kurenai・bullet   作:クルスロット

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第九話

 「それにしても早い戻りだな」

 

 五月雨荘の門横で煙草を吹かしていた紅香は、取り出した携帯灰皿にねじ込みながら言った。

 

 「…………そう、ですね」

 

 真九郎は彼の師匠の前に、紅香の前に立っていた。

 ほんと、早い戻りだ。真九郎は、内心で思う。そう、子供の家出でももっと長いだろう。そう考えると、自分は実に単純だったのだろうか。

 嗚呼、いや違うか。

 

 「はい、逃げてばっかじゃ駄目だと思ったので」

 

 元々、答えが出ていたから、それだけの話。

 出ていた答えから、目を逸らしていただけの話。

 

 「なるほど……そうか」

 

 真九郎の答えに納得したのか、紅香は何時もの笑みを零した。

 

 「男の顔になったな、いい顔だ。やはり、男を焚きつけるのには女が一番だな。金も良いけれど、浪漫と風情に欠ける。酒も中々だが、どうせ、お前呑まないしな」

 「そんなもんなんでしょうね」

 

 男は単純ですから、と真九郎は苦笑を漏らした。

 さて、と前置きをして紅香は真九郎へ訊ねる。

 

 「お前はこれからどうする?」

 

 「……散鶴ちゃんに、会いに行きます」

 

 それ以外にやることはある。しかし、今はそれが一番重要だと彼は確信していた。

 

 「そうか。じゃあ、連れてってやる。ついて来い」

 

 そう言い踵を返した紅香の後に真九郎は続く。それとすれ違いに、何台かのボックスカーが五月雨荘の敷地に入っていった。恐らく、真九郎が紅香にしたお願い、五月雨荘の修繕等を行う為に訪れた業者だろう。あんな戦闘痕や血痕が多量に残っている場所を普通の業者に任せられる筈がないから、その類の業者だろう。

 一分も経たぬうちに、真九郎は紅香に連れられ、一台の黒塗りの車の前に来ていた。

 彼女にしては珍しく四座席ある車だった。まあ、それが高級車であるという事は何時通りだったが。その周囲には二人の男女が居た。男は紫煙を燻らせ、女はその腕に黒猫を抱いていた。そんな二人は此方に気づくと、

 

 「遅い」

 

 と不満たらたらに女の方、闇絵がそう言った。

 

 「確かに、遅かったな」

 

 もう一人の男、竜崎は闇絵に同意するような言葉を紫煙と共に吐いた。

 二人の不満の言葉には答えず、紅香は自動車のドアを開け、運転席に滑り込むようにして入っていった。それを見、真九郎に闇絵、竜崎は直ぐに自動車に入り、座った。

 助手席に闇絵、竜崎と真九郎は後部座席という具合だ。

 

 「で、次は何処に行くんだ?」

 

 闇絵は紅香にそう問うと、

 

 「そこの弟子を病院に届けるだけだ」

 

 「なるほど」

 

 紅香の答えに納得した闇絵は頷き、

 

 「で、どうだい。少年。答えはでたかい?」

 

 後部座席へ彼女は軽く首を向け、真九郎へと視線を向ける。

 

 「――代償は、酷く、大きかったです。だけど」

 

 暗く、影の差した瞳に、強い決意を瞳に灯して、真九郎は答えた。

 

 「答えは出ました」

 

 「それは上々だ」

 

 満足そうにそう言って、彼女は真九郎から視線を逸し、前へ向き直した。

 

 「ふむ、君が紅真九郎くんか」

 

 闇絵と真九郎の会話が終わるのを待っていたらしい竜崎がそう言った。同時に、エンジンが掛かり、自動車がゆっくりと動き始めた。道が狭いためにあまり速度が出せないのだろう。そのままゆっくりと、しかし、少しずつ速度を上げながら進んでいく。

 

 「あ、ああ、はい。貴方は――?」

 

 「竜崎という。ゾディアック・ガストレア巨蟹宮(キャンサー)の産みの親の一人だよ」

 

 衝撃的とも言える言葉を、この男はなんてことのないように真九郎へと言ってのけた。

 

 「よろしく」

 

