東方帽子屋   作:納豆チーズV

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九.無邪気さに揺らぐ狂気の仮面

 あの日以来、たびたび萃香のもとで劣化版『密と疎を操る程度の能力』の修行を行うようになった。本来俺が有しているべきではない能力だからか、体を霧にした時のように体調が悪くなってきてしまうことも多々あったが、今では慣れたのかそれもなくなってきている。最近では霧にした体をとにかく広げようという試みを行っていた。萃香は幻想郷中を包み込むほどの広さと大きさを誇る霧へと容易に自身を散らすことができるというのだから、吸血鬼の能力を併用せずしての霧状への変化は、俺の熟練度ではまだまだ彼女に及ばない。

 冬も終わりが近くなり、気温も徐々に上昇し、幻想郷は春を迎え入れる準備を整えようとしていた。

 

「んー……やっぱりたらの芽は、まだ少し早いですか」

 

 紅魔館の庭。ローブを纏い、フードをかぶって、栽培している植物の様子を見に来ていた。

 基本的にこの庭は美鈴と咲夜によって手入れがなされている。食用に使う植物等は咲夜、装飾用の花などは美鈴と、それぞれ分担した管理の役割を担っていた。

 たらの芽――落葉低木、タラノキの新芽をたらの芽と呼ぶ。日本各地に存在する有名な食用植物で、てんぷらにするのが一般的だ。それはこの幻想郷でも例外ではなく、レミリアなんかはこのたらの芽のてんぷらが大好物の一つである。

 本来は咲夜の管理下であるはずのたらの芽を見に来ているのは、別に俺の食い意地が張っているとかそういうわけではなくて、ただ単に春まであとどれくらいなのかということを把握するためだった。

 たらの芽の収穫にはまだ早いけれど、この様子だとあと一〇日もしないうちに春を迎えるだろう。そういえば人間の里の方で春を告げる妖精が見つかったと言うし、紅魔館の方にそれが来ればここももっと早くに春になって、桜が咲き乱れるはずだった。

 それにしても、今日はいい天気だ。雲一つない晴天で太陽が元気に輝いていて、吸血鬼としては不本意であるものの、なんだか陽気な空気が漂っていて悪い気分ではない。

 こういう日こそ、誰かと一緒に外を出歩いて、景色を見て回りたいものだ。

 冬は寒いからと、夏や秋に比べてさとりやこいしと地上を観光する回数はそう多くなかった。俺は寒さなんて全然平気だが、さとりやこいしはそうではない。二人とはほぼ毎晩電話機を通して会話をしているものの、やはり直接会って話をする方が盛り上がるのは確かだ。

 まだほんの少し肌寒いけれど、桜が咲く頃になれば幻想郷はどの季節よりも過ごしやすい環境になる。それにさとりを初めて地上に連れて来たのがお盆の少し前だったので、彼女は明るく美しい花弁をいくつも散らす桜の姿を直接見たことはないはずだった。

 いったいどんな笑みを見せてくれるのだろう。いったいどれだけの感動を覚えてくれるのだろう。想像し始めたらなかなか止まらない。

 

「レーツェルお嬢さま、おはようございます」

「ん、咲夜ですか。おはようございます」

 

 元々、背後に誰かが近寄ってきている気配はしていた。体を反転させると、この辺りの植物を管理する美しい銀の髪の少女と対面した。

 

「こんなところで、どうかいたしましたか? たらの芽の収穫はまだ早いと思いますが」

「あとどのくらいで春が来るのか見に来ていたんですよ。この様子だともうそろそろという具合ですね」

 

 春は他の三つの季節に比べても宴会を行う数が多い。適温であるがゆえに過ごしやすいからなのももちろんだが、桜という非常に美しい光景を手軽に肴にできるからというのが一番の理由だろう。

 

「咲夜はここの手入れですか?」

「いえ、春の妖精を探して捕まえるようにレミリアお嬢さまに言われまして。それで、まずは近くからと庭にいたりはしないか見回っていました」

 

 春の妖精、春を告げる妖精、春告精(リリーホワイト)。さまざまな名称があるが指す者は同一であり、つまりは春という自然現象そのものの化身だ。

 それを捕まえるということがどういうことなのか。咲夜に下された命令から、レミリアの意図にはすぐにたどりついた。

 

