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お久しぶり
久々に見返してたら何故か一話抜けてたので修正
午前十時頃。
日も顔を出し、通りにも人が増え、道を走る車の数も深夜とは比較にならないほどに増えてきていた。
大通りに面する位置にある24時間営業のファミリーレストランは朝食用のバイキングを開放していた。余談だが、このバイキング、こういった類の系列、24時間経営のチェーン店の中ではかなりの高評価を得ており、テレビ番組やら雑誌やらで紹介されている。それ目当ての会社員や主婦、その他諸々多種多様な人種がここには訪れる。
一番人気は焼き立てのパンらしい。クロワッサンやらフランスパン、果てには誰が考えたのか解らないが開発者の顔が見たくなる、誰が食べるか想定したのか非常に気になるゲテモノパンまであるそうだ。
そこの広い店内、その隅の隅。一つのテーブルに着古した黒のスーツを着た男、紅真九郎はソファーに腰をかけて、眠りこけていた。座ったまま、寝ていることを識らぬものが見れば、死んでいるのではないかと疑ってしまうほど静かに、身動ぎ一つせずに彼は僅かに寝息を立てていた。
そんな真九郎の向かいには一人の麗人が居た。黒を基調とした服装、その中では白い肌はとても映え、扇情的で美しい。彼女、闇絵は紅茶を注いであるカップを片手にもって、彼が目を覚ますのを待っていた。
「…………ッ」
真九郎の指が軽く動き、少し躰が揺れた。小さく呻き声が彼の口から零れた。目を覚ましたばかりで、しかも快適とは言えないソファーの上で座ったまま寝たのだ。躰も固まってかなり動かしづらくなっているはずだ。その上、眠る前の彼はかなりの疲労に蝕まれていたのだから少なくとも彼の寝起きは快適と言えないであろう。
「…………。あー……」
軽く声を出して、真九郎は自分の声が酷くしゃがれている事に気づいた。これではまともな会話は難しいとそこで悟る。
すると、
「これでも飲み給え」
闇絵が氷を浮かべた烏龍茶を用意してくれていた。然程氷が溶けてもおらず、差し出したタイミング的に起きたのを見て持ってきてくれたのだろう。
グラスを受け取り、一気に飲み干す。冷たい烏龍茶が喉を通り、胃へ落ちて行く。少し、躰に悪いかもしれないが、寝起きの頭を無理矢理動かせる状態にもっていくには丁度いいだろう。それに喉を潤すには冷たい飲み物の方が最適だ。
いい飲っぷり。と闇絵が言うのを聞きながらも特に返事をすることもなく、真九郎は烏龍茶で濡れた口元を手の甲で拭った。
「ありがとう、ございます」
「なに、これくらい」
真九郎の礼に、闇絵は微笑して、湯気を上げる紅茶に口をつけた。小さな啜る音の後、ソーサーにカップを戻す。
「後、コーヒー、ありがとうございました」
テーブルの上には冷め切ったコーヒーが入ったカップが一つあった。それは真九郎が眠りに落ちる前まで飲んでいたものだ。そして、彼が眠りに落ちる要因になったものでもある。
「はは、まさか睡眠薬入りコーヒーを飲まされるとは思いませんでしたよ」
苦笑する真九郎。久々に自分に効く薬物に対面したのだ。彼としても苦笑を浮かべる以外出来なかった。それに、彼女が自分を思った上での行動だった事は安易に想像できたから、それを責める事など考えつかなかった。
「よく寝れただろう? この前手に入れたものなんだ。結構強力らしくてね」
彼女は、粉末状の睡眠薬が入った小さめの袋を軽く振ってみせる。
「ピンポイントなものをもってますね……」
苦笑したままそう言う真九郎に、彼女は「備えあれば憂いなしってね」と微笑んでみせた。
「さてと、このまま話を続けるのもいいが、せっかくバイキングをやっているのだ。朝食にしよう」
「そうですね」
闇絵の提案に真九郎は賛成する。というかそれ以外ありえない。そもそもここに来たのは夕食をとるためだなのだから。まあ、夕食が朝食になってしまったが、些細な事であった
「にしても……」
