが当たり前のように視線が過ぎ去ろうとしたものだから、なんだか余計に気になってしまう。

 

「……誰でしたっけ」

 

 去年辺りに誰かがくれたもの。そういうことは覚えている。だが、それ以外は思い出せない。

 私は毎晩のようにこの電話機を使っていたような気がしている。けれど誰と通話していたのだろう、どんな会話をしていたのだろう。記憶に蓋を被せられたかのように、思い出すことができない。

 どうしてか、心から急激に水分が抜けていくようだった。なにかが足りない、足りない、足りない。喉の渇きとは比にならないほどに強い渇きが満ちていく。

 苦しみはない。痛みはない。悲しみはない。辛さはない。不満はない。ただただ物足りない、あるはずのものがないという感覚だけが充満していた。

 嫌だった。

 嫌なんて気持ちを今は感じられないはずなのに、この電話機とずっと向き合っていることに忌避感のようなものを覚えた。

 目を逸らす。それから、ちょうどその先にあったイスに座った。電話機を見ないようにしていると、ちょうど読みかけで机の上に置いてあった本に体が向くものだから、それを手に取ってみる。

 どうしてか、なにも考えたくなかった。

 しおりの挟んだ部分を開く。ページの一番右上から一文字ずつ、しっかりと注意を向けて視線を下げていく。できるだけ思考を広げないようにして。

 

「……どうして」

 

 そこまでしているのに、文が頭に入ってこない。心の中で一生懸命に文字を読み上げているのに、内容がまったく染み渡ってこない。理解できない。

 こんなことをしている場合じゃないだろう、こんなことをしているのに意味なんてないだろう。わかっているはずだろう?

 そんな風に、必死に逃げようとする私の意識を、無意識が通せんぼしているようだった。

 違う。嫌だ。

 やめてくれ。やめてくれ。もうこの世界に苦痛はないはずだろう。こんな感情は抱けないはずだろう。

 なのにどうしてこんなに心が渇く。なのにどうして、涙が出そうになるくらい虚ろが溢れ出る。

 悲しくないのに。辛くないのに。苦しくないのに。

 やめて。やめてよ。そんなに責めないで。

 私はそんなに強くない。こんな感覚に耐え切れるほど強くない。

 傷が浮き彫りになる。虚しさに痛む諦観が蘇る。

 忘れられない。どうしても。

 無理なんだ。だって、そうだろう。

 ――どうせ私じゃ、なにもできないのだから。

 

「ぁ」

 

 得体の知れない重圧に耐え切れず目を大きく瞑ったその時、プルルルと電話機が鳴り響く音がした。それから、自分以外の意思によって意識が内側から外側へと向けられたからか、ぐちゃぐちゃになりそうだった内心から波が消えていく。

 だが、電話機に目を向けてみて、それとは別の思いが全身を駆け巡る。お腹が空いた時にご飯を前にした時のような渇望が体に満ちる。

 それは、期待。

 胸の内がドクンと強く鳴る。その理由もわからないまま、半ば反射的に受話器へと手を伸ばしていた。

 取っていいのか、これを。

 迷い。しかし、これ以上取らないでいれば電話が切れてしまうかもしれない。もう二度とかかってこないかもしれない。

 それを意識して、意を決する――それよりも早く、無意識に受話器を取っていたのだった。

 

「も……もしもし」

 

 返事は、ない。

 そうして三秒ほど動作を止めていると、なんだか途端に今の自分がバカらしく思えてきた。

 なにをしているのだろう。いったいなにを求めて、電話なんて取ったのだろう。

 知っている。

 助けが欲しかった。誰かに手を差し伸べてほしかった。

 わけのわからない空虚を誰かに埋めてほしかった。

 そんなもの、ただなにもしないで塞ぎこんでいる私のもとへなんてやってくるはずがないのに。

 

「……用がないなら切りますよ」

 

 こんなことは無意味だ。そんなこと、最初からわかっていたことだろう。

 そのまままた、三秒待つ。どうやらただのイタズラ電話、もしくは故障でもしたのか。なんにせよ受話器を取っていることに意味はないらしい。

 切ろう。

 受話器を耳から離し、元の場所に戻そうとした。

 そしてその瞬間、受話器から声が響いたのがわかった。

 

『――聞こえるかしら』

「ッ……誰ですか」

 

