kurenai・bullet   作:クルスロット

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第十一話

 同刻。

 ショッピングモールにて。

 

 「「「■■■■■ッッッッ!!!!」」」

 

 人類の有する言語に変換不可能。常人の心を圧し折り、剣を、銃を、武器を取らせる原因になるそれは、人にとっての根源的な恐怖を喚起させ、同種でしか理解出来ない咆哮。それが三度、共鳴するように大気を揺らした。

 此処には、三体のガストレアが居た。

 

 一階にいたガストレアは少しばかり人の形を保っていた。保っていたというには、些か語弊が生じるかも知れない。

 そのガストレアは元々依代にしていた人の躰の背中から今の躰を外へと出していた。つまるところ、人の形をした肉塊をそのガストレアはぶら下げているのだ。背から、多量の手足、小さな口や目玉の付いた触手を生やしいる。それでいてその抜け殻のような人の躰が機能していないと思えば、そんな事は無く、殆ど正常に機能しているらしく、瞼は大きく見開かれ、その中に収まった赤い眼球が周囲を落ち着きなくぎょろぎょろと見回している。あと、どうやら、その手足地味た触手群は伸縮自在のようで、それらを用いた奇妙な歩法でこのガストレアはショッピングモール内を徘徊していた。中央に鎮座する人型の口から時折発せられる鳴き声は、まるで金属同士が擦り合う様に甲高く、耳障りであった。モデルで言えば、なんであろうか。奇々怪々と言った容姿の為、表せる言葉が見当たらない。仮称するならば、やはり、モデルヒューマンだろう。一番、近しい見た目をしているのが人間であるからにして、仮でもこう呼称する事になるのはどこか複雑なものがあった。

 

 二階にいる一体。それは既に人の形を欠片も残していなかった。これはモデルで言うのは容易いだろう。

 恐らく、アリゲーターも因子を主体にしたステージⅡ。全体を見れば巨大なワニだが、普通に考えてワニにはあり得ないものが複数付いている。一つは、その巨躯を支える六本の足、そして、多数の、全身に張り巡らされた人の目の様な形状をした目。常人サイズの目がその躰中に乱雑に貼り付けられていた。アリゲーターの顔には赤目が幾つかあるがそれも、躰中のそれと同じだった。どうやらその目は見た目以上に索敵能力が高いらしく、アリゲーターは自らの遥か後方に居た獲物(人間)を一瞬で発見していた。そして、その位置を瞬時に把握し、その身に余りある身体能力を用い、即座に行動へと移っていた。逃げる男にアリゲーターは、瞬時に追いつき、その足で薙ぎ払った。見事に命中。傍の服屋に男の躰が勢い良く突っ込んでいった。そして、アリゲーターはのそのそと先の俊敏さの正反対の動きをして、男に近寄り、顎を大きく開いた。後はもう、分かりきった事だろう。

 

 三階、最後のガストレア。それが、最も此処での犠牲者を増やしている要因と言える。

 それは、大型犬サイズの真っ黒な毛を纏った4足歩行だった。そこだけはまだ普通のガストレアにもよくいるものだろう。モデルドッグやモデルウルフといったもの。しかし、それの顔面は犬や猫と言ったものではなく、人間の顔をしていた。ただ、人間の顔をしているというわけではなく、その口は大きく横に裂けている。ちらりと伺えるその口内は非常に鋭い牙が乱立していて、どうにも酷く狂気的で、効率的な。しかし、他のガストレア達に比べればまだシンプルな姿をしていた。

 しかし、これ一体なら問題はない。

 人面犬ガストレアは、何かを嗅ぎ付けた様に顔を天井へ向け、ヒクヒクと動かした。と、同時に駈け出した。その先には、走る男女三人組、恐らく、親子なのだろう。夫らしき三十代後半と思わしき男、夫と大体同じ年齢であろう妻。そして、その二人の間に生まれたであろう十歳前後に見える男の子。 

 息子を、妻を励ましながら夫はその息子を抱え、愛する妻の手を引きながら走っている。必死の形相で、此処を抜け出し、生き残るために他者の肉片を踏み潰し、血溜まりを踏み越えながら駆ける。