闇絵は新たに淹れた食後の紅茶を啜りながらどこか飽きれた様などこか関心した様な声色でそんな言葉を零した。その言葉が向かうのは勿論、真九郎であり、今の彼の状況である。
テーブルの上には色とりどりの料理が湯気を立て、それぞれがそれぞれの香りを立てていた。焼き立てのパンは香ばしくバターの芳醇な香りを、スフレオムレツは卵の香りとバターの香りが混ざり合い、食欲を唆るものとなっている。他にも多数並んでおり、どれもが朝食に適しており、どれもがファミレスという場所にしては出来が良い。
それらの料理全て、真九郎のものである。
真九郎は下品にならない程度に、それでいて素早く皿を空にしていた。食欲のままにその箸とフォーク、スプーンにナイフは朝食という名の獲物を蹂躙してゆく。
「よく食べるな」
昔はこんな大食らいではなかった気がするが……。闇絵は少し昔を思い出して、今の彼と照合してみる。料理はそこそこ上手かったはず。家庭料理としては及第点であったはず。長らく口にしていないせいでかなり味に関しての記憶は風化してしまっているが、まあ、間違ってはいないだろう。それでいて、彼は確か母親の様な立ち位置だったはずだ。鍋の中の具材が無くなれば補充し、焼き肉をすれば新たに肉を焼き始める。言い方を変えれば損な役回りであった。それでも食う者は食うだろう。少なくともこんな大食らいではなかったはずだ。
では、夕食を取っていないせいか? それの可能性は大きいだろう。そして、疲労も中々であったからかなりの空腹だった。それで説明がつくだろうか……?
と、首を軽く捻り、テーブルに広がる料理群を再び見渡した。
いや、無い。幾ら何でもない。
断言した。
それほどの料理がそこにはあったのだ。奇異の目を集めてしまうほどの量だ。その程度の理由で胃に収まるはずがない。
「……いつの間にか大食らいになっているな、少年」
正直な感想を零す闇絵に真九郎はまた苦笑して、
「ここ何年か、色々ハードな生活をしているといつの間にかこんなになってたんですよ」
その言葉に偽りはない。本当の事なのだ。原因は何か、そう、何かと問われれば彼は、自らの言葉を持って答えるだろう。
問われなければ、答えなどしないが。
「まあ、いいさ。良く食べるのは良い事だ」
うんうんと頷いて、彼女は再び紅茶のカップを口元で僅かに傾けた。
真九郎の箸と口は瞬く間に味噌汁と白米を片付けた。その凄まじい速度を維持したまま食事は続く。
少しして、半刻も経たずにテーブルの上にあった朝食達は駆逐された。残っているのは綺麗になった皿のみ。
ふう……と真九郎は満足気な息を吐いて、椅子の背もたれに体重を預けた。
「ご馳走様」
といつもの様にその言葉を口にした。
「さてと、少年」
食事を終え、一息ついた真九郎に彼女は新たに淹れたのであろう紅茶へスティックシュガーを注ぎ、混ぜながら言葉を紡いだ。
「お話でもしようか」
「どういう内容のです?」
「勿論、君の事さ」
闇絵はそう言って、意味ありげに微笑む。
「はぁ……」
気の抜けた返事しか出来ない真九郎は、考える。
はて、今の自分にそんな話題になることがあっただろうか。
彼女の笑みを受け、真九郎は内心で首を捻った。
思いつかない。
そんな真九郎に彼女は話題を振った。
「五月雨荘、君の部屋の話をしようか」
「あ……」
そうだ。今更、本当に今更ながら思い出したのだ。
冷や汗が額に浮かんだ。
あの日からずっと自宅を放置しているということを真九郎は思い出していた。
「あの部屋だが……あの日から、君がこの街を去った時からずっと同じ状態で置いてある」
「……え?」
真九郎は思わず、間抜けな声を零していた。なんでまた、そんな事に? 普通なら一年もして音信不通ならそれに相応する処置を行うはずなのに。どうしてそんなことになっているのか、真九郎には理解が出来なかった。
「なんで、そんな事に……?」
「君の帰る場所を残したい人間が居た、そういうことだ」
突然出てきた思わぬ名に真九郎は少し動揺しつつもしっかりと頷き、
