霊夢がいなくなってから一か月近く。主のいなくなった神社はどんどん寂れていき、今やここ数百年は人が住んでいなかったのではないかのごとく錯覚してしまうことがあるくらいだった。
俺以外にも魔理沙や文、咲夜などが神社に見に行くこともあるらしいのだが、主がいないとみるとすぐに帰っていく。名残惜しさをその顔に映しながら。
ただ一人、博麗霊夢という人間が幻想郷にいないだけで、誰もがこんなにも侘しい気分になる。
今日はまだ神社には行っていない。それでも、やはり今日も――。
『今日もまた、神社に行くのですか?』
電話機の向こうからどこか呆れたような、それでいて無理をしないでほしいという気持ちがこもった声が聞こえてくる。月より幻想郷に戻ってきてから頻繁に通うようになったのだから、それもしかたがないことと言えた。
「そろそろ霊夢が帰ってくる頃だと思うんです。昨日は、満月の夜でしたから」
『……レーツェルは、本当に霊夢さんを大切に思っているのですね』
「霊夢だけじゃありません。もしも月から戻ってこないのが魔理沙でも、咲夜でも、行っていないさとりだったとしても、私は毎日こうしていたと思います」
むぅ、と言葉に詰まったような音が届く。自分の名前を出されて、口出ししづらくなってしまったからだろう。
それがなんだかおかしくなって、部屋の天井を見上げてみた。
時計がかちかちと鳴る音だけが響いている。静かな気配と空気が心地よくて、半ば無意識のうちに瞼が閉じていく。
「さとり、私はあなたのこと、好きですよ。家族同然のように感じてます」
『え、っと……レーツェル? それは、その、嬉しいのですが……どうかしましたか? 唐突にそんなこと言い出すなんて』
「別に、どうもしてません」
暗闇に包まれた視界は、どこの世界でも、そして誰もが感じることのできる共通の感覚だった。
角膜を清潔に保つためか、房水の流れを良くするためか。そんな理屈的な理由はどうでもいい。
俺は瞬きという行為は、定期的に同じ一色の景色を見続けることで、あらゆる物事の変化から心を平静に保つためにあるのだと信じていた。
人は眠る時、視覚をすべて闇の中へと葬り去る。それはきっと世界の変化を拒絶することで、常に心を落ちつきで満たすためだった。
目を閉じると、なんだか思考が早くなったような感覚を覚える。それはきっと、世界の変化を見ないようにすることで、自分の中に深く意識を向けられるようになるからだ。
暗闇とは、始まりであり、終わりであり、無でもある。そしてそれがいつも隣にあるからこそ、誰もが安心して日々を過ごすことができる。
「私の秘密を受け入れてくれた上でずっと変わらずに友達でいてくれたこと……私はきっとあなたがその第三の目で見続けていた心よりも、ずっと強く嬉しく感じていたんだと思います」
『レー、ツェル……?』
「だから」
不可解、困惑。そんな感情がありありと窺えるさとりの声音を、わざと気にしないようにする。
目の前に広がっているものが暗闇であるがゆえに、今の俺は、自分の中に潜むモノに深く意識を向けられていた。
深い海の底に一人沈んだまま、光さえもう見えない地上へと手を伸ばし続けている。ずっと昔から今日に至るまで、いつまでも。
「今まで、ありがとうございました」
『…………レーツェル、あなたはいったい、なにを』
目を開く。戻ってきた世界は明るすぎて、俺にはもったいないくらいだった。
「いえ、なんでもありません。なんだかさとりが心配してくれるのが嬉しくてですね、感慨に浸っちゃいました」
さとりはどこか思案しているかのように黙り込んでしまった。お礼の言葉が、逆に彼女を心配させてしまったらしい。
さとりがしゃべり出すまで、口を閉ざしていることにした。そしてその時はすぐにでも訪れる。
『……もしなにか心配事があるなら、いつでも私のもとに来てもいいんですよ。こいしと一緒に喜んで出迎えてあげます。相談にだって乗ってあげられますから』
「はい。ありがとうございます。そろそろ神社の方に向かいますから……電話、切りますよ」
『ええ。また、近いうちに会いましょう』
