聡士郎が立案してからはや三日。侵入者も連続して事を起こすと尻尾を掴まれると判断し警戒しているのか、まったくと言っていいほど動きを見せなかった。
それからすでに日も傾き始め、黄昏時。
この時刻になると、哨戒任務に就いていた白狼天狗は、夜間任務を請け負ったものと変わり村へと帰ってくる。その為、今の時刻は、村に天狗が溢れかえるのだ。
仕事を終えた天狗は帰宅する以外にも、中央村に酒を飲みに来る者や、知人友人の家へと行き、そこで飲み交わすものも多くいる。
そもそも鴉天狗と違い、白狼天狗は自由時間が少なかった。その為、仕事終わりの夜間でしか、羽を伸ばすことができないのである。特に各部署の新人達はこっぴどくしごかれるのだ。若い白狼天狗が衛兵隊にしょっ引かれる事が多い理由は、これが原因の一つでもあった。その為、酒を飲むと日頃の反動か、器物破損や大声で騒ぎ立てるなど様々な事を起こし、衛兵隊も毎晩手を焼いているのである。もっとも、衛兵隊にとってはそれが主な仕事となっているのではあるのだが。
さて、そんな天狗が溢れかえる夕時の中央村を、楓は息苦しそうに歩いていた。手提げ鞄には食料が詰まっており、それを行き交う人々から庇うようにしながら、前へと進んでいた。
作戦の為、聡士郎から「ワシが持っていた物を持ち歩いてこい」と楓にとって意味の分からない事を任されて、村を回る事になった。楓は嫌人思考ではあるのだが、師匠である椛の為に仕方なくその案の飲むと、聡士郎の財布を渡されて、その任を果たすべく買い物へ出向く事にしたのだった。
「出来るだけ歩き回れって何なんだよ・・・。僕はただの雑用じゃないか」
ぶつぶつと文句をこぼしつつ、楓は『双葉庵』にたどり着くと長椅子へと座り、ひと息を付いた。楓のほかにも、相変らず多くの天狗達が店の中にある席や、外の長椅子に座り、大変にぎわっている。双葉庵は昼ならず、夜も酒などを出すので人気であった。
座ってしばらくすると、土筆は楓に気づいたのか、注文を取ろうと声を掛けてきた。
「おや、楓ちゃんじゃないか。いらっしゃい」
「どうもです。あと、『ちゃん』付けはやめてください」
「あっはは!いいじゃん。まだボウズなんだから!」
呆れたように言う楓を見て、土筆は豪快に笑った。親子共々、気持ちの良い笑い方である。
「えーっと・・・土筆さん。お米余っていませんか?市で買えなかったので、できれば譲ってほしいです」
「ん?米かい?ちょっとオヤジに聞いてみないとわからないけど・・・。おつかい?」
「はい。ですが・・・」
ふと、楓は悩んだ。
聡士郎達が立てた案を、土筆にも話すべきだろうか。皆、彼女とは親しい。それに彼女は風の噂を仕事の都合上よく耳にするらしく、衛兵隊の情報網より早く何か掴む可能性がある。そこでこの案を話したら、もっと作戦の幅が広がるのではないかと思ったのだ。
しかし、この件はあくまでも白狼の舞による政治問題である。直接関係の無い土筆まで巻き込むのは、身の危険であるではないのか。もし話して土筆の身に何かあったとすれば、それは間違いなく自分の責任になってしまう。それはなんとしても避けたかった。
楓はしばし黙り込み、悩みに悩んだ挙句。
「あっ・・・散歩でもあるんですよ」
「散歩・・・?楓ちゃん。そんな趣味があったんだ」
「ええ、最近始めた事なんですけど・・・」
作った笑いをして、楓はごまかした。この件は自分だけで判断することは難しく、下手な事をするのは不味いので、後に聡士郎しかり椛に、相談したほうが良いと判断したのだ。
そんな楓を見て土筆は不思議そうに首をかしげると、同じく悩んだ仕草をした。
「私も始めようかなぁ・・・散歩。それかお忍びで里まで下りて、旨い物食べに行こうかなぁ・・・」
土筆は人里にある食べ物を数えるように、指を折りながらにやにや笑みを浮かべる。それを見た楓は思わず、暢気な人だと笑って返事をした。