「お姉さまって、今年の春は紅魔館のものだとか、命令と一緒にそんなこと言ってませんでした?」

「言っていましたわ。その言葉の一字一句違わず、『今年の春は、紅魔館のもの』と」

 

 春という自然現象そのものという表現が指す通り、春告精が通った後の場所は瞬間的に春になるのだ。木々は瞬く間に桜を咲かせ、まだ少しばかり薄ら寒い空気は眠たくなるような陽気の伴った適温の風に変わる。だからこその春を『告げる』、春の妖精だった。

 レミリアは咲夜に春告精を捕まえさせて連れてくることで、一足早く紅魔館に春を訪れさせようとしているのだ。

 ……もしかしたら、幽々子が数年前に起こした春雪異変で春が全部持っていかれてしまったことを悔しく感じていたのかもしれない。萃香も春が減ったのと同時に宴会も減ったからと異変を起こしていたし。

 

「私も手伝いましょうか? なんだかんだやることがありませんし」

「私に下された命令ですから、レーツェルお嬢さまはレミリアお嬢さまと同じように首を長くして待っていてくださればいいですわ」

「なんだか自信ありげな言い方ですね。もしかして、もう当てがあったりするんです?」

「いえ、レーツェルお嬢さまにはこれくらいはっきり言っておかないと、なんだかんだ手伝いたいとついてきてしまいそうだったので」

 

 確かに、まぁ、別にいいと断られても、ただ事務的に拒絶されただけだったなら俺は俺で別に探していた可能性は大いにある。暇だからということももちろんあるが、当てがないのに数多くいる妖精の中から一人だけを探し当てるのは厳しいし、手分けをした方が効率がいい。

 咲夜はメイドとして俺やレミリア、フランやパチュリー等に対し、それなりの線引きをしている。それは俺たちと必要以上に親しくしないことが目的のものではなくて、ただ単に、彼女が紅魔館に仕えるメイドとして譲れない部分があるからだ。

 主人に命令されたことを、主人の妹に手伝わせるなんて言語道断、と。咲夜がそう考えているのは明白だった。

 

「それに、お嬢さまの暇潰しに付き合うのは私だけで十分ですよ。レーツェルお嬢さまの手を煩わせる必要はありませんわ」

「暇潰し、ですか。春の妖精を捕まえてくるのは、きちんと意味のある行為だと思いますけど……」

 

 なにせ春を早めに呼び寄せることができる。紅魔館が春を一番乗りになんてできたら、レミリアのテンションは最高潮に達するだろう。

 そうして当然のように返答した俺を見つめ、咲夜がぱちぱちと目を瞬かせた。

 

「えっと……もしかして咲夜、ご存じありませんか?」

「なにがでしょう」

「この時期に春の妖精が、春告精(リリーホワイト)が通る場所は一瞬で春になるんですよ。一枚すら葉を見せない木は瞬時に鮮やかな桃色に、空気は心地のいい温かなものに変わるんです」

 

 やはり咲夜はこのことを知らなかったらしく、「そうなんですか」と感心の色がついた声を上げた。

 

「だからお嬢さまは捕まえてきて、と」

「春の妖精は春を『告げる』だけなので、別にいなくても春は訪れるんですが、いればそれだけ早く春を迎えることができます。密かに里の人間たちにも親しまれている人気者の妖精ですよ」

 

 妖精は皆、イタズラ好きであることで有名だ。注意をおろそかにして適当に歩いていたら道に迷わされたり、注意が散漫になっているといつの間にか荷物がなくなっていたり。妖精は基本的に人間が隙を見せている時を狙ってイタズラをしかけてくる。だからこそ普段から周囲に気をつけようと、そういうことを寺子屋で子どもたちに教えたりもしているようだ。

 ただ、そういう被害の報告は多かれど、普通の妖精は大人の人間なら一般人でも勝てるくらいに力がないため、妖怪と違って危険視はほとんどされていない。人間が気づくと大抵の妖精は一目散に逃げ出すし、もしも問答無用で攻撃をしかけようとしてくるようなら、それは人間たちへの警告である可能性が高いのだ。なにせ強力な妖怪が潜んでいる付近には妖精が集まりやすい。その割に、その妖怪へ直接近づいたりはしないのだが。