 飄々と、抜け抜けと竜崎はそう言った

 真九郎は思わず絶句した。

 この反応は当然と言えるだろう。

 紅香もこの事は伝えていなかった。真九郎には悪いが、竜崎には使い道が、やってもらう事があったのだ。だから、殺されては困るし、壊されても困る。

 だが、そう言った予測等が裏切られる、超えられるというのは、世の中良くある事だろう。

 二の句が告げなくなった真九郎に竜崎は言葉を続ける。

 

 「別に私は強要されたとか脅迫されたとかいう面倒くさい背景は無い。自分の意思でそれを成したのだが――どうする? 紅真九郎」

 

 私を殺すか? 事もなし気に、世間話でもする調子で竜崎は訊ねた。

 

 「…………命は、大切にした方がいいですよ」

 

真九郎は驚愕を呑み込み、静かにそう言った。

 

 「ふむ、まあ、確かにそうだが。人の命を散々飽きるほどに弄んだ私にそんな価値があると思うか?」

 

彼は小さく笑みを浮かべ、

 

 「無い。絶対に無い」

 

 断言した。

 その言葉に主観的な自暴自棄、贖罪などの感情は見られない。客観的に見た上、そう、それはまるで自分を虫籠に入れて、外から眺め、観察した結果を話す様だった。

この竜崎という男は常に客観的に物事を見、そして、自らに渦巻く狂気的な研究欲のままに行動をしてしまう人間だ。つまるところ、彼にとっては、興味を持った事柄を観察するためなら、自分すらも差し出せてしまうのだ。

 そして、その興味は、今、真九郎へと向けられている。

 件の真九郎は黙り込んでいた。俯き、表情を見せず、怒気と言った感情の振れも見せない。

 

 「――正直に、言います」

 

 一分が経ったか経たぬ内に真九郎は口を開いた。

 

 「俺は今、貴方を殺したくてしょうがない」

 

 静かに、真九郎は言葉を作る。車内の暗がりに声が消えていく。

 彼は、既に肉塊に成り果てた竜崎の死骸を幻視していた。端正な顔立ちなど面影もなく、四肢は非ぬ方向へ向くか、もげている。腹部には大穴が空き、温かな湯気を上げる鮮やかな臓物を零していた。

 そこで彼は静かに溜息を吐く。同時に、幻覚は霧散し、現実が戻ってきた。

 

 「――――はずなんですけどね。どうしてか」

 

 苦笑した。

 

 「そう思えないというか、手に力が入らないというか」

 

 だから。

 

 「俺が調子を取り戻す前に逃げた方がいいと思いますよ。ああ、それで二度と目の前に現れないでくれると良いですね」

 

 真九郎はそう言って、彼から顔を逸らし、窓の外へ視線を向けた。いつの間にか車は路地を抜け、通りを走っている。その速度は徐々に上がっていっている。そろそろ、制限速度をオーバー……いや、もうしているか。何時もどおりの紅香の運転に真九郎はまた苦笑を零していた。

 スルリスルリと他の車の間をすり抜け、追い越していく。この速度で追い越されるのだから、他のドライバー達は恐怖と驚愕で心臓が止まりそうになっただろう。実際、何台かは一瞬ふらつく様を見せていた。

 

 「……君は、それでいいのか」

 

 竜崎の問に、真九郎は言葉を返さない

 

 「此方側の人間が言うのも難だが。君は俗に言う復讐者だろう? 復讐の元凶を全て殺し尽くすまで止まらない、その類だと思っているが違うのか?」

 

 「……そうですよ」

 

 「なら何故、き――?」

 

 「竜崎さん」

 

 遮るように、真九郎は言葉を作り、窓の外から再び竜崎へと視線を向けた。その目に、竜崎は思わず口を噤んだ。

 その目は、底無しだった。彩る色は黒。見つめているだけで取り込まれ、そのまま奈落へと堕ちてしまいそうなほどの暗黒が其処にあった。その暗がりの奥に見えるのは、炎。黒い、真っ黒で、静かに燃え盛る炎。

 

 「そんなに貴方は殺されたいのか?」

 

 凝縮された殺意が、刃の如く鋭利な殺意が、竜崎の首元に突き付けられた。

 

 「どう思う? 死にたがりか、それとも」

 

 底無しの瞳を竜崎は真っ向から見つめる。

 

 「研究者としての性か」

 

 どちらだと思う? 