「はい。またすぐにでも」
受話器を置くと、さとりの声が聞こえなくなった。時計の音だけが機械的に鳴り響いている。
――霊夢は帰ってきていた。
俺が渡した首飾りの反応が戻って来ていたことから、俺はすでにそのことを知っている。今ならば神奈子の異変の際に使った水色の半透明の球体を通して、霊夢と通信をすることさえ可能なことを把握していた。
だが、それは敢えてしないでいる。なんだか今は霊夢に実際に会って、この目で無事を確認したい気分だったから。
電話機から離れ、自室の扉を開ける。あと数日でお正月がゆえに窓から窺えるのは当然雪景色であり、ぱらぱらと降りしきる白い粉は、枯れてしまった花の代わりに幻想郷を美しく彩っている。
横を見ると、ちょうど俺の部屋に訪れようとしていたのか、いつもの帽子代わりに頭にゴーグルをつけたレミリアがいた。左手には浮き輪も抱えている。なかなか珍妙だった。
「お姉さま、どうしたんですか? その格好」
「どうしたって、ほら、図書館の方に海を作ってるって言ったじゃないの。こういうのが海に行く格好ってやつでしょう?」
俺もそのことは知っているどころか、一度実際に大図書館に行って人工の海を見せてもらっていた。完全にただの冷水プールだったが。
妙なことを聞いてくる、とでも言いたげにレミリアが訝しげに見つめてくる。
「そうでしたね。ごめんなさい、ちょっと寝ぼけてるのかもしれません」
「寝てたの?」
「いえ、さとりと電話してました。こんな真昼間に寝ません」
今度は目をぱちぱちと瞬かせた後、ため息を吐かれた。寝てないのに寝ぼけてるとは言わない。それはただボケてるだけである。
レミリアが窓の外を見る。もしかしてその服装で出かけるつもりなのだろうか。
「まぁいいや。そろそろ霊夢が帰ってる頃だと思うから海水浴に誘おうと思ってるんだけど、一緒に行かない?」
「今からですか」
「ん、もうちょっと経ってからよ。ちょうどパチェが海の方の最終調整をしてるから、それが終わったら」
顎に手を添えて、少しだけ考えるフリをする。実際の答えはとっくに決まっていた。
「いえ、一緒に向かうのはやめておきます。霊夢が帰って来てるって言うなら、私は早く行って安否を確認しておきたいですから」
「そう……あいかわらず心配性ねぇ、レーツェルは」
「褒め言葉として受け取っておきます」
廊下の向こう側に向かうため、レミリアのすぐ隣まで歩いていく。その最中、ふいとレミリアと一瞬だけ目が合った。
後から安心して神社に来てください、霊夢を誘いに来てください。なんとなく、そんな意志を視線に込めてみた。
通りすぎる直前まで、どうしてか彼女は俺の目を見た瞬間から、予想外のものを見てしまったかのように放心していた。
「また会いましょう、お姉さま」
「待っ――!」
レミリアが目を見開いて、ひどく狼狽した様子で手を伸ばしてきた。いったいどうしたと言うのだろう。なにか大切なことを伝え忘れてしまったかのように、なにか大切なものを失いかけているかのように。
一度、立ち止まった。それでもすぐに、重い足を持ち上げて再度進み始める。早く霊夢の無事を自分の目で確認しなければならない。
レミリアがあんなにも慌てていることに首を傾げながら、俺は振り返ようとする欲求を抑え込んでいた。
□ □ □ □ □ □ □ □ □ □
ここ一か月顔を合せなかったせいか、なんとなく霊夢にできるだけ早く会いたい気分だったので、『光の翼』まで使って博麗神社にやってきた。
眼下では、霊夢が魔理沙と文の二人に月の都での話を聞かせているようだった。見た目古い扉は触れずに開く、文字は拡大縮小自由自在、そしてなによりも住んでいる者たちが皆明るいのだと。
俺が三人のそばに降り立つと、もちろんあちらも俺が来たことにすぐに気づく。
「お久しぶりです、霊夢。それからこんにちわ、魔理沙、文」
「久しぶり。さっき帰ってきたばかりなんだけど、どこから聞きつけたのやら……ま、あんたならすぐにでも来ると思ってたけど」