「でも不思議だねぇ・・・。人間ってのは自分勝手な奴ばかりだと思ってたけど。なんだかんだ言って松木さんは椛様の護衛を続けてる。いろんな奴がいるもんだね」
唐突に、土筆は聡士郎の名を出した。
「・・・僕は逃げだすと思っていました。アイツにとって理不尽な依頼だったのに・・・。どうしてだよ・・・普通自分の利益にならない事をやろうと思わないのが人間のはずなのに」
理解しがたいものを思い出すように楓が呟くと、土筆は「うーん」と唸り、思いついた様に口を開いた。
「たぶん、自分がやりたいと思っているからじゃない?」
「それだけ・・・?それだけの為に命を掛けているんですか?」
「あっはは!私にはわからないよ。それか椛様の事を慕っているのかも」
「・・・」
正直この答えはわかっていたことでもある。楓は思い当たる節をいくつか頭に浮かべると、切ない顔つきになった。
結局のところ、楓は聡士郎を嫌う事に薄々限界を感じていた。最初のうちは大好きであった師匠であり姉の様な存在である椛を護衛と言う名目により取られた事は、許せないと思っていた。隙をみて寝首を掻くことも考えていた程である。
しかし時が立つにつれ、椛は聡士郎に対して態度を緩めて行ったし、聡士郎もまた椛をどこか大切な物を見るような目で見ていると、楓は感じることができた。
そう、椛は聡士郎を慕い始めている。理由が不明ではあるが、文が訪ねてきた時の話を楓は耳にして、確信したのだ。そして聡士郎も何処となく思わせる素振りを見せていた。
二人は護衛から慕い合う関係へと、変わり始めていたのだ。
なら、身内である自分はどうすればよいのだろうか。
結果は出ている。認めなければならないのだ。気にくわない奴であるが根は悪い奴ではないし、なにより実力は自分よりはるかに上である。
そこで楓は改めて、聡士郎の出したこの案を成功させようと思った。侵入者に対してどのように有効であるか分からないが、精一杯やろうと、心の中で密かに決意した。二人を応援することが、身内である以前に自分が今、できる事であろう。
何処か吹っ切れたような顔をすると楓は椅子から立ち上がった。
「そろそろ、僕は家に帰りたいと思います。土筆さんありがとうございました」
「え?お米はいいの?」
不思議そうに言う土筆を見て、楓は顔が赤くなった。
「あっ・・・忘れてました・・・。恥ずかしいな。えっと、お願いします」
「あっはは!ドジだねぇ!」
土筆は恥ずかしがる楓を見て、気持ちの良い笑いをした。
それからすぐに、店の中に入っていった土筆が戻ってきて、小さな麻袋を持ってきた。申し訳ない顔をしている土筆を見て、どうやら少しだけしか分けて貰えなかったのだろうと、楓はなんとなく感じた。
「ごめんよー。最近人里で物価が上がったらしく、これだけしかダメだって・・・」
「いえ、結構です。ありがとうございます」
むしろこちらが悪いと言わんばかりに、楓は頭を下げると懐から聡士郎の財布を取り出して、そこから金を取り出した。
「はい、ありがとね」
「こちらこそ。では本当に僕はこれで!」
楓は麻袋を縛るとそれを手提げ鞄に入れた。それから手を振って見送る土筆に軽く頭を下げると、双葉庵を後にした。
*
日が殆ど傾き、薄暗くなる道を椛は一人で歩いていた。
舞姫の稽古も、いよいよ大詰めである。一日の遅れは既に取り戻し、正式に舞姫候補として戻った椛は少なからず緊張を胸に抱えていた。
明後日には舞姫候補が決まるのだ。
正直、自分が選ばれる事はは無いだろう。遅れを取り戻したとしても、迅兵衛の言った通り、家系の問題で巫女にしかなる事は出来ない。そう、椛は思っていた。自分が復帰したことも、穏健派の駒を増やすためであるので、本命は恐らく林道桜であるだろうと見越していた。