 極めて冷静な表情を浮かべた竜崎と、無言のまま真九郎は向かい合っていた。

 暫く、それが続いた。

 溜息を吐いた。

 

 「馬鹿らしい」

 

 吐いたのは真九郎だ。

 

 「ほんと馬鹿らしい」

 

 真九郎はそう吐き捨て、竜崎から目を離し、窓の外へ目を向けた。

 

 「これ程、真面目に付き合うのが馬鹿らしくなるのは初めてですよ。ほんと」

 

 「私はこんなにも真面目だというのに、酷いな」

 

 うんざりした様子を隠さない真九郎。それとは対照的に冷静で、表情を崩さないポーカーフェイスの竜崎。

 

 「その辺にしておけ。私はこんな所で人の脳漿なんぞ見たくないぞ」

 

 ニャーと闇絵の言葉に同意する様な黒猫の鳴き声がした。

 

 「……ダビデ」

 

 真九郎はその鳴き声に聞き覚えがあった。鳴き声の方へ真九郎が目をやると、一匹の黒猫が助手席と運転席の間から顔を覗かせていた。そうこの黒猫は、闇絵の飼い猫。名はダビデという。

 ニャアと声を上げ、ダビデは闇絵の腕から抜け出し、真九郎の方へと飛び込んできた。それを真九郎は危なげなく受け止める。

 

 「久しぶりだな、ダビデ」

 

 真九郎が撫でると、ダビデは気持ち良さげに目細めた。

 此の猫が何歳だったかは識らないが、真九郎と出会ってから十年以上経っている。相当な高齢になっているだろうに、この猫は飼い主と同じく、変わっていない。そも、猫にそんな変化を求めるのは間違っているかもしれないが。

 ダビデの登場により、真九郎と竜崎の間にあった張り詰めた空気は霧散していた。興が削がれた、というべきだろう。

 

 「さて、真九郎。そろそろ目的地だぞ」

 

 紅香の言葉を受け、真九郎はその手を強く握り締めた。

 過ちは、正されなければならない。怨嗟は受け止め、頭を垂れなければならない。

 真九郎自身よく訪れている病院、そのエントランス前。そこへ滑るように彼らの乗る車が入り、停車した。

 

 「此処の五階の三号室だ。行き方は解るな?」

 

 「はい、紅香さん。……ありがとうございました」

 

 「礼なんていい、さっさと行――っとその前に、それ、流石にそれは換えていけ」

 

 彼女が差したのは真九郎の着ているスーツだ。それにはべったりと血痕が付着していた。乾いて、目立ちはしないだろうがとても着て歩けたものではない。

 

 「ほら」

 

 と何処からともなく取り出されたのは一つの紙袋。覗きこんでみれば同じような黒のスーツとその他諸々が入っていた。

 

 「……ありがとうございます」

 

 「だから礼なんていい。じゃ、行って来い」

 

 頭を下げた真九郎へ紅香は先と同じ様にそう言うと、アクセルを踏み込んだ。

 数秒もしない内に、彼女らを乗せた車は真九郎の視界から消えていった。その後姿が見えなくなるまで、彼はそこに立ち続けていた。その間も、真九郎は頭を下げ続けていた。紅香はああ言ったが、彼としてはこうせずには居られなかった。

 それから、頭を上げ、真九郎は呟いた。

 

 「――行くか」

 

 踵を返し、彼は病院の中へと向かっていった。

 

 

  

  

  ***

 

 

 

 

 「紅香、あんなもの何処にあった。男装の趣味でもあるのか?」

 

 「そんな趣味はない」

 

 ハンドルを動かし、追い越しを続けながら紅香は闇絵に答える。

 

 「息子のだよ。誕生日にやろうと思ったが、渡し損ねた」

 

 「なるほど」

 

 納得したように闇絵は頷いたところへ、後部座席で頬杖をついている竜崎が口を開いた。

 

 「で、私はどうなるんだ?」

 

 真九郎を下し、暫くした頃。竜崎は紅香にそう訊いた。

 

