kurenai・bullet   作:クルスロット

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第二十二話

 どす黒い血液を口元から垂らしながらも真九郎は、歯を食い縛り、力などもう入らないくらいに感覚の無い脚に鞭打って、無理矢理立っていた。

 掠れた音と共に食い縛った歯の隙間から、掠れたか細い呼吸が溢れる。今の真九郎には呼吸すら難しい域に入ろうとしていた。

 

 その彼が身に纏った黒のスーツは、赤黒く染まり、下に来ているYシャツなど白の部分がほとんど見えないくらいに赤色に染まっている。腹部の辺りは、スーツと下のYシャツに肌着まで破け、覗く腹には赤黒い痣が大きく出来上がっていた。全身各所からは、皮膚を突き破り、先端が鋭利な刃物の様になっている骨が幾つか飛び出ていた。

 

 中身も相当に酷い事になっているだろう。折れた骨は内蔵を損傷してい

るのは勿論、幾つかの臓器は破裂し、機能を停止している。 まさに死に体。常人ならば苦痛の前に、絶叫でも上げて気絶し、それから数分もすれば間違いなく死亡――いや、それどころか倒れた際の衝撃で、折れた骨が心臓を貫く可能性もある。

 

 そもそも、これは即死していてもおかしくない。

 

 そもそも、絶奈の先の一撃を受けて、人の形を保っていられる筈がない。あの一撃は、ステージⅤはどうか分からないが、ステージⅣくらいなら木っ端微塵にするだろう。

 

 実際、立っている事すら奇跡。意識を保っているのは、真九郎の鍛え抜かれた精神があってこそ。

 人の形を保てているのは、真九郎だからこそだ。

 

 

 「巫山戯る、なよ……!!」

 

 

 唸るように真九郎は言葉を吐き出す。同時に、赤い唾が空を横切った。彼の目は真っ赤に血走って真紅に染まり、額辺りに入った傷跡から垂れる血で赤に染まった顔は鬼の如き形相を浮かべていた。

 獅子すら退け、ガストレアですら危機を覚えるであろう程の威圧を彼はばら撒く。

 怒りの源は無論、先ほどの絶奈の一撃にある。彼女がその一撃を放つのに使ったそれ、真九郎の誇りを踏み躙り、彼が継いできた想いを穢すのには十分過ぎたのだ。

 しかし、絶奈には効果は見えない。むしろこの女にとっては逆効果。

 喜色満面な笑みで喜んでいた。

 

 

 「素敵、素敵。凄く素敵。嗚呼、やっぱり君は私の王子さまね」

 

 

 笑う、嗤う、微笑う。頬を赤らめて、まるで恋する乙女の如く、彼女は真九郎の顔に両手を這わせる。

 その時、絶奈の全身各所から突き出ていた《崩月》の角、その模倣品は砂の様になって崩れ落ちていき、路上に積もった。それも一瞬吹いた風によってどこかへと散らばっていった。

 

 まあ、そんな事を気にする絶奈ではない。彼女はうっとりとした表情で、真九郎の顔に自分の顔を近づけていく。

 

 鼻先と鼻先が当たりそうになる距離。もう少しだけでも動けば唇と唇が触れ合う距離。

 真九郎は、身長の関係上、見下ろすようにして、絶奈を睨めつける。彼の殺意が視線を媒介して、彼女の瞳に繋がる。視線が力を持つなら、その目を貫き、脳髄を破壊するほどに強い力が篭っていた。

 けれど、彼女は先までと変わらぬ表情で、真九郎を見つめる。

 そうして、少しして。

 

 

 「ねえ、真紅郎くん」

 

 

 絶奈は口を開いた。笑みを湛えた妖艶な色付きの唇が味わうように、彼の名を呼ぶ。

 返答となる言葉は返らない。返ってくるのは多量の殺気だけ。

 

 

 「私さ、君のこと好きなのよね」

 

 