だが、もしもの事を考えると、自分が舞姫となるかもしれないと淡い期待も、心の中にはある。だからこそ、微量ではあるが緊張しているのだ。
「しかし・・・本当に見張っているのでしょうか」
何気なく周りを見渡した椛は、ひっそりと呟いた。
聡士郎は確かに自分を見張ると言っていたが、どうにも気配を感じることはできなかった。昨日も家に帰れば、既に聡士郎は自室で刀の手入れを行っていたのだ。
勿論、聡士郎が嘘を付いているとは思えない。現に今もこうして見張っているだろう。
だが、どうにもその仕組みが分からないのだ。春吉の持ってきた古着、楓に自分の所持品を持たせて村中を歩き回らせる。そして自分も、聡士郎のキセルを持ち歩くように言われていた。
実は立案した内容を、聡士郎は詳しく教えなかったのだ。ただ、必要であることを椛達にまかせて、自分は後に行動を開始すると言っていた。
つまり今も行動しているのか、正直分からないのである。せめて何かしらの沙汰くらい教えてくれれば良いのにと、椛はため息を着く。
「あっ・・・楓」
俯いた顔を上げてふと正面を見ると、買い出しの帰りであろう楓が、重そうな荷物を抱えてゆっくりと歩いていた。姿相応の人の子と比べれば圧倒的に力は強いが、まだまだ子供である。一生懸命バランスを取って歩いている姿を見ると、椛はどこかほっこりとした気分になった。
「楓っ!」
「あっ師匠!」
荷物を抱えた状態でゆっくりと振り向いた楓は、椛の姿を見てパッと表情が明るくなった。尻尾を元気よく振っている事から、一人で帰るのに心細かったのかもしれないと、椛は思った。
「帰りですか?」
「はい!師匠も帰りで?」
「ええ。今日も疲れました・・・」
一つ息を付くと、椛はやさしい口調で言った。
「お疲れ様です!僕はお米を思うように買えませんでした・・・」
「いえ、松木様の分があればいいですよ。私たちはあまり食べないですし」
「そうですね!あいつは大食いだから自重しろってんだ!」
プンスカと怒る楓を、椛は慈愛に満ちた目で見ていた。血は繋がっていずとも、犬走家の養子であり、弟である楓は、椛にとって可愛いものであるからだ。
「ふふっ。松木様はあまり食べていませんよ。普通の人ならもっと食べると思います。きっとあの人、私達の手間をできるだけ省こうとしているのでしょう」
「えっ!?人間って食費が莫迦にならなさそうだ・・・」
「私たちはその分。お酒を飲みますので」
「あっ・・・そっかー」
納得したのか、ポンと拳で掌を叩くと楓は頷いた。
「さて、行きましょうか」
「あ、はい!」
先程の思いも抜けて、楓と椛の間には平和な空気が流れ始めていた。
二人は良い師弟関係である。師弟関係と言う物は様々であり、聡士郎の様に厳しくされることもあれば、楓の様に徐々に成長していく事を主流とするものも居る。どちらにも正解や不正解は、無いのである。
それからしばらく、楓と椛は話しながら家へと向かっていった。
このまま何もなく、家へと帰れるだろう。それに明後日に控えた舞姫候補の発表。椛は今、何処か警戒心が抜け落ちていた。
日は完全に落ちて、いよいよ夜がやってくる。
まだ目も、暗闇に慣れていない。
そんな絶好の隙を、見逃すはずがなかった。
ふと、風を切ると共にジャラリと金属のこすれる音が聞こえた。そして同時に、何かベチリと言うような音が、横から響いた。
その一瞬の出来事に、椛は何が起きたのか分からなかった。横に居た楓は弾かれたように後頭部から思い切り倒れ、その場で動かなくなった。
「えっ…」
椛は楓の倒れた様子を凝視するように目を見開いた。抱えていた荷物は散乱し、楓は目をうつろに開いて倒れている。
「えっ…あっ・・・っへ・・・?」
まだ現状を理解できないのか、椛はおどおどしていると、近くにそびえたっていた巨木から、ガサリと何かが落ちる音が聞こえた。
「・・・これで貴様一人だな」
そこには黒装束を着たその白狼天狗が立っていた。過激派集団、黒狼隊の陰爪である。
その姿を見て、椛はやっと、状況を理解した。
「過激派集団…黒狼隊!」
「そうだ。手前は鎖鎌の陰爪と申す」
椛の力なき問に答えると、陰爪は鎌と鎖を構えた。
そう、楓は鎖鎌による分銅の狙撃を受けたのだ。巨木の上、つまり高さを利用して、分銅はそのすさまじい威力をさらに上乗せしたのである。
「どうして…楓は…。楓は関係無いじゃないですか!」
叫ぶように椛は言うと、陰爪はそれを鼻で笑う。
「知った事か。そいつや衛兵隊の槍使いは、俺の嫌いな人間の臭いをまき散らしやがって…。不快にならぬものがどこに居る?」
「そんな…そんな事…」
ぎりりと、椛は歯を食いしばり陰爪を睨み付けた。
「貴様もバカだな。護衛もつけず、夜道を歩くなど…貴様は舞姫候補ではないのかな…?」
「それは過激派の…!?」
無意識から出た自分の言葉で、椛の頭に嫌な予想が走った。この状況を作り出した根本的な理由を辿れば、おのずとこの件の黒幕が浮かび上がってきたのだ。
「そうか…迅兵衛様とお前は!」
「さあ、どうだろうな?」
行きついた椛の考えを小ばかにするように低く陰爪は笑うと、「さて」と呟き表情を引き締め、鎖を回し始めた。
「今の貴様は丸腰だな…?」
「っツ…!?」
舞姫の稽古からの帰りである椛は、小刀しか持ち合わせておらず、ほぼ丸腰と言っても良い状態であった。もちろん、そのことを知ったうえで陰爪はあえて口にしている。
つまり、事足りているのだ。小刀一本では、鎖鎌に太刀打ちできるわけが無い。それに椛は武術を得意としている訳でもなく、いたって平均的であるため、勝てる可能性はほぼゼロだろう。
しかし、ここでやらなければ村を騒がす下衆を逃がすことになる。せめて一矢報いなければと、椛は覚悟を決めた。
帯刀している小刀を抜き放つと、椛は陰爪に向けて構える。
「む?、やる気か?」
「…やらなければ、天狗の未来は無い!」
集中して視線を向け、椛は構える。
だが、陰爪はまったくと言っていいほど隙が無かった。体に張り巡らせている感覚と言う名の線が、にじみ出ているのだ。
この陰爪も、かつてはこの村で育ったものであるのに、これほど違うのかと椛は自分に落胆した。
それに答えるかのように手足が震えだし、恐怖心が押し寄せてくる。
そんな椛を見て陰爪は呆れたように、息を洩らした。
「舞姫候補などさっさと辞退して、巫女として踊ればよかったものを…。つくづく貴様は莫迦者よ…。家で隠れておれば、怪我をすることも無いだろうに…」
見え透いた勝負に、陰爪は勝利を確信した。椛も全身が震え、もはや戦いにならないだろう。
だが、ふと後方から声が聞こえた。
「お主も出てこなければ、死なずに済んだかもしれぬな」
「むっ!?」
声を上げると同時に白刃が線を描くのを感じ、陰爪は地を蹴って上空へ飛ぶと、距離を取った。
しかし着地すると同時に、背中がぱっくりと開いていた。あと一歩遅ければ、体を真っ二つにされていたのかもしれない。
白刃を放った物の正体を突き止めようと、陰爪は正面を向く。すると、その正体に思わず目を見開いた。
「ふむ、避けるか」
そこに立っていたのは、ぼろぼろになった衛兵隊服を着た、聡士郎であった。
*
「何故…目を覚ましている!?いや…それ以前にどうやって俺の鼻を掻い潜った!」
陰爪は瞬時に鎖鎌を構えると、焦りを交えた声で聡士郎に問いただした。
「むう…。一度にそれだけ問われても困るぞ。まず、儂は三日前から目を覚ましていた。だがあえて伏せておいたのだ。貴様をおびき寄せる為にな。次に貴様の鼻を掻い潜ったのは、この服。そして、ワシの臭いをこの里にこびりつかせたためだ」
イヌ科の嗅覚は恐ろしく鋭い事はだれもが知っている事だろう。しかし、その嗅覚にも弱点があった。