 しかし、悲しいかな。

 現実は実に非情だ。

 このガストレア以外のガストレアなら可能性は五分五分だが、逃げ切れただろう。そうそれで逃げ切れる可能性は充分だ。

 そう、このガストレア以外、ならだ。

 親子の足が止まった。彼らの必死の形相が絶望に塗り潰された。顔を大きく歪ませて、妻がぺたりと床に尻を着き、股間から暖かな液体を漏らした。夫は顔面を真っさらに漂白され、力が抜けたように膝を付いた。彼らの息子は現実を処理しきれずそれを、自分達の前に立ち塞がった、自分達を追い掛けていたガストレア(・・・・・・・・・・・・・・・・)と瓜二つのガストレア(・・・・・・・・・・)を見つめていた。

 そこへ、後ろから追い掛けて来ていたガストレアが合流した。そして、さらに、もう一体、ニ体、三体、四体――――。

 増えていく、増えていく、増えていく。

 彼らの前で、そのガストレアはその数を増やしていく。

 それは大体二十体前後で止まった。

 直後。

 血で血を洗う様な地獄、食事(捕食)と呼ばれるそれが始まった。

 引き裂くような悲鳴と痛みに満ちた絶叫と嗚咽混じりの懇願を肉を喰らい、骨を砕き、内臓を引き摺り出し、血を啜る音が掻き消していった。

 この四足歩行のガストレアは、群れを取るガストレアではない。このガストレアは、群衆生命体、即ち、群にして個。全て分裂体でしかないのだ。このサイズが最小というわけでもなく、最小は鼠ほどのサイズ。つまり、此処から倍以上に数が膨れ上がるということだ。何故、それをしていないか。してしまえば、あっという間に此処の獲物を狩り尽くしてしまうからだ。恐らく、このガストレアは狩りという行動を愉しんでおり、達成感を覚えているのだ。外へ出れば同族や狩れない獲物が増えるということを直感的に感じ、今は目の前の獲物で愉しむ事にしているのだろう。

 

 ショッピングモールの犠牲者が増えているのは、これのおかげであるのは目に見えて明白だった。

 このガストレア達、どれもが何故か人間だった名残を残しているものばかりだった。見るに耐えない醜悪さだ。その原因はこれらが星噛により造り出された代物だからだ。元は人型で存在する様にガストレアとして産み出されたものの失敗作。故に、こんな醜い外見をしているのだろう。

 造り出した星噛ですら理解し難い現象であったが、これを放った絶奈はそれなりの成果を出せるだけで充分だった為、気にも留めなかった。

 これらのガストレア。それを前にし、脅威に震え、慄き、身を潜める者達は少ないが此処には存在している。

 誰もが恐怖に震え、脅威に怯え、助けを求めていた。

 そんな一人が此処に居た。

 ニ階、その隅に存在する小さな雑貨屋。そのカウンターの影で、逃げ遅れた少女は一人、恐怖に歯をガチガチと打ち鳴らしながら震えていた。

 先の咆哮からして、ガストレアは近づいている。それを彼女は感じていた。

 彼女、工藤綾は今日、母親の誕生日プレゼントを買いに来ていた。前から母親が気に入りそうだと思っていた置き時計をこの雑貨屋に買いに来た、そう、そこまでは良かった。ピアノのレッスンの帰りで少し急ぎながらも辿り着き、商品を手に取って、レジに向かおうとしていた矢先。放送、そして、ガストレアが出現した。

 最悪だった。昔、誘拐され、同じ人間に殺されかけたけれど、これに比べれば――――いや、比べるなんて出来ない。なぜなら、どちらも怖い。怖いのだ。言葉に、ましてや喩えなど出来るはずがない。ただ、怖く、そして、生きたい。此処から逃げたい。平穏へ戻りたい。

 そんな感情が、衝動が彼女の内側を満たしていた。

 人として当たり前の本能が彼女の中で、その脳髄で渦巻き、その双眸の瞳孔が細かく、震える様に左右上下斜めと揺れ動く。

 彼女は先の咆哮を受け、ややパニックになっていた。そして、思考が、脳に張り巡らされた神経が一つの答えを出力した。

 単純解明。この状況で、誰もが考える事。

 逃げる

 逃げ出そう。

 逃げなければ。

 震えながら、覚束ない足をカウンターの端を掴む事で、彼女は無理矢理立たせようとする。

 が、しかし。

 カウンターを掴み損ねて、その代わりにカウンターに敷かれていたカバーを引っ張り、そのまま。

 

 「あっ」

 