 「私の識っている情報は君に全て言った。つまるところ私はもう用済みのはず ――ああ、なんだ。そうだったか」

 

 と自分で言葉を作っている内に、竜崎は何かに思い至ったのか、ぽんと掌を片方の手で作った拳を軽く打ち付けた。

 

 「そうだったな。用済みの末路なんて一つだったな。ふむ、失念だったよ。楽に殺ってくれよ? 痛いのとかは苦手なんだ、私

 

 「何を勘違いしてるんだか……」

 

 紅香は言い、

 

 「お前はまだこれからしてもらうことがあるから別に殺さんぞ」

 

 「何だツマラン」

 

 「お前、ホント嫌な捻くれ方してるな……」

 

 思わず闇夜がツッコミを入れてしまうほどにこの竜崎という男は捻くれていた。

 研究者としてマッドで非常識故か、それとも元々こんな男なのか。

 それについては本人すら識らないことなのだからどうしようもない事なのだが。

 

 「まあ、それでだ。私を何処へ連れて行くつもりだ?」

 

 「お前が大好きな先輩の所」

 

 凍った。文字通り竜崎の表情が凍った。口を半開きにしたまま、目を開いて。

 

 「……せ、先輩?」

 

 凍った顔のまま、竜崎は声を震わせる。彼の頭の中で盛大に警鐘が鳴り響く。ついでに真っ赤なランプも回転しながら光をまき散らす。

 ルームミラー越しに竜崎の凍った顔を眺め、器用だなと思いながら、紅香はニヤニヤと笑った。

 

 「ああ、そうだよ。お前の愛すべき先輩だ。まさかアイツの後輩とは識らなかったなあ」

 

 その刹那。竜崎の表情が解凍され、真顔になり、

 

 「よーし、自害するぞー。銃寄越せ。いや、いい。舌を噛み千切る」

 

 そして、とてもとても良い笑顔を浮かべ、そんな事を言い出した。戯言だとか冗談に聞こえるが、この男は間違いなく本気だ。その証拠に目が笑っていない。

 

 「……闇絵」

 

 「ふむ、次は酒に合う旨いものかな?」

 

 にやりと口元を歪める闇絵に、紅香はうんざりした様に手を振って、

 

 「好きなもんをやるから、早くアレ止めてこい」

 

 「ふふ、承った。いやぁ、実に楽しみだ」

 

 直後。悲痛な男の絶叫と、何かが砕ける悲しい音が空高く響き渡っていった。

 

 

  

  

  ***

 

 

  

  

 「何か、悲しい事があった気がする」

 

 真九郎はふと後ろを振り返り、そう呟いた。しかし、まあ、

 

 「関係ないか」

 

 と思い直し、着替えたワイシャツの襟を正し、紙袋を片手に目的地へ向かうべく歩みを再開した。

 廊下を、真っ白な、人の少ないそこを進んでいく。

 

 「503号室……此処か」

 

 目的の部屋の前に辿り着いた。案外、道のりは短かった。

 息を吸う。心臓がバクンバクンと激しく脈打つ。頭の奥から滲み出てくる痛みが脳全体を軋ませてくる。緊張が鋼の躰を持つ蛇の如く内蔵を締め上げる。常に強烈な吐き気がこみ上げてきて、胃の中身どころか血反吐も一緒に吐き出してしまいそうだった。それ程に、彼の躰はその現実の前に立つということを拒絶していた。意思は、現実に向かい合う事を望んでいるというのに、その覚悟がある、出来ているというのに。

 躰は、まだ、臆病なままだった。

 手が震える。小刻みに、まともに物を持つことが出来ないほどに。

 真九郎は苦笑した。自らのあまりにも不甲斐ない様に、そんな笑みを浮かべていた。

 しかし。

 彼は其れ等全てを捩じ伏せ、ノックしていた。 

 躰の拒絶を弾き飛ばし、意思はその手を動かした。

 時が止まったかのような錯覚を真九郎は覚えた。反応を待ち続ける。耳の奥で何かがごうんごうんと流れる音が、心臓が大きく跳ね回り、脈動する鼓動が酷く大きく、いや、それ以外は聞こえなかった。耳に入らなかった。