たとえば警察犬は犯人の臭いをかぎ分け、居場所を探す際に使われる。しかし、犯人がいくつもの道を選択し、靴の下からくる匂いをこびりつかせば警察犬はその匂いに惑わされ、特定するのに時間が掛かってしまうのだ。それに加え靴底をポリ袋で覆えば、撒くことも可能であるという。他にも軍用犬は、川を使って逃げた敵兵を、追う事が出来ないと言った報告もある。
つまり、イヌ科の鼻は欺くことはできるのだ。
聡士郎は十手持ちの同僚である『笠間慶次』からその事を聞いており、実践したのである。自分の臭いがこびりついている物を権現村に歩き回らせ、さらには臭いがしみついている衛兵隊の古着を羽織ることによって、臭いをごまかしていたのだ。だからこそ、椛も気付くことができなかったのである。
「まさかあの男の豆知識が役に立つときが来るとは…」
自らの手を握り開くのを見つめ淡々と答える聡士郎を睨み、陰爪は今の状況を考えていた。
結論から言うと、このまま逃げるべきなのだ。松木聡士郎が目を覚ましている事を、迅兵衛に伝えなければならない。そして、再び次の策を考えるのが得策なのだ。
だが陰爪は嫌人派や穏健派など関係なく、白狼天狗のプライドとして許すことができなかった。天狗は必ず事を起こすときに覚悟を決める。それ故、いまさら逃げるなど出来るわけが無かった。
「…クソ。慢心したのが仇になったわけか…。しかし、これ以上長々と話す気はない」
「それは、ワシも同じだ」
吐き捨てるように聡士郎は言うと、椛に目をやって、楓を看病するように促した。椛はその意図を感じ取ると楓を抱え、端へと行く。
もちろんその一瞬の隙を陰爪は好機と捉え、回していた鎖を横へと放つと鎌を動かし、軌道を変えた。
放たれた分銅は弧を描くように、聡士郎の蟀谷へと飛んでゆく。その速度は正に高速である。
聡士郎は一瞬だけ反応が遅れたが、それを危なげに躱す。しかし、分銅の端が聡士郎の額をなめるようにかすり、軽く出血を引き起こした。
「むっ!」
「甘く見るなよ?俺とていくつもの修羅場を潜り抜けてきたのだ」
鎖を引きもどしながら、陰爪は言い放った。分銅が手元へ戻ると再びそれを素早く回転させ、何時でも放てるように姿勢を構えなおす。
鎖鎌の要となるものは、長さ十三尺(約四メートル)の長さの鎖から放たれるこの分銅だろう。回転させることによって分銅の攻撃力は数段に上がり、放てば音速の分銅が相手の骨をへし折り、仕留めるのだ。人間の頭など、すさまじい分銅の威力であれば容易に粉砕することも可能である。
それだけではない。鎖鎌の真骨頂は、その鎖にもあるのだ。鎖で足を絡ませれば、そこから引き倒して接近し、鎌でとどめを刺す。またに刀に絡みつけば、満足に動けなくなるどころか、その勢いに負けてもぎ取られ、分銅が刀身に当たれば、簡単に折れてしまうだろう
「恐ろしい武器だ…軌道が読めぬ」
聡士郎は冷や汗を掻きつつ低く呟くと、追風を右手に持ち、左手で衣川を抜刀した。迅兵衛とはまた違う強者、本気を出さなければ死ぬ。だからこそ二刀を抜いたのだ。
しかし、構えはいつもの不盾流とは大きく異なった。追風を右手で掲げ、衣川を青眼へと構えたのだ。それはかの剣豪が使った構えと同じく、上段と中段における構えである。
「不盾に構えは必要ないのではないのか?」
噂とは違う行動を見せた聡士郎を見て、陰爪は眉をひそめた。
「我が流派は二天一流の派生。それ故、元になった流派に従うまでよ」
「ふん。まあ良い。所詮は人間の編み出した流派だ!」
陰爪は大声で叫ぶと同時に、鎖を下段に放った。
鎖は地を這うように聡士郎に向かって、高速に飛んでいく。それを陰爪は器用に操ると、分銅は地面で跳ねて、聡士郎の顔を狙った。
聡士郎はぐらりと、後方に倒れるようにしてそれを危なげに躱した。あと数センチ顔が前に出ていたら、鼻をへし折られていただろう。
