Gate/beyond the moon(旧題:異世界と日本は繋がったようです)   作:五十川タカシ

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今回は海苔緒×ミュセル回です。


第十七話「夜半の交錯者たち。または君の隣で変わっていく」

「はぁ……、やっと一息つけた」

 

 海苔緒は屋敷に宛がわれた部屋のベッドに横たわり、大きく息を吐いた。疲れを知らぬ彼の相方アストルフォは光流とすっかり意気投合して、今頃は彼が制作したドレスやコスプレ衣装を見学している最中だろう。

 海苔緒はつい先程まで光流からの質問攻めに遭っていた。

 サーヴァントであるアストルフォのこととか、魔術とか魔法についてとか、魔法少女の扮装についてとか、化粧品は何を使っているかとか、質問は多岐にわたる。

 慎一の話や海苔緒自身の事前情報(げんさくちしき)からも分かることなのだが、どうやら綾崎氏は少しばかり中二病の気があるらしい。

 世間に対して斜に構えたような発言をよくするらしいとのことから高二病のようにも思えるが、自分手製の絢爛ドレスを纏って時々呪文めいた詩的な発言をしたりすることから鑑みれば本質的には中二である。

 さらに云えば……光流氏が自分手製のドレスを身に纏っているのは女性への変身願望というよりオタクである両親の影響が濃く、自分を美しく着飾っていたいだとか、その姿で他者を驚かせ自慢したいとか、そういった欲求の表れなのだろう。

 彼もまた慎一と同じくオタクのサラブレッドなのだ。

 アミュテックに着任した当初の行き過ぎた商業主義的やり方は、生き残りがシビアなアマチュア同人作家をずっと続けてきた両親を間近で見てきたことが起因するとも考えられる。

 そんな光流であるからこそ、リアル中二病の権化のような海苔緒に出会ってテンションが上がるのは無理からぬ話だ。

 対して海苔緒は酷く滅入った。別に光流が悪いわけではない。色々と質問されるのは才人に慎一、加えて伊丹とのやりとり等で慣れてしまった。

 気が滅入る原因は、光流を見ていると自分の今の姿(ほんしつ)を鏡に映されたかのように感じるから。

 つまるところ――女装、中二、常人離れした容姿等といった現在進行形で黒歴史を築き上げている最低系要素満載の己を否が応にも再確認させられ、海苔緒は身悶えしてしまうわけだ。

 もしも過去(転生前)に戻れるなら、己の頭を業務用冷蔵庫の角で殴打したいと何度思ったか分からない。

 確かに海苔緒は過去にそういった所謂最低系主人公が活躍する小説を多少の自己投影を交えつつ嗜んでいた時期があった。

 だが、それは誰しもが一定の期間に発病する麻疹のようなものである。

 ――例えるならアメリカの青少年が、歌詞の中で『金、暴力、セ●クス、後ついでにドラ●グ』について連呼するヒップホップスターに憧れるようなものだろう(偏見)。

 けれど、実際にそんなるモノになってしまうと余計な気苦労を背負い込む羽目になる、と……海苔緒は文字通りに身をもって知ったのである。

 幸いにも光流の質問が『なんの化粧品を使っているか?』を辺りになった所で話の矛先がアストルフォに逸れてくれた。

 ちなみに海苔緒は生まれてこの方化粧などしたことがないし、興味もない。その旨を光流に告げたところ……『まさか天然、ノーメイク!』と大変驚いていた。そこでアストルフォが『ハイ、ハーイ! ボク、興味ありまーす!!』と声を上げたのだ。

 アストルフォは海苔緒との同居生活の一時期、化粧品に類するものを買っていたが……すぐに飽きてしまった様子で今は使っていない。

 ――いや、そもそもサーヴァントに化粧が必要なのだろうか……と考えてしまうが、食事と同じく嗜好品のようなものであり、必要なサーヴァントには必要なのだろう(葛木さん家の奥様とか)。

 それからはアストルフォに乗せられ、調子を良くした光流がアストルフォに自己流の化粧の仕方などを自慢げに語っていた。

 綾崎氏が他人に期待されると応えたくなる性質なのは海苔緒も聞き及んでいたが見ていた限り、どうやらおだてられるのも弱いらしい。

 最終的にはアストルフォと光流は服に関する話を始め、光流が自作した服飾を見たいという話となり、アストルフォは光流の自室へと見学に行った。

 こうして手持無沙汰になった海苔緒は部屋に荷物を置いて休憩を始めたのである。

 

「しかしまさか弟子にしてくれ……って云われるとは思わなかったぞ」

 

 

 ベッドに横たわる海苔緒は誰に聞かる訳でもなく、ぼやくように呟いた。

 海苔緒は質問の途中で光流に、自分に魔術を教えてほしいと頼まれたが丁重にお断りした。まぁしかし……仮に教えたとしても、魔術回路を持たない光流では海苔緒の使う魔術は扱えないのだ。

 海苔緒は今の所、魔術回路を持った人間に会ったことがない。そもそも前提として魔術基盤等がなければ、魔術回路も無用の長物のはずなのだが、どうやら海苔緒の体はそれすらも代替しているようなのだ。

 けれど代替出来ないものもある。例えば担姫のアンジェリカ……ではなくチャイカの機杖(ガンド)がなければ、アルトゥール王国系統の魔法は使用できないし、ルイズやティファニアの扱う虚無も模倣出来なかった。

 虚無に関しては海苔緒が無理に発動しようとすると、ポンと小さな破裂音が発生するだけである。

 これは海苔緒自身の推測だが、おそらくはルイズの失敗魔法に似た現象なのだろう。

 虚無を行使する上で欠けているピース、それが何であるかを、原作知識を持つ海苔緒は大体の見当がついていた。

 ただもしも……ソレを万一手にした海苔緒が虚無の魔法を行使出来たとしたら、また一つ厄介事を背負うことを意味する。

 

(……いや、今更一つ二つ増えても大差ないか)

 

 ――まぁ、なるようになるだろうとベッドに横たわった海苔緒は浅い眠りにつくのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 しばらく休息は取った後は、屋敷での夕食となった。

 階級社会であるエルダントでは本来使用人と雇用主が共に食事をとるといった習慣はないのだが、屋敷の主である慎一の方針により、全員で食事をする決まりとなっている。

 すなわち慎一、光流、美埜里さん、ミュセル、エルビア、ブルーク、シェリス、加えて海苔緒とアストルフォの、大所帯での食事である。

 ただ食べるものは皆同じではない。獣人であるエルビアやリザードマンでブルークやシェリスは味覚や消化器官の構造が異なるため、人間の食べるものが体に良くなかったり、単純に口に合わなかったりする。

 エルビアの食事は慎一たちが食べている物と見た目は大差ないが味付けは大分薄く、ブルークやシェリスなどは火の殆ど通っていない生肉や新鮮な果物などを食していた。

 無論、海苔緒とアストルフォは慎一と同じものを食べている。

 ファンタジー世界ということで海苔緒は無意識の内にヨーロッパ風の食事を想像していたのだが、出された食事はそれとも毛色が違った。

 ゆで卵の蜂蜜漬けなど……海苔緒は初めて食べたが意外なことに思いのほかおいしい。蜂蜜がいい具合に中まで染みこんでいて、黄身は栗のような味がした。

 ……侮りがたし、エルダント料理。

 海苔緒だけではなく現代日本のグルメを堪能して舌が肥えたアストルフォも、ミュセルが作った料理にご満悦の様子だ。

 海苔緒はミュセルの料理に舌鼓を打ちつつ、ミュセルを嫁に貰う人間はさぞ幸せであろう……と、慎一の方に目を向けた。

 

「うん、久し振りにミュセルの料理を食べたけど、やっぱり美味しいよ。何かホッとする味というか……毎日食べたくなる味だね」

「はい……ありがとうございます、旦那様」

 

 慎一の言葉にミュセルは幸せそうに顔を赤らめる。これで慎一本人は全く自覚がないというのだから性質が悪い。まさに天然タラシだ。

 美埜里さんは衣装の話で盛り上がるアストルフォと光流に釘づけであった。さきほどから御飯ばかりを口にしているが、おかずは後に食するタイプなのか?

 ともかく食事の時間はゆったりと過ぎていった。

 その食事の後は、アストルフォに着替えのパジャマと歯磨きの用具を渡し、海苔緒は慎一に多少遅れて屋敷の広い浴場で汗を流した。

 そしてベッドに入って就寝。アストルフォは隣の部屋であるし、気配がないのでまた綾崎氏の所だろう。

 慎一にやたらと気を使った言い回しで『紫竹さんはやっぱりとアストルフォと一緒の部屋がいいかな?』と意味深に聞かれたが、別々で良いときっぱり断っておいた。

 本当なら就寝前に日課の読書をとも思ったが、色々あって精神的に疲れていたので蝋燭の灯りを消してそのまま布団を被り……窓に映る半月をぼんやりと眺めながら、海苔緒はゆっくり眠りについた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――ふと、目が覚めた。

 エルダントの時間に合わせて大まかに調整した腕時計を確認すると時刻は十二時を少し過ぎたばかり。

 海苔緒は瞼を擦りながら喉の渇きを覚える。しばらくして思考の鈍りは抜け、厨房に水差しが置いてあること思い出した。

 海苔緒は体をベッドから起こし、食堂へ向かう。

 ……がその途中、二階の窓越しに……屋敷から外へ出ていくアストルフォの姿を見かけた。

 海苔緒は少し考えて……念話を通じて声を掛けておくことしてした。

 

(どうしたアストルフォ、夜の散歩か?)

 

 突然経路(パス)を開いて話し掛けたので、外のアストルフォも思わず体をビクつかせる。

 

(うわ! ノリ、起きてたんだ)

(屋敷の二階からそっちを見てる。一体どこに行くんだ?)

 

 海苔緒が大まかな位置を伝えると、すぐにアストルフォは屋敷の二階から手を挙げている海苔緒を見つけ、手を振り返す。

 

(いい感じの泉があるって聞いたから――ちょっと水浴びに、ね)

 

 海苔緒は強化の魔術によって己の視覚を強化すると……夜闇の中でぼやけていたアストルフォの姿が鮮明となった。片腕に何か抱えていると思ったら、どうやらタオルと着替えだったようだ。

 そういえば、生前は風呂よりもこういった行水で体を清めることが多かったとアストルフォは云っていたから、懐かしくなったのだろう。

 アストルフォは海苔緒がはっきりと自分を視覚に捉えていることに気付いたのか、茶目っ気たっぷりにウィンクをして、

 

(ノリも一緒に……水浴びする?)

 

 思わず海苔緒は噴き出した。

 

(ば、馬鹿ッ! 何云ってやがるッ!!)

(冗談だよ、冗ぉーー談! じゃあ、行ってくるね)

 

 海苔緒は反応を楽しんだ後、元気に手を振ってからアストルフォは屋敷の郊外の泉へと向かっていった。

 

「くそっ! 人のことからかいやがってッ!!」

 

 少しばかり頬を赤く膨らませながら、海苔緒は足早に厨房へ向かった。

 

 

 

 

 

「……あれ、厨房に灯り?」

 

 一階の奥にある煉瓦造りの厨房の扉の近くまで辿り着くと、扉の隙間から灯りが漏れていた。灯りの色合いからいって電灯ではなく燭台の灯りだ。

 消し忘れ……ということはないだろう、蝋燭の火をそのままにしておけば火事のおそれもある。

 さらに厨房の前まで近づくと、隙間から鉛筆かシャーペン等で紙に何かを書き綴る音が聞こえてくる。

 海苔緒はおそるおそる扉をノックして声を掛けることにした。 

 ……トン、トン、トン。

 

「誰か厨房に居るのか?」

 

 するとたちまちに椅子から立ち上がる音が厨房から響いた。

 

「シタケ様ですか」

 

 扉を中から開いたのは……屋敷の使用人であるミュセルであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……どうぞ、水でよろしかったでしょうか」

「ああ、うん。ありがとう……ミュセルさん」

 

 厨房内の適当な椅子に座った海苔緒はミュセルが水差しから注いでくれたコップの水に口をつける。

 ミュセルは屋敷に帰って来たばかりだというのに、こんな真夜中まで日本語の書き取りの学習をしていたそうだ。

 ミュセル曰く自室より厨房で勉強する方が集中出来るのとことで、仕事を終えた後にここで時々自習をしているらしい。

 厨房の調理器具は隅に退かされ、机替わりにさえた調理台には小学生の頃を海苔緒もお世話になった漢字ドリルと、びっしり細かい字で隙間なく漢字が書かれたノートが置かれている。