 

 「はい、どちら様です?」

 

 声がした。直ぐ傍、スライドドアの向こう側から女性の声が聞こえた。聞き覚えのありすぎる、昔から聞き続けてきた声。それと同時に真九郎の時間が動き出した。

 震えそうな声を抑え、彼は名乗る。

 

 「紅、真九郎です」

 

 「――――ああ、入って、真九郎くん」

 

 ゆっくりと真九郎の目の前で、スライドドアが開かれた。 

 ドアの向こう側、そこには、疲労の濃い顔に小さな笑みを浮かべた女性、崩月散鶴の母、崩月冥理が居た。変わらない、嘗ての年齢不詳の外見と差異は無い。だが、その笑みは何処か老いを感じさせるものだった。

 まず、何から切り出せばいいか。真九郎は事前までに考えていた言葉が自分の中で霧散しているということに気付いた。駄目だ。何も浮かんでこない。

 

 「とりあえず、入って。此処で話のも難だからね」

 

 そう促されて、真九郎は病室の中に入った。背後で、ドアが閉められる音と鍵が掛けられる音がした。

 病室の中。ベッドが一つ。横に、数個の折りたたみの椅子。それだけがあった。

 その、真っ白な部屋の、真っ白なベッドの上には彼女が居た。

 

 「――ッ」

 

 息が詰まった。視界が滲み、歪み、揺れ、手足が震えた。

 永遠に止まったままの少女がそこに横たわっていた。

 

 「本当、綺麗にされちゃって……」

 

 私でもここまで出来ないかな? と小さく微笑み、冥理は散鶴の髪を手で解いた。さらさらとした細い絹のような黒髪がその手から零れ落ちていく。

 

 「俺の、せいなんです」

 

 何時の間にか、真九郎はそんな言葉を零していた。声の震えは止まらない。言葉が零れ出るのを塞き止められない。

 そうして、気づけば彼は最初から最後まで全て話していた。

 何があったのか。どうしてこうなったのか。

 

 「俺が、悪いんです。護れなかった、俺が――」

 

 「真九郎くん」

 

 真九郎の言葉を遮る様に、冥理は彼の名を呼んだ。

 

 「いいの、真九郎くんが悪いとか、悪く無いとか。」

 

 言葉を作れず、何も言えずに真九郎は口を噤んでいた。

 否定しなければならないというわけではない。意地というか、何と言うか。どんな悪意も涙も理不尽も受け入れるつもりだった。この人が、そんな風に怒り、感情のままに荒ぶる様は想像もつかなかったけれど。夫を、娘をガストレアにより失い、娘を殺されたというのに、理不尽に失ってきたというのに、この女性は、泣きも、喚きも、怒りもしない。もしかすれば、何処かで、見えない所で涙を流しているのかもしれない。

 しかし、だからこそ真九郎はもっと、自分を責め立てて欲しかった。

 

 「君を責めたって、君に怒ったって、君に泣きついたって何も変わらない。起こってしまったことは覆らない」

 

 「それ、は」

 

 その通りだ。心の中を見透かされている気がした、いや、見透かされているのだろう。

 

 「だって、君はそれで楽になろうとしてる。そうだよね、分かりやすいものほど受け止めやすいものね」

 

 言い返す言葉など真九郎は思いつきもしなかった。

 

 「それに、私はね。君を責める気持ちも、君に怒る気持ちも湧いてこない」

 

 此処で、漸く二人は向かい合った。真九郎はどんな顔をしていいか分からなかった。しかし、彼女は。

 真九郎はそんな彼女を見て、こう聞かずには居られなかった。

 

 「どうして、どうして、貴女は」

 

 そんな穏やかに笑えるんですか――? 問に対する返答は早かった。

 

 「夫は私を護って死んだわ。夕乃は皆を護る為に死んだ。そしてこの娘は、君の為に死んだ」

 

 「俺の、為?」

 

 頷き、冥理は散鶴の頭を優しく撫でた。

 

 「この娘は、どうであろうと偶然であろうと理解できない理不尽であろうとも、君の為に死んだのよ、この娘は」

 

 だったら、

 

 「私はこの娘の事を誇らなきゃ。そうじゃなