結局、春の一番目は博麗神社に奪われてしまった。よくよく考えたら博麗神社に
咲夜は俺やレミリアに申しわけないと謝ってきたけれど、その後にすぐ神社へ花見をしに行った。春を一番乗りすることはできなかったが、花見を一番乗りすることには成功したわけだ。
そうして、すでにあれから十数日の時が流れていた。
満月はいつ目を向けても、ただじっと見つめていたいような気分に陥ってしまうことが多い。それは空が暗闇に寝ついてしまう寂しい時間帯に、ただ一つ神々しい輝きを一生懸命に見せつけているからだろう。なにせ朝月を目にしても別段興味は抱かないし、すべてをさらしていない三日月等が天に浮かんでいてもすぐに目を離してしまう。夜という時間帯、満ちた月でなければ相当に見入ることはできない。
今日はそんな寂寥たる夜空が満月以外の、木々がこぼす美しい桃色の花弁で彩られていた。桜とともに視界に入る満月はただそこに在るだけのはずなのに、どことなく嬉しそうに感じているようにも見える。
「賑やかですね」
隣からの声。目を向ければ、穏やかな笑みを浮かべたさとりが、辺りの光景を見渡している。
今は春の真っただ中、夜桜を愛でながら宴会を行っている真っ最中であった。
少し遠くの方ではチルノやルーミア、リグルなどが互いに指を差し合ったりとごちゃごちゃやっている。その少し離れたところで永琳たち宇宙人組が静かに酒を嗜み、逆に俺たちの比較的近くにいる霊夢や魔理沙、フランとこいしは滅茶苦茶に騒いでいた。アリスなどはずいぶんと迷惑そうな面をしている。
レミリアはパチュリーとなにやら真剣に話し合っていて、美鈴はそんな二人の会話を感心したような顔をして眺めている。咲夜は幽々子たち幽霊組のところで妖夢と飲み合っていた。ナイフを刺しまくるような仲から、いつの間にあそこまで仲良くなったのだろうという不思議な思いがある反面、従者同士だから気が合うのかもしれないとも納得していた。
藍と橙は満月の影響か、互いに目を丸く、顔を赤くして酔っぱらっている。他にも直接話したことのないさまざまな輩――主に妖怪――までもが好き勝手やっていて、まさに羽目を外しているといった感じだ。
「でも、いつもこんな具合です」
俺の右手側にはさとり、対面には萃香。そして萃香の隣には射命丸文という、宴会以外では絶対に実現しないだろう組み合わせが今ここにあった。
「やっぱり宴会はこうでなくちゃいけないよ。静かにちびちび飲んでるのは私の性に合わないもん」
「それはまぁ、同意しますけど……えぇと、なんで私、連れてこられたんでしょうか」
うんうん、と満足そうに頷く萃香に、文が不満混じりに疑問を投げかける。
宴会にやってきた時、俺を見つけた萃香が――正確にはさとりを見つけた萃香が、珍しいと言わんばかりに近づいてきたのが原因だった。俺の能力でさとりの心を読める能力を封じていることを説明し、それが実証された後、萃香は「ちょっと待ってて」とどこかへ姿を消して、戻ってきたと思ったら文を片手で引きずっていた。
どうして文を選んだのか。大体予想はできるが、もしかしたら違うかもしれないので、なにも言わず萃香が文の質問に答えるのを待つことにした。
「ちょうど目に入ったし、天狗なら酒に強いし、こいつでいいやって。私とレーツェルとさとりの三人だけで飲むんじゃ虚しさが拭いきれないからねぇ」
どうせちょうど目に入ったからだろうとか思っていたが、まさしくその通りだった。文もなんとなくそのことには感づいていたようで、「やっぱり……」と肩を落とす。
「そんなに落ち込んでたら楽しくないよ。ほら、飲んで飲んで」
「いやまぁ飲みはしますけど」
「なに? 文句あるの?」
「いえいえ滅相もございません。鬼のあなたさまと飲めて光栄でございますよ」
「あいかわらずだねぇ。酒の席なんだからなに言ったって怒りゃしないのに」
萃香の酌をしながらの質問に、文は苦笑いを浮かべつつぶんぶんと首を横に振った。
萃香なら確かに怒りはしないだろう。代わりにきっと、怒ったフリをする。失礼なことを言ったやつの腕を掴んで振り回して、「言ったなこいつぅ」みたいなノリで桜の木にぶん投げるとか。
今度は文が萃香の大きな盃に酒を注ぎ、酒を飲もうとした萃香の顔が盃の影に隠れる。自身の顔が見えなくなった隙に、文は小さくため息を吐いていた。ただ、そうしてめんどくさがっている割には鬼のすることだからと諦めもついているようで、その後に浮かべる小さな乾いた笑いからは、もう開き直って飲みまくってやるみたいなやけくそな思考が垣間見える。
「それにしてもまさか地霊殿の主を外に、それも宴に連れてくるとはね、驚いたよ」
盃の酒を飲み切ると、萃香が俺の隣にいるさとりを横目で見ては、そう口にする。
俺はただ首を傾げてみせた。
「不満ですか?」
「まさか。心を読めなくしてるってのも本当みたいだし。心が読めないサトリなんて毛ほども恐ろしくない、そこらに溢れてる妖怪どもと同じさ」
元々恐ろしくなかったけど、と萃香が付け足す。彼女からしてみればサトリという妖怪は、相手にするのが果てしなくめんどくさいという程度の認識しかないのだろう。
「ま、改めてよろしく。伊吹萃香、鬼だ」
「はい、よろしくお願いします。古明地さとり、名前の通りサトリです」
「あやや、これは私もした方が? 射命丸文、しがない鴉天狗です」
萃香と文はさとりへ、さとりは萃香と文への自己紹介。俺が「レーツェル・スカーレット、吸血鬼です」なんて口にしてみると、萃香から「いやレーツェルは全員と普通に面識あるじゃん」とツッコミを入れられた。
「って、射命丸文さん、ですか?」
「おや、私のことをご存じで?」
「ええ。新聞の方、よく読ませていただいてますよ」
「これはこれはありがとうございます。私の知ってる限りの読者には新聞を割れた窓の修理や、そもそも読まずに倉庫に押し込んだりと失礼なことにばかり使う人が多いので……」
さとりは開きかけた口を閉じ、どうにか苦笑いを浮かべることに成功していた。
以前、さとりに「どうしてわざわざ人気のない『文々。新聞』を?」と聞いたところ、「人気がない割にたくさん発行されてるみたいなので、地底によく出回ってくるんです。暇潰しにはなります」とのことだった。おそらくさとりは今ちょうど「暇潰しにちょうどいいです」とでも言おうとして、文の思いもよらぬご機嫌な回答に、それを口にすることを躊躇したのだろう。
ちなみに新聞の処理はどうしているのかと言うと、ある程度読み終わったら地霊殿の地下にある灼熱地獄で焼却させているとか。
「ま、あんな新聞紙じゃそれもしかたないね」
「新聞です。そんな厳しく評価しなくたっていいじゃないですか。私はいつも真実を記載しているんですよ。あなたとレーツェルさんとの喧嘩で起きたあの地震だって、他の天狗たちはあなたを怖がって嘘のことしか書いてませんでした。私だけです、本当のことを書いていたのは」
「その本当のこともたくさんの嘘の中にすっかり埋もれちゃってたけどね。真実を伝えて信じ込ませるには、そういう心意気だけじゃダメなんだよ。鬼の社会と同じさ。力が必要なんだ」
「……人気がないのは自覚してますよ。だから号外を出す時は必要以上に発行してばら撒くようにしてるんです」
「必要なのはそういうところじゃないと思うけどね。記事の量を増やすとか、発行の頻度を増やすとか」
「私一人で情報を集めて私一人で記事を書いてるんですから、さすがに多くても月五回くらいが限度ですよー……」
文がやり切れないとばかりにぐいっと酒をあおる。萃香の指摘はまさに的を射ていると言えるだろう。『文々。新聞』は新聞と言う割には発行が不定期で情報収集には役立たないし、その記事の量も「新聞というより新聞紙」と言われてしまうくらいには少ないのだ。
せめてどちらかの問題をどうにかすれば今よりも人気が上がるとは思うけれど、文の愚痴を聞く限り、それは無理そうだった。
「毎日衝撃的な事件が起きてくれればネタにも困らないんですが」
「ん、それなら暇しないね。私は賛成だよ」
賛成とかそういう問題じゃないと思うが。
「毎日が刺激的になるということは、刺激的なことが普通になるということですよ? 普通のことを記事にしてもしかたがないと思います」
「む……むむ、確かに。さとりさん、意外といいところに目が行きますね」
「本や心を読んでいると余計な知識ばかり入ってきますから」
さとりはチラリとこちらを窺ってくる。本以外では主にレーツェルの心から、と言いたげにしていた。
文が、そういえば、と懐からペンとメモ帳を取り出してさとりに詰め寄った。心が読めるとはどういうことなのか、どういう感覚なのか。自身では知り得ぬもののための他、酒が入っていることもあるのだろう、ちょっと血走った目をしている。
さとりはその様子に若干引きつつも、きちんと質問に回答をしていっていた。
「ありゃりゃ、話し込み始めちゃったね。ま、天狗が満足するまでこっちはこっちで話してようか」
萃香が両肩を上げて、俺に向き直る。
「案外優しいところもあるんですね」
「でも天狗が正気に戻ったら『私に呼ばれたのにいつまで私を無視してるつもりだい』ってからかってやろうかなって」
「やっぱりいつも通りでしたね」
萃香が徳利を掲げるので、俺は手に持っていた猪口を差し出した。酌をしてくれた萃香にお礼の言葉を投げ、酒の入った猪口を口元へ運ぶ。
俺が猪口を持った左手を下げるのを待っていた萃香が、俺の頭の上の、鬼化魔法を使っていたら角が生えている辺りに視線を彷徨わせた。
「私の能力の修行の調子はどう?」
「上々です。萃香の能力ってすっごい便利ですよね。私の能力と違って日常でも使える機会多いですし、羨ましいです」
「今はレーツェルも使えるじゃないか。で、上々ってのはどんな感じ? 具体的に」
「全力で霧になると幻想郷の四分の一ほどなら軽く飲み込めるくらいです。もう副作用もありませんよ」
「じゃあ吸血鬼が元々持つ霧への変化能力と合わせればほとんど時間をかけずに幻想郷を覆い尽くすことも可能なんだろうね。私と同じように」
かつて萃香は幻想郷中に自分を広げ、人や妖怪の心を萃めることで三日おきに宴会をするように仕向ける異変を行っていた。さすがに俺の劣化版『密と疎を操る程度の能力』では全力で広がった状態で萃める力を行使することはできないが、萃香の言う通り、幻想郷中に広がるまでなら時間をかけず容易に行うことができるだろう。広がっているからと言って、さすがに彼女のように幻想郷中の様子を把握するなんてことはできないが。
萃香がからの盃を差し出してきたので、そこに酒を注いだ。満足そうに頷いた彼女は盃の端に口をつける。本当に今更だけれど、見た目が一〇歳に届くかどうかという見た目の萃香が酒を飲んでいるのを見ると、なんとなくむず痒いような微妙な気持ちになってくる。
そんな俺の内心もつゆ知らず、萃香は盃を下ろすと、ずずっと俺に擦り寄ってきた。
「つまり、ようやく準備が整ったってわけだ」
「……なんのです?」
「とぼけないでよ。鬼は嘘を嫌う」
俺の耳元に近づけると、萃香は、俺にしか聞こえない声音で囁くように小さく呟いた。
「――――異変。今年中に起こすつもりだったんだろう?」
萃香が口を俺の耳の近くから離す。未だ彼女の顔は至近距離にあり、その口の端は面白そうに吊り上がっていた。
「……なんでそう思うんですか?」
「否定はしないんだねぇ」
「いいから答えてください」
左手で、萃香の盃を持っていない方の腕を掴んだ。俺に触れられるということがどういうことなのか、萃香ならば理解しているはずである。
風が舞い、桜が散った。髪に引っかかった花弁には見向きもせず、ただ萃香を見据えている。
彼女は風が止むまでじっと俺の顔を眺め、両肩を上げた。
「私は人の内心には結構敏感なつもりなんだ。それを気にしたりはしないけど。ま、人間にはたくさん嘘を吐かれてきたからね」
「それが?」
「そんな殺気立たないでよ。それと、手ぇ離してくれない? 話しにくいったらありゃしない」
萃香の願いに微動だにせずにいると、彼女はしかたがなさそうに肩を竦めた。
「私と出会ったばかりの頃のレーツェルはさ、大層な目的もなくて、ただ永遠と課せられたことをこなそうとするだけの狂った機械だったよ。今にも壊れそうなくせに、本当は狂気になんて染まれないことを知ってるくせに、そんな自分には絶対に気づかないフリをする」
「……余計なことは」
「黙って聞きなって。話してる。それともここで、私と喧嘩する?」
カードなんて使わずにさ、と。目を細める萃香が俺にだけわかるように威圧感を放つ。即座に能力で俺の知る限りの萃香の能力を封じるが、それでもその気配はどこまでも圧倒的だった。
ここで機嫌を損ねてはなにがされるかわかったものではない。ただでさえ手を離せという要求を一度拒んでもらっているのだから、ここはこちらが妥協すべきだろう。
話を聞く気になった俺を認めた萃香は、うんうんと満足げに頷いた。
「レーツェルは罪の重さに耐え切れなくて、ただ逃げるために自分を傷つけてただけだ。そうやって自分が不幸だって思えればこびりついた罪悪感がほんの少し和らぐから、立ち向かうことから目を背けて何百年もずっと続けてきた。本当にくだらないね。なまじ力があるだけに、そんなバカげたことをしようとする」