「勿論、憶えていますよ」
忘れるはずがない。真九郎はそう思った。
「彼女はずっと、この十年間、君の部屋の管理を続けてきたんだよ。いや、最初は君の幼馴染だったかな? 途中から二人が共によく訪れていたよ。気づいたら彼女だけになっていたな」
「……そう、だったんですか」
「ああ、契約更新は君の幼馴染が行っていたな。ふふ、羨ましいまでに愛されているじゃないか」
…………銀子に今度、御礼しなきゃな。
と心にしっかりと刻み込んで、次に思うはかつて自分を慕ってくれた少女。今、どんな風に成長しているかは識らないが、素敵な女性になっているだろう。あの時は、そう、十年前は八歳か、七歳だったから今は十七、八歳のはず。 今は高校生になっているだろう。きっと、青春を謳歌しているはずだ。
そして、思った。彼女達に対して、自分は何が出来るのか、と。
御礼をすると言ったが、どんな礼を自分はすればいい。
「本当、自分はどれだけ頭を下げればいいんでしょうね」
謝っても謝っても言葉にしてもこの感謝を伝えるには足りないだろう。なら、どうすればいいのだろうか。不器用な彼にはそれが解らない。裏の業界でのやり取りには熟知しているつもりだ。師匠である柔沢紅香には遠く及ばなくとも、二流以上の腹芸やらなんやらは出来るようになったと自負している。
故に、彼にはこういった事に対する感謝の方法が解らない。
贈り物やらで済ませるものではない。頭を下げればいいというものでも感謝の言葉を口にするのでも足りない。
では、どうすればいいか。
「そうだね、だが一つ、良い方法がある。そう不器用な君にも出来る方法だよ」
闇絵はまるであまりにも甘く、断り難い契約を思いついた悪魔のように嗤う。嫌な予感を感じながらも真九郎は尋ねる以外の選択肢を持ち得なかった。ただ、彼は自分の不器用を恨む。今更、どうしようもない不器用さだが。
「それは――――」
次に彼女が紡いだ言葉に真九郎は絶句した。
「求愛、告白だよ」
「……なんですか、それ」
漸くして出てきた言葉はそれだった。
「何って、彼女らにそれに値する感情があるからに決まっているからだろう?」
嘆息して彼女は言葉を続ける。
「考えてみるんだ。普通、幼馴染であったとして、普通、足が欠けているのに掃除にくるかい? 昔馴染みで年上の男、それで懐いていたという認識をしていてたとして、何年もの間、その男の部屋の維持に努めるかい? いい加減、鈍感なフリはやめた方がいい」
一拍置いて、
「後悔するぞ」
続けて、言葉は放たれる。
無慈悲で正確。そして、正しい。
故に、威力は十二分。すなわちそれは真九郎への致命傷になりえた。
「復讐は無意味、だからやめろなんて言わない。君の歩みを止めようと思わない。だがね」
一拍置いて、
「|少年、君はまた、同じ後悔を繰り返したくないだろう?《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》」
彼女の言葉は、正確無比に彼の急所を斬り裂いていた。
「さて、長い話に付き合わせた詫びに此処は私の奢りにしておこう」
領収書を取り、闇絵は席を立った。
「じっくり考えるといい」
そう言い残して、彼女は去っていった。
残ったのは真九郎だけだった。
***
黒と
場所はどこかの地下駐車場。そこに駐車してある黒のスポーツカー。かつて女の一人、紅が所有していたスポーツカー、それの性能を大きく上回るものとなっている。アクセルを少し強く踏めば最高速度。まるでミサイルか何かかと見間違うほどの加速を発揮してしまうモンスターマシンに仕上がっている。
件のモンスターマシンの助手席で女の一人、闇絵は隣に座る女へ挨拶代わりの言葉を作った。
「変わらないな、紅香」
茶のトレンチコートを羽織り、赤のスカートスーツを纒った女――紅香は運転席で足を組み、胸の下辺りで腕を組んでいた。闇絵の言葉に、こちらも同じような言葉を作っていた。
「お前もな、闇絵」
助手席に闇絵、運転席に紅香。二人は並んで、顔も、視線も合わせず、互いに別の方へと視線を向けて会話をしていた。
「相変わらず、趣味の悪い格好だ」
紅香はそう、闇絵の服装を横目でジロリと見、悪言(と言ってもこの二人にとっては何時もの事である)を吐いた。
「それは聞き飽きたよ。で、何のようだ?」
彼女の悪言をそう切り捨て、闇絵は言葉を続ける。
「仕事の途中で見かけたから声をかけた? 久々に昔馴染みを見かけたから話したかった? 違うだろう? 他にあるはずだ。そんな下らない話じゃないはずだろう?」
「当たり前だ」
紅香は闇絵の言葉を肯定する。シガレットケースから煙草を取り出し、咥え、先に火を灯した。紫煙が車内に一瞬満ち、窓の隙間から外へと流れ出た。しかし、車内に漂う煙を取り去るに事はできなかった。
暫しの沈黙。紅香と闇絵は互いに煙草を咥えていた。先に吸い始めた紅香の煙草が半分ほど灰になった頃。
彼女が口を開いた。
「……うちの弟子はどうだった?」
紅香は常備しているのだろう水の携帯灰皿に煙草を捻子込み、火を消した。その手には必要以上の力が篭っているように見えた。何かを誤魔化しているかのようであった。
「……そうだな」
口から吸い込んだ煙を吐き出し、憂鬱そうに、いつもの不敵さなど欠片も見せずに彼女は言葉を紡ぐ。
「あのままいけば、死ぬな」
結論を口にする。断定だ。そこに他の可能性はない。生はなく、絶対的な死が待っている。
「そうか」
小さく一言、紅香は言葉を零した。その表情にはいつもに比べてどこか覇気に欠けていた。
「意外だな。お前にまだ人の生き死にを拘る感性が残っていたんだな」
闇絵が目を丸くして言うのに、紅香は溜息を零した。
「闇絵、私を化物か何かと勘違いしていないか?」
「銃弾を見てから躱して、その撃ってきた銃口へ弾丸を捩じ込む様な奴は化物で十分だ」
反論しようにも言葉が見つからなかった紅香は、肩から力を抜いて、
「そーかい」
と言い、車外に駐車されている車達を横目で眺めた。
「分かっているだろう、お前も」
煙を吐いて、闇絵は横目を紅香へと向ける。
「分かっているよ」
肯定を闇絵に彼女は返した。そうだ。分かっている。これは単なる確認作業だ。
大切な者なのだから。唯一の弟子なのだから。これくらい心配しても別に罰は当たらないだろう?
「あいつが、真九郎がどうにかするしかない。これはあいつ自身の問題だ。だから」
あいつにしか解決できない。彼女はそう断じた。
「でも――」
彼女は言葉を付け加える。
「手助け位はしてもいいだろう?」
紅香はそう言い、いつもの様に、大胆不敵で勝ち気な笑みを浮かべた。
「……ふっ」
そんな紅香を見た闇絵は小さく笑みを零して、
「そうだな」
頷いた。
「で、だ」
紅香の瞳が鋭く細められた。いつの間にか彼女の右手にはベレッタが握られている。既に安全装置は解除済み。引き金を引き絞れば弾丸は発射できる様になっている。
隣の闇絵は派手な帰り道になりそうだ。と憂鬱そうな溜息を零した。
キーが捻られる。一瞬でこのモンスターマシンのエンジンで命の炎が燃え上がった。ヘッドライトが白く強く輝く。
その刹那、弾丸が雨霰とモンスターへと降り注いだ。まるで弾丸の滝。普通の車ならとっくの昔に蜂の巣だろう。
だが、残念なことにこの自動四輪はただの高級車ではないし、ただのスポーツカーではない。
正真正銘、この世に唯一基しか存在しないワンオフ車であり、そして、モンスターマシンである。
つまるところ、
「ッ!」
この程度の弾丸は通じ得ない。
実際はこの程度、などと軽々しく言える程度、生易しいものではないのだが。
弾丸の撃ち手達の間に一瞬の揺らぎが生じた。
プロであり、金のために、自分のために人を何の感傷も、、感慨もなく殺す彼らが動揺していた。
幾らなんでもありえない。
揃って彼らはそう思っていた。
弾丸の雨。戦車は無理でも防弾処理やらなんやらを施したカスタム車程度なら蜂の巣。それ以上でも行動不能に追いやる事くらいは出来るはずなのだ。実際、それくらいの火力を彼らは投入していた。おかげで駐車されていた高級車達は完全なスクラップだ。
そう、出来る、はずであった。
相手が怪物、モンスターでなければ。
紅香と闇絵を乗せたモンスターマシンには、一つ足りとも弾痕が刻まれていなかった。頭がおかしくなる位の強度である。なんだこれは。あんまりだ。と彼らが思ってしまうほどだ。
だが、彼らはプロである。
そう思っても、彼は対象を殲滅するまで引き金を絞り続ける。銃口を向けて、弾丸を放ち続ける。
故に、彼らはそれを選んだ。
無尽蔵とは言えない、けれども決して少ないとは絶対に言えない量の弾丸を彼らはそのモンスターへと叩き込み始めた。
熱で銃身が焼き付くまで彼らは引き金を引き続ける
――――しかし、そこで、彼らの記憶は止まっている。
何故なら。
彼らは爆発に巻き込まれ、即死したからだ。
車内の各所に仕込まれたプラスチック爆弾が盛大に炸裂したのだ。頑強過ぎる装甲も、内から発生した強烈無比な衝撃と爆風に耐えられなかったらしく、巨大であまりにも凶悪な破片をばら撒く爆弾と化していた。
展開されるは炎禍の地獄。赤い炎と桜吹雪の如く飛ぶ破片は、彼らの五体を修復不可能なまでに蹂躙したのだ。勿論、前述の通りの結果。全員即死である。
ちなみに、この場に居合わせた民間人達は彼らの手によって処分済みの為、爆発による巻き添えは心配した所で無駄である。
彼らの不運は、柔沢紅香を狙ったところから始まっていたのだ。
この女はマトモでないの筆頭であるからにして、彼女の周囲もマトモでないのだ。
その車に乗っていたはずの二人は、いつの間にやらそこから脱出していた。黒煙を上げるホテル、そこから避難する人々、このホテルの客達であろうそれに紛れて、悠々と二人は難を逃れていた。彼女達にとっては難、というほどでもないかもしれないが。
今、下で起きている地獄を潜り抜けたとは思えない程に彼女達は、傷の一つもないし、汚れの欠片も見受けられない。
「さて、殴り込みにでも行くか」
買い物に行こうと提案するかのような調子で紅香はそう言った。
「……私は帰るぞ」
付き合ってられるかと闇絵は言う。それにほほうと紅香は口元を嫌らしく笑みの形に歪める。
「此処で逃げ出すのか?」
紅香の解りやすい挑発に、闇絵は僅かに片眉を動かした。普段と違う動作をした為か、酷く分かりやすかった。
引けば後が面倒くさいなと闇絵は思うと、観念して口を開いた。
「全く……相手は?」
飽きれ顔で訊ねる闇絵に、紅香はシガレットケースを闇絵に差し出し、
「星噛だ」
一本受け取り、良い物吸っているじゃないか。と闇絵は呟き、
「相手にとって不足は無しということかな――実に厄介だが」
咥え、今時珍しいマッチをどこからか取り出すと紅香の差し出したシガレットケースに擦りつけた。
小さな火がマッチに灯り、煙草へと移る。火が煙草の先を焼いた。紫煙が空を舞う。それから闇絵はマッチを軽く振って、火を消した。そのまま脇へとマッチの残りカスを放り捨てる。
「そういうことだ」
壮絶に笑う紅香。それは正しく、柔沢紅香の笑み。王者の笑みだ。
言葉を交わして、黒と紅は歩み出した。
***
今、生きている目的は唯一つである。
復讐、彼女との日々を破壊した者への復讐だ。
「ああ、そうか」
真九郎は昼間でありながらも人通りが酷く少なく、はんば廃墟同然の建物の立ち並ぶ通りを歩きながら、呟く。
気づいたのだ。そう。自分は致命的な事を忘れていた。
何故今の今まで気づかなかったのか。間抜けにも程がある。
……いや、違う。そうじゃない。
真九郎は首を降って、否定する。
「目を逸らしていただけ、だな」
この復讐が終わった後のこと、それから、目を逸し続けていた
今の今まで、復讐を成し遂げる為だけに走り続けてきた。それ以外など目もくれず。ただひたすらに、復讐を成し遂げるために力を振るい、力を高め、情報を集め、金を亡者の如く掻き集めていた。
では、その目的である復讐を成し遂げてしまったら、自分はどうなる? いや、どうする? どうすればいい?
漸く真九郎は、
「……どうすればいいんだよ」
他人に尋ねて意味は無い。けれど真九郎はそう口にしてしまっていた。
本当に、分からなかったのだ。どう考えても、答えは出なかった。
頭の中を整理する。懸命に、無い知恵を絞り、状況を整理する。
復讐の後、その後、どうすればいい。
表に戻る? 無理ではない。死んだことにしたり、色々とやりようはある。名は売れても、顔はあまり露見していない、はずだ。戸籍やらなんやらを弄ればその辺りはどうにでもなるだろう。
だが、自分は既に壊れている。
どうしようもないほど、誰もが匙を投げるほどに真九郎は壊れてしまっていた。
真九郎は自らの拳に視線をやる。そこには人を殴り過ぎて変形した拳がある。それは、人の骨を砕き、肉を破り、内臓を蹂躙し、死に至らしめる。一瞬、血に濡れた拳を彼は幻視した。頭を振るって、その光景を振り払う。
もう、拳が血肉を抉る感覚を忘れられない。人を破壊する方法は忘れられない。誰かを虐げる事でしか何かを得られない。
表で生きていくには必要のない技能。あまりにも暴力的すぎる。
だが、確かにこういうものを発揮せずに働く方法など山ほどある。
コンビニで客相手に愛想笑いを浮かべてもよい。
土方で汗水垂らしてスコップを握ってもいい。
サラリーマンとして上司に頭を下げる日々を送っても良い。
それでも、そうやって普通に埋没しようとしても、もう、彼に染み付いた殺人者の臭いは取れない。そうなるほどに真九郎は拳を振るった。人を殺したのだ。
暫くは平穏に浸れるだろう。
しかし、そこで彼自身が気づいてしまう。
自分の居る日常への違和感を。
此処で日常を謳歌する事への忌避に。
日常という微温湯に浸かり続ける事への拒絶を。
彼の躰は自分が消えていく感覚に耐え切れなかったのだ。その身に刻みつけられた力が失われていくのを。
そして、真九郎は最後に、この結論へ至ってしまう。
此処は居るべき場所ではない、と。
そうなればもうドミノ倒しだ。自ら日常を崩し、彼はまた、同じ場所へ戻ることになる。
日の光が差さない、昏い、闇の中へ逆戻りだ。
「はは、これはもう駄目だな」
もう、笑うしか無かった。それほどまでに真九郎はどうしようもないほどに自分が詰んでいるということに気づいてしまった。
普通の方法が取れない。選択肢に含まれていない、いいや、含まれている上で、選択できない。
選択肢は一つだけ。
これからずっと堕ちていく。
人の悪意の中を、血色に染まる地獄へと。
歩幅は変わらない。一定の速度で彼は歩いている。
そして、気づけば目的の場所に居た。
見上げるそこは、殆ど代わり映えがなかった。ただ、改修をした後や、経年による劣化は見られた。
「……戻ってきちゃったな」
全てはここから始まったと言っても過言ではない。少なくとも、彼女と彼の出会いとそして、始まりはここだ。
五月雨荘、来る者拒まず、去る者追わず。他者への介入を禁止し、此処での如何なる暴力を認めず、不可侵を掲げる場所。
何処かの誰かが造り出した酔狂で奇妙奇っ怪極まりない場所。
それの前に、かつての住んでいた思い出の場所に、真九郎は立っていた。
「ほんと、全然変わってないな」
よくあの戦争を乗り切ったものだ。こんな木造建築、炎に焼かれるか、人の手で壊される、もしくはガストレアに破壊されそうなものだが。
この建物は柱にバラニウムでも内蔵させているのだろうか?