この姿、雰囲気、霊力。偽物ではなく、間違いなく本物の霊夢そのものだった。月からは帰ってきたというのに、首元に未だ水色の首飾りをつけてくれているのが目につく。
「大丈夫でしたか? 馬車馬のように働かされたりとかしませんでした?」
「あ、それは私も聞こうと思ってたぜ」
「あんたらねぇ……まぁ、私もちょっと思ってたけど、全然だったわよ。ただ神さまを呼び出すところを都のあちこちで披露させられただけ」
霊夢はいつだって本心しか吐かない。なればこそ、今のこの彼女の言葉も本当のことなのだろう。ほっと息を吐いた。
「ふむ……不思議な話ですね。地上なら打ち首拷問が当たり前ですが……」
そう呟いた文が、なぜか不満そうな顔で霊夢を睨む。
「おもしろ味に欠けますね」
ため息を吐きながらの本当に残念そうな文の声音に、霊夢は恐ろしいものを見てしまったかのように、ぐっと後ずさる。魔理沙がそんな彼女を、逆に面白そうに眺めていた。
だが、文も本気で言っているわけではないことを俺は知っている。彼女は霊夢が留守の間、結構頻繁に訪れていた者の一人だった。それが博麗霊夢という一人の少女に対しての心配か、博麗の巫女という一つのシステムに対しての危惧からかはわからないが、霊夢の帰還を待ち望んでいたことは確かなのである。
やはり博麗神社には、幻想郷には博麗霊夢がいなくてはならない。
「なんにしても、よかったです。霊夢が無事で」
「あー、まぁ、うん。私もよかったわ、散々なことにならなくて。というか、そんな素直に嬉しがられると逆に対処に困るんだけど……」
「素直に受け取っとけって。こいつ、毎日神社の方に通ってたんだぜ。まるで押しかけ女房だ」
「はぁ? 毎日? 一か月後くらいに帰ってくるって言ったじゃん。なのになんで」
そんなものは決まっている。万が一にでも、億が一にでも霊夢が帰ってきている可能性があるかもしれない。それをわずかに信じてのことと、主のいない神社を見守るためだ。
霊夢ともそろそろ結構な付き合いになる。わざわざ言わなくとも、目が合って、そこから俺が言いたいことは大体伝わったようだった。
霊夢はがしがしと頭を掻くと、盛大にため息を吐いた。
「あんたはほんっと、あいかわらずねぇ……あんまり心配とかされなかった月の都での生活が、なんだかもう遠く思えてきたわ」
「鬱陶しい、ですか?」
「……逆よ。帰ってきたって気がして、ちょっと居心地がいい」
「おやおやぁ、いつにもなく素直ですなぁ」
「なによ魔理沙、その喋り方。蹴るわよ」
「へいへ、ってうわっ! 本当に蹴るなよ!」
霊夢も月から帰ってきたばかりで案外心細かったりするのかもしれない。魔理沙との掛け合いが、いつも以上に楽しくしているように見える。
次に霊夢は文にちょっかいをかけられて、あちらとじゃれ合っていた。天狗のスピードにはさすがに追いつかず、霊夢は蹴ることができず歯がゆい気持ちを抱いたようである。
霊夢の無事はこの目で確かめた。彼女は月から帰って来ても賑やかなまま変わらなくて、いつも通り、この幻想郷に必要なかけがえのない存在だった。
俺はもう、ここにいる必要はない。
「なんだ、もう帰るのか? せっかく霊夢が帰ってきたんだ、祝宴かなんかやっていかないのか?」
踵を返した俺を見咎めた魔理沙が背中越しに問いかけてくる。
「……やらないといけないことがあるんです。霊夢の無事は見ることができたので、もうそろそろそちらに手をつけに戻らないといけません」
「なんだ、珍しいな。お前がこういう誘いに乗らないなんて」
「珍しい、ですか?」
「ああ。いつもなら喜んで返事して、すぐにでも宴会かなんかの準備を手伝ってくれるだろ? なにか他に用事があっても、それが多少のことならほったらかしてさ」
首だけで振り返ってみると、ただ純粋に疑問に思ったように、首を傾げている魔理沙の姿が目に入った。
「私のこと、よくわかってるんですね」
「案外単純だからなぁ」
「……私はあなたの、日常の一部になれていたんですか?」
「うん……? よくわからんが、まぁ霊夢がいないこの一か月、かなり暇だったからな……たぶんお前が一か月いなくても、同じように物足りなく感じてたと思うぜ」