 

「……やっぱり手伝いましょうか?」

「大丈夫ですわ。春の妖精のその特徴は知りませんでしたが、今ちょうど、当てのある場所を思いつきましたので」

「当てのある場所?」

「博麗神社ですわ。なんだかあそこ、いつも春っぽい雰囲気を醸していますから」

 

 すごく遠回しに「霊夢の頭はいつもお花畑」と言っているような気がしたが、さすがに曲解すぎるだろう。

 目を瞑って、少しだけ思考に耽る。去年のことだったか。こいしと初めて出会った日の少し前、俺は半ば無理矢理に咲夜の買い物の荷物を持たせてもらった記憶がある。買い物袋を持つか持たないかという会話でずいぶんと大仰な、メイドとしての矜持だとかのところまで話が進んだのを覚えていた。

 今回は、咲夜のメイドとしての線引きを越えてまで手を出すほどの一大事ではない。というか咲夜の言う通り、霊夢のもとを訪ねれば、なんだかんだで春の妖精も見つかるような気がしていた。それは感覚的なものであったが、理屈的な理由もある。博麗神社は俺の知る限りで一番に陽気に溢れており、春の妖精が比較的来やすい場所であることは事実なのだ。

 

「そうですね。それじゃあ咲夜、春の妖精の捕獲、がんばってください。ホントはついて行きたいんですけどね」

「あら、雨でも降るのでしょうか。珍しいですわ、レーツェルお嬢さまが食い下がらないなんて」

「ありがた迷惑って言葉もありますから。あと雨が降ったら困ります。外を出歩けません」

 

 あまり咲夜を困らせるのはいいことではない。咲夜が別にいいと断るのなら、無理な手出しはできるだけ避けるようにする。

 咲夜がチラリと空を見上げた。飛んでもなんらかの危険がないのか、ということを確認したのだろう。

 

「行くんですか?」

「ええ。レミリアお嬢さまもそうみたいですが、私もたらの芽を使った料理は早く食べたいと思っていますから」

 

 それは俺も食べたい。フランもたらの芽のてんぷらは大好きだと言っていた。

 咲夜がトントンとつま先で地面を叩き、それからふわりとほんの少し浮き上がる。

 

「それでは行って参ります」

「待っていますよ。がんばってください」

 

 博麗神社がある方向へと一直線に飛んで行く咲夜を手を振って見送り、豆粒ほどにしか見えなくなったところでそれをやめた。首を長くして待っていてくれればいいと言っていたし、その通り、彼女が春の妖精を連れ帰ることを期待して待ち焦がれていることにしよう。

 早くたらの芽の、ひいては春の食材を使った料理を食べたい。綺麗な桜を見たい、春の空気を味わいたい。

 咲夜がレミリアからの命令を達成できるようにとちょっとだけ祈ってから、紅魔館の中に戻ろうと、踵を返した。

 

「はろー」

「って、いたんですか」

 

 いつの間にか俺の後ろに立っていたらしい、とにかく気配を消すことに関して右に出る者はいない妖怪――古明地こいし。さとりが地底から出てくるのは電話で予定を組んで俺とこいしのサポートが万全な時のみなので、こいしがこうして突然俺のもとを訪ねてくる場合は大抵一人だ。

 こいしが、よきかなよきかな、とでも言いそうな具合の口元の緩み具合の顔で、首を二回縦に振る。

 

「その様子だと私と咲夜の会話を聞いてたみたいですけど、いったいいつから?」

「えーっと、『こんなところで、どうかいたしましたか?』の辺り」

「出会いの挨拶が終わってすぐのところじゃないですか。声をかけてくれてもよかったんですよ」

 

 その時からずっと俺の背後にいたのだと考えると、なんだか気づかない自分の方がアホだとか能天気だとかのように思えてくる。存在感の薄いこいしに忍び寄られて、それを察知しろという方が無理な話なのだが、俺はこいしには謎のシンパシーを感じているのだからがんばればいけた……はずだ。気づいていなかった状況でなにをどうがんばるのかは知らないが。

 

