kurenai・bullet   作:クルスロット

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第七話

 「そっか、学校は楽しいか」

 

 真九郎と散鶴は湯気の立つ茶飲みと適当な茶菓子を間に置いて、世間話をしていた。互いに穏やかな笑顔を浮かべている。その様子はとても微笑ましく、仲睦まじかった。

 

 「うん、楽しいよ。勉強も楽しいし、友達もいっぱいだよ」

 

 楽しげにそう言う彼女を見て、真九郎も穏やかに微笑んでしまう。

 喜び。安堵。そういう感情が彼の中に広がっていた。

 先代の崩月当主、崩月法泉によって崩月家は裏世界から廃業した。けれども、散鶴にはその直系であり、その力を受け継いでいる。だから、その手の連中、裏の畜生共にとっては喉から手が出る程に欲しい人材だろう。

 けれども、彼女は平穏に生きてくれている。崩月の人間という裏との繋がりなど彼女には関係ない。彼女は極普通に、一般的な人の、誰もが望む人生を送ってくれている。

 これほど、嬉しい事があるか。

 真九郎は自分が成し得なかった事を成し遂げている彼女に、煌めく綺羅星の様な輝きに眩しさを感じながら、思っていた。

 嗚呼、これなら、自分は居なくても大丈夫だ。

 闇絵さん、この子は強いよ。

 だから、俺なんて要らない。

 俺なんて、彼女には要らないよ。

 そんな、酷い勘違いを真九郎はしていた。

 真九郎と対象的に、散鶴は彼の心情を読み取っていた。彼女が敏いというのもあるが、まあ、真九郎が解りやすいという所が大きいだろう。彼は、嘘だとか腹芸だとかの言葉の戦いが下手であった。年の功を重ねても、経験を重ねていっても、こういう事は最後まで上手くなれないのが真九郎という男を物語っていた。

 端に、不器用なのだ。他人に嘘を吐いたり、欺いたりができない。

 良い所でもあるが、彼が身を置く世界では致命的でもあるだろう。

 しかし、彼はこうして生きている。それは彼が成長している証拠であるし、嘘が吐けずとも、欺かなくともやれるだけの力がある証拠だろう。

 実際、先に上げた事に真九郎が不向きだったのは昔の話。

 今となってはそれなりの交渉事もこなせる様になっている。腹芸も覚えたし、上手い嘘も、欺き方も憶えている。

 ただ、今は。

 この忘れ果てて、失った日常の欠片に彼は酔っていた。

 故に、心の隙間は大きくなってしまっていたのだ。

 だから、散鶴に隙を見せてしまう事になり。そんな真九郎の、もう、取り返しのつかない所まで逝ってしまった心を見た散鶴は、彼に見えない位置で掌をギュッと握り締めていた。

 私は無力だ。

 彼女は無力を噛み締める。

 真九郎へ何を言おうが、何をしようが恐らく、無駄だろう。

 散鶴は悔しさのあまりに涙を流しそうになった。

 悔しい。私は彼の何にもなることが出来ない。彼を引き止めることも、彼の力になることも出来ない。

 彼に私の想いを告げても、無駄だろう。

 分かっていたことだ。彼の心はとうの昔に奪われている。奪われて、無くなったものを奪うことなど出来ない。

 二人の談笑は、長く長く続いた。

 何の他愛のない、進む事のない会話を二人は日が傾き始める頃まで、続けていた。

 

 「さてと、そろそろお暇しようかな」

 

 会話が一段落した時、そう言ったのは真九郎だった。既に腰を上げ、湯呑みを台所に運び始めていた。

 言葉を出す前に引き止めることを一瞬思考した散鶴だが、彼を引き止める言葉を見つけられなかった。

 そんな彼女の前で真九郎は手早く湯呑みやらなんやらを洗って、空になっている水切りカゴに並べていく。

 時間が無い。そう散鶴は焦る。そして、思考は高速で巡り、結論へ至るも、また、巡り、同じ答えに彼女は至った。

 そう、もう彼女に取れる行動は一つしか無かった。

 そして、即座に彼女はそれを行動に移した。

 

 「…………え」

 

 真九郎は背中に軽い衝撃が走ったのを感じた。柔らかく、暖かい何かが背中からぶつかって来てたのに彼は眉を顰めた。ここには二人しか居ない。散鶴しか、こんな事が出来る者は居ない。硬直した真九郎の胴を後ろから細く、シミの一つも無い真っ白で強く握れば折れてしまいそうな腕が回され、背中に柔らかい何かが押し付けられたのを感じて、真九郎は目を見開くしか無かった。