 使い込まれたノートの書き込み具合からも分かることだが、ミュセルの日本語学習への熱意は並々ならぬものがある。

 元々ミュセルは読み書きが出来なかった。エルフの商家の生まれである彼女だが、ハーフエルフであったことから幼い頃に母親から引き離され、市民権を得るためにずっと軍籍に入っていた。

 エルダントの軍の調練の中には読み書きの学習というものが存在しなかったため、ミュセルは教養を学ぶ機会がなく、最近まで文盲であったのだ。

 そんなミュセルを変えたのは、アミュテックの代表に任命されこの屋敷の主となった慎一だ。

 慎一が日本の言葉でミュセルの名前を書いて渡したことを切っ掛けとして、ミュセルは日本語の勉強を始めたのだ。

 彼女は使用人であり、一日中仕事があるため自分の貴重な睡眠時間を削って日本語の勉学に励んでいる。

 慎一もそれを分かっているからミュセルに最大限のサポートをしているのだが、それを加味しても彼女の日本語の習得のスピードは目を見張るものがあるだろう。

 

「やっぱり好きなんだな」

「はい?」

 

 小首を傾げるミュセルに対し、海苔緒をコップの中身を干して、

 

「……慎一のこと」

「――ッ!!」

 

 ポツリと呟くように海苔緒が告げるとミュセルはみるみる顔を真っ赤にした。

 

「シ、シタケ様ッ! 私は旦那様に! あの、そのッ!」

「いや、すまん! からかったりするつもりはないんだ。ただ純粋にミュセルさんにこんな想って貰える慎一は幸せだなと思って、つい口に出た。――忘れてくれ」

 

 慌てて海苔緒はフォローを入れた。するとミュセルは顔を少し俯かせ、

 

「ですが、本当に私はシンイチ様を想っていても、いいのでしょうか?」

 

 弱音にも似たミュセルの独白がポロリと口から漏れた。

 無意識の発言だったのか、ミュセルはすぐさま顔を上げて焦ったように己の言葉を否定する。

 

「いえ、すいません! 私の方こそ忘れてくださいッ!!」

 

 寝起きで頭がすっきりしているせいが、海苔緒はすぐにミュセルの発言の意図を吟味出来た。

 

(多分だが……自分と母親のこととか、ティファニアさんの母親の話を聞いて気にしてるだろうな)

 

 エルフであるミュセルの母親と人間である父親の愛は悲恋に近しい結末を迎えている。

 そしてティファニアの母親もエルフであり、父親であるモード大公は兄であるアルビオン国王ジェームズ一世に愛妾であるティファニアの母親のことが露見し、再三追放するように命令されたが、モード大公はこれを拒否。

 モード大公はジェームズ一世の命により投獄された後に処刑され、ティファニアの母親も隠れ家に潜伏していた所を発見されて殺されている。

 ミュセルはティファニアと大分親密になっていたから、互いの身の上について大方語り合ったのだろう。

 それを聞いた上、ミュセルは『自分が慎一に側に居ていいだろうか? 自分が原因で慎一を不幸にしてしまわないか?』と不安になっているのだ。

 余計なお世話だろうが、海苔緒は口を挟んでおくことにした。

 

「ミュセルさんは、もっと慎一のことを信じてやってもいいんじゃないか?」

「え、旦那様を信じる……ですか?」

 

 耳朶に触れた海苔緒の言葉に、ミュセルは目を丸くする。

 

「あいつは――慎一は、自分のことを『ただのオタク』だとか『一般人』とか、『モブキャラ』とかよく卑下にしてるけど、あいつほど凄いヤツはそうそう居ないと俺は思っている」

 

 確かに加納慎一はバトル物のラノベの主人公のような特別な能力はない。けれど慎一は己が意思とその在り方だけで、エルダントを変えてきた。

 かつてのペトラルカ皇帝は我儘で横柄で偏見に満ちた子供のような性格していた。彼女の偏見を取り払い、皇帝としての責務の意義と意味を自覚させ、良き皇帝、良き大人として道を開いたのは慎一であるし、ハーフエルフであるミュセルに『自分を卑下する必要はない。ミュセルはミュセルでいいんだ』と自信を与えてくれたのも彼だ。