俺は元々この世界にいない存在だ。それなのに、そんなものを『物足りない』なんて表現してくれるのは、言葉にできないくらい嬉しかった。
頬に手を添える。嬉しい、嬉しい、嬉しい。そんな感情は映していない。いつだってここにあるのはただ一つで、その他のなにもかもを拒絶する。それでも、確かに今の思いは本物だったように思えた。
「今まで、ありがとうございました。本当に」
「んー……? ああ」
疑惑を顔に浮かべつつも、いつもの心配性がまた出たとでも思ったのか、魔理沙はひらひらと手を振って俺を見送ってくれる。前を向いて、俺も同じように片手を上げてバイバイと手を振った。
地面を蹴って、博麗神社から飛び立つ。それからずっと遠くの方まで見渡せるくらい、高く高く上空へ。
ふらふらと一枚の布のごとく空を舞い、雪が飾りつける幻想郷の風情ある風景を楽しんでいた。妖怪の山、迷いの竹林、人間の里、その他にもいろいろな。
春も、夏も、秋も、冬も、本当にこの小さな世界は美しい。いつまでも見ていたいような気分になれる。
――さて、これからいったい、どこへ向かおうか。
「レーツェル!」
「……この声は」
背後から聞き慣れた声がして、振り返る。そこにいたのはさきほど別れたばかりの少女、博麗霊夢であった。
相当急いで追ってきたのか、荒く息を切らしている。そばに魔理沙や文の姿はなく、一人飛び出してきたであろうことは容易に窺えた。
いったいどうしたと言うのだろう。そうやって小首を傾ける俺を見て、霊夢は、どこか真剣そうな表情を浮かべて近づいてくる。
「忘れ物よ」
霊夢が片手にぶら下げているのは、俺が上げた水色の宝石の首飾り。
「上げますよ。霊夢が常に持っていれば、私も安心できますから」
「私よりも咲夜とか、さとりとかに持たせなさいよ」
「またそのぶん、新しく作りますよ」
「それならその時にまた渡してよ。私だけが持ってるって、なんだかちょっとだけ後ろめたい気持ちがあるわ」
「そんなこと気にしなくても」
「私が気にする」
そんな会話を交わしているうちに、いつの間にか霊夢は触れられるほど近距離まで近寄ってきていた。
なんて頑固なんだろう、とため息を吐いてみせる。それでも霊夢の様子は変わらない。返そうという意志は変わらないようだった。
なんだか少しだけ、奇妙に思う。
どうして霊夢はこんなに急いで俺を追いかけてきたのだろうか。首飾りを返すだけなら、今後いくらでも機会があるだろうに。
ましてや今、息が荒れるほどに疲れてまで体力を消耗して俺を追ってくる必要なんてないはずだった。
そんな疑惑を抱きつつも、霊夢が首飾りを返そうと手を伸ばしてくるのを見て、余計な詮索はやめることにした。
その時の気分次第で行動したくなる時もある。ならば、たまにはこういうこともあり得るだろう。そう考えて――。
「――なんて顔してるのよ、あんたは……」
「……え?」
首飾りを持った霊夢の手は差し出したはずの俺の手を過ぎ去って、頬に触れていた。なぜか生温かいものがそこを伝い、首筋へと垂れていくのがわかる。
手が震えていた。それを必死に抑えるようにしながら、ゆっくりと、いつものように頬に手を添える。
泣いていた。悲しんでいた。苦しんでいた。顔が、歪んでいた。
この五〇〇年近く、ずっとかぶり続けてきたはずの仮面が取れてしまっていた。
「どう、して」
「……紫から言われてたのよ。月から地上に帰ってきて、あんたに会って……もしも二人きりになる機会があったら、こうして『表情を浮かばせてみなさい』って」
「ゆかりん、が……?」
霊夢の持つ力は『空を飛ぶ程度の能力』。それは何物にも捕らわれず、何者にも屈せず、人間も妖怪も神も分け隔てなく接することができる彼女の性質をそのまま表したかのような力だった。
幻想の宙をふわふわと漂い、誰に対しても仲間として見ておらず、人間や妖怪と一緒に行動を行っていても常に自分一人。
自分以外のあらゆるものから『浮く』こと、浮かばせることこそが霊夢の力の正体である。