 目を大きく見開いた綾は、自分が床に向かっていくのがスローモーションで見えた。

 盛大に転んだ。カウンターの上に載っていたものを巻き添えにし、盛大に音を響かせて。

 沈黙が周囲を満たしていた。綾は自然と息を止めていた。嫌な予感。警報が、頭の中でグルグルと赤く光り、鳴り響く。

 そこで、彼女は逃げなければとまた、立ち上がった。今度は震えていなかった。

 だが。

 何か何かを引き摺るような音がした。

 立ち上がった綾は、そのまま固まり、ゆっくりと後ろを向いた――――。

 そこには。

 此方に向いて、口元を三日月状に引き裂いた何かが居た。触手、そう、それだ。それが此方を見ていた。何本もの触手の先に空いた黒々とした底無しの深淵が彼女を見つめていた。無貌の闇の奥で、僅かな光を受けて姿を見せたのは形容しがたき無数の牙。

 刹那、彼女は走り出していた。それと同時に触手が彼女目掛け、風切り音と共に疾駆した。が、そのガストレアを阻むように、彼女は柱や商品棚を盾にする。しかしだ、その程度で、ガストレアは止まらない。商品棚程度なら貫かれ、分厚いコンクリートの柱を抉り取りながら迂回し、触手は彼女を追う。その彼女は目の前にあった商品棚を無理矢理、それこそ火事場の馬鹿力で押し倒し、そこから店の外へと逃げ出し、入り口が在るであろう方向へ必死で走り出した。

 がしかし、その速度は文化系のそれ以下であり、けれども運動が苦手な綾にとってはそれが全力で、幾ら血溜まりへ踏み込み、飛び散らせ、肉片を蹴り、出口を求め必死に走ったとしても彼女の前に、ガストレア、モデルヒューマンが回り込むのは酷く容易だった。 あまりにも異様な、テレビや写真で見た事のある動物や昆虫をモデルにしたガストレアとは大きく違う醜く、R-18Gな感じの悪趣味なモンスターの様な姿に小さく悲鳴を上げ、綾は、非ぬ方向へ、自らも把握しきれていない方へ足を向けていた。

 そうなってはもう、袋のネズミと同然だったのだろう。必死に走るも彼女は何時の間にか追い詰められ、傍にあったゲームセンターの中へ逃げ込んだ。

 普段は苦手で近づかないゲームセンターの奥へ、奥へと彼女は転がるように走る。追い詰めるように、愉しむようにその後をモデルヒューマンは追う。

 大量の整列された一部の物好きや子供達に人気のあるカプセルトレイを彼女へ投げ付け、最近流行りのガストレアを対象にしたガンシューティングの画面を突き破り、何時も何時の時代も騒がしく鳴り響くコインゲームの筐体薙ぎ倒し、モデルヒューマンは奥へ進む。

 綾と言えば体勢を低くとり、必死に此方へそれらが飛んでこない様祈りながら逃げまわるしか無かった。

 しかし、綾の逃亡劇も此処までだった

 何かのゲーム筐体が綾の躰の傍に突き立った。衝撃を受け、やや躰が宙に浮いていた。それから転がるよう、いや、転んでいた。彼女は息絶え絶えで、床を這っていく。そうして、何かしらの筐体の下を這って、ガストレアの視界から外れようとしていた。

 

 「……何をやってるんですか?」

 

そんな彼女を誰かが見ていた。声は高めで柔らかというよりも、おっとりとした調子の敬語。声の主は女だろう。

 

 「…………へ?」

 

 思わず声の方を、綾は見ていた。

 そこには、筐体の下に顔を覗きこんでいる派手なペイントの入ったTシャツに、イエローの薄手のマフラーを首に巻き付けた茶髪をサイドテールで纒めた女の姿があった。体型はスレンダーで、挑発的なホットパンツから伸びる足は長く綺麗で傷の一つもない。詰まるところ中々にスタイルが良かった。綾を見つめるその目は眠そうな伏目がちで、不思議そうな表情を浮かべていた。

 

 「え、あ、ああ! な、何してるの、こんな所で!!」

 

 綾はそんな呑気な女に思わず憤ってしまい、声を荒らげ、叫んでいた。それに女は目を丸くしている。どうやらこの女は、この東京エリアで今何が起こっているのか理解していないらしい。

 それは致命的だ。あれだけ大々的に声明を上げていたというのに、何故気付いていないのか。

 

 「……ああ、なるほど。そういうことですか」

 