 背中の方へ少し無理をしながら、首ごと視線をやった。そこにはやはり、散鶴の姿があった。

 

 「――――お兄ちゃん」

 

 真九郎が何事かと彼女へ訊ねるよりも早く、言葉は作られた。

 

 「なに、散鶴ちゃん」

 

 いつもの呼び方で呼ばれ、真九郎は何時もと同じ様に彼女の事を呼んだ。

 

 「もう、お兄ちゃんって呼ぶのやめるね」

 

 どういう心境の変化だろうか。真九郎には分からなかった。言葉を発する事すら

出来ずに居た。

 

 「真九郎、さん」

 

 散鶴はそう、彼を呼んだ。彼女は自分の顔が熱く、炎を受けて、燃え上がっているかの様に熱くなるのを感じた。これも彼女にとっては大きな一歩である。それ故、言葉の端々には照れが混ざっていた。

 

 「私は」

 

 言葉を告げよう。胸に秘めた想いを告げよう。このまま埃を被るくらいなら、言ってしまおう。

 彼女は勇気を振り絞って、告げる。

 

 「真九郎さんの事が」

 

 言葉を挟んではならない。これは黙して受け止めなければならない。

 その時、彼は時が止まったのではないかと錯覚した。

 心臓の鼓動が聞こえた。自分のものか、散鶴のものか。分からない。けれど、激しく高鳴る鼓動を真九郎は確かに聞いていた。

 

 「――――」

 

 言葉は、確かに真九郎の心に届いていた。

 だが、タイミングが悪かった。

 もう少し、もう少しだけでも早ければ彼女は想いの丈を告げる事が出来ただろう。もしかすれば、共にあり続ける未来があったかもしれない。輝ける未来があったかもしれない。

 だけど、遅かった。

 それを覆い隠し、彼の心を確実に破壊する最悪がここに来襲したのだ。

 会ってはならず、居てはならない。死者は黙して大地に躰を還すべきである。

 どんな悲劇を迎えても、どんな未練を抱えても、どれほどの赫怒に身を焼かれても、その絶対法則だけは守らなければならない。

 死は、唯一にして、絶対である。

 だから、これは悪夢でなければならない。

 何かが割れる音がした。真九郎の視線が素早く、殆ど反射で音源へと向いた。それは窓。窓ガラスが砕け散っていた。

 

 「真九郎」

 

 それから、声がした。

 その声は、居てはならない、居てはいけない者の声。

 その声は、酷く近くから聞こえていた。

 真九郎は声の方へ、視線を下ろす。

 そこには。

 目を見開いて、口の両端から朱を零す散鶴の姿があった。目は、現実を捉え切れていなかった。何が起きたかも分かっていなかったのだろう。血色の良かったその顔が青ざめ、そして真っ白になっていく。命が消えていく様子を真九郎はその目に焼き付ける。見慣れた光景が其処にあった。見慣れたはずなのに、そのはず、なのに。

 スローモーションで、全てが動いているように真九郎には見えた。

 真九郎の胴に回された腕から、手から力が抜けた。背中に押し付けられた熱が急速に失われていく。人から肉塊へと変わっていく。 彼は、手の隙間から零れていく大切なものを前にして、呆然とするしかなかった。

 散鶴の膝から力が抜けた。そのまま、彼女は床に倒れ込んだ。真九郎のスーツに大量の血痕が付いていた。倒れ込んだ彼女から朱色が畳の上に広がり、それは畳に染み込み、赤黒い模様を造り出していく。

 

 「―-――浮気は駄目だぞ」

 

 また、声が聞こえた。

 居るはずのない声が聞こえた。

 そこでようやく、真九郎は声の方へと目を向けた。ここでようやく、真九郎は現実を直視する。呆けた思考が動き始める。スローモーションの世界から脳が復帰する。

 その姿は、あの日と変わっていなかった。

 腰まで伸びた艶やかな黒髪も、朱に塗れた陶磁器のように白い柔肌も、大きく、好奇心に光る瞳も。

 その笑顔は、あの時と何も変わっていなかった。

 真九郎の顔が歪む。ありえない現実を直視し、その顔はとてもじゃないが言葉では言い表せない程だった。

 最も強い感情を上げるとすれば、それは、怒りである。

 巫山戯た現実への、理不尽なこの世界への怒り。

 そして、彼は言葉を紡いだ。それは、今、目の前でその手を血に染めた者の名だ。

 護り抜くと、彼女の為に自らの両手が誰かの血に塗れようとも構わないそう誓った者の名を。

 しかし、その誓いは虚しく砕かれた。

 

 「嘘だ」

 