分銅はそのまま宙を舞うと陰爪は鎖を引っ張り、それを回収する。そして再び回転させ、何時でも放てるように身を構えた。
「まだ万全ではない様だな」
「…」
「だが、それは願っても無い事だ。椛と共に貴様も仕留めることができる!」
陰爪は今、高揚していた。
この勝負は勝てる。聡士郎はどうやら鎖鎌との戦いに慣れていない為、避ける事しかできないのだろう。こちらのペースに持ち込んで、確実にしとめなければならない。
陰爪はニヤリと笑うと、鎖を投げ飛ばし上空に浮遊させ、鎌を一気に振り下ろした。
伸び切った鎖はそのまま振り下ろした鎌に答えるかのごとく、風を切る音と共に、亜音速で聡士郎へと襲い掛かる。
聡士郎は若干身を屈めて追風を上空へ掲げると、それを防いだ。鎖はそのままの勢いで追風へと絡まると、カンッと軽い音がして、分銅が刀身へと当たった。
追風は絶対に折れぬ異刀。その性能に助けられた。普通は刀身に分銅が当たると、いとも簡単に折ってしまうのだ。
しかし、それを待っていたかのように陰爪は鎖を引っ張り、追風をもぎ取ろうとする。
そう簡単にはいかず、聡士郎は追風を脇へと座らせると踏みとどまった。そして暫く、ぎちぎちと鎖が鈍い音を立て、引き合いによる膠着が続く。
「人間如きが…なかなかの力を持っているな」
「伊達に剣を振っては…おらぬからな!」
「ふん。そうかい」
軽く陰爪は返事を返すと、ふと鎖を手放した。聡士郎は先程まで引いていた力が自分の体に跳ね返り、思わず体勢を崩し前のめりとなると、陰爪は一気に距離を詰める。
「なっ!?」
「死ねぇ!」
距離を詰めた陰爪は、素早く鎌を振り下ろした。鎌はまっすぐ聡士郎の首元へと振り下ろされたが、聡士郎は強引に衣川を前にだして何とか鎌を受け止めると、鍔迫り合いとなった。
「小癪なぁ!」
陰爪は力任せで衣川に鎌を押しつけた。前のめりであり不安定な体勢である聡士郎は、力のかけ具合で不利な状態になる。
だが聡士郎はその機会を逃さず、鎖が緩み自由になった追風の柄で陰爪の溝内を殴りつけた。予想しない攻撃であった為かひるんだ陰爪に追い打ちを掛けるように、蹴りを腹部に入れる。
「ぐおっ!」
声を立ててのけぞった陰爪に、続けざま追い打ちを掛け、追風を振るった。しかし、陰爪は軽やかに後転をして躱すと、再び距離を開いた。
「クソ!怪我人風情が粋がるなよ!」
距離を開くとすぐさま回転させた分銅を陰爪は放ち、聡士郎の左肩へと直撃させた。幸いにも威力はそれほど乗ってはいないが、バキリと鈍い音が体に響き、聡士郎は目を見開く。
「聡士郎さんっ!?」
椛は痛々しい聡士郎を見て思わず叫んだ。
この時、初めて椛は聡士郎を下の名前で呼んだが、気にもしなかった。
「ぐぐぐ…」
その声に答えるように、聡士郎は衣川を握り締めた。
ここで衣川を落としてしまったら、椛は心配するだろう。
だからこそ、涼しい顔を作り聡士郎は再び構えなおす。
気を保ち、自らに大事ないと言い放つ。
「ほお、よく耐えれるな。肩は上がらぬと思ったが」
「こんなもの、痛くもかゆくもないわ」
聡士郎は何事も無かったかのように、涼しい声で言い放った。
だが、実際は非情にきわどい状態である。ぎりぎりと肩から体へ響く痛みの音が、その重大さを現しており、腕を中段の構えまで挙げるのにも相当な激痛が走っていた。
非情に厄介な武器である。距離を取られれば分銅の攻撃が繰り出され、接敵すれば鎌で斬り掛かる。防御型の武器ではないが、読みにくい攻撃に突出した武器である鎖鎌は戦い辛く、勝つことは非常に厳しいだろう。
「次は確実にしとめる。覚悟はいいか?」
陰爪は低く呟くと、鎖を再び高速に回転させる。ひゅんひゅんと風を切る音が耳に入り、聡士郎は思わずぞっとした。
そんな聡士郎にふと、何かが走った。
――鎖の動き、分銅の動きに捕らわれるから、難しいと判断してしまうのではないか?