それならば確かに、俺の『答えをなくす程度の能力』自体には逆らえずとも、『感情から生じる表情という答えをなくす』現象にだけは逆らえるのかもしれない。表情を浮かばせることで、逆説的に感情を表に出させることができるのかもしれない。
いや、事実そうなっているのだから、かもしれないのではなくてそうなのだろう。
涙が止まらない。悲痛が溢れ出る。
ずっと無視し続けてきたはずの耐え切れない痛みが、どうしようもなく心を蝕んでくる。
「嫌な予感がして追ってきたんだけどねぇ……ねぇ、あんたさ、どうして泣いてるの?」
「れ、霊夢が帰ってきたことへの……嬉し涙ですよ」
「はぁ、違うわよね、それ。あんた、嬉し涙は無表情のまま流せるって聞いたことがあるわよ。えーっと、紅魔館の門番の……美鈴、だったかしら?」
負の感情には向き合わず、正の感情だけを素直に受け入れてきた。いつだって頬に手を添えて、無表情だということを確かめて、広がりそうになる胸の痛みにストップをかけてきた。
だからこそ、行き過ぎた感情から生じる涙という現象は正の感情のみしか現れなかった。現れないようにしていたはずだ。
なのにどうして今、俺は涙を流している。
――大丈夫だ、平気だ。なにも問題はない。
悲しくない、辛くない、苦しくない。その証拠に、俺の表情はなんにも感情を映していないはずで。
そのはずだ。そのはずなのに。
――どうしてこんな、今にも泣き叫びそうな顔をしてるんだ。
「レーツェル。あんたもしかして、この数年間……いや、私と会うより前から、本当はこれまでずっとそんな顔をして――」
「うるさい」
霊夢の手を振り払う。霊夢は、俺の態度が変わったことに驚いたのか、目を大きく開いていた。
距離を取る。それからもう一度頬に手を当てて、能力を発動した。
「感情から生じる、表情という答えを……なくします」
戻ってきた。いつも通り、この五〇〇年間ずっと変わらなかった、薄情な無表情が。
悲しくない、辛くない、苦しくない。その証拠に俺の表情は、なんにも感情を映していない。
苦痛なんて存在しない。悲痛なんて感じていない。胸の穴なんて、最初から空いていない。
俺には最初からなにもない。それでいい。それがいい。
「レーツェル……」
「すみません。ちょっと、混乱しちゃったみたいです」
思考を整える。気持ちから荒れをなくす。視界をクリアにする。
今の感情は間違いだった。こんなすぐにでも無表情に戻れる程度の感情なんて、きっと薄っぺらい、どうでもいいものなのだ。
俺は眼下を見下ろした。幻想郷のほとんどが見渡せるほどの高いところに来たから、ここからは紅魔館のある場所だってすぐに見つけることができる。
「霊夢、私はですね、お姉さまとフランと……それからこの世界が大好きなんです」
「なによ突然……この世界って、幻想郷のこと?」
「はい。それから、ここに住むいろんな妖怪と神と、人間が」
顔を上げた。どうしてか物憂げな表情をしている霊夢と顔を合わせて、作り笑いを浮かべてみせた。
「守りたいって強く思うんです。誰にも傷つけさせたくないって思うんです。この世界のすべてを……私の大切なものすべてを、ただ一つだって失いたくないって思ってるんです」
「そんなの」
「エゴだっていうのはわかってます。でも、それでも」
――こういう時に頭をよぎるのは、いつだって、この世界での俺の両親と義理の母親の死にざまだった。
――だけど、それ以上に強くこの目に張りついて離れないモノが、ただ一つ――――
手を伸ばし、広げてみる。こんなに高いところまで来ても、幻想郷は手の平一つでは覆えなかった。
俺は幻想郷に来てからの数年でいろいろなものをこの目で見て、この耳で聞いて、この肌で感じて、この鼻で嗅いで、この体で経験してきた。
人間でも妖怪でも神でも、どんな存在でも平等に接するだけの気概を持った人間がいることを知った。人間と妖怪の共存を夢見て、実現させた妖怪がいることを知った。俺一人の力では決して敵わないような、死の気配を振りまく強大な存在がいることを知った。嘘が誰よりも嫌いであるがゆえに、自分を騙し続けているどうしようもない