 真九郎は否定する。

 だが、これは現実だ。

 紛れも無い、醒めることのない現実。逃れられぬ現実だ。

 “それ”の手は、全身は朱に染まっている。

 真九郎の心が現実を認められない反面、頭は現実を理解していた。

 歯を食い縛る。限界まで、砕け散らんばかりの力を込めて。眦を吊り上げ、その眼を、真っ赤に染まりつつある眼を大きく見開いた。浮かぶ感情は灼熱の赫怒。両手はその手を壊すほどの力が込められている。

 真九郎が限界まで引き絞られた矢の如く放たれる寸前、彼はその場にしゃがみ込み、散鶴の首筋に揃えた二本の指を当てた。感じるはずの、なければいけない鼓動は指に伝わってこなかった。

 

 「…………俺のせい、だ」

 

 彼は、そう言い、彼女の見開かれたままの目の瞼を下ろした。

 なんだよ闇絵さん。結局、俺は後悔しているじゃないか。

 小さく、小さくで呟く彼の中に満ちているのは灼熱の怒り。そして、それすらも押し潰さんとする自責の念。

 そこで死ぬべきなのは自分なのに、何故だ。どうしてだ。

 思わず冷たくなった彼女の躰を強く抱きしめて、真九郎は堪え切れずに涙を零す。

 やっぱり、自分が居ると碌な事にならない。

 浮かび上がる言葉を否定しうる言葉を真九郎は持ち得ない。ただ、それを受け入れ、認める以外なかった。

 真九郎は抱きしめた彼女の躰をゆっくりと元の場所に戻した。今は、彼女の死への悲しみを吐き出す時ではない。今は、

 

 「外へ出ろ」

 

 目の前に居る、紛い物を討滅する。

 此処で、彼女の居る此処で殺し合う訳には行かない。だからそう告げた。

 言葉を受けた“それ”は小首を傾げて、真九郎に訊ねる。

 

 「何故だ? ここでいいではないか」

 

 駄目だ。そう自分に真九郎は静止をかける。けれど口は既に動いていた。そして、この胸の内で昂ぶり、放たれる事を待ち続ける感情が暴走するようにして噴き出た。

 

 「その声で、囀るな」

 

 形容しがたい怒りが殺意を伴い、。

 真九郎は限界だった。次に何かをこいつが言えば、今すぐにその躰を塵すら残さずこの世から消し去ろうと思うほどだ。

 その殺意を浴びた“それ”はそれ以上何も言わず、真九郎に背を向けると侵入口であろう窓から飛び降りていった。

 

 「…………ごめん」

 

 そう言い残し、真九郎はそれに背を向けた。誰に謝ったのか自分でも分からず、彼はそんな言葉を零していた。

 自らの拳を壊してしまうほどの力で、その両の手を握り締めながら。

 

 

 

 ***

 

 

 

 少女が一人居た。

 少女はとてもとても幸せな日々を送っていた。

 好きな人がいて、。好きな人を取り合うライバルが居た。

 笑い合い、冗談を交わし合う友達が居た。

 満ち足りた、日々だった。

 しかし、ある日突然、少女の日常は崩壊してしまった。

 気づけば、何時の間にか、少女は狂ってしまっていた。

 自分が狂った事にすら彼女は気づかず、唯、一心に、唯、心に浮かぶ一人の男を求めていた。

 好きな人を、初めて好きになった人を、彼女はずっとずっと求め続けていた。

 檻の中で、揺らぐ意識の中、彼女はずっとそれだけを思い続けていた。

 そんな何時ものように終わるはずだったある日。

 少女は開放された。

 少女は外へ、解き放たれた。

 そんな少女は、彼女を壊した異形《どうぐ》に出会った。しかし、彼女は壊されたことを覚えていなかった。

 それから、少女の前に一人の道化師(どうぐ)が現れた。

 少女へ道化師(どうぐ)は自らの名を告げ、君の好きな人のところへ行こう。と言った。

 少女は何の疑いもなく、その言葉を信じ、手をとった。

 それが道化師《どうぐ》ではなく、悪魔であることなど汁も識らず。

 ――――識っていたとしても、少女は欠片も気にしなかっただろうが。

 

 

 

 ***

 

 

 

 死者は黄泉帰らない。

 帰ってこれないから、終わったから死者なのだ。

 死は終わり。死は尊きもの。死こそが幕引き。全ての生あるものに訪れ、何の例外なく終わらせる。

 死こそは平等だ。誰であろうと迎え、誰であろうと享受するしかない。合間の時間を伸ばすことは幾らでも出来るだろうが、これから逃れることは不可能だ。

 逃れることが出来るなどというものがいれば、それはもう、生き物と言えないだろう。

 死があるから、生があるのだ。逆も然り。

 そして、死を迎えた者が起き上がる事は赦されない。

 人は死んだらそれまでだ。その後はもう唯の肉塊。想い出となって残り続けるだけ。

 だから真九郎は、死者の復活を認めない。

 死んだ人間は黄泉帰らない。

 それを識っているから彼はここに居るのだ。

 だから。

 

 「巫山戯るな」

 

 真九郎は怒りのままにそう吐き捨てた。

 死は、覆されてはならないのだ。そんな簡単に人は生き死にを決めてはいけないから。

 人の死を何度も何度も見、その手で生命を奪った事があるから真九郎はそう言える。帰らぬものを奪い、一つしか無い我が身の生命を守り続けてきた彼にとって、死者の起き上がりなど認めていいはずがない。

 そして、彼の目の前に居るのは、正しく生者への冒涜者だろう。

 つまり、死者。起き上がるはずのない、絶命者だ。

 

 「何がだ? 真九郎」

 

 “それ”の訊ねる声は彼女と同じ。故に、真九郎の中の怒りは昂ぶり続ける。

 

 「何処の誰だ」

 

 真九郎の声は怒りに震えていた。歯を剥き出しにして唸るように言葉を作る。

 

 「こんな事をしたのはッ……!!」

 

 彼女の姿を使い、彼女の死を冒涜した者達。その者達は鬼に喧嘩を売ったのだ。怒りに猛り、悲しみを復讐の炎に焼べる復讐鬼に。 臨界点など出会った傍から突破している。その顔を見た瞬間から、真九郎の心は殺意に溢れていた。その顔を、彼女によく似た、生き写しのような顔を肉塊に変え、直ぐ様に四肢を破壊し、細い首を乾いた小枝のようにへし折りたい。強烈かつ残虐な思考が彼の脳内を埋め尽くしていたのだ。それはもう、常人の考えうる思考を遥かに超えていた。ただの狂人には至れない域にその想いは到達している。人が辿り着いては行けない領域に、彼は居た。

 怒りに呼応して、彼の右腕の肘から純白の角が突き出、同時に、白い蒸気が噴き出た。角の根本に入った罅が広がっていく。

 歩み出す。前へと、死者をもう一度、終わらせるために彼は、拳を握り締める。

 “それ”は動かない。ただ、真九郎を見つめるだけだった。

 距離は縮まった。真九郎が拳を振り下ろせば、“それ”を肉塊へと作り変える距離になっている。

 そして、拳は放たれた。

 

 「――真九郎、会いたかった」

 

 彼を呼ぶ声とともに、拳が“それ”の眼前で静止した。もう、少し遅ければ“それ”の顔面は弾け飛んでいただろう。拳の衝撃が大気を叩く。巻き起こった烈風はそれの髪を大きく揺らした。

 

 「その声で」

 

 真九郎は震える躰を押えつけながら言葉を作る。

 

 「真九郎」

 

 目の前の“それ”を見る。見てしまう。見れば見るほどに覚悟が鈍る事が分かっているのにだ。

 “それ”の手が、真九郎の頬に添えられた。彼はその手を払い除けない。払い除けられなかった。

 

 「私は、真九郎の事にずっと言いたかった」

 

 やめてくれ。そう、言おうとするも真九郎の口は動いてくれない。まるで、金縛りか何かを受けているかのようだった。

 

 

 

 「愛している」

 

 

 ――――――――。

 その言葉は、真九郎の心へ入った亀裂を、致命的なものにするのには十分過ぎた。

 その言葉は、彼の背を押し、踏み越えてはならない一線の先へと踏み出させた。

 真九郎は今まで、復讐に駆られ、自らの躰と心を破壊しながら自滅へと全力で向かっていた。

 それは、彼の大切な者が壊されたから始まった悲劇である。それがもし、その前提が崩れたとしよう。

 死者が起き上がった。真九郎は死者の起き上がりなど認めないだろう。けれども、死者は黄泉帰り、彼の名を呼んだ。

 こうなった以上、彼は自らを破滅させることなどできないだろう。彼女の泣き顔など彼は見たくないのだ。

 ただし、“それ”がただ、黄泉帰っただけの話の場合だ。

 彼女は人を殺した。

 真九郎にとっての輝きを奪い去り、赦されざる罪にその手を染めた。

 当たり前の話だが、“それ”は、真九郎の識っている彼女ではない。

 その事実を前にした真九郎は、

 

 「――――黙れ」

 

 拳を振り下ろし、彼女の存在を否定した。

 その拳は躊躇いの欠片もなく、“それ”を殴り飛ばした。

 殴り飛ばした、というにはあまりにも威力がありすぎた。まるで、新幹線に真正面から衝突したかのような衝撃が“それ”の全身を強烈に叩く。“それ”は、錐揉みしながら凄まじい勢いで吹き飛び、古ぼけたコンクリート製の塀に衝突した。砕け、灰色の煙がもくもくと上がり、“それ”を灰色の帳で覆い尽くした。普通なら、この時点で即死だろう。

 

 「…………紫が」

 

 ぼそりと真九郎は言葉を作る。

 

 「人を殺せるわけが無いだろうが」

 

 静かな声は感情の色をなくしていた。

 極まりすぎた殺意と怒りは無色に成り果てて、真九郎の心を消し炭にした。残るは一つ。

 

 「あの子は、あの子は」

 

 言葉が上手く作れない。真九郎は内でバラバラに散らばった言葉を破棄して、拳を握った。そして、踏み出す。彼は歩き出す。その向かう先は勿論、“それ”がいる。“それ”は帳の中から這い出し、起き上がり、困惑を浮かべていた。

 真九郎は“それ”を見て、頑丈だなと言う感想しか抱いていなかった。そして、もっと力を込めなきゃ駄目かと反省して、さらに拳へ力を込めていた。呼応するように、角は脈動し、その根元に入る亀裂から蒸気が吹き上がる。

 誰がこんな事をした。

 彼は歩み寄りながら一周周り、冷静になった頭で思考する。

 

 「――――考えるまでもないか」

 

 答えは直ぐに出た。簡単な話だ。

 こんな自分の急所をピンポイントで狙い撃つ人間など、それを出来る人間など真九郎は、一人しか知らない。

 

 「星噛絶奈……!!」

 

 低く、唸るように真九郎は確信を込めてその名を呼び、“それ”の前に立って見下ろす。見上げる“それ”の表情に自分の中に生じた感情に、彼は虫唾が走った。彼の見つめるその目の奥、そこに映る彼の顔は酷く歪んでいた。

 拳は躊躇いなく振り下ろされた。

 感傷を断ち切るように、理性を感情で否定して。 

 だが、拳は届かなかった。

 何故なら。

 二つ、三つ、四つ、五つ。

 銃声とともに放たれた弾丸が真九郎へと無慈悲に飛来したからだ。

 即座に反応した真九郎は振り下ろされた拳の動きを変える。無理矢理向きを変えて、薙ぐように迫る弾丸を弾いた。

 

 「やあ」

 

 弾丸の射ち手は、歪な笑みを浮かべた仮面を張り付けた魔人、蛭子影胤だ。その手には悪趣味に改造された一丁の拳銃が握られている。銃口は勿論、真九郎へと向けられていた。

 

 「流石だね。完全に不意を突いたはずだったのに」

 

 称賛の言葉を受け、真九郎はまず、この男から対処する事にした。影胤の方へ、彼の躰が向く。

 

 「さて」

 

 影胤は仮面の奥の目を真九郎から“それ”に向けて、

 

 「私は忙しいんだ、お姫様のご希望にも答えたことだし、さっさと回収させてもらおう――――小比奈、斬っていいぞ」

 

 「はい、パパ」

 

 反応とともに、無造作な刃は真九郎へと振り下ろされていた。視線を向ける。そこには歓喜に嗤う怪物の姿。その剣速は疾い。しかし、脅威になるかどうかで言えば、

 

 「邪魔だ」

 

 ならない。小蝿を払うように真九郎は足を振り上げる。刃を蹴りあげ、無造作に開いた胴へ左の拳を叩き込んだ。連撃など必要なかった。小比奈は拳をまともに受け、吹っ飛んだ。右の拳には劣るが、十分以上の威力が篭っていた。殺せはしないだろうが、暫く動けないであろう。

 そして、即座に真九郎はそこから飛んだ。その場から無理矢理でもいいから離れようとした。

 先まで彼が居たそこに、鋭角に加工された力場が突き出される。回避を見た影胤は両の手に握っている拳銃を真九郎へと向けた。黄昏の闇を切り裂くマズルフラッシュ。飛び出した弾丸を真九郎も懸命に振り払うも、逃した銃弾が脹脛の辺りを削り取った。

 

 「チィッ!」

 

 舌を打ち、苛立ちを真九郎は零す。

 

 「私は」

 

 影胤は仮面の奥でその目を細める。そこに浮かぶ感情の色は黒。何の濁りもない、混ざりのない漆黒。その色が告げるのは排除の意思だ。

 そして、自己的な感情。今、彼がトリガーを引く要因の最たるもの。

 それは、殺意と嫉妬。

 

 「君が嫌いだ」

 

 また、銃のトリガーが引かれた。弾ける音と放たれる弾丸。弾丸には、明確な殺意と剥き出しの焼き尽くさんばかりの嫉妬が込められていた。

 

 「彼女の愛を受ける君が私は心底大っ嫌いだよ」

 

 訳がわからない。真九郎はそう思った。それから、また右手を振るう。飛翔してきた弾丸が破砕された。同時に、彼は影胤へ向けて踏み出す――が、黒の斬撃は彼の動きを阻害する。

 斬撃の方へ真九郎はちらりと視線をやる。残像のように空に線を描く赤い瞳が此方に向けられていた。真九郎の思った以上に、このイニシエーターは高い能力を保持していたようだ。直後、出鱈目かつ凶悪な刃が殺意をもって真九郎に飛ぶ。

 だが、そんな膂力と速度だけの刃に怯む真九郎ではない。彼はかつて、もっと理不尽で出鱈目な刃と死合っているのだ。この程度、いなし、がら空きの顔面に拳を叩き込む事など簡単な話だった。

 しかし、それは、相手が小比奈だけの場合である。

 両の銃剣が真九郎へと向けて振るわれる。鋭く、唸りを上げて虚空を斬り裂きながら迫る。それは真九郎の視界の外から襲ってきた。

 が、真九郎はそれすらも対応し切った。

 捌き、捌き、弾き、蹴り上げ、捌く――――。

 二人の長さも形も異なる四刃ニ双を相手に、真九郎はその肌を薄く朱に染め上げながら反撃に転じる隙を探していた。

 影胤の磨き上げられた戦闘技術、それに無邪気でいて殺意に満ちた縦横無尽の小比奈のコンビネーションはさしもの真九郎であっても舌を巻いていた。あまりにも息が合いすぎている――いいや、小比奈の圧倒的な運動能力と獣的な攻撃に影胤が合わせ、補助をしているのだ。コンビネーションというよりは一方的な援護。イニシエーターとプロモーターという関係性から言えば、この戦い方は正しくない、しかし、それ故に凶悪。この戦い方が彼らにとっての普通なのだ。現実、一般的な彼らの同業者達から見れば、これはコンビネーションとは言わないだろう。しかし、一線を踏み越えた者達からはその逆に見えるはずだ。彼らの練度はありえないレベルであり、その完成度が他の追随を赦さない。意思の疎通、アイコンタクト。まさに阿吽の呼吸といった調子で彼らは前述してあるものを一切必要としない。

 言わずとも、見ずとも分かる。それは共依存の上に築かれた凶悪無比の戦闘技能(コンビネーション)

 それを踏まえた上で、この二人はプロモーターとイニシエーターとしての最上、完成形と言えるだろう。

 故に、真九郎は攻勢に出れずに居た

 真九郎は苛立ちを募らせる。それを察知したかのような影胤による胸へと向け放たれた刺突を手の甲で逸し、次に来た銃撃を反射のまま横へ飛び退ることで回避。その先に待ち構えていた小比奈の二撃を蹴り上げた。そのまま、小比奈へ右拳の一撃をお見舞い――とそこへ影胤に再度の銃撃だ。真九郎は蹴りをキャンセル。一つ弾丸を弾き、もう二つをそこからまた横へ跳ぶ事で回避した。

 真九郎は歯噛みする。

 今直ぐにでもやるべき事があるのに、立ち塞がり、邪魔をする障害を取り除けない自分の不甲斐なさに、彼は唾を吐き捨てた。

 影胤と小比奈が並ぶ。真九郎はそれを睨み、その背後から見つめる“それ”には、二人へと向ける敵意とは一線を画するものを向けた。 

 

 「蛭子影胤ッ! “それ”は、“それ”はなんだッ!!」

 

 真九郎の問に、影胤は、込み上げてきた嗤い声を抑える事が出来なかった。

 

 「何を言う、分かっているだろう?!」

 

 まさか分からないはずがあるまい、そう言い、また、影胤は嗤う。不気味に低い声で心底可笑しそうに。

 

 「君が、君のお姫様の事を忘れるはずがない!!」

 

 「巫山戯たことを抜かすなッ!」

 

 怒りのままに真九郎は大きく横に腕を振るって、叫ぶ。

 

 「“それ”が、そんなものがあいつのはずがないだろうッ!!」

 

 それに……そこで言葉を止めた真九郎は、、怒りに震えながら低めた声で言葉を放った。

 

 「彼女は、俺の目の前で星噛絶奈に殺された」

 

 黒い、形容しがたい不可視の何かが真九郎から噴き出る。

 それは感情の発露。

 出力したのは勿論、『角』だ。根本に入る亀裂は深く、噴き出る蒸気は、大気を焼き焦がし、景色を歪ませる。

 そんな真九郎の怒りを前にした影胤は、仮面の奥の口を大きく歪ませた。三日月の様に、引き裂かれた様に。

 

 「何を言っている」

 

 一拍置き、酷く可笑しそうに影胤は言う。

 

 「彼女は殺してなどいないよ。あの時、彼女は誰も殺していない。あれはね」

 

 影胤は愉しそうに、愉しそうに言葉を作る。

 

 「内ゲバ、内乱、そういうどうしようもない欲に駆られた馬鹿どもの起こしたも

のなんだ。それい巻き込まれ、君のお姫様は死んだ。彼女はお姫様を殺してなどいない」

 

 「下らない妄言を吐くな!!」

 

 真九郎は怒りのままに、影胤の言葉を否定する。

 

 「そんな訳があるものか! 俺はあの時、あの後、ずっと情報を集め、星噛絶奈を探し続けてきたんだ。その中に、そんな話は無かった!」 

 

 それに、と真九郎は言葉を続ける 

 

 「俺は見たんだ。あいつが、星噛絶奈が、血に濡れた紫を抱えているのを見た! 

 それにあの女は、星噛絶奈は九鳳院紫を殺したと肯定したんだ!!」

 否定を。否定の言葉と材料を探し、手繰り寄せ、真九郎は叫ぶ。叫ばなければならないのだ。そうしなければきっと真九郎の心に致命の傷を刻み込まれるから。

 

 「君は殺す対象の言葉を安々と信じるのかい? だとしたら滑稽だな」

 

 キヒヒと嗤い影胤は言葉を続ける。

 

 「まあ、彼女への復讐のみを考えていた君が復讐をやめる事など出来ないものなぁ? どう言われようが、認めようが認めまいが」 

 

 影胤は嘲笑う様に、真九郎へ嘘か真か定かでない言葉を繰り出す。

 

 「私としてはこのまま、復讐しに来てくれる方が楽だからね、これ以上は何も言わないよ」

 

 クックックと低く特徴的な嗤い声を上げ、影胤は仮面の奥のその目を大きく見開いた。そこに浮かぶは愛と血に酔った狂気。

 

 「恋敵は要らないからね」

 

 そう言い、目の前の“それ”へ手を差し出した。隣の小比奈が少しムッと頬を膨らませる。

 

 「さて行こうか」

 

 “それ”は差し出された手を見、どこか不満そうながらも頷き、

 

 「またな、真九郎!」

 

 と真九郎へ瞳に薄く涙の膜を貼りながらも、満面の笑みを見せた。

 その時、真九郎の頭の中で、何かが引き千切れた音がした。

 

 「――――蛭子影胤」

 

 真九郎は、“それ”を震える指で差し、問うた。これだけは、訊かなければならない。そう真九郎は思った。

 それがどれだけ厳しく不条理な現実であろうとも。その事実を確かめなければならないと彼は、もう一度同じ言葉を放った。

 

 「“それ”は、何だ?」

 

 「まだ訊くか」

 

 背中越しの声に嘆息を吐き、影胤は答えた。

 

 「九鳳院紫。

 君が死んだと勘違いし、人の手で壊されたかつて人間だったものだよ」

 

 「――――なんだよ、それ」

 

 愕然とした表情の真九郎へ、影胤は「君も識っているだろう?」と言って、再び、真九郎の方へ振り向いた。影胤は愉しそうに、言葉を放った。

 

 「人は、何処までも残酷だ」

 

 言い放ち、影胤は真九郎へ背を向けた。“それ”、否、紫を両腕で抱えると、不満そうな小比奈を連れてそこから去っていった。

 

 「紅真九郎、君はそれを身に沁みて識っているはずだ」

 

 真九郎は、遠くなる影を追えなかった。

 告げられた言葉の真偽を確かめるにはあまりにも真九郎は識らなかった。

 復讐に囚われ、狭まった視界が生み出した結果、というほど彼は愚かではない。

 ならなにが原因か。

 影胤が、絶奈か。分裂を起こした九鳳院か。もしくは真九郎が悪いのか

 答えは誰も教えてくれない。答えを見出すことも出来ない。

 真九郎は、ただ、そこに立ち竦んでいた。

 太陽が地平の彼方に消え、闇の帳が世界を覆い尽くした。

 それから、数分。

 真九郎は覚束ない足取りで、部屋に戻っていた。

 其処には変わらず、温かさを無くし、もう笑うことのない彼女が横たわっていた。

 

 「ああ」

 

 滂沱の涙が零れ落ちる。止められない。

 嗚呼、なんだこれ。なんなんだこれ。

 彼女の傍に、足から崩れ落ちる様に真九郎は膝をついた。

 

 

 

 ***

 

 

 

 「なんで真九郎は私を殴ったのだ……」

 

 懸命に堪えていた涙を零し、頬を濡らす紫は、影胤へ問うた。

 先の笑顔は偽りではない。彼女はただ、分からなかった。彼がどうしてあんなにも怒っているのか。彼がどうして自分を殴ったのか。理解、出来なかった。

 その髪は、駆ける際に巻き起こる風で揺れる。隣を走る小比奈は羨ましげに、不満そうに影胤に抱えられた少女、紫を横目で見ていた。不満は言わない。言うのは後にしなければならないというのを彼女は理解しているから。 でも、彼女はただ一心に思っていた。 幼い心に抱える――いや、幼いから、何も識らぬから抱え込めるのだろう。極大の嫉妬と殺意を小さな胸に抱え込み、思っていた。

 この女を、斬りたい、と。

 パパの腕の中に居るこの女は邪魔だ。

 その目を嫉妬と殺意に赫く染め上げて、そう思っていた。

 紫の問への影胤の答えは、紫の心へ酷く簡単に染みこんでいった。

 こんな男の言葉を、九鳳院紫という少女が信じるはずがないのに、何故か、彼女はそれを信じてしまった。真九郎へ自分が何をしたか、真九郎の言葉も全て忘れてしまったかのように彼女は純粋に信じ込んでいた。

 

 「照れ隠しだよ」

 

 そんな、あまりにも荒唐無稽な事を影胤はさらりと言ってのけた。

 九鳳院紫という少女には嘘を見抜くという事に天賦の才能をもっていた。

 安易な嘘を、吐き慣れた嘘を、理屈無しで直感で見抜いてしまうという才能を少女は有していた。

 それも、嘗ての話。

 彼女が普通の人間であった頃の話だ。

 今も、それを備えているとは限らない。

 彼女の人間としての部分は蹂躙の限りに尽くされ、壊され、粉砕された。もう、彼女には幼稚な感情と狂い切った思考。そして、紅真九郎という一人の男へ捧げる愛しか残ってなかった。

 そして、真九郎への一方通行な愛と歪み過ぎた思考回路は不自然な答えを導き出した。

 紫は思う。

 真九郎が、私へあんな目を向けるはずがない。

 きっと影胤の言う通りなのだろう。

 久々に会ったから、真九郎は照れていたのだ

 可笑しな、普通の思考では絶対にありえない解答を重ねる。

 彼女を正せる者はもう居ない。

 真九郎の言葉はかつて九鳳院紫と呼ばれた少女の心に触れるどころか聞こえすらしないだろう。

 歪みはもう止まらない。

 彼女の躰と心を蝕み続け、破壊する。

 

 「なるほど!! 流石影胤だな!」

 

 屈託なく笑う彼女に、「お褒めいただき恐悦至極」と戯けたように言って、影胤は目を細め、前へ向けた。

 彼女の目に、この男はどう映っているのだろうか。

 先ほどまで、真九郎と殺し合いをしていたこの親子をどう思っているのだろう。

 今の紫にとって、真九郎と自分以外は全て舞台装置でしか無い。そう見えている。

 彼女にとって、他は脇役であり、引き立て役でしかないのだ。故に、簡単に壊し、捨てる。そして、全て自分と真九郎の為に在るべきだと思っている。どうすればこんな巫山戯た思考を出来るのか甚だしく疑問だ。

 少なくとも、紫という少女はこんな考え方などではなかった。

 それは、九鳳院紫が人の形を失う時が刻々と迫っているからというのことかもしれない。

 狂った思考と感情と愛、それらに応じ、活発化したガストレアウイルスは彼女から人の形すら奪おうとしているのだ。

 何故、彼女が此処まで狂ってしまったのか。

 きっとそれは、彼女が歪に黄泉帰ったからだろう。

 壊れたものは元に戻らないはずなのに、無理矢理、元に戻してしまったから。

 紫の狂気を敏感に感じ取り、影胤は歓喜に身を震わせる。

 恐怖などではない。これは、歓喜。喜びだ。

 影胤は自らの求める闘争が、愛する者の求める世界がすぐ近くまで迫っているという事に、彼は、喉の奥から這い上がってくる哄笑を抑え込めず、小さく零していた。

 


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