先程から聡士郎はうねるように操られる鎖と、高速に飛んで行く分銅ばかりに集中していた。だが見切る事が出来ず、こうして苦戦を強いられていたのである。特別目も良くなければ、鎖の速度に追いつけるような速度も無い。自分は鞍馬や霊魂修行の際に武芸者と違う。あくまでただの、人間であるのだ。
ならば、どうすればよいのだろうか。
その答えはすでに出ている。自らの形にとらわれてはいけない。
聡士郎は今こそ実践すべきだと、息を一つ吐いて覚悟を決めた。
「な・・・!?」
陰爪は聡士郎の取った行動に目を疑った。
なんと瞳を閉じたのだ。
そのあまりにも無謀。いや、莫迦けた行為に、陰爪は心底呆れた表情をした。
勝てる見込みがなく、あきらめたのか。それとも、何かしらの策だろうか。ともかく、瞳をつぶれば鎖鎌に勝つことはできなまいと、陰爪は心の中で呟いた。
「…血迷いおったか。もう良い、ここで死ね」
陰爪は迷わず、聡士郎の額に目がけて思い切り鎖を放った。
風を切って音速の世界を、分銅は進んでいく。もはや肉眼では捉えることのできない速度である。額に当たれば、間違いなく頭蓋骨を破壊し、脳みそをぶちまける事になる。
だが。
――そこか。
聡士郎は紙一重で足を捌き、体を斜めに動かすとそれを避けたのだ。そして分銅とのすれ違いざまに、左手で持っていた衣川を振り下ろし、鎖を絡ませた。
――鎖を封じれば、もう怖い事はあるまい。
ゆっくりと衣川から手を離し、瞳を閉じたまま追風を両手で持ち替えると、聡士郎は陰爪に向かって地を蹴り一気に加速する。
「なっ!?」
陰爪が思わず発した言葉と同時に聡士郎は風を、いや音速の壁を切る速度で、袈裟切りを放った。
刹那。ガキィンと金属がぶつかり合う音が周りに響いた。そして同時に赤い血しぶきが、椛の顔に付着したのだった。
*
ドサリ。と、陰爪の肩から腕が地面に落ちた。切れた腕の切り口から先程まで通っていた赤い鮮血が地面を濡らし、血だまりができる。
「ば…莫迦な…鎌の刃ごと…俺の腕を切り捨てるとは・・・」
目をギラギラと迸らせ陰爪は切られた肩を抑えつつ、途切れとぎれに口を開いた。
聡士郎の放った袈裟切りは鎌の刃を容易く絶ち、そのまま勢いが落ちずに陰爪の右肩をも絶ったのだ。切り口にまったくと言っていいほど美しく歪みない事から、まさに寸分たがわない一閃であったのだろう。
陰爪はおそらく、もう長くは生きられない。抑える掌の隙間から決壊したダムの様に鮮血が溢れだしており、ひゅうひゅうと呼吸は荒い。
もって数分と言った所か。
「ゔぅぅ…ぐっ…ごぉぉぉぉ…。ハッ…ハアハア…」
突如唸りだし、陰爪は表情をきつくしかめた。おそらく切られた際に出る脳内麻薬が切れはじめ、体全身に痛みが回ってきたのだろう。
その痛々し陰爪の姿を見て、椛は思わず目を逸らした。同種族であるが故、目も当てられなかったのだろう。
一方、聡士郎は目を逸らさず、ただじっと、無表情で見ていた。
「…身内を襲った事をワシは許さん。だがこのまま放っておくのは、貴様も辛いだろう」
「なっ!?…貴様…ゔっ…ここで楽にしてくれると言うのか…?」
「ワシが倒してきた妖怪たちは、たとえ下衆であっても楽にしてきた。恩を着せるわけではないが、その方が成仏してくれるとワシは思う」
苦しみに交えた心底驚いている表情を陰爪はすると、聡士郎の言葉を鼻で笑った。
「ふん…よせ…。俺が小さく見えるじゃねぇか…。天狗は情に弱いんだよ」
もはや瞳も散漫とし、死ぬ寸前である陰爪は、唐突に口を開いた。
「最後の言葉だ…。迅兵衛様に気を付けるんだな…ぐっ…あの人は俺が死んでも…密かに計画を…続けるはずだっ」
「計画…?」
「詳しく…知らねぇ…。へへっ…だがこれで、貴様には借りがなくなったな」
「…あいわかった。鎖鎌の陰爪…あっぱれな男よ」
「そいつはどうも…」
陰爪が返事を返すのを聞くと、聡士郎は静かに追風を構えて横に振り、陰爪の首を跳ねた。
首はそのまま宙を舞い、地面に落ちた。その時の陰爪の顔は満足げな表情であった。
「陰爪よ…お主との戦い…意味のあった物だ。感謝するぞ」
先程のけ切りを思い出しつつ、聡士郎は追風に付着した鮮血を振り払うと、おもむろに帯刀した。
「そ、聡士郎さん!」
陰爪の仏に手を合わせていると、椛が名を読んで、聡士郎は振り向いた。そして悲しそうな表情をしている椛を見ると、居てもたってもいられず、彼女の元に歩み寄る。
「大丈夫だったか!」
「それよりも…楓が…楓がッ!」
静かに眠る楓を見て、聡士郎は彼の息を確認する。幸いにも心臓は止まっておらず正常に動いている。どうやら命に別条はなさそうであった。
「…大丈夫だ。生きている」
額の傷を見てみると、分銅はどうやら頭蓋骨を砕いておらず楓の額を割っただけであった。犬童杏と言う天狗や山道家の舞姫の事例から、おそらく陰爪は、無駄な死人を出さずにいたのだろう。
「頭部の衝撃により気を失ったのだ。時期に目を覚ます」
「本当ですか…?」
月の光に照らされ、泣き出しそうな顔をしている椛を見ると。聡士郎は頬を若干赤くして顔を逸らした。不謹慎であるが、泣きながらの上目づかいはどうやら聡士郎にとって相当な威力であったようだ。
「あっ・・・ああ、だから安心しろ」
ぎこちないが優しい声で聡士郎は言うと、椛の肩を軽くぽんぽんと叩いた。すると椛は肩の叩いた掌を握って、頬を当てた。
「聡士郎さんに言われると…自然と安心できますね…」
「そうか…。そうなのか…?わっ…ワシも椛に頬ずりされると…そのだな…」
何か返事を返そうと思ったが、何も出てこない。聡士郎は今、緊張で頭が回らなかった。
ほんの数秒であったが、彼らにとって長い時間が過ぎた後、聡士郎は何処か覚悟を決めたような顔をして立ち上がると、衣川を拾い上げた。
「ワシの流派はもう不盾流とは呼べぬ」
「どういうことです?」
椛は楓に寄り添って、意識が回復するのを待っていたようで、聡士郎の言葉に疑問を投げかけた。
「我が不盾流は盾が無くとも身を守れる流派であった。だが、ワシはこの戦いを終えて一つ気づいたことができたのだ。ワシの剣はもう自身を守る剣ではない」
「えっと…つまりどういうことでしょう」
意味が分からず椛は首をかしげると、聡士郎は振り向いて、椛の瞳をまっすぐ見た。
「ワシの剣は…ワシの守りたいものを守る剣になったのだ」
「あっ・・・」
「ははっ…臭い言葉だ。ありきたりでもあるな。正直言っている自分も恥ずかしい。だがな、もうこの流派は不盾流ではないのだ。ワシの守る者は椛だ。そのためには守りに徹しず、時には自ら攻撃する。二刀だけではなく、一刀も極める。そうだな…今日からこの流派を…」
ふと言葉を区切り、聡士郎は頭上に光り輝く月に衣川の剣先を向けると、再び口を開いた
「盾無流と名付けよう」
「盾無…ですか?」
「ああ、とある武将が着ていた鎧から取った名前だ。矢を弾き、剣を防ぎ、槍をも防いだと言われている。まさに鉄壁の鎧だ。そう、ワシは椛の鎧だ。御前を守る為、ワシは全身全霊を掛ける」
聡士郎は椛に笑いかけて言うと、衣川を帯刀したのだった。