「まあ、考えても無駄か」
その冗談めいた思考を放棄すると、真九郎は五月雨荘の入り口へと足を向けた。
あの頃と全く変わっていない出入口を通って、二階への階段を登っていく。階段の軋む音すら懐かしい。
目指す場所は五号室。場所はしっかりと憶えているのだろう真九郎の歩調に淀みはない。迷いなく、目的の場所へ向かっていく。
「……ほんと、変わってない」
五号室。そんなプレートの貼ってあるドアの前で彼はそう呟いた。
スーツのポケットに手を入れて、そこから鍵を一つ取り出した。どこに使う鍵か、どこの鍵かなど分かりきっている話だ。目の前のドアに付けられている鍵穴に鍵を入れて、捻る。カチリと小気味いい音がして、ロックが解除された。
よく、無くさず、捨てずにこの鍵を今の今まで持っていたものだ。
躊躇いを押し込めて、真九郎はドアノブを捻って開けた。
開いて、視界に入った光景はかつてと何ら変わりなかった。あの頃からずっと、時が止まってしまっているかのようであった。
古臭いテレビも、その前にある古臭い卓袱台も、部屋の隅に畳められた二つの煎餅布団も。何もかも。
「ああ、ホント」
真九郎は懐かしそうにそう言って、
「変わってないな」
靴を脱いで、部屋の中へと踏み出した。閉じきったカーテンを開く。開ければ日の光がまっすぐに入ってきて、部屋を明るく照らした。
そこから真九郎は外を眺めた。視界に映るは、雑多な街と黒く、巨大なモノリス。ここからの風景も、変わっているだろうけれど、彼には何も変わっていないように見えた。
時が止まっている。そう、彼は感じた。
さて、どうしようか。思った以上にすんなりと入れてしまった。掃除しようにも埃が一つ足りとも落ちていない。これ以上の掃除など自分には出来ない。
ぼんやりと外を眺める。そよ風が髪を揺らした。温かい日差しを受けて、寝入ってしまいそうだった。
ガチャ。そんな金属が擦れるような音と木の軋む音が聞こえた真九郎は、音の聞こえた方、背後へと振り返った。
そこには、一人の少女が居た。首の付け根辺で切り揃えられた、艶やかな黒髪にタレ目がちのどこか保護欲を唆られる瞳、目鼻の整った顔立ちは美少女と言うに相応しい容姿であった。その彼女が纏う制服であろうそれに、真九郎は見覚えが会った。かつて、彼が通っていた高校、そこの制服であった。見間違え、ということはないだろう。
そして、真九郎はこの彼女に見覚えがあった。彼女に誰かの面影を感じていた。
「お兄、ちゃん……?」
そうだ。何を忘れていたか。この子は、そう、この子は。
「――散鶴、ちゃん」
数年ぶりに二人は再会を果たしていた。
流れた時はあまりも長い。結果、出来上がった距離は果てしなく、遠かった。手を伸せば届く、そんな、距離ではなく、まるで宇宙の端と端。大げさすぎるかもしれない表現であるが、確かに彼と彼女の距離は遠かった。
「えっと…………、ひさし、ぶり」
突然の事に混乱する真九郎の口から出てきた言葉はそれだった。挨拶としては極普通のもの。
「……うん、久しぶり。お兄ちゃん」
少しの沈黙を得た彼女は真九郎の言葉に答えた。動揺は拭いされていないであろうが、言葉を作れる程には回復していた。
二つの言葉が空気を揺らして、沈黙が二人の間を満たした。互いにどうすればいいか分からなくなっていた。降って湧いたかのような出来事だ。そうなってもおかしくないだろう。
その沈黙を破ったのは、真九郎だった。
自らの心情やらなんやらを横へ退かし、動きの鈍い口を無理矢理動かして、彼は言葉を作った。
「とりあえず、座ろうか」
真九郎がそう促すと、彼女は頷き、ドアを閉じた。とりあえず、お茶でも出そうかと彼は台所に向かった。数年ぶりなのにお茶あるのか……? と真九郎は小さく呟く。