 息が掛かる。臭いはしない。無臭で、酷く人間味に欠けた息だった。

 

 

 「それで、ね。こう、さっき告白したわけなんだけど」

 

 

 言葉は続く。彼女は返答が欲しいから、言葉を途切らせる事がない。

 必死に彼の答えを、望む言葉を、『愛している』、『俺も好きだ』。そんな男らしい言葉が、顔を赤く染め上げて、胸を震わせ、あまりの感情の高まりに涙が零れそうになる言葉が欲しかった。 

 声が震えそうになるのを堪えて、絶奈は懸命に言葉を作る。

 

 

 「君は、どうかな……?」

 

 

 不安そうに、絶奈は尋ねる。大胆にこんな距離まで自分から近づいておいて難だけれど、高鳴り続ける心臓の鼓動音が五月蝿かった。耳元でどくんどくんと跳ねるように不安を示す音が堪らなくうっとおしくて、胸が張り裂けそうになる苦しさは一秒ごとに強くなっていく。 

 声は未だ返らない。真九郎は口を閉ざしたまま。

 

 ――そう、答えが届くことはない。

 

 ――だって、彼の答えは。

 

 

 「――――俺は」

 

 

 小さく、そう言う。絶奈の顔が目の前で輝きを持つのを、期待と不安に揺れる瞳を彼は直視する。

 

 少しだけ、ほんの、ほんの少しだけ真九郎は、何かがチクリと痛むのを感じた。だけど、それはきっと幻痛。この無邪気な狂気的邪悪に当てられただけ。

 

 だから。

 真九郎は、両の《角》へと火を入れ、瞬時に限界までフルスロット。力場が彼の背後で唸りを上げた。

 

 ――拒絶。

 

 ――言葉すら介さない、言葉なき力による拒絶でしかありえない。

 

 顔を逸らして彼女との見つめ合いを拒絶し、その身を打ち砕く一撃を《角》から拳に伝え、しっかりと拳の内に込め、懐へと踏み込むと共に、右の拳は放たれる。 

 

 

 「あんたの事が――」

 

 

 言葉は届かない。

 拳は既に彼女を彼方へと吹き飛ばしている。

 だから、これは多分独り言。血反吐をばら撒きながら、呟く、命を削る言葉の欠片。

 

 また一歩、真九郎は踏み込んだ。《角》が彼の背中を押す。途方も無い力が彼を加速させ、彼の命を削り取っていく。構わない――わけではない。だけど、そうしなければ届かないと彼は思った。だから、止まらない。

 疾走は瞬間的で、未だ空に居る絶奈の目の前に真九郎は刹那の間で辿り着いていた。

 

 けれど、それは絶奈もだった。

 新たに創造される《角》。模造品でしか無く、乱造品でしかないそれを用いる。力を出力するだけで崩れ落ちてしまうそれを彼女は使う。

 模造品から、無理矢理力が捻り出され、

 

 

 「そっか、君もそう思うのね!!」

 

 

 言葉の意味は届かない。絶奈の心に、彼の言葉の本質は伝わらない。

 視線に言葉を乗せることも、意思を乗せることも無い、刹那の間。

 

 二人の拳は放たれた。

 

 ひたすらに両拳を叩き込む。額に、頬に、顎に、胸に、腹に。

 互いを挽肉(ミンチ)にしても終わらぬ、拳撃と脚撃の雨霰。

 再生を繰り返す絶奈の躰は、繰り返す故にこの雨の中でも嗤い続ける。かつての星噛、いや、人類にはありえない現象。星噛絶奈という女が壊れ続けた果てにあったある種の到達点こそが彼女だった。

 

 ひたすらに強度を追求し、改造を重ね、研鑽を積んだ真九郎の体は再生し続ける絶奈のそれとは違い、消耗する一方でしか無い。しかし、彼はそれでも戦い続ける事のできる事。この頑強さ、しぶとさ。

 

 そう、それこそが彼の真骨頂だった。

 

 だから、だからこそ。

 

 

 「嬉しい、凄く嬉しい……!」

 

 

 絶奈の言葉に、無言で蹴りを放つ――絶奈の返しは蹴りだった。

 二人の実力は拮抗していた。

 だからこそだ。

 実力以外、物理的な干渉を齎さないものこそが、この戦況を覆せる。

 

 想いの差。

 

 この鬩ぎ合いを破壊する唯一つの手段であった。

 故に、彼は拳に最大の想いを乗せる。

 込めるものなど、最初から決まっているのだ。彼の胸の内にある、ひたすらに何よりも強烈なもの。

 

 ―― 一際大きく力場がうねり、唸りを上げた。

 

 憤怒が現出する。力その物と成ったそれは、拮抗という壁は拳を持って打ち砕かれる。

 絶奈の頭が消し飛ばされた。脳漿に鮮烈な赤と艶やかな赤毛が虚空に飛び散る。無論、再生は即座に始まる。脳漿も何もかもが一瞬で再構築される。

 けれどだ、例え絶奈の再生能力がガストレアを圧倒していたとしてもだ。

 構造は人だ。故に、意識と視界は頭が司る。

 

 ―― 収束、集束。

 

 刹那、瞬間、一コンマ以下。

 それだけで、真九郎には十分だった。

 

 ―― 音が、掻き消えた。

 

 再生しきった絶奈の瞳に浮かんでいたのは、悲嘆。

 その唇が作ったのは一言だけ。

 

 

 「どう、して――?」

 

 

 されど。

 彼は答えを返さない。

 故に。

 今、此処に。

 絶理の一撃は、理を超越する拳は打ち放たれる――。

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 拳を突き出したままの体勢で、真九郎は暫し、硬直した後、倒れ込――むことはなかった。

 寸前で踏み出し、その場に留まった。

 

 彼は地面に向いた上半身をどうにか持ち上げて、前を見る。二十メートル程先、そこに目標の教会があった。

 先の一撃により、周囲の廃墟は殆ど吹き飛んでいるというのに扉は閉ざされたままで、誰も出てくる様子はない。

 それから、少し先に散らばった何かに目をやる。

 それは残骸。

 星噛絶奈というものを構成していたものの成れの果て。

 ただ、終わったという一つの安堵に似たものが心中に浮かび上がってきた。

 

 ふと、目を自分の手にやる――と、そこで真九郎は持ち上げた手が酷く軽いのに気づいた。

 両肘を視界に映る位置に持ってきて、彼は自分の現状を識った。

 

 

 「――ああ、そうか」

 

 

 先程まで自分を支えていてくれていた力の源がたった今、砕け散った。そこには、根本だけを残した《角》の残骸があった。全力を、自分の全てを絞り切った結果がそこにはあった。

 躰が重い。《角》を失った彼は、満身創痍の自分の躰にそんな感想を抱く。

 

 

 「すみません、師匠、夕乃さん」

 

 

 授かった、貰い受けた力を使い果たした真九郎はまず授けてくれた人達へ小さく謝罪の言葉を零した。

 

 

 「――ありがとうございました」

 

 

 また、ちゃんと御礼言いに行かなくちゃなと心の中に彼は留めて、真九郎は再び、目の前の扉に目をやった。重厚な木製の扉。金属部には錆が入り、木自体も朽ちかけている。そんな見窄らしい見た目の扉を見つめた。

 

 

 「もうひと頑張り、しなきゃな」

 

 

 独り言を漏らしながら、真九郎はぼろぼろの躰を引き摺るようにして、前へと向かわせる。ゆっくりと確かに彼は歩みを進めていく。止まることは無い。足取りは危ういけれど、前に進む絶対の意思がそこにあった。

 絶奈の欠片を超えて、教会との距離が五メートル程になった時。

 

 

 「あっ――」

 

 

 反射的に声を上げた。地面が迫ってくる。躰は声ほど反射的に動いてくれない。それほどに彼の躰は限界に近い。そもそも、生きている事すら不思議な状態だが。

 重力に引かれた躰が地面に叩き付けられた。一瞬、視界が黒く染まるけれど、真九郎は痛みももう何も感じられなかった。全身の感覚が遠のいていくような気がした。

 でも、真九郎は立ち上がるために両腕に力を込めた。激痛が走り続ける躰へとさらに鞭を打つ。

 

 

 「もう少しだけ、今動いてくれ。まだ何も終わっていないから」

 

 

 自分の躰へ励ますような言葉を呟く。

 どうにか上半身を持ち上げた。けれど、直ぐに限界を迎えて、躰は再び地につく。

 

 

 「くっそ……!」

 

 

 立てよ、立ってくれよ。祈りは届かない。腕に力を込めても空を切るような空虚な感覚と肉が裂ける痛みが残るだけ。脚に至っては力を込めようにも感覚がない。痛みすらそこには存在しない。まるで、自分の躰に空白が出来たように真九郎は感じた。

 

 それでも、彼は這いつくばりながら無理矢理前に動く。

 そうして、漸く、扉の前に辿り着いた真九郎は、扉を押す――けれどびくともしない。どうやらそれ程に弱ってるらしい。思わず、扉の開閉すら出来ない自分の無様さに彼は苦笑を零す。

 

 そんな時。

 

 真九郎は背後に誰かの足音を聞いた。振り向くことすら出来ずに、誰だ?と思う彼の視界に足音の主であろう誰かの靴が入ってきた。

 

 

 「あんた、そんなところで寝てると風邪引くぞ」

 

 

 声は聞き覚えがあった。差し出された手は黒に染まっていた。まるで、いいや金属その物だ。真九郎は首をどうにかこうにか動かして、声の方へ手の主の方に目を向ける。

 

 

 「里見、くん」

 

 

 そこにあったのは、煤と傷に塗れた蓮太郎の姿。隣には心配そうな表情を浮かべた延珠。

 

 

 「ていうか、あんたよく生きてるな……」

 

 

 「頑丈さと生命力は取り柄だから、ね」

 

 

 真九郎の全身を見渡して驚愕する蓮太郎に、真九郎は苦笑を返す。

 

 

 「それはそれとして、ちょっと、手を貸してもらえないかな。この通り、自分じゃもう歩けなくてさ」

 

 

 けれども、既に躰の各所の感覚はなく、そろそろ限界も近い。意識も落ちてしまいそうだと真九郎は自身の状態を把握すると蓮太郎に助けを求めた。

 

 

 「最初からそのつもりだよ」

 

 

 にやりと笑って、蓮太郎は真九郎の手をとって、肩を貸した。

 

 

 「ありがとう。今度なにか御礼でもするよ」、

 

 

 「じゃあ、飯でも奢ってもらおうかな」

 

 

 冗談交じりに蓮太郎はそう言うと、

 

 

 「さて、この中で良いんだよな。例のスーツケースに巨蟹宮(キャンサー)の居場所っていうのは」

 

 

 蓮太郎の問に、真九郎は頷いてみせる。それを見て、蓮太郎は目の前の扉に空いた片手を充てがい、力を込めた。少し錆び付いていて、開きにくい。

 彼自身も中々に消耗しており、真九郎に肩を貸しているのもあってか力を思うように出せなかった。

 

 

 「蓮太郎! 妾に任せておれ!」

 

 

 という延珠の提案に蓮太郎は扉から少しばかり離れた。それを同意と取った延珠は扉の前に立つと軽くステップを踏んで、目を赤く染めると瞬時、強烈な廻し蹴りを扉へ叩き込んだ。両の扉が中腹から割れて、罅が入っていったと思えば開き切ったそこで原型を残さないほどにバラバラになった。

 

 

 「……中々豪快な扉の開け方をする相棒だね」

 

 

 面白そうに延珠を見ながら、真九郎は蓮太郎にそんな事を言う。

 

 

 「まあ、自慢の相棒だよ」

 

 

 誇らしげに言っておいてから、蓮太郎は若干の苦笑を零した。

 

 

 「――ところで、頼みがあるんだけど、良いかな」

 

 

 真九郎の声が先とは打って変わって、全く違う色を帯びていた。彼の真剣な声色に蓮太郎は顔を引き締め、頷いた。

 

 

 「ああ、ありがとう」

 

 

 少しの間を置いて、彼は蓮太郎の目を確りと見据えて、言葉を作った。

 

 

 「君の銃を、何発分、いや弾倉(マガジン)一本分程貸して欲しい」

 

 

 勿論、後で弾代は返すし、新しく銃自体も調達していい。そう後から付け加えて、

 

 

 「どうかな?」

 

 

 そう蓮太郎に訊く。

 

 

 「…………何に、使うんだ?」

 

 

 少しの沈黙の後、返ってきたの言葉は一つの疑問。あって当然の疑問で、唐突に銃を貸してくれなどと曰ったのなら、そう返されるのは当たり前だろう。

 

 

 「……巨蟹宮(キャンサー)を、殺す」

 

 

 真九郎の答えを蓮太郎は予想出来ていた。そもそも、これから銃が必要になる事などこれ一つしか無い。

 

 腰のホルスターに左手をやると愛銃が指先に触れた。何時もの感触、慣れ親しんだ重み。それを感じてから、真九郎に言葉を作る。 

 

「あんたとあれの間に何があるか、関係性とか因縁とかは、まあ、聞かない。

聞いたところで、俺に何か言えるわけでもないだろうし、きっと無駄だ」

 

 確信があった。この様子から見れば直ぐに蓮太郎でも解る。並々ならぬ、浅からぬ因縁があるんだろう。それに口を出せるほど蓮太郎は賢くない。

 

 

 「それに、あんたはもう答えを出しているみたいだし」

 

 

 そこで言葉を留めた蓮太郎は、腰のホルスターからXDを取り出すと銃身の方へと持ち替え、銃把(グリップ)を真九郎の方へ差し出した。

 

 

 「ほら、大事に使ってくれよ?」

 

 

 「――ああ、ありがとう」

 

 

 受け取った真九郎は手の中にあるXDを見つめる。

 銃というものを扱うのは初めてではない。並以上には撃てるように訓練だけはしてきている。そもそも紅香がこの手の専門家の一人で、商売道具に使っているのだ。その薫陶を受けた真九郎が使えない筈がない。

 

 

 「…………行こうか」

 

 

 真九郎の言葉を合図に、彼は教会へと一歩踏み出した。

 最初に、延珠。次に真九郎と蓮太郎という順で、三人は教会の入り口を潜った。戦闘の、今一番戦闘能力を残している彼女が警戒にあたっていた。

 

 

 「やっと、来てくれたのだな、真九郎」

 

 

 声がしたのは教会の奥、大きく、美しかったであろうステンドグラスが嵌めこまれたていただろうそこの下に設置されている祭壇に、声の主の姿はあった。

 視界に捉えた真九郎の顔が小さく歪み、隠し切れない感情が零れ落ちていく。

 

 

 「待っていたぞ、真九郎」

 

 

 ドレスを纏った彼女は、九鳳院紫と名乗り続け、自らをそう思い続ける巨蟹宮(キャンサー)は太陽のような笑みを浮かべていた。

 

 

 「……あれが、巨蟹宮(キャンサー)か」

 

 

 一応、作戦会議の際に巨蟹宮(キャンサー)の姿形は確認していた。こんな小さな女の子が……。と蓮太郎も思った。延珠とほとんど変わらない年代の見た目をした女の子を、いや巨蟹宮(キャンサー)を撃てるだろうかと自問自答した。

 

 実際、襲ってくれば間違いなく撃つだろう。躊躇いなどなく頭部に叩きこめる自信がある。

 

 しかし、あんな風にして無邪気に笑う巨蟹宮(キャンサー)に弾丸を放つ事が出来るか――?

 

 今回は、真九郎に任せた。だが、またこんな事が起こった時に自分はやれるのか。

 

 蓮太郎の思考は巡る。視界は巨蟹宮(キャンサー)を捉えたまま。

 まだ、現状に動きはなかった。ちらりと蓮太郎は隣の真九郎へと目をやる。そこには言葉では現せぬ複雑怪奇な感情を浮かべた真九郎の顔がある。

 

 やはり、動きはない。

 と思った直後。

 

 

 「ああ、来たよ。巨蟹宮(キャンサー)

 

 

 真九郎が口を開いた。それから、彼は蓮太郎の肩から手を離すと、ふらつきながらもどうにかこにか巨蟹宮(キャンサー)の方へと歩み始めた。並ぶ木製の椅子を手摺代わりにして、少しずつ彼は進んでいく。

 

 

 「紫って、呼んでくれないのか? 真九郎」

 

 

 寂しげに不満げに巨蟹宮(キャンサー)は頬を軽く膨らませる。

 

 

 「あの子はもう死んだ。紫はもうこの世には居ない。ああ、そうだ。君は――」

 

 

 軽く咳き込みながらも呼吸を落ち着かせて真九郎は、どうにかこうにか言葉を作る。もう意識すら保てない筈なのに意志力のみで彼は自らを動かしているといっても過言ではなかった。

 

 

 「九鳳院紫じゃない。君は、巨蟹宮(キャンサー)だ。ガストレアのステージⅤ。史上最悪のガストレアの一体だ」

 

 

 「私は、九鳳院紫ではない、と真九郎は言うのか」

 

 

 「……ああ、そうだ」

 

 

 距離は縮まっていた。彼と彼女の距離は五メートル程。既にXDの安全装置は外され、遊底(スライド)は引かれ、薬室に初弾が送り込まれている。

 

 

 「そう、か……」

 

 

 巨蟹宮(キャンサー)はゆっくりと瞳を閉じて、またゆっくりと開いた。その双眸に映るのは、冷たい輝きを纏うXD拳銃と見下ろす真九郎の姿。

 そして、彼の指は既に、引鉄(トリガー)に掛けられていた。

 

 

 「――さようなら、真九郎」

 

 

 微笑みを浮かべて彼女は、暫し、真九郎の姿をその瞳に焼き付ける様に見つめると再び、瞳を閉じた。

 

 二度と彼と彼女が言葉を交わすことはない。

 

 既に、静かに引鉄(トリガー)は引かれている。

 

 銃声が冷たい大気を揺らす。何度も何度も引鉄(トリガー)は引かれる。それこそ、弾倉(マガジン)が空になるまで銃声は教会に響き渡っていった。

 静寂が世界に戻ってきた頃、残っていたのは、赤色に染まり、顔を無くして冷たくなった矮躯。

 XD拳銃を手から落として、後ろへと背中から受け身を取ることも出来ず倒れ込んだ真九郎。

 

 ただ、見守るしか出来なかった蓮太郎と延珠の二人。

 そして、ただ静かに鎮座し続ける銀色のスーツケースだけだった。

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 

 夜明けが来た。

 地平の向こうから、日が昇ってくる。誰もがその輝きに見惚れていた。

 ああ、生き残れたのだと。生きていられるのだと。明日をまた望んでも良いのだと。そんな風に、朝日を前にした人々は希望の輝きを胸に抱いた。

 星噛絶奈という脅威が去ったとしても、ガストレアとの戦いは終わらない。

 人の闘争は終わらない。未来永劫、彼らはどちらかがどちらかを根絶させるまで終わらない。

 人の安寧はまだ遠い。

 けれど。

 今、この瞬間くらいは人にとっての平穏足り得るかもしれない。

 故に朝日は昇る。

 天高く太陽は昇り、人は漸く朝を迎えた。

 


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