不老不死なんて禁忌に手を出して、それでも懸命に日々を謳歌しようとする人間がいることを知った。寿命が短いことなんて毛ほども気にしないで、平然と生に向き合うことができる強い心を持つ人間がいることを知った。
心を読めるがゆえに心を閉ざしてしまった、それでも今は少しずつ前を向きかけている、二人のサトリがいることを知った。
なにもかもが大切なものだ。失いたくない、かけがえのないものだった。
「私、実は本来ならここにいないはずの存在なんです。生まれてはいけない、いてはいけないはずの存在なんです」
「なによ、それ」
「本当のことです」
そんな俺に誰もが、この幻想郷の住民はまるで当たり前のように接してくれた。
何度も思いかけてしまった。もしも俺が最初からこの世界の住民だったなら、もしくは俺が原作知識と向き合って両親を殺さなかったなら。そうすればこんな後ろめたい気持ちを抱くこともなかったのだろうか、と。
胸が痛くなってきた。頬に手を添えて、それが無表情であることを確認する。
「だから、私はもういなくなろうと思います。もう十分楽しみました。もう十分なくらい、温かみをもらいました」
「……あんたがなにをしようとしてるかはわからない。でも、きっとそれだけはきっとしちゃいけないって――」
「本当は、一年前からできたことなんですけどね。やろうと思えばいつでも……でもたぶん、ここでの生活が思いのほか面白かったせいで、こんなに……ああ、もう、本当に」
「レーツェル!」
本当に、どうしようもない。
帽子を取って鬼化魔法を行使すると、頭に角が生えたのがわかった。そのまま能力を行使し、吸血鬼の霧になる力も行使して、指先から徐々に体を霧にしていく。幻想郷中にその身を広げていく。
これからやることは、ずっと前から決めていたことだ。
「レーツェル、戻ってきなさい! レーツェル!」
霊夢が必死に手を伸ばしてくるものだから、俺も消えかけている手を伸ばし返してみた。けれどすぐに消えてしまって、まったく意味を為さなかった。
体がすべて紅霧に変わり終わった。数十秒もすれば、それも幻想郷中に広まり終わった。
俺の能力は、対象に触れていれば自分以外の『答え』をなくすことができる。事象の有無を操ることができる。だからこうして俺の体を限りなく薄めて、幻想郷に在るすべてのモノに触れさせた。
準備は完全に整った。
目を閉じる。霧になった体に目があるのかわからないけれど、とにかく視界を真っ暗にする。
そこには無が在った。無のくせに在るなんて表現は矛盾しているけれど、きっとそれが正しい言い方だ。
確かにここには、いつも誰もの隣にあるからこそ安心して過ごすことができる『答え』のない暗闇があった。
もう迷いはない。もう未練はない。
覚悟なんて高尚なものはなかった。それでも、それをしなければならない理由はあった。
胸が痛い。いいや、痛くないだろう。
悲痛が木霊する。いいや、なにも聞こえないだろう。
耳に届くのは狂った歯車が回り続ける音だけだ。
だから今より、書き綴り始めるとしよう。
役者は幻想郷の住民、全員。そして演出は"狂った帽子屋"、ただ一人。
描くは夢物語、一切の不幸の存在しない不思議の国。
ここで創る。
きっと誰もが望むであろう、理想と空想の世界を。幸福だけで満たされる、永遠に終わらない無から生まれた物語を。
もう不幸を恐れるのはやめにして。
さぁ、始めよう。
――時が経ることにより寿命が減っていく『答え』をなくす。
――悲しみによる心理的痛みという『答え』をなくす。
――苦しみによる肉体的痛み、心理的痛みという『答え』をなくす。
――負の感情から生じる不満という『答え』をなくす
――刃物により触れているあらゆる生き物が傷つけられる『答え』をなくす。
――打撃により触れているあらゆる生き物が傷つけられる『答え』をなくす。
――怨霊により触れているあらゆる生き物が乗っ取られる『答え』をなくす。
――ありとあらゆる生き物が火によって燃え盛る『答え』をなくす。
――空腹により体力が抜けていく『答え』をなくす。
――空腹が続くことにより餓死をする『答え』をなくす。
――――『答え』をなくす。
――――――『答え』をなくす。
霧の体は容易に幻想郷の地上を覆い尽くし、すでに地底にまで及んでいた。
とにかく思いつく限り、ありとあらゆる危険性を排除する。
なくす。なくす。なにもかも、負に類するすべてをなくす。
俺にはそれしかできない。でも、それだけはできる。
誰もが一度は夢見ただろう、苦痛も悲痛も死の危険も、なにもかもが消失した世界を作ることが、俺にはできる。
俺は弱い。そのことはこの数年間で嫌というほど味わった。
きっともう一度紫とまともにやり合えば負けるだろう、きっと西行妖には勝てないだろう、きっと依姫には敵わなかっただろう。
ただこのまま生き続けているだけですべてを守るなんてこと、こんな矮小な体ではできやしない。
それでも、たかがちょっと強い程度の力しかない俺でも、この幻想郷という小さな世界を守り尽くすことくらいはできるはずだった。それだけのことを可能とする能力は、少なくともこの魂に宿っているはずだった。
なにせそれとずっと付き合ってきた。
こうやってありとあらゆる『答え』をなくしていくことで、なにもかもを守ることができるはずなのだ。
代わりに、俺自身の自由が一切合切なくなってしまうけれど。
だが、そもそもとしてどうせこういう行為はいずれ必ずしなければならないことだった。
原作知識はしょせん限られたものでしかない。俺が及ぼす影響がなにを招くのか、そして俺の知る知識の終わりを迎えてしまった後、なにが起こるのか。俺には想像がつかない、予想ができない。
ならば最終的にたどりつくであろう、大切なものを失わない方法はただ一つ。最初からなければいい。すべての危険を端からなくしておけばいい。
そうすればどんな危機も訪れない。俺が不幸という『答え』をなくし続けている限り、永遠に幸せな日々が続いていく。
誰も、なにも傷つかない、夢物語にも等しい理想の世界を体現することができる。
――紅霧が見えるという『答え』をなくす。
――紅霧を吸うことにより体調を崩す『答え』をなくす。
――境界を狭めることにより霧が集まろうとする『答え』をなくす。
――サトリの能力により心が読めてしまう『答え』をなくす。
いろいろな『答え』をなくした。ひとまずは、こんなところでいいだろう。
だけれど最後に一つ、この物語に一番不必要な『答え』をなくしておく必要がある。
この物語にいないはずの存在を消しておく必要がある。
そうしなければ、皆が幸福を受け入れられないかもしれない。一人が欠けていることを儚く思ってくれるかもしれない。
だから、なくさなくてはならなかった。
最初はうまく忘れられないかもしれない。思い出せないことを漠然と拒絶しようとするかもしれない。でも、時間が経てば思い出せない誰かのことなんて次第にどうでもよくなって、いつか気にしなくなってくれるはずだから。
幸せな夢を見続けるのはもう終わりにしよう。優しい夢に身を任せ続けるのは、もう終わりにしよう。
今度はその夢を、俺が守るのだから。
すぅ、はぁ。そう、一呼吸置いて。
ほら、見えない光に手を伸ばすのをやめれば――――童話の始まりだ。
――思い出そうとして、レーツェル・スカーレットという存在を思い浮かべる『答え』をなくす。
今話を以て「Kapitel 9.叡智を無に帰す畏れの裏側」は終了となります。
最後辺り、というか今話全体が急ぎ足な展開になってしまいました。後日、修正するかもしれません。
ただ、修正して多少描写が加わったとしても、流れはなにも変わりませんので見直す必要はございません。
次の話からは最終章、「Kapitel 10.Alice im Märchenland」となります。
なお物語の都合上、「Kapitel 10」の主な登場キャラクターはレーツェル・スカーレットではなく、レミリアや霊夢と言った原作キャラクターとなります。あらかじめご了承ください。
"狂った帽子屋"が描く童話がどんな終わりを迎えるのか、見届けていただけると幸いです。
これからもどうかよろしくお願いいたします。