「この世でもっとも基本となる魔法とは、すなわち体内に宿る魔力を操ることです」
魔導書――とは名ばかりの、魔法について解説されているだけの書物を片手に、真面目な顔で耳を傾けるフランへ魔法の講義をしている。
レミリアはこの場にはいない。名を上げようとした妖怪が身のほども知らず館の門を叩いてきていたため、その相手をしている。一目見た限りでは到底吸血鬼には敵わなそうだったし、「たまには弾幕合戦以外の運動もしたい」とのことだ。
「ほとんどの魔法は、この魔力操作という原初の魔法から派生することで生まれています。"こんなことができるんだから、こういうこともできるんじゃないか"と、そんな数々の先人たちの考えのもとに研究が繰り返され、さまざまな魔法が開発されてきました」
「ほとんどの魔法ってことは例外もあるってことだよね」
「さすがはフラン、その通りです。日常で起こった偶然の出来事が、実は魔術的な作用によって発生していたなんてこともあります。それを解明することで生まれた魔法、そこから派生した魔法だってたくさんあるのですよ」
言ってみれば魔法とは、練り上げられた特殊なエネルギーを組み合わせて奇跡を起こすということに他ならない。
ずっと昔の人たちに言わせれば、木を擦り合わせると火が生まれることだって魔法だ。その解明の先にあるものが"化学"か"神秘"か、科学とはただそれだけの区別である。
「魔導書とはただの本ではなく、マジックアイテムの一種です。魔法使いやそれに準する者たちが魔法の使い方と秘密の鍵を記したものが魔導書なのです。師が弟子のために魔導書を書いたなんてことはよく聞く話ですね」
「鍵っていうのはなに? なんだか重要そうなものに聞こえるけど」
「魔法を行う上での絶対不変の真理です。魔力操作を例に取れば、操る行為そのものが使い方、操作しようとする意志が秘密の鍵と言ったところでしょうか。魔力を操作するのに鍵もなにもないんですけどね」
「へー。使い方だけわかってもダメなのねぇ」
納得した風に呟くフランに頷いて、指を一つ立てた。
「魔導書にはいくつかのルールがあります。まず一つが、書いた本人と同等以上の魔法熟練度がなければ読めないこと」
「文字が書いてあるのに読めないの? どういう言葉かわかってても?」
「えーっと、ほら。お姉さまが弾幕合戦を提案した日に私が魔導書を読んでいたでしょう? あれ、読めましたか?」
「そういえばわけがわかんないぐにゃぐにゃした文字しか書いてなかった気がする」
「私には普通に読めていました。つまり、フランは本を書いた人よりも熟練度が足りなかったということになりますね。魔法を知らなかったのですから当たり前ですが」
俺は人間の里に攻め入った日を境に、魔法の勉強や独自の研究もちょくちょくと行っている。熱中しているわけではないにしても、何十年何百年もそういうことを続けていればそれなりに魔導書は読めるようになった。
真なる魔法使いとは寿命を捨て、妖怪と同じ悠久の時を生きている。だからこそ魔法使いには相当な熟練度の者も存在し、未だ俺が読めない魔導書も紅魔館にはたくさん保管されている。
そういう自分が知り得ないことや憧れることを探求しようとする意志こそが魔法使いの原動力であり、その者の技量の限りを以て築き上げられた魔法への敬意を忘れないことが魔法使いとしての礼儀――と、手に持った本には書かれていた。
「魔法使いも最初から派手な魔法ばかり使えるというわけではありません。魔法の研究なんてものはフランが思っているよりもはるかに地味ですし、いろいろなことが総当たりだったり複雑だったりめんどくさかったりと根気が必要です。その苦労の結果として完成された美しい魔法が存在するんです」
「……お勉強ってあんまり好きじゃないわ」
「気が合いますね、私もです。しかし一度でも自分だけの魔法を作ってみたりするとやる気が出てきたりするものですよ? ああ、"これは私が見つけた私の魔法なんだ"って」
簡単な魔導書を元に魔法の勉強をしたり、アレンジを加えて独自の魔法を作ってみたり、一から魔法を開発しようと試みたり。
魔法使いという種族はその特質上、数が少ない。未だに発見、開発されていないものがたくさんある。だからこそ独自の魔法はそれだけで価値を持ち、魔導書として使い方と鍵を記せばなによりの財産にもなる。
「魔法使いも大変なんだねぇ。なんだか、習うのが億劫になってきちゃった」