「……なにが言いたいんです?」
「だからそんな殺気立たないでってば。今から本題に入るから」
そこでチラリと右手側の様子を確認する。未だ文はさとりに質問攻めを続けていて、二人とも小声で会話する俺たちの空気が宴のそれではないことに気づいていないようだった。
「そんなレーツェルもさ、ちょっとしたら様子が変わったって思ったね。んー……三年前の永夜異変とやらが起こる、ちょっと前辺りのことだったかな。ちょうど満月の日は地上にいなかったから異変のことはよく知らないけど」
「……別になにもなかったと思いますが」
「そうかな? でも、もしかしたらその時から考え始めてたんじゃないの? いつか自分が異変を起こすこと、そしてなにを目的に異変を起こすのか。能力の修行として私を訪ねてきたのも、いざという時のために応用に富んだ力が欲しいからじゃなくて、本当は異変を確実に成功させるのに私の力が便利だったから」
「それは、違います」
「ふぅん、そう思い込もうとしてるんだ。いや、もう思い込んでるのか。自己暗示もここまでくるとあっぱれだね」
萃香がおかしそうに笑い声を上げた。それから寂しそうに右手の盃を見つめ、己が腕を掴んでいる俺の手にちらちらと視線をやる。酒を飲みたいという要求だった。
それを無視をしていると、萃香は大きなため息を吐いては盃を地面に置き、右手で徳利を掴んで自分で酒を注いだ。
「……思いついたのはその時だけど、起こすと決めたのは二年前だろう? そう、ちょうど春の――あらゆる季節の花が咲き乱れる異変が起こった辺り」
「そんなことは」
「そこも騙してるの? 相当起こそうとしてる異変がキツいんだろうねぇ。ま、私には関係ないけど」
私はただ傍観するだけ、と萃香が酒をあおる。そこからはなにも話してくれなくなり、ただ静寂の時が続いていた。
文とさとりの会話が終わったようで、俺たちの様子に気づいた二人が首を傾げる。咄嗟に萃香の腕を離すと、彼女はやっと解放されたと言わんばかりに肩を回した。
「さて天狗、私がつれてきたってのに私を無視し続けるってのはどういう了見だい?」
「え、あ、いえいえ無視だなんて滅相もない! 私は新人のさとりさんが空気に馴染めてるかどうか心配でっ!」
萃香と文のかけ合いに、さとりが口元を押さえて笑っていた。逃げる文を萃香が能力で萃め、捕まえて、逃げ出そうとしたことの言いわけをする文を愉快そうに眺めている。
とても楽しそうだった。
俺はただ、そんな三人の姿を視界に入れていた。話を振られれば口は開く、周りからは普段と変わらないように一生懸命に装う。
頬に左手を添えて、いつも通り、なんの感慨も見せやしない無表情で三人の幸せを見据え続けていた。
□ □ □ □ □ □ □ □ □ □
紅魔館の屋上で欠けている月を見上げていた。少しであろうとも手を抜いている月に見入り続けることはできず、ため息を吐いて視線を外す。
どうにも今日が始まった瞬間から誰かからの視線を常に感じていた。最初は気のせいだろうと無視していたのだが、徐々にその感覚は強まっていく。
振り返る。誰もいない空虚を見据え続けていると、やがてそこに亀裂が走った。
「……あなたはなにをしようとしているの?」
亀裂が穴となり、一人の女性が姿を現した。閉じた傘を片手にたたずむ凛とした姿は、しかしどこか怯えをはらんでいるようにも見える。
まるでなにか恐ろしいものを、まるで見てはいけないものを目にしてしまったかのように、少女の声は震えていた。
これは自分に問いかけているのだろうか。そうやって首を傾げて、それはそうだろうとすぐに思い直す。今、この場所には俺と彼女しかいないのだ。
だから口を開いた。答えるために声を発する。
「なにって、なにが?」
「なにもするつもりがないとでも言うつもり?」
現れていきなりなにをするだとか、なにをしようとしているだとか言われても、困惑する以外のことはできやしない。
首を傾げる俺をもどかしく思ったように、紫が詰め寄ってきた。
「私の力は境界を操ることよ。それを使ってある場所に立ち入って、どこまでもおぞましく忌々しいものを見てきた。こういえばわかる?」
「……ああ、あそこですか。よく入れましたね。隠蔽とか保護とか、いろんな魔法で入れないようにしてたんですが」
そう答えて作り笑いを浮かべると、紫の動きが止まった。
「あなたは……いったい、誰?」
「レーツェル・スカーレットです」