「うん、かけようと思ったんだけど、そこの花が綺麗に咲いててねー」

「ああ……そっちに関心が向いたんですね」

「うんうん。うちの中庭もいいけど、レーチェルのとこのここもいいわ。気に入っちゃったかも」

 

 そう言ってもらえると、なんだか誇らしい気分にもなれる。

 こいしが不思議そうに首を傾げた。

 

「なんでレーチェルが胸を張るの?」

「美鈴と咲夜……ここの門番と、さっきのメイドが管理している場所ですから。家族のしたことが評価されるのはやっぱり嬉しいものですよ。あとレーツェルです」

「ふぅん。私にはそういうの、わかんないな」

 

 ぼーっと宙空を見つめ出したこいしが、しかししばらくして「や」と否定の声を発した。

 

「でも、やっぱりちょっとだけわかるかも。お姉ちゃんが褒められたら私も少し嬉しいと思うと思うしー」

 

 思うと思う。なんとも微妙な表現だ、と肩を竦める。

 

「そろそろ春だねー」

「はい。宴会の時期です」

「お姉ちゃん、最近私に花見をしたいってよく言ってきてねぇ。でも、三人で花見より皆でやった方が賑やかだし、私も宴は参加したことないし、お姉ちゃんもそろそろ大勢と会ってもいいかもって言ってたしー」

 

 心が読めない状態ならば、さとりが理不尽に他人から嫌われないことは実証済みだ。なにせ霊夢とも魔理沙とも霖之助とも、レミリアとも、フランとも自然に交流できた。

 さとりがいいと言うのなら、そろそろ当初の目的であった宴会に参加することも視野に入れてみてもいいのだろうか。さとりを連れての地上観光を始めて早半年と数か月――宴会に参加するのが早いということはない。

 

「ねぇ、レーチェル。春のうちに、お姉ちゃんを宴会に連れて行こうよ」

「そう、ですね。さとりが大丈夫だと言うのなら、それもいいかもしれません」

「じゃあ決定だね! お姉ちゃんなら絶対いいって言うし!」

 

 上機嫌にくるくると回り出したこいしが、足元の小石に躓きそうになった。手を出して、慌ててそれを支える。

 

「お姉ちゃんがどんな反応するのか見るの、楽しみだねー」

「そうですね。以前さとりの前で萃香の近くに連れて行ってやるとか思っちゃったものですが、やっぱり最初はやめておいた方がいいですよね。ところでずっと私に寄りかかってる必要はあるんです?」

「鬼は血が酒でできてる、と『思っちゃう』くらい酒豪だからねー」

「完全にあの時のこと根に持ってますね、こいし」

 

 思っちゃう、が妙に強調されていた。あの時は俺もこいしのことがちょっと面白いと感じていたので、さとりだけが恥ずかしい秘密を暴露されたことに、なんだかちょっと後ろめたい気がしなくもない。

 倒れそうになったのを支えてから、こいしはずっと俺に体重を預けている。それでいて鼻歌を始めそうなくらい朗らかに口元を緩め、目を細めているものだから、そんなに元気があるなら自分で立ってくださいと、彼女を直立状態に戻した。

 

「さとりがどんな反応をするかは楽しみですけど、私は、こいしがどんな風にするのかというところも楽しみですね」

「私? なんで?」

「なんでって、こいしも宴会は初めてなんでしょう? それならいい反応が見れるはずです。そりゃあ楽しみですよ」

 

 こいしは基本的に負の感情を表情には表さない。いつも笑顔で、なにを考えているのかわからない。もしかしたらなにも考えていないだけなのかもしれない。それでもここ最近、喜びの度合いは笑顔の程度からわかるようになってきた。

 どんな感じに口元や頬が緩んでいるか、どんな感じに目が輝いたり、細まったりしているか。あるいはどんな動作で喜びを示しているのか。

 今のこいしの機嫌は中の上と言ったところだ。普段より上なのはきっと、さとりを話題にしたからだろう。

 

「そっかぁ。うん、そっか。なんていうか、快感?」

「つまり、嬉しいってことですか?」

 

 こいしが直立したまま、ふらふらと横に揺れ始める。さながらどちらに倒れようか悩んでいるような雰囲気だったので、倒れ始めてからではめんどうだからと、彼女の両肩を両手で押さえる。

 