「苦労して報われた時の達成感というのはいいものですよ。フランもそういうものを学ぶいい機会かもしれません」
「説教はきらいー」
「強要はしませんよ。もともとフランが進んで学ぼうとしてきたことですからね。魔法の練習も研究も、フランの気が向いたらでいいのです」
口を尖らせる妹に、笑顔を作ってそんな言葉を投げる。
じーっと俺の顔を見つめたまま沈黙する。かと思えば、数秒後には「やっぱりやりたい」と言い出した。
「私もお姉さまみたいに魔法を使ってみたいもん」
「……嬉しいことを言ってくれますね。フランならできますよ。なんと言っても私と同じ吸血鬼なんですから」
なにせ吸血鬼はありとあらゆる面において頂点に迫る潜在能力を備えた最強種の悪魔だ。その身に眠る莫大な魔力と才能は並の妖怪と一線を画す。
気がかりなことと言えば、フランの『手加減への無知』か。
産まれて間もない頃は与えられた人形やぬいぐるみ等を触ろうと触らずとも片っ端から壊してしまい、かつて卓球をやろうとした時にも用意した道具を容易く破壊してしまった。それから成長した分だけ力も上昇しているため、抱きつかれた時とかは実は非常に痛かったりもする。
コップが一定以上の水を許容できないように、ペンで文字を書く時に力を入れすぎると芯が折れてしまうように、精密さが必要な魔法も当然ながら存在する。フランが誕生してから一〇〇年以上――それでも手加減というものを会得できないのだから、いざ本気で実践するとしても相当な年月を消費することになるのは想像に難くない。
「唐突なことを聞きますが、フランは……意図せずして自分が物を壊してしまうことをどう思っていますか?」
「え? んー……私が壊しちゃう物って、全部お姉さまたちからもらったものじゃない。能力も使ってないのに、手に持っただけでぐちゃぐちゃにしちゃって……お姉さま、怒ってないかなって」
フランは、手元にあるレーヴァテインをツンツンとつついたりしながら、後ろめたいことがあるように視線をそらしていた。
物が使い物にならなくなったことによる喪失感などが口から出ると思っていただけに、彼女のそんな言葉と動作に目をパチパチと瞬かせてしまう。
「そんなこと、気にしなくたっていいんですよ」
「でも……」
「フランが壊そうとして壊したわけじゃないですし、私たちが勝手に与えたものです。ですから気負う必要はありませんし、私もお姉さまも怒ったりなんてしませんから、安心してください」
フランが狂気を宿していることは確かだ。だけど今だけはそんなことはどうでもよく、大切な妹が自分に対して遠慮している事実がここにある。
気づけば自然と彼女の頭に手が伸びていて、帽子越しにあやすように撫でていた。
「……だから壊したくないのよ」
「フラン?」
「いつかは自分の意志以外で物を壊さないようになりたいわ。もちろん、魔法だって習いたい」
今度はしっかりと、まっすぐに俺の目を見つめながらの言葉。思いも寄らぬ語りに手が止まり、フランが若干名残惜しそうな顔をしたのが印象的だった。
「フランが望むなら、私にできることならなんでもしてあげますよ」
「じゃあ、お姉さまも手伝ってくれるの?」
「当たり前です。なんて言ったってあなたは私の妹なんですから」
母と約束した。自分に誓った。そしてなによりも、フランにとっての俺が、俺にとってのレミリアになるように。
俺が未来をきちんと見据えていれば、彼女だって狂気を宿して生まれて来ることはなかった。だからこそ幸せになる権利がある。それに、指切りのことだってあるのだ。
「お姉さまは、偉大だね」
「長女が一番偉大ですよ」
「私はレミリアお姉さまより、レーツェルお姉さまの方が好きよ?」
「嬉しいことを言ってくれます。ですが、館の主さまの前ではそういうことを言うのは慎んでくださいね。拗ねちゃいますから」
「レミリアお姉さまは子どもみたいなところがあるからねぇ」
そんなことを話し合っていると、背後から「誰が拗ねるって?」と声が聞こえた。当人の登場である。
ため息を吐きながら近づいてきたレミリアは、膝をつくと左右の人差し指でそれぞれフランと俺にデコピンをしてきた。地味に痛くて、フランと一緒になって額を手で抑えた。
「まったく、本人がいないからって二人して姉の陰口? 人望がなくて落ち込んじゃうわね」
「お疲れさまです、お姉さま。陰口なんかじゃありませんよ。お姉さまは可愛いって話をしていただけですから」
「それは褒めているのかしら? まぁ、悪い気はしないけど」
ヘソを曲げていたので、ちょっとフォローしてみればこれである。恥ずかしいのか、頬がわずかに赤みを帯びていた。ちょろい。
「ちょろいね」
「フラン、そういうことは口に出さず心に留めておくべきことですよ」
言葉にしてしまった妹を咎めると、レミリアがジト目になって呟いた。
「……あなたたちが私のことをどう思っているのかよくわかったわ」
誤解だ、と言いたかったが、あながち間違いでもないので、すぐに否定の言葉が出せなかった。フランはそもそも弁解する気がないようで、ニヤニヤとレミリアを眺めていた。
はあ、と再び大きなため息が長女から漏れる。変な妹を二人も持って大変だなぁ、なんて他人事みたいに思った。
「それで、攻め入ってきた妖怪との勝負はどうなりましたか? もしかして負けちゃいました?」
「そんなわけないでしょ、勝ったわよ。遊び過ぎたのか涙目だったけどね」
「お姉さまが?」
「相手の妖怪が」
さすがに弄り過ぎたのか少しずつ不機嫌になってきているので、これ以上はやめておこう。
フランにも視線でそんな意思を伝え、こくこくと頷き合った。
「掃除もめんどうだから、遊び終わったら即行で追い払ったわ。見逃してくれてありがとうなんて感謝もされたわね」
「なんだか哀れねぇ、その妖怪さん」
「あの程度の実力しかないのに吸血鬼に挑もうなんて考えるから悪いのよ。私たちは最強の……ああ、そういえば面白そうな噂も聞いたわよ」
「噂、ですか」
「人間の技術の……武術だっけ? それを身につけてる海の向こう出身の妖怪が、こっちに来て修行してるって噂。そこそこ強いんだって」
妖怪という種族は人間よりもはるかに屈強なために、素の力で大抵のことはどうにかできてしまう。加えて互いに相容れぬ種族である。だからこそ人間の技術を身につけた妖怪というのは非常に珍しい存在だ。
もしかすれば、と前世の記憶を探っていく。異国の、武術を身につけた妖怪。それもレミリアが持ってきた話だ。偶然と割り切るには条件が出揃いすぎている。
おそらく、その妖怪の名は
「いつかは会ってみたいですね」
バタフライエフェクトなんて言葉がある以上、俺がいることによって出会わない確率もないわけでもなかった。だからこそ余計に会いたいという気持ちが強くなる。
「前から思っていたんだけど、レーツェルは人間が好きなの? いろいろと人間に理解があるみたいだし、人間の技術を身につけてると言ってもしょせんはただの妖怪よ?」
「……そうですね。人間という生き物は一概ではそう簡単に語れないんですよ。いろいろな考え方をする人がいて、寿命が短いゆえに生き急ぐ。弱いからこそ工夫と努力を重ねる。弱者であるからこそ強者にはないものも持っているんです」
「つまり、好きなのよね」
好きというよりも、前世が人間だったから親近感があるだけだ。けれど、気に入ってるのかと聞かれれば否定はできないか。
妖怪とは生まれながらにして悠久の時が約束されている。だからこそ時間の概念が曖昧で、人間ほど生きることに忙しくなんてしていない。一部の妖怪は寿命が短い時の中で足掻くその姿を嘲笑う者もいるらしいが、そもそもとしてそれが人間という生き物だ。
時間が有限であるからこそ生き急ぐ。弱いからこそ手を取り合い、幸せを求めて歩んでいく。
「……私にはできませんでしたからね」
転生して、恐怖に屈したまますべてを失った。
俺が人間にこだわっているのは、未だに前世に縛られているからなのかもしれない。
人間らしく恐怖と向き合って生きることができたならば。未来と向き合い、三歳を迎えるまでにレミリアにフランの存在を教えることをしていたならば。
「お姉さま?」
「……なんでもありませんよ、フラン。魔法の勉強の続きをしましょうか。どうせなので、お姉さまも手伝ってくれませんか?」
「遊んできたばかりで疲れてるんだけどねぇ。でも、せっかくのレーツェルの頼みだしね。引き受けてあげるわ」
とは言え、いつまでも過去を嘆いていてもしかたない。今ここでするべきは、俺を慕う妹に乞われたものを教えることである。
魔法の解説書に目を落とし、どこまで教えたっけ、と文字を追う。
右手を顔に添えて、それが無表情であることを確認しながら、俺は講義を再開した。