「本当に?」
「本当って……どうでしょう。紫が疑うなら、違うかもしれませんよ」
冗談交じりに肩を竦める俺に、紫は苛立ちを覚えたようだった。しかしその感情は口に出さず、大きくため息を吐くだけに留めたようだ。
「……まぁ、この質問はいいわ。代わりにもう一度聞きましょう。あなたはなにをしようとしているの? あんなものまで用意して、なにもしないなんて返答じゃ納得できないわ」
「あんなものなんて失礼ですね。全部全部大事なモノです。あ、もしかして壊したりしてません?」
「壊すって……あなた、その言い方」
「まぁ、壊してても壊してなくても、別にいいんですけど。成果は全部覚えてますから。それに、どうせいくらでも替えは効きます」
「……答えなさい。三度目よ、あなたはなにをしようとしているの?」
まっすぐな目で問いかけられる。俺はただ、視線を逸らした。
「なにもしようとなんてしてません」
「してるわよ。あんな、あなた自身がもっとも忌むべき禁忌に頼ってまで、いったいなにをしようって言うの? なにを為そうと、なにを為せると……」
「幻想郷はすべてを受け入れる。善意も悪意も。そうじゃないんですか?」
「善意でも悪意でもない、無も受け入れろと。そう言いたいのかしら」
「よくわからないけど、紫がそう思ったんなら、きっとそうなんじゃないですか」
要領を得ない回答ばかりされて、紫はようやく、俺が一切の問いかけを真面目に答える気がないことを悟ったようだった。
「……私は一度、かつてあなたに見逃された。殺されるはずだった命をあなたの都合で生かされた」
「そんなことありましたか?」
「あったわ。だから、これはその時の借りを返す意味を込めてのこと。アレを不問にして、あなたがなにをしようとしているのか無理に聞かないでいてあげる」
「不問もなにも、あれは私のものです」
「まぁ、借りとかなんとか言いながら、無理矢理聞き出そうとしたら私がどうにかされてしまいそうだからなんだけど……最後に一つだけ言っておかないといけないことがあるわ」
ぬうっ、と紫が俺に顔を近づける。目を鋭く細め、真剣な表情で俺を見据えてきた。
「あなたがなにかをしようとしたら、あなたがなにかをしようとする前兆があったら、あるいはあなたがなにかをし始めたら……私は私の全力を以てしてあなたを止める」
言いたいことだけ口にすると、俺が引き留めるよりも先に紫は空間の裂け目に消えていってしまった。
能力が欲しいから吸血させてもらえないか聞こうと思ってたのに。
欠けた月が照らす紅の館の屋上に、再び静寂が訪れる。朝から感じ続けていた視線はすっかりと消失し、いつも通りの正常な感覚が戻ってきていた。
「……はぁ」
なにかをしようなどと、大層なことは考えていない。俺は誰にも危害が及ばず、皆が平和に暮らしていければ、それだけで満足だ。俺はそのためだけに死なずにいる。
今年もまた危険があるかもしれないのなら、どうにか手を考えて打っていくだけ。
願望も欲望もただただ収束する。人間として、妖怪として、為さねばならぬことは心得ていた。
いつか迎える永遠の終わりまで、両親とその眷属の気持ちへの贖罪を。大切な人たちに平和を。フランに幸福を。
それ以外はなにもいらない、望んじゃいけない。
生まれてしまった責任と役割を果たす。果たさなければいけない。
「ふわぁ……」
あくびが出た。今日はもう部屋に戻ってベッドに寝転がることにしよう。
明日の宴会はどこでやるんだろう。香霖堂の裏の桜がそろそろ満開になる頃だから、そっちでやるのかな。
次の宴のことに思いを馳せながら屋上を出る。その思考が紫との対話の内容へと戻ることは、二度となかった。
今話を以て「Kapitel 8.望むは忌むべき禁忌の鼓動」は終了となります。
本当はもうちょっとだけ書きたかったんですが、必要なことは書き終えたので終わりにします。さとりの地上探索編も一区切りしてキリもいいですから。
そろそろこの物語も徐々に終幕へと向かい始めます。おおむね予定通りなので前の章での最終話での発言の通り、「Kapitel 10」で完結を迎えることになるでしょう。
「Kapitel 9」は東方風神録と東方儚月抄が行われる一年の間の話となります。ただし物語の都合上、正直に言ってしまいますと、風神録は即行で終わるか全カットになりそうな予感がします。あらかじめご了承ください。
これからもどうかよろしくお願いいたします。