「あ、新しいお茶っ葉買ってきてあるから……」
と散鶴はシンクの上に設置されている棚に置いてあった透明の真空パック器から市販のものの緑茶の葉を取り出した。
どうも、真九郎の声が聞こえていたらしい。
「うん、ありがとう。じゃあ、散鶴ちゃんは座っていて」
一応、ここは俺の部屋だしね。と真九郎は苦笑気味に言った。暫くの間留守だったが、まあ、それも事実である。
「……ここ」
真九郎の言葉を受けて、散鶴は何か言い難そうにもじもじとしながらも、言葉を作った。
「その、私の、部屋でもあるから……私が……やる」
「…………え?」
動きが止まった。彼女の言葉が、真九郎には理解できなかった。
そんな真九郎に慌てて散鶴は説明をするため、口を開いた。
「え、えとね。あのお兄ちゃんが居ない間、管理する人が必要になってね」
ちらちらと真九郎を上目遣いで見上げながら、散鶴は言葉を選ぶ。
真九郎は、『ああ、夕乃さんとは違う方向でモテるんだろうな…………』などと頭の片隅で思っていた。
事実、彼女は年上の男性からアプローチをよく受けている。ラブレターやらプレゼントやら。彼女はその手の話には事欠かなかった。
けれども散鶴の好みに合う人、理想を超える者は、今のところ現れていない。
当たり前だろう。なんたって、彼女の好みはその辺の一般的な男子高校生やら社会人だとかの有象無象では敵うなどありえないから。そう、彼女の好みはどうしようもなく、普通から外れていた。
「大家さんが何年も住む人が居ないのは駄目だって言ってたの。それで、私も高校に通うのにここ丁度良い距離だったし、ここは安全らしいし、一人暮らしくらいしておきたかったから……」
えっと……そ、それで……。と何故か混乱している彼女に、真九郎は微笑んで、
「今まで、ありがとうな。散鶴ちゃん」
「え、あ……うん!」
一瞬、ぽかんとした表情を見せた散鶴であったが、次の瞬間には嬉しそうにはにかみ、華が咲いたかのような笑顔を浮かべていた。 その笑顔に思わずクラクラしてしまいそうになるのを真九郎は耐えながら、彼女に
「だからさ、御礼がしたいんだよ。今日は何にも準備出来てないけど」
言葉を繋げる。
「また、今度、御礼でもさせてくれ。今日のこれは、その御礼の一部ということにでもしといてくれないかな?」
苦笑した真九郎の言い分に、え、え、あ……。と散鶴は言葉にすらなってない呻き声地味た声を上げた。その顔はオロオロというかなんというか、簡単に言えば何と返せばいいのか非常に困っていた。嬉しいけれど、彼にこんな事をさせて良いのか解らない。彼女の頭の中はそれでいっぱいの状態になっていた。オーバーフローしていた。
「ほら、座って座って」
散鶴の様子を見、真九郎はここぞとばかりに自分の意思を通すために彼女を座らせることにした。真九郎は散鶴を軽く押して、尻餅をつかせる様にして畳の上に座らせる。
「じゃあ、パパっとやっちゃうから待っててね」
にこりと笑って、台所に向かう真九郎を散鶴は引き留めることが出来なかった。
「もう……」
相変わらずだ。この人のこういう所は全くと言ってもいいほど変わっていない。
少し、強引になったような気がするもそんなもの誤差どころかプラスにしかならない。
「ほんと……」
恋する乙女らしく、彼女の顔はもう真っ赤に染まっていた。それでいて、だらしなく崩れていた。恋する乙女、いいや、女としては想いを寄せる愛しき彼に見せてはならないほどに。
この後、散鶴は真九郎がお茶を作るまでに、このだらしなく崩れた顔を彼に見せれるレベルに直すため四苦八苦することになったのは言うまででもないだろう。