 エルビアもまた慎一から多大な影響を受け、絶対に逆らえない存在であった姉――アマテナに逆らい、ずっと無理だと思った和解を果たせた。

 ブルークの心の奥で燻っていたもの火を付け、熱い心の内を発露させることでリザードマンが冷血で何を考えているかも分からない種族という偏見を見事打ち破り、エルダントにおけるリザードマンの種族全体の地位向上と妻であるシェリスとの絆を取り戻される切っ掛けを作ったのも慎一だ。

 慎一は『こんな道もあるんだよ』とエルダントの多くの人々に新しい可能性を示してきた。それ等は決して押し付けなどではなく、いつだって純粋な善意によるものだった。

 アミュテック支配人の肩書は飾りで自分なんて存在はいくらでも替えがきくと慎一は自虐を述べているが、今現在の慎一はもはやそんな存在ではない。

 今の慎一はエルダントにとっても、日本にとっても、掛け替えのない存在なのだ。

 だから――いくら特別な力を持っていても、ずっと何も変えられずに生きてきた自分とは大違いだ……と、海苔緒は心の底からそう思っている。

 

「ミュセルさんと慎一が一緒になって不幸になる未来が万が一待っているとしても、慎一はそこからきっと別の未来を見つけてくれる――って俺は思ってる。無責任な発言かも知れないが……だからミュセルさんはもう少し慎一のことを信じてやってくれないか」

 

(……って、何云ってるんだ、俺! 水の代わりに酒でも飲んじまったか。差し出がましいにも程があるだろッ! 俺なんかドム的な踏み台のモブがいいとこだってのに)

 

 オイオイ……と他人が突っ込みたくなるようなことを海苔緒は内心で思っていた。

 前世の記憶を取り戻してから実に十年以上もずっと自虐的に生きてきた海苔緒は、『所詮自分など物語の登場人物に例えるなら噛ませの踏み台転生者が関の山だろう』と考えが凝り固まって定着してしまっているのである。

 恥ずかしいことを云った反動で思わず煉瓦の壁に頭を打ち付けたくなる海苔緒だが、ミュセルは暗かった表情を明るくして海苔緒に笑みを浮かべた。

 

「ありがとうございます、シタケ様。少し気持ちが軽くなりました」

「ああ、そうか、それなら良かった」

「――シタケ様もシンイチ様と同じですね」

「え?」

 

 ミュセルの発言に、今度は海苔緒の方が目を丸くした。

 

「シタケ様も変わっておいでです。凄く変わっていて……凄く優しい方です」

 

 それは飛び切りのミュセルの笑顔だった。あまりに眩しく可憐な笑顔に海苔緒は己の顔が真っ赤になるのを自覚する。

 真面に顔を合わせられなくなった海苔緒は堪えきれず立ち上がり、厨房を出ることにした。

 

「ミュセルさん。お水、ありがとう。じゃ、俺はこれで」

 

(しかし慎一の影響は本当にスゲエな。周りに人間を巻き込んで色んなしがらみを過去のものに変えていってる)

 

 そこまで考えて、海苔緒の脳裏に懐かしい歌詞が浮かんだ。思わず冒頭のフレーズを海苔緒は自然と口ずさんでしまう。

 

「『当り前だった過去の――』」

 

 それを耳にしたミュセルは不思議そうな顔をして、

 

「シタケ様、今のは日本の歌なのでしょうか?」

「あ、その、あの……今のは俺が好きだったアニメの主題歌なんだ」

 

 海苔緒は少し考えて、そこまでは正直に答えることにした。

 

「そうなのですか? どんな内容なのでしょう、そのアニメは?」

「いや、見たのが大分昔のことだからな。内容はすっかり忘れちまった(・・・・・・・・・・)。じゃあな、ミュセルさん。――おやすみ」

 

 海苔緒は誤魔化すように会話を打ち切った。

 

「え、おやすみなさいませ?」

 

 そしてミュセルに背を向けたまま海苔緒は扉を開いて、厨房を辞す。

 少しばかり厨房から距離の離れた海苔緒は、か細く自分に云い聞かせるよう呟く。

 

「……そう、忘れちまったよ。昔の事なんて」

 

 海苔緒は背中に一抹の寂しさを滲ませながら、そのまま宛がわれた部屋に戻って就寝した。

 朝起きた時、枕が少々濡れていたとしても、きっとそれは……気のせいなのだ。

 




次回は慎一×アストルフォの予定。

では、

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