 そんな綾を尻目に、女はそう納得したように言った。その目は、既に綾には向けられていなかった。と、その時。何かを引き摺る様な音が綾の鼓膜を震わせた。

 ビクリと躰を震わせ、その音の方へと綾は、ゆっくりと振り向き――――悲鳴を上げた。

 直ぐ傍。歩いて数歩。その距離にモデルヒューマンは居た。無数に生えた触手群のカーテンの向こうで、人の形をした肉塊がその赤い眼球を細め、口元を大きく歪ませていたのを、そう、愉しげに嗤っていたのを綾は確かに見た。

 

 「……通りで、人が来ないと思いました。ふぁっくです」

 

 女は綾の悲鳴にもモデルヒューマンにも動じず、棒読みの英語と共に愚痴を零した。

 

 「にげ、なきゃ……!!」

 

 常人ならば折れていただろう。しかし綾はまだ折れていなかった。この脅威を前にしても、醜悪なる怪物を前にしても生にしがみついていた。死にたくない。だから、逃げよう。そう彼女の本能と心と思考は叫んでいた。

 しかし、現実は冷たく非情だ。そんな緩慢な動きでは、死神からは逃れられない。

 モデルヒューマンの触手が不協和音と共に、二人目掛けて放たれた。それは、まるで杭打ち機(パイルバンカー)の如き様相。それ相応の威力を伴っているのは明白だった。もしこれが命中すれば、人間の軟な躰など目も当てれぬミンチと化すだろう。

 それに綾は声を上げる間も無く、ただ、その大きな双眸を見開いているしか出来なかった――――。

 

 

 

 だが。

 

 

 

 彼女に振るわれた死神の鎌は。

 振り下ろされること無く。

 一閃の刃の下で。

 無残に斬り断たれた。

 音は一瞬。残影は無数であり、其れ等全てが照明を反射したクロムの煌めき。あまりにも鋭い刃鳴りは、ゲームセンターに満ちた騒音すら斬り裂いていた。

 スローモーションの世界の中で、刹那の内にその身から発する気配を変異させた女は鋭い、刃の如き瞳をしていた。目の前で何が起こったのか理解すら、理解も出来ない哀れなものを見下ろして、

 

 「……ハッ」

 

 彼女は短く笑い。

 その手を一閃させた。

 

 「脆いぞ、ガストレア」

 

 巨体が、人型の肉塊のみが地に落ち、鈍い音が響くも、ゲームセンターの騒音に掻き消されていく。触手は全て斬り落とされた。それらは全て無力で、無意味だった。再生をする様子は無い。何故か。簡単だ。そうバラニウムにより造られた刃を持って斬り裂かれたのだ。再生できる道理がないし、未来も無い。ギョロリと目を動かし、ガストレアは女を見上げた。その赤い眼球に宿る感情はなにか。読み取れなどしない。赤い目玉に、女の姿が映り込む。

 そんなガストレアの傍に、その女は歩み寄り。

 殺ってみろよ。抗ってみろよ。喰ってみろよ。

 挑発を放ち、嘲笑混じりに女は、地に付したガストレアを足蹴にして、

 

 「fuck you」

 

 そのナイフ(ギロチン)は、ガストレアの()を無慈悲に一閃した。

 綾は呆然とその一部始終を見ていた。生死の境目、一寸先は闇であったのに、次の瞬間には、闇は取り払われ、ガストレア(狩る側)(狩られる側)の位置は綺麗に入れ替わってしまっていた。

 兎も角、彼女は生き残れたことに安堵していた。

 目の前の女性は、きっと民警とかなのだろう。綾はそんな風に納得していた。

 

 「おい、あんた」

 

 女は、綾の方へ振り向いた。その瞳と口調は先の弱々しく、のんびりとした印象の彼女とは掛け離れていた。正に真逆。刃の如き、否、刃そのもののだった。彼女の言葉と心とその目と手足は、刃。それそのものだった。だからだろうか、それら全ての前に晒された綾は明確な死を感じ取っていた。首の根元に、眼球の目の前に、その全身に。彼女は、刃先が皮膚の一寸手前で突き付けられているかの様に感じていた。

 

 「な、なんですか?」

 

 綾はそれに驚きながら、反射的にそう言っていた。

 

 「ガストレア、まだ此処に居るのか?」

 

 どうも、彼女はガストレアが東京エリア全域に放たれた事を識らないらしい。聞き逃したのか、聞いていなかったのか。まあ、どちらでも良いが。

 それに綾は気付き、先ほど流れた放送の内容を一字一句伝えた。話を進める内に、目の前の女の表情が非常に兇悪になっていくのに一抹の不安を覚えつつも、綾は彼女へ全て伝えた。

