「……あれが、崩月、そして、星噛」
木更は小さく呟く。
「あれが、かつてこの国の裏側を支配していた存在」
彼女の視界に映っているのはこの都心にはあまりにも似つかわない景色であった。それは先まで都会的で、この東京という場所にはありふれている風景だった。だが、今は、
「……ほんと」
呆れるというか、なんというか。思わず溜息を零してしまう。デタラメで、あまりにも常識外れだ。
クレーター。それが彼女の目の前に広がっている。まるで、隕石か何かが落下したかのように巨大で、深いクレーターだ。コンクリートも何もかも、まるで紙細工の様に粉砕されている。
木更達がこの現場に辿り着いたのは既にあの二人は激突していた。
介入することも出来ず、気づけばこうなっていて、そして、そこに星噛絶奈と真九郎という男の姿は無かった。
紅真九郎。
彼の事を木更は蓮太郎から聞いていた。聞いた、と言っても蓮太郎もそこまで識っているわけではなく、名前と出会いだけだ。
その彼の情報を木更は犬塚弥生と名乗った女性から渡されていた。
情報、といっても彼が裏十三家の一つ、崩月の人間であるということ。揉め事処理屋という今時珍しい職業を生業にしているということくらいだ。
最後に、真九郎と相対していた女、星噛絶奈及び星噛家に関する情報だ。
それを渡した彼女は、直ぐに去っていった。その背中は、瞬き一つすれば消えてしまいそうな程に希薄な気配であった。それは彼女の職業病的なものなのであろう。彼女のそれは本来の気質にしては研ぎ澄まされ過ぎている。恐らく、彼女が本気で気配を隠したとすれば、察知するのは至難の業になるだろう。それこそ、背後を取られ、刃に喉を斬り開かれるまでその存在に気づくことは出来ないかもしれない。
渡された資料に木更は目を向けた。犬塚弥生、彼女がこれを作ったのだろう。他人をこんな風に識るのはどうかと思いながらも、木更は資料に目を通し始めた。
しかし、木更の頭の中は、先の戦闘の事でいっぱいだった。
紅真九郎。きっと。彼と私は似ている。
直感的に、彼女はそう思っていた。
彼の叫びと、星噛絶奈に対する様子を見れば一目瞭然だった。
その躰を動かす原動力はきっと、自分と同じだ。
『きっと』ではなく、これはもう確信染みていた。
そう、復讐。
彼は復讐者だ。
復讐。同じ原動力を持つ者だから少し、親近感が湧いたのだ。彼女は、少し、彼と話してみたいと思った。
だけど。
「それをして、どうなるのよ」
呟き、彼女は自らの肩を抱き、俯く。その表情を、少し長くなってきた黒髪が隠してしまう。
復讐、その話をして、復讐者同士傷を舐め合うとでも? 馬鹿な。そんな事があり得るはずがない。
木更は強く、肩を握り締める。痛いほどに、爪が皮膚に刺さり、破りそうなくらいに。
真九郎と木更。復讐という原動力が共通していると同時に、もうそんな事をする段階は過ぎている。熟成し、極まったその感情達は舐め合いなど求めない。既にその対象しか見ておらず、脇目もふらずに突き進むだけ。つまり、そこまで視野が狭まっているのだ。
だが。
そうなって居ると本人らが思っていても、どう思っていても。
捨て切れず、後ろをふと見てしまい、未練に駆られるのが人なのだ。
つまり、彼女はそういう場所に立っていた。
原因は言うまででもないだろう。
もし、それが無ければとっくの昔に彼女は修羅そのものになっているはずだ。
「木更さん」
深い思考の海に沈み込んでいた木更に声を掛けたのは、勿論、蓮太郎だ。彼はこのクレーターの検証に立ち会っていた。その結果報告に来たのだろう。検証をしていた民警や警察、その他も既に撤収を始めている。人も少なくなり、ここは最初の静寂を取り戻そうとしていた。
蓮太郎は木更から生じる何かを感じ取っていた。それは何と例える事も出来ず、明確な形をとっているわけでもない。けれど確かな気配。どこか危うげで、どこか悲壮を感じる。
これの名を蓮太郎は識らない。当たり前だ。まだ、これは意味として成していない。それを識っているはずがないのだ。
唯、蓮太郎は、その原因だけは理解していた。
恐らく、紅真九郎。
彼の叫びが、復讐者としての何かが、彼女と感応してしまったのだろう。
だから、蓮太郎は苦悩する。
きっと、いいや、間違いなくそれが彼女を苦しめている。
なら、どうすればいい。彼女にどうやって接すればいい。
解らない。
自分はこういった事柄に関して無知である。
これはもうどうしようもない。これから、どうにかしていくしかない。
だがそれは今、何もしなくていいという理由にはならない。
なら、その無知なりに彼女と接すればいいのだ。
そう蓮太郎は決意する。
「木更さん」
もう一度、彼女の名を呼んだ。今度は、もう少し優しく聞こえるように気をつけて。
そこで、彼女は、はっとした顔で思考の海の底から戻ってきた。すぐにその顔を元に戻す。気付かれないようにしたのだろう。なら、気づいていない風に振る舞うのが優しさだろう。
「里見くん。どうだった?」
深い底から抜けだして、思考を切り替え、動揺を伝えないように気をつけながら木更は蓮太郎へと尋ねる。
先ほど決めたそれを実行しながら、蓮太郎は木更からクレーターへと視線をやった。
「クレーターの原因は、まあ、さっき見た通り。で、遺留品のことだけど」
彼女へ視線を向け直した彼は、持っていた一枚の写真を木更へ渡した。そこに写っているのは、クレーターに残っていた唯一の証拠物件である、人の腕だ。
だがこれは、人の腕であり、限りなく人の腕に近い――――、
「この腕、見ての通り大人の女のものなんだけどさ」
細く綺麗な腕。断面はグロテスクに赤い。木更は黙って写真を見つめ、蓮太郎の言葉に耳を傾ける。
「かなりのガストレア化が進行してるんだよ。それも、末期レベルで、一歩進めば完全にガストレアになってしまうほどにだ。それに、この腕、さっきまで半分程度生きていたらしい」
――――ガストレアのものである。
ガストレアのもの、というには齟齬が生じてしまうかもしれない。まだ人間の形をしている以上、これはまだ人間の腕というカテゴリーなのだろう。
どっちにしろ、一歩進めばガストレアの時点で、もうガストレアという認識で良いのだろうか?
赤目の彼女達とはまた違う方法で、この腕は人の形を保っているのだろう。そのプロセスは分からないが、
「異常ね」
木更は、そう断じた。
その通り、異常だ。ありえないし、信じられない。
そして、蓮太郎は一つの事実に気づいた。
そう、まるで、これではまるでそう。
「人型の、ガストレア……」
今、確認されているガストレアは全て、人以外の形をとっている。生き残るために、ガストレア同士の生存競争の中で進化していくのには昆虫や植物、人以外の方が都合が良いのだ。昆虫の方が丈夫であるし、植物の方が子孫を残すのが簡単だ。爬虫類などは捕食するのに適しているだろう。
なのに、これは人でありながらガストレアだ。
思わず蓮太郎の表情は険しくなる。木更も眉を顰めている。その表情はやはり険しい。
互いに、その事実に気づく。
「……これは、つまり」
昆虫や植物、その他の生き物ではなく、人の形をとる利点は唯一つだ。
どんなガストレアよりも、人に近づきやすく、人を喰らいやすい。
そして、人の中に溶け込める。
そして、それを星噛というこの国でも有数の危険な組織がこの、人間社会を容易く崩壊させられるものを握っているのだ。
最悪、全てはこの言葉に尽きるだろう。
蓮太郎と木更、二人は同じくそう思っていた。
更に重ねるならば、かなりの上位であろうプロモーターであり、新人類創造計画の生き残り、蛭子影胤、そして、その娘である凶悪無比のイニシエーター、蛭子小比奈、その二人が星噛についている。
この事実には他の民警達なども気づいているだろう。
そして、皆が皆、同じ事を思った筈だ。
「最悪だ」
声は小さい。込められた感情は木更のものを代弁していた。絶望の色が濃く、声は掠れていた。
数日以内。
この東京エリアに、史上最悪レベルの厄災が訪れる。
***
「ああ、糞が」
真九郎は暗く狭い路地を歩きながら、自らへ悪態を吐く。
右腕を左腕で庇うようにして、彼は歩いていた。全身に珠のような汗をびっしりと浮かべ、炎に焼かれているかのような熱に耐えていた。腕から地面へと向かって伝うのは深紅の液体。その大本には突き出たまま脈動し続ける崩月の角がある。それは、怨嗟を、呪詛を、憤怒を撒き散らしながら力を放出し続けていた。まるで、真九郎の感情を代弁するかのように。いいや、正しく代弁しているのだろう。表面上取り繕っても、中身に直接通じているこの角はその感情を出力してしまうのだ。
故、真九郎は収まらず、昂ぶり続ける角を躰の中に仕舞おうと悪戦苦闘していた。
何時もなら、こうも手子摺らないのだが、今回は勝手が違う。
いつもの数倍以上の出力なのだ。これを躰の中に仕舞おうとするにはこの力を放出しきらなければならない。
だが、こんなものどこへぶつけるというのだ。
こんなところ、知り合いに見られたら――――。
そう思うと真九郎は苦笑を零してしまう。
こんな無様な姿を誰かに見せるわけにはいかない。
そう思い立った真九郎はすぐ横に続く灰色の壁へ背中を預けて、溜息を吐く様に、深く、ゆっくりと息を吐き出した。そのまま息を吐き出し続ける。それは躰の中に蟠る何かを吐き出すかのような動作であり、同時に彼の意識は収束してゆく。痛みと熱でバラけた意識が無数の束へ、次に一束に。一束から一本へと急激な速度で収束し、意識の純度が高まってゆく。
熱く煮えたぎるマグマのような熱に苛まれる躰から、その熱を逃がしているのだ。興奮し、復讐に猛る心を鎮めていく。
すると、急速に彼から過剰なまでに溢れ出ていた力が徐々に消えていくのが目に見えて分かった。それに応じて、肘から突き出ていた崩月の角も少しずつ体内に収まっていく。怨嗟も、呪詛も、憤怒も鎮まっていく。少しして、肘からの出血が止まった。傷口が余りある力に干渉され、ものの数秒で再生したのだ。当然、角などそこに影も形もない。躰の熱は平均に戻っている。
それを感じた真九郎はまた溜息を吐いた。
未熟だ。
真九郎は思う。先も、感情のままに行動してしまった。抑えこむ必要があった。冷静になり、星噛絶奈を捕らえるべきだった。
けれど、やはり、あれの前で、そういう事はもう出来ないのかもしれない。
冷静になるということではない。それが出来ないのはただの動物だ。知性の欠片もない、畜生以下の蟲か何かだ。
そうではなく、捕らえるということだ。
あの時も、今も、あれを捕らえるビジョンを真九郎は見えていない。彼に見えているビジョンは、唯一つ。
いいや、ビジョンは数多あった、けれど、行き着く先は全て同じだったのだ。
そう、わかりやすいビジョンだ。
それは星噛絶奈を殺害しているビジョン。ありとあらゆる自分に出来る手法を全て用いた殺害だ。いいや殺害というには生温い。それほどに凄惨だったのだ。
真九郎は思う。
ああ、自分は後戻りの効かない場所へと辿り着きつつある。
このビジョンを視ると、どうにも、笑みが零れてしまうのだ。
それを感じ、また思う。
やはり、自分は致命的に壊れている、と。
真九郎はまた、苦笑を零した。
さてと、と呟き、真九郎は路地を進んでゆく。夜の内に、寝床に辿り着いておきたい。
ああ、少し、腹が減った。少し眠い。躰を支配するのは虚脱感だ。良い状態とはいえない。この状況で襲われたら少しばかりまずいだろう。
けれど真九郎は、それを感じると少し嬉しくなっていた。
復讐に猛ろうと、赫怒に焼かれようとも。
まだ、自分は人間だ。狂っていない。
そう感じることができるから。
コンビニにでも、よるか。
普段は料理をするのだが、今日ばかりはいいだろう。と自分を納得させて、真九郎は路地の外へ足を向けた。
路地を抜けた先には古びた、お世辞にも整備が行き届いているとは言えない通りがあった。深夜の事もあるのか、または元々、こういう場所なのか。恐らく、後者であろう。通りの様子を見ればすぐに分かる事である。店のシャッターは軒並み閉まり、人の姿は殆ど無い。小さな子供――恐らくは呪われた子供達だろう――やどう見ても堅気ではない雰囲気を身に纏った金髪の男、ゴミ箱を漁るボロ布の様な服を着たホームレス。そんな一般人なら関わりを持つことすら、同じ道を歩く事にすらも忌避を抱くであろう人種達がそこを歩いていた。
真九郎は彼らに意識を向ける事もなく、彼らも真九郎へ意識も視線も向けずそれぞれ通りを歩いて行く。
「この辺、コンビニあったけ?」
呟き、とりあえず、この通りを出ようと真紅郎は歩を進めた。こんな場所に店を出す人間なんぞ極少数であり、マトモな店であるはずがない。あったとすれば間違いなく非合法だろう。明るい場所では売れない物品ばかりの店に用などあるわけがない。
暗い通りを均等に並べられた街灯が照らす。光の元に集うのは羽虫達。電球に衝突しても、また、そこへ集っていく。
整備され舗装された道を歩く彼は、一つの存在に気づいた。
その存在は通りにある店のシャッターの前に立っていた。格好は黒一色、例外は胸にぶら下がるアクセサリーにしては悪趣味な小さく白い頭蓋骨。闇の中に溶けて消えてしまいそうなほどにその黒は深い。けれど、それを纏う者は、美しい。その黒に反するかのような白い肌、整った顔立ち。十人が十人、彼女に見惚れてしまうだろう。
その黒を纏う彼女は、その上に紫煙を纏って真九郎へと微笑んだ。
「久しぶりだな、少年」
「……闇絵、さん」
真九郎の前に現れた彼女は、かつてとなんら変わらぬ姿で美しさだった。まるで、彼女だけ時が止まっているかの様であった。ありえないのにそれが当然の様に感じてしまう。
彼女はそう、現実から乖離していた。
現ではなく、幽世の存在に見えた。
「……なに、してるんですか」
そんなはずがない。そんなオカルトがあってたまるか。
そう否定し、言葉に詰まりそうになりながら真九郎は彼女へ、闇絵に尋ねた。
「なに、散歩だよ。早朝の散歩、最近の趣味でね」
片手を肘にあて、あてられた腕の手で煙草を揺らめかせる。いつか嗅いだ、いつもお土産に持ち帰った煙草と同じ匂いがした。どうしても嫌いになれなかったあの独特の匂いが。
「で、君はこんなところで何をしてるのかな?」
「いや、俺は」
言葉に迷う真九郎に彼女は肩を竦ませ、
「いいよ、無理に答えなくていい」
と言った。
「さて」
彼女は煙草を足元に捨て、火を踏み消す。
「共に朝の散歩なんてどうだい? 少年」
闇絵はそう言い、微笑んだ。
「あ……はい」
断ろうと思ったが、何故か真九郎は了承してしまっていた。
「では、行……そうだ、そのついで、と言っては何だが」
真紅郎の返事を聞き、歩みだそうとした彼女は言葉を途中で止め、また、別の事を今、思い出したかのように言葉を紡いだ。
「少し早いが朝食にしよう」
その事に関しては真九郎も心の底から賛成であった。。
酷く腹を空かせていた真紅郎にとって、返事などイエス以外ありえなかった。
「どこで、食べますか?」
「そうだね……」
一瞬、彼女は黙りこみ、
「……そういえば、私はこの辺の地理を識らなかったな」
「……よく、ここまで来ましたね」
「散歩はあてなく歩く主義でね」
この時勢にこんな行動力を発揮できる彼女の胆力に、呆れた様子の真九郎。、
「この辺も結構治安悪くて危ないんですから、そういうのやめたほうがいいですよ」
「何、私も昔はそれなりに無茶をしたものだからね、これくらいは問題ないさ」
「そうなんですか?」
半信半疑といった具合で真九郎は闇絵に尋ねる。すると彼女は頷き、笑みと共に肯定した。と、そこでふと思い出したかのようにこう話し始めた。
「紅香に出会ったのもその頃だね。よく殺りやったものさ。そう言えば顔を合わせればいつもやっていた様な気がするな」
懐かしそうに彼女はそう言った。その言葉に嘘を感じられなかった真九郎は、反射的に顔を引き攣らせてしまう。
あの柔沢紅香と命の取り合いをして、引き分け――二人共生き残っているということはそうなのだろう――になる。それほどの手練れだったのかこの人は。確かに、仲が良いとは思っていなかったがこれほどとは……。
戦慄する真九郎へ、彼女は肩を竦めて、
「なあに、昔の事さ。気にしないでくれ」
「……そうします」
なんとなく、こう、どこかで線引みたいなことをしておかないと驚いてばかりになりそうだと思った真九郎であった。
「とりあえず、ファミレスでも行きましょうか」
真九郎はそう目的地を決め、ジャケットの内ポケットから携帯端末を取り出し、近くのファミレスの場所を検索し始めた。
そこで、真九郎は彼女とはわりと昔からの付き合いであるが、彼女の事は何も識らないという事を今更ながら感じていた。彼女自身、自分の事は何も話さなかったし、当たり前と言えば当たり前の話だ。
まあ、いいだろう。そんな事。
彼女と自分はそう言う関係。それでちゃんと成り立っている。だからこれ以上互いを識る必要など無い。そう真九郎は思っていて、そう信じている。
ファミレスの場所を調べ終わると同時に、真九郎は自分の中でそう決着をつけた。
「じゃ、行きましょうか」
「ああ、エスコートをお願いしようかな?」
微笑む彼女に真九郎は苦笑して、
「よろこんで」
言葉を交わしながら二人は夜の闇の中へと消えていった。
***
そこは不可思議な光が照らす闇の深い場所であった。
緑に紫。透き通ったスカイブルー。どれもが鮮やかで、美しい。けれど、どこか毒々しく、禍々しかった。
光源はその場所に多量に存在する大小様々な円柱状の水槽の様な何かだ。
その中に浮かんでいたのは、ガストレアだ。そう、そこにある水槽、全てにガストレアが入っている。植物、昆虫、両生類、爬虫類、魚類、哺乳類。モデルとなったガストレアが確認できるものや、ステージ3以上の複数の遺伝子が組み合わさり、新たな姿を生み出しているものもあった。
どの水槽も収納されているガストレアのサイズに合わせて造られているのだろう。巨大化する傾向が見られる為、当然の措置だろう。勿論、どのガストレアも死亡している。ここにあるのは見た目だけの標本だ。中身は抜き取られ、既に使用されている。
壁際にズラリと並び立つそれら。その前を通る影が一つあった。
その影は細身である。闇に溶け込んでしまいそうな黒のロングジャケット、その正反対、闇の中でも鮮烈な赤いロングヘアー。それらを纏うその女は整った顔立ちをしていた。ただ、その女は何故か、不機嫌そうに口を尖らせていた。頬は膨れている。
彼女は怒っている。何故か。それは楽しみを奪われたからだ。まるで子供のような理由だが、彼女にとっては非常に重要で、非常に大切な事なのだ。だから、彼女は怒っている。せっかく、彼が自分を殺しに来てくれたのに。愛する彼が以前よりも立派に、逞しくなって帰ってきたのだ。彼女としてはそれを喜ばしく思っていた。だから、ご褒美に抱きしめてあげようと思っていたのに。
「まったく……」
思わず怒りが言葉になって零れた。
「まだ時は来ていないのさ、絶奈」
闇の中で、男の声がした。
幾つも並び立つ水槽の灯りをもっても照らせない闇に溶ける様にそれは居た。仮面の魔人は水槽に背中を預け、腕を組んでいた。その仮面に覆われた顔の表情は当然、読み取れない。
「ちょっとだけ味見したかったのと久々に会えたんだから色々積もる話をしたかっただけよ」
膨れっ面で、拗ねたように絶奈は反論する。
「君の場合、味見ですむのかい? 味見と口で言ってもヒートアップするのは目に見えているのだがその辺どうなのだい?」
「……まあ、その辺はその時考える」
目を明後日の方向へと向けて、逸らした彼女に影胤は大げさに肩を竦めた。それから、絶奈の方へ歩み寄って、
「それに」
影胤は絶奈の腰に片手をあてがって、自らの方へ引き寄せる。それから、膨れっ面の彼女の頬にもう片手を添える。二人の距離が零に近づく。膨れっ面と嗤い続ける仮面が近づく。
まるで、恋人同士が口吻を交わすかの様に、まるで、愛する者を抱き寄せるかの様。しかし、こんな場所には酷く似合わない。そう誰もが感じるだろう。だが、彼らなら相応しく見えた。こんな血生臭い、生命を玩具のように扱う場所なのに。
「そんなに彼へ執着されてしまうと、私は嫉妬に妬かれてどうにかなってしまいそうだ」
芝居がかった口調、それに絶奈はふと口元が緩んでいた。それから、挑発めいた言葉が彼女の口をついて出た。
「貴方だって、何あの男の子。もしかして、そっちのけもあるの?」
そんな言葉に影胤は、苦笑を零して、
「残念ながら、私は君一筋だよ」
なんというか、予想通り、期待通り、大抵の女が喜ぶ言葉を彼は言う。解っていながら影胤も言っているのだろう。戯けた様子が見て取れる。なので、絶奈は乗っかる事にした。その首を傾げ、意地悪そうな表情で影胤に尋ねる。
「ほんと?」
返事はすぐにきた。それこそ、言葉を先に予想していたかのよう、いいや、大体の流れを掴んでいるのだろう。故に、この言葉を彼は作った。
「勿論」
ああ、なんとも模範通り、脚本通り。
「嘘だったら、壊すわよ?」
文字通りの意味を込めて、絶奈は言った。
刺激的な言葉だと絶奈は思った。恋煩いを引き起こした女には似合わない刺激だ。これは、もっと違う場面で言うべきものであろう。けれども、│この言葉が今の場面で自分の言うべき言葉《・・・・・・・・・・・・・・・・・・》だと、彼女は確信していた。
星噛絶奈という人間はまともな愛など抱けない。
ああ、そんな事は彼女自身分かりきっているだろう。彼女を識っている人間からしても今更の話だ。
かつての恋い焦がれたあの時、そう気づいた。あの時の感情の欠片はまだ――いいや今も壮絶に燃え上がりながら自分の中に存在し続けているだろう。そうでなければ、そう、そうでなければ。
こんなにも自分は揺れていない。
絶奈は自分の内の感情に動揺などはしていない。冷静に受け入れている。ただ、その処理を決め兼ねていた。
目の前にいる男の子供を自分は孕んで、産んだ。そうしたいと思ってやった。
だが、かつて若き日に恋い焦がれた彼への想いは消えていない。
嗚呼、なんともまあ。
本当に、本当に。
ニタァと顔を歪めてしまう。
素敵。
本当に素敵。
彼女は嗤う。凄絶に、壮絶に、鮮烈に。
「嘘など無い。君に捧げるのは真実一つさ」
その笑みを見た影胤も仮面の奥で狂笑を深くして、言った。笑みの理由はただ一つ。
「やはり、君は素敵だよ、絶奈」
この言葉の通りだ。
ふふっ。
クックック……。
笑い出したのはどちらが最初だっただろうか。
気づけば互いに声を上げて笑い合っていた。魔人と異形。二人の人外は仄暗い闇の中で笑い声を上げる。ガストレアの死骸と灯りの色に、その二人が加わったそこはまるで冥府か何かに見えた。在るだけで死をばら撒く二人だからこその光景であろう。
抱きしめあうか寸前の距離にいた二人は自然と離れていた。別にそこに意図はない。極自然の動作で、意識すらしていなかった。
笑い声は止んでいた。闇に静寂が戻ってくる。
どこかで小さく、機械の動く音が鳴った。
「さて、私は少し出掛けてくる」
影胤は絶奈にそう告げ、彼女の脇を通って行った。
「何処へ?」
「君と私の邪魔なものを消す前準備をしに行くだけさ」
問に軽い口調で影胤は答え、
「愛してるよ、絶奈」
そう愛を囁いた彼は闇へ紛れて、見えなくなった。
その後姿を彼女は見つめ続けた。暫くの間、彼女は影胤が消えた後も、見つめ続けていた。
そして、小さく囁いた。
「私もよ、影胤」
踵を返した彼女は、影胤と反対方向へ歩みを進め始めた。この先に、彼女は用があるのだ。最初からその為にここに来ていたのだ。 歩き続ける。同じ様な通路を、水槽から放たれる不可思議な色の灯りに照らされながら、彼女は歩いてく。
そして、一つの金属の扉の前に辿り着いた。表面は傷だらけ、薄汚れ、錆付きもしている。鍵すらなく、セキュリティの要素は皆無だ。ただ、この扉は、その役割を全うしていた。
絶奈はドアノブに手を掛けて捻り、押し開いた。接合部か、扉全体か。兎に角、扉が軋む音がしたが、彼女は気にせず、そのまま扉を開けた。
部屋は先の通路にあったものと同じ水槽が一つだけあった。その水槽は液体で満たされている。灯りは仄かで、闇を照らすのには微弱すぎた。
歩み寄り、彼女は水槽を片手で撫でた。ガラスと指が擦れる音がする。愛おしげに、彼女は水槽をもう一度、撫でた。綺麗に磨かれているガラスには何故か指紋すらつかない。
「ふふ」
小さく彼女は笑った。それは微笑。彼と自分の間に存在する縁。ここから彼へと繋がる。そう思うと、体が熱くなってくる。体の芯から、熱が這い上がってくるのを感じる。その熱は、心を狂わせる。狂い狂った心を更に深い狂気へと誘う熱だ。呑まれてしまえば本当の意味で堕ちてしまう。
この熱は恋の病からくるもの。
茹だるほどの熱に脳の回路は焼き切れる。病は心に巣食い、感情のままに脳を貪る。そうして、全てを恋へ捧げる様仕向けるのだ。 それがこの熱の原因である恋の病。
不治の病にして、人を狂わす最大要因。
そして、彼女はこの病を受け入れている。
茹だる様な熱に浮かされ、心を狂気に捧げている。
ここまで来ればもう、そう。
彼女は止められない。
いいや、既に彼女は走り始めているのだ。
その狂走は遥か過去から始まっている。
真九郎、そして、九鳳院紫の平穏を狂気の元に引き裂き、砕いたあの時よりも更に前から。
初めて、紅真九郎と出会ったあの時。
そこから彼女はずっと、休むことなく走り続けている。
「やっと会えるよ」
彼女は嗤う。
「君と私の愛しい彼に」
水槽へ話しかける。するとごぽりと中で何かが水を揺らす音が聞こえた。
絶奈は笑みを深くする。
「嫉妬してる? 先に会った私に」
中で反応している。嫉妬している。焦がれているのが絶奈にはよく分かった。自分がそうだったから。一度会った今でもそうだから。会いたくてたまらないから。
「大丈夫、すぐに会える、必ず会える」
嗚呼、そうだ。私も今すぐに会いたい。
水槽の中が騒がしくなる。出たいのだろう。出してあげたい。なら、そうだ。
決断する、もういいだろう。頃合いだろう。もう止められない。彼女達は決めたのだ。今、今すぐに初めると。そう決定した。これはもう誰にも止めることなど出来ない。影胤であろうと、真九郎であろうと。絶対に
何故なら、彼女達はそう。彼女達は――――、
「うん、今すぐ初めよう」
壊れた私達の恋唄を彼に捧げよう。
世界を滅ぼす唄を、私達で謳い上げよう。
絶奈は唄う様にそう言い、童女の様にころころと無邪気に笑った。
そして、ガラスが砕ける音がした。
――――恋する乙女だから。