 すぐに耳に当て直す。電子で作られた音は少々不明瞭で個人がわかりづらく、聞き慣れた相手でない限りは一言で当てるのは難しい。

 耳を澄ましていると、『やっと繋がったわ』と安心しているような言葉が聞こえてきた。『地底は遠いのよ』と。

 

「もう一度聞きます。誰ですか」

『あら、ごめんなさい。私は八雲紫、一部からは妖怪の賢者と呼ばれている者でございます』

「妖怪の賢者……」

 

 かつて月に攻め入った妖怪のことがそう呼ばれているのは知識の中にある。そして同時に、それとはもっと別の情報網からどんな性格なのかを聞いたことがあるような気がした。

 いわく、胡散臭い妖怪。いわく、大体なんでもできる友人。

 誰から聞いたことだっただろう。どうしてか、うまく思い出すことができない。

 

『単刀直入に言うわ。あなた、今すぐ紅魔館に来なさい』

「……なぜです?」

『あなたならわかっているはずでしょう? あの子はずいぶんとあなたを慕っていたようだし、あなたもあの子をとても気に入っていた。だからこそ、誰かがいない、なにか大切なものが欠けている。そんな感覚をなんとなく覚えているはずです』

 

 渇きが再びやってくる。目を背けたい感情が、空虚とともに溢れ出る。

 肯定の言葉は吐けなかった。けれど、否定の言葉も口にすることができない。

 

『あの子を助けるために、あの子を取り戻すためにあなたが必要なの。お願い、どうか協力して』

「……助ける?」

『レーツェル・スカーレット。あなたなら、この名前を聞けば――』

 

 がたんっ、と。受話器が手の中から滑り落ちた。

 嗚咽が漏れる。目の前が滲む。

 どうして? なんで?

 わかっているはずだろう。

 痛い、痛い。痛くないのに。

 わからない。わかりたくない。

 

「で、んわ」

 

 電話を取らなければ。きっと相手に、とても迷惑な思いをさせてしまっている。

 無理矢理に体を動かしてどうにか受話器を拾い直し、耳元に当てた。

 もしかしたら切れてしまっているだろうか。そんな懸念を抱いたが、それはどうやら杞憂だったようである。

 

『……どうかしたの?』

 

 不思議そうに問いかけてくる声。どこか遠くの世界から語りかけてくる声はなんだか現実感がなくて、弱った私の精神はすべてを吐き出したくなってきてしまった。

 逆らう理由もない。むしろ、断るのにちょうどいいだろう。

 そんな風に開き直って、虚ろに捕らわれた感情を露わにする。

 

「無理、ですよ」

『無理?』

「私には、できません」

 

 ぎゅっと拳を強く握る。零れ落ちそうになる後悔に、それでも私は手を伸ばそうとしない。

 

「私には……彼女を助けるなんてことはできません」

『……できない?』

「だって、そうでしょう。この異変が起きてから、私は心を読めなくなってしまったことをすぐに気づきました。これは彼女が……レーツェルという名の少女が、私のために起こした異変でもあるんです」

 

 彼女の姿を思い起こせなくなったと同時に、館をうろつく動物たちと会ってもその内心が窺えなくなった。だからわかったのだった。

 この異変は私の傷を塞ぐためのものでもある。私が負った傷を、私が二度と気負わないようにするためのものでもある。

 

「それに、負の感情がない世界……私も想像したことがないわけじゃありません。だって私も、傷つくことがどれだけ怖いかを知っている。その痛みの深さを知っている。だからそれをなくしたいと思う気持ちが共感できてしまうんです。こんな異変を起こそうと考えてしまうような心、わからないでもないんです」

『……ふぅん』

「こんなことを思ってしまう私には、きっと彼女を助ける資格はありません。行っても迷惑をかけるだけです。だから、すみません」

 

 手が震えていた。

 叫びたかった。こんなはずじゃない、こんなものは受け入れたくない。

 でも、動いてはいけない。私には動くだけの権利がない。

 戒める。震える体を押さえつける。

 

『そう――なら、いい』

「……はい」

『期待外れだったわ。あなたなら来てくれると思ってたのに』

「すみません」

『……ああ、もう、その声を聞いてるとイライラするわ』

 

 カツカツと、苛立ちのままに指で硬いものを突っついているかのような音が聞こえてくる。

 

『あなたはそのままずっと逃げ続けているといい。共感なんて言葉に甘えながら、立ち向かうことから目を背けていればいい。妹の心をなくしてしまった時のように、今度は唯一の親友をなくせばいい』

「な……ん……」

 

 息が止まる。言い返そうとして、けれど、言葉が出てこない。

 

『あなたには人の心に踏み入る覚悟がない。その心を変えてしまう責任を負う気がない。そのくせしてあの子の優しさを受け入れて、勝手にあの子の心を読んで、さらには親友気取り。自分勝手なんて言葉も生温い……横暴ね。あなたに誰も近づかないというのも納得だわ』

「それは、心を読む能力が」

『そうやっていつも、自分以外のなにかのせいにしてきたのでしょう? なにもかもしかたがないと逃げ続けてきたのでしょう? 妹の時もそうだったのかしら。だとしたら、今回もそう。気持ちがわかってしまうから、私のための異変だから。本音では失いたくないと思っているくせに、立ち向かうことが怖いからそうやって逃げようとするの。そうして後悔する。できることがあったはずなのにね。でもそれもしかたがないことだ、って。くだらない。本当にくだらない』

「ッ……あなたにっ!」

 

 心が荒れる。怒りなんてないはずなのに、心が度を越えた熱さに暴れている。

 

「あなたなんかに、なにがわかるって言うんですかっ!?」

『わからないわ。いえ、わかりたくない。困っている親友を助けようともしないあなたの気持ちなんて、わかりたくない』

「だって本当に、しかたがないことじゃないですかっ! 私には心が見える、だからわかるんです! 相手の気持ちが理解できてしまうんですよ! その激情がどういう感情から生じるものか、その思いの出どころはなんなのかっ……共感できてしまう! どれだけその気持ちが強いものなのかわかってしまう! 全部理解して、それでもなおその気持ちを踏みにじるなんて、そんな資格が私にあるわけがないっ……! 私なんかにあるわけがない! 私には、親友の覚悟を無下にすることなんて――」

『ほら、やっぱりそう。心に踏み入る覚悟がない、変えてしまう責任を負う気がない。人の気持ちが見えるくせに、いざという時だけ目を背ける』

「心が読めないあなたにっ」

『わからないわ。さっきも言ったでしょう、わかりたくないと』

 

 電話の向こう側の声はどこまでも冷静だった。いつもならそれに影響されて同様に冷めていくはずの私の心は、しかし今回ばかりは逆上したかのように熱をさらに増していく。

 だったら口出しをしないでほしい。人の心の重みがわからないあなたに、横から口を挟まれたくない。

 反抗心だった。しかしそれに怒りや不快感はなく、だからこそ勢いが加速していく。

 

『ねぇ、さとり、だったかしら? あなた、本当に生きているの?』

「……なんですかそれ」

『物質的に生きている生きていない、その定義はどうでもいい。私が聞きたいのは、あなたの心が生きているかどうか』

 

 この妖怪はなにを言っている? 心の生死なんて、わけのわからないことを。

 

『あなたは他人の覚悟を踏みにじる覚悟がないと言ったわね。でも、あなたはどうなの? あなたの心は、覚悟なんてものを抱いたことがあるの?』

「覚悟、ですって?」

『自分の他のすべての思いを犠牲にしてでも進もうとする決意。なにを失ってでも手に入れたい、守り通したいと思う確固たる意志』

 

 その質問に、私はすぐには答えられなかった。いや、おそらくは過去を思い返してから口を開いても、言い返せなどしない。

 なぜなら、わかっていた。そんなものを抱いたことがないとわかっていたから、こんなにも言い返したい気持ちで溢れ返っている。

 

『あの子の心は誰よりも弱い。過去に負った傷が嫌で嫌で嫌すぎて、いつだって、それこそ今だって逃げ回っている。向き合うことから逃げている。でもね――』

「私はっ……」

『あの子はそれでも、誰よりも強い意志を持ってることだけは確か。自分という存在すべてを賭してでも、大切なものを全部守り通したい、大切なものたちに苦しみのない世界で生きてほしい。そういう確かな願望と欲望を抱いている』

 

 ――部屋の前で、私は呆然と立ち竦んでいた。

 ――大切な妹が泣いている声をただただ聞いていて。

 ――扉に手をかけた。でも。

 ――私には、それを開ける勇気が欠けていた。

 

『あなたにはないのかしら。その理解してしまう気持ちとやらを押し退けてでも貫き通したいと思う、ただ一つの思いが。親友の願いを無下にしてでも叶えたいと思う、自分だけの強い意志が』

「わ、たしは……」

『……無駄話が過ぎたわね。来ないなら来ないで結構、あなたはそこに引きこもって異変が終わるのを待ってるといいわ。そうしたら、またあの子があなたを助けに来てくれるかもね』

「ま、待っ」

 

 ぷつり。電話が切れる音はなによりも呆気なく。

 自室に静寂が訪れる。音のない、意味のない虚しさが満ちる世界がやってくる。

 なんだか体がとても重くなったような気がして、だらんと手が下がり、受話器が重力に従って落ちていった。がしゃっ、と機械と硬いものが衝突する音が鳴り響き、少しだけ静けさに喧騒が顔を出す。けれどそれもすぐに去ってしまった。

 ――理解してしまう気持ちとやらを押しのけてでも貫き通したいと思う、ただ一つの思い。

 重力に逆らって、右手をゆっくりと上げていく。ぽっかりと穴が空いてしまったと錯覚するくらい物足りない胸の前に置いて、それを取り戻すことを願うかのように強く拳を握る。

 

「……私は……」

 

 知っていた。全部、わかっていた。

 彼女が深い深い傷を負っていたことなんて、本当は理解していた。

 彼女がずっと助けを求めていたことだって、本当は理解していた。

 二年。それだけの年月を彼女と付き合ってきたのだ。わからないはずがない、読めないはずがない。

 彼女のことを誰よりもわかっていたんだ。

 両親を妹に殺されたことも、それでも妹を愛し続けると誓ったことも、未来と向き合わなかったことを悔やんでいることも、幸せに身を任せることが怖くなってしまっていることも。

 そのことを指摘するのが怖くて、無意識に事実から目を逸らしていた自分にも。それだけの覚悟があれば、とっくに彼女の心を救えていた可能性があったかもしれなかったことを。

 彼女が、こんなどうしようもない私を、正気で本気で本当に、大切な親友だと思ってくれていることも。

 わかっていた。

 

「私はっ……!」

 

 足が竦む。手が震える。

 ああ、いったいなんなのだ、なんだというのだ、私は。どうしてこの期に及んで、なにをこんなにも怯えている。

 恐れなんてない? 違う。こんな世界でも、痛みなんてなくとも、感情は確かにそこにあるのだ。

 止まらない。止まらない。震えが止まらない。止まってくれない。

 ふいと、無理なのかもしれない。なんて思う。

 ずっと逃げてきた。ずっと背を向けてきた。

 この世界の元が作り話なのだと知った時、私は安心した。妹の心を失ったのはしかたがないことだって感じて、安堵して、受け入れた。

 そんな弱い私に、急に立ち向かえという方が無理なのだ。

 もっとゆっくり、じっくりと時間がある時に心を入れ替えていくのが普通なはずだ。こんな急になんて、むしろできる方がおかしい。

 ここで立ち向かえなくても、きっとしかたがない。誰かが彼女を助けてくれる――。

 

「違うっ!」

 

 誰かって誰だ。

 彼女は、心が死んだまま毎日を過ごしていた私を救い出してくれた。日々に潤いと目的を与えてくれた。

 本当は来るはずがないものなのだ。本来は差し伸べられるはずがなかった手だったのだ。

 誰かじゃない。私はもう助けられている。だから、今度は私が助けなくてはならない。そうじゃなきゃ、私が納得できない。納得してはいけない。

 震えるな。

 止まれよ。止まれよ。全部、止まれ。

 できる方がおかしいって? ならおかしくていい。普通じゃなくていい。

 今できなくて、いつ立ち向かえというのだ。

 今できなくて、どうして彼女を親友なんて呼べるのだ。

 彼女はこんなにも私を大事に思ってくれている。彼女はこんなにも私を助けてくれている。

 今度は私の番だろう。今度は私が思いを返す番だろう。

 私の心を見せる番だろう。

 止まってくれ。止まってくれ。

 震えないでくれ。

 お願いだ。私の体。どうか今だけは。

 繰り返しちゃいけない。

 できることをしようともせず、しかたがないと大切なものを失うことを享受するのは、もうごめんなんだよ。

 

「――お姉ちゃん」

「こ……いし……?」

 

 いつの間にか、一人の少女が私の隣に立っていた。その少女は、私が胸の前でなによりも強く握り締めていた右の手を、優しく両手で包み込んでくれていた。

 微笑みは、普段のそれと見比べるまでもなく、とても温かくて。

 扉の方へと振り返る。相当精神がまいっていたのか、どうやら昨日の私は鍵もかけずに眠ってしまっていたようだった。

 

「なんとなくね、もう第三の目()は開いてなくても、お姉ちゃんがなにを考えてるかがわかるの」

 

 再びこいしの方に顔を戻す。彼女は、じっと私の目を見つめてきた。

 

「こいし……」

「私には強い意志なんて持てないわ。でも、お姉ちゃんならそれが持てる。私には恐怖なんてわからないわ。だから、お姉ちゃんのそれを引き受けてあげられる」

 

 私の手を包み込むこいしの手の力が強まった。

 

「レーチェルを助けに行くんだよね」

「……ええ」

「私も一緒に行く。さっきからずっと泣いてる声がうるさいの。レーチェルの無意識がそこら中で泣き叫んでて鬱陶しいの」

 

 だからそれを拭ってあげないと。

 そんな風に顔を逸らし、前を向くこいしの顔は、なんだかずっと頼りがいがあるように思えた。

 まるで私よりも年上のように見えて、どちらが姉なのかわからなくなりそうで。

 自分が情けなくなった。

 背伸びをしたくなった。私の方が姉なのだと、おかしな意地を張りたくなった。

 

「こいし」

 

 半ば無意識に、妹の頭を撫でる。こいしは不思議そうな顔をして私を見上げてきた。

 それにただ、頬が緩む。

 

「そうね。いい加減助けに行きましょう。こんなことしなくてもいいんだって、伝えてあげに行きましょう」

「うん」

「私たちがどれだけレーツェルを大切に思っているのか教えてあげに行きましょう。こんなことをされた時に感じた私たちの心の痛みを、決してなくせなんかしない悲痛を無理矢理にでも受け取ってもらいましょう」

「そうだね」

「連れ戻しましょう。それがレーツェルの望みじゃなくてもいい。いえ、むしろこれは私たちの望み。ただただ隣にいてほしい、明日もまた遊んでほしい。そんな私たちのわがままを、妖怪らしくなにもかもを押し退けて貫き通しましょう」

「もちろんだよ」

 

 ――部屋の前で、私は呆然と立ち竦んでいた。

 ――大切な妹が泣いている声をただただ聞いていて。

 ――扉に手をかけた。でも。

 ――私には、それを開ける勇気が欠けていた。

 妹に手を貸してもらって、それでやっと立ち上がれるような脆弱な精神では、きっとあの時に戻ったところで扉を開けられなんてしないだろう。

 現状は、ただの甘えだ。本当は私の力だけで震えを止まらなさなければならなかった。妹が手を貸してくれたにしても立ち上がれたのだから気にしなくてもいい、止まらせられなくてもしかたがない――そんな考えはとっくに捨てた。

 私は強くなる。強くならなければならない。一分でも、一秒でも、一瞬でも、とにかくその分だけそれより前の自分を越えて。

 決めたのだ。

 たとえ他人の心がどれだけわかってしまおうと、それがたとえ他人の心を踏みにじることに繋がろうと、私は私だけの覚悟を貫き通す。

 親友を助ける。思うがままの私自身の欲望を、強引にでも罷り通らせる。

 私のために起こした異変でもあるからなんだというのだ。彼女の感情に共感できてしまうからなんだというのだ。

 押しつけがましい優しさなんて知らない。他人の考えていることなんて、それこそ知ったことか。

 妖怪よりも妖怪らしく、どこまでも自分勝手に。

 ただそれだけのこと。されどなによりも強く。

 

「お出かけするの?」

「紅魔館にお邪魔します。そこにどうやら、レーツェルを救う手立てがあるそうなので」

 

 忘れない。忘れやしない。これまで生きてきた年月の何十分の一であろうと、何百分の一であろうと、彼女と過ごした日々だけはいつまでも覚えていよう。

 私には私の願いがある。私には私の欲求がある。

 別に、心なんて読めていたって構わないのだ。自分の心に傷がついていたって構わないのだ。

 レーツェルが私とこいしのすぐそばにいる。そういう事実だけがあれば、他の負の要素なんてどうでもいい。今は強くそう思う。

 

「さぁ、エゴを突き通しに行きましょうか」

 

 なにがあろうと、必ずレーツェルを私とこいしのすぐそばに連れ戻してみせる。そうやって固く決意を固め、こいしの手を引いて自室を飛び出した。

 もう迷わない。

 震えなんて、とっくのとうに止まっていた。

 

 

 

 

 

 □ □ □ Ein Standpunkt wird wiederhergestellt □ □ □


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