 

 「ああ、ふむふむ、なるほどなぁ……」

 

 口元を嗜虐的に歪めながら、女はバラニウム製のナイフを弄びながら、格闘ゲームの筐体に腰掛け、何かを思案し始めた。

 

 「よしっ」

 

 一分経ったか経たぬ内に女は結論が出たのか、軽く足を振った勢いで筐体から降りた。床に体育座りしていた綾は、女の声を聞き、彼女を見上げた刹那。

 一つの茶色い何かが彼女らの目掛け飛んできた。

 しかし、それも空中で細切れ肉になり、勢いを殺す足が消滅した今、慣性のままにそれらは非ぬ方向へと飛び散っていくしか出来なかった。

 

 「ああ、お出ましか」

 

 愉しげに嘲笑う女と裏腹に、綾はもう恐怖のあまり気絶してしまいと思っていた。この現実から逃げられるのなら、それも一つの手だろう。

 そんな彼女の事など気にもせずに、女は先ほど細切れにしたのと同じ人面犬ガストレアの群れへと向かっていく。先ほどまで降りて来なかったはずのそれが来ているのは、恐らく、二階のガストレアが死亡し、二階全域に空白地帯が出来上がったのに気付いたからだ。その背後に人面犬ガストレアの数倍以上はある巨体、モデルアリゲーターが床に敷き詰められたパネルを軋ませながら現れた。それらの目は確かに切彦を捉えている。宿る色は敵意のみ。 

 

 「あ、あの!」

 

 呼吸もままならない、今にも意識が飛んでしまいそうな状態で綾は思わずその女を呼んでいた。縋りつくような相手ではないということは分かっていた。ただ、一つ識りたかったのだ。

 

 「貴女の名前、教えてください! あ、わ、私は工藤綾って言います!

 貴女は――?」

 

 言葉を、鈍い思考の中で彼女は言葉を組み上げて、その女へとそう問うた。

 只、彼女は、恩人の名を。助けてくれた人の名を識りたかった。きっと、彼女はこのまま此処から居なくなってしまう。しかし、いつか、出会った時にその御礼をしたいから。

 声に答え、振り向いた女は驚いたように目を丸くし、少しの間、沈黙していた。それから彼女は口を開いて、

 

 「……斬島切彦」

 

 囁きの如き小さな声で、名乗った。

 

 「きりしま、きりひこ……」

 

 綾はその名を何度か呟き、

 

 「格好いい、良い名前ですね」

 

 彼女は、はにかみながら笑みを浮かべた。

 その笑顔にどう対応するか迷った切彦が言葉を発するその前に、綾はパタリと床の上に倒れ込んだ。

 極限状態による精神の摩耗、短期間で酷使された為に極度に消耗していた肉体というところから考えて見ても、彼女が今の今まで意識を保って、会話をしていたというのは正にだった。

 つまり、何時倒れてもおかしくなく、気が抜けたというか少し安心してしまった今、彼女が意識を失ったのは仕方がなく、責めるのは酷だろう。

 その様子を見た切彦は、手間が省けた。などとやや薄情な事を考えながら再び彼女に背を向け、歩みを再開した。

 と、同時に。

 あーくそ。調子が狂うなぁ……。と内心でぼやき、片手で前髪を弄っていた。

 

 「でだ、そう、取り敢えずだ」

 

 彼女の前にガストレア達が立ち塞がる。唸り声を上げる多数の人面犬ガストレアに、巨大な体躯を誇示し、忙しなく全身の目を動かすモデルアリゲーター。それらの有象無象を見て、切彦は壮絶に嘲笑い、その手の刃を向けた。勢い良く振るわれた刃は大気を無残に断ち斬り裂く。刃に宿るは純粋なる殺意と僅かな苛立ち。

 

 「臭えんだよ。臭うんだよ」

 

 不快そうに吐き捨て、しかし笑みを深め、

 

 「斬り刻んでやるよ、糞虫共(ガストレア)ッ!」

 

 刃の申し子は、物理法則を舐め切った非常識極まりない軌道を描いて、有象無象へと飛翔していき。

 込められた願いと機能が存分に振るわれ。

 血飛沫が、腕が、足が、腸が、首が、艶やかに軽やかに緩やかに宙を舞った――――。


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