「嬉しい? 嬉しいのかな。よくわかんないけど、たぶんそんな感じー」

 

 至近距離で見るこいしの顔は、あいかわらず笑顔から変化はない。ただ、その度合いや声音に異変はあった。

 さっきよりも頬の緩みが増し、声音がちょっと弾んだ風になっている。機嫌の段階が一つレベルアップしていた。本人は自覚していないみたいだけれど。

 こんなことでこれだけ喜んでくれるのだから、宴会での様子が楽しみだと言うものだ。

 

「……レーチェルは、私と一緒にいるのって、楽しい?」

 

 珍しく笑顔が引っ込んで、不安に一番近い色をした無表情で問いかけてきた。いつも楽しそうにしているだけに、こういう顔はどこまでも記憶に残ってしまう。地霊殿に行くかどうかの時の残念そうな表情だって忘れられていないし。

 ここで楽しくないと答えたら、きっとこれからずっと後悔していくことになる。たとえ冗談でも楽しいと答えなければ――そんな考え方、一片たりともしなかった。

 ただ本心を口にしたい。不安がるこいしに、ただこの胸の温かみを知ってほしいと思った。

 

「楽しいです。間違いなく」

 

 こいしは、目をぱちぱちと瞬かせた。

 

「……そっかー。私もレーツェルといるのってたぶん、や、きっと楽しい」

 

 そうして笑みが浮かぶ。さきほどよりもはるかに嬉しそうで、楽しそうな微笑みが。

 それを見た瞬間、ふとこいしと初めて会った日の夜に覚えた感情がよみがえる。

 ――それに、こいしを通して、知りたかった。俺は他人からいったいどういう風に見えているのか。

 ――どうしても知らなければならないと感じた。

 こいしはいつも動きや心がふらふらとしてて、なんだか放っておけない。それでいて突飛な言動が面白いことが多々あるから、一緒にいることで他の誰とも違う愉快な気持ちを味わうことができる。笑顔が多くて、自然とこちらも調子が上がってきてしまう。

 負の感情を表情に出さないからこそ、たまに見せる負の感情にもっとも近い雰囲気や仕草がどうしても心に残る。いつもこいしは楽しそうにしていて、そんな彼女にいつも元気をもらっているからこそ、その助けになりたいと強く感じる。

 むしろもっといろんな悩みを打ち明けてほしい、と。もっといっぱい頼ってほしい、もっと自分の心を素直に外に出してほしい。

 まだまだたくさん抱いている思いはあった。しかし重要なのはそこではなくて、少し考えるだけでこれだけの思いを瞬時に思い浮かぶことができるということ。

 こいしを大切に思っている。だからこそ、その力になりたいと、俺は強く――。

 

「……パチェは、もしかして」

 

 ――親しい誰かに当たり前のことをしてあげた時、その誰かから欲しいって思うものは。

 それは萃香の言葉だった。パチュリーがなにを望んでいるか、なにを欲しているか。

 もしかしてパチュリーは、俺の喜んだ顔が見たかったんじゃないだろうか。俺が今感じている、この胸の温かみを表情にしてほしかったんじゃないだろうか。

 ああ、そうか。

 『笑顔』が――あるいは笑顔に匹敵するほどのなにかを表した俺が見たかったのだ、パチュリーは。

 

「レーチェル? どうしたの?」

「いえ……」

 

 どうしてか、こいしの手を握ってしまっていた。

 反対の手で、俺は自身の頬に手を添える。

 無表情だった。喜びなんて欠片も見せない、楽しさなんて微塵も感じさせない、温かみも冷たさもない、ただそこに在るだけのもの。

 無意識のうちにぎゅっと力を入れてしまったようで、こいしが不思議そうに目をぱちくりとさせていた。

 

「こいし、私といて……楽しいですか?」

「さっきも言ったじゃん。楽しいよ?」

 

 そうですか、と。こいしの微笑を前に、ただ口を閉じた。

 

「どうせなので上がっていきます? 最近、紅茶を入れるのがうまくなってきたって咲夜に言われまして、こいしに飲んでもらいたいんです」

「わ、いいの? やったー!」

 

 その一瞬。無邪気に笑顔を浮かべることができるこいしを、ほんの少しだけ、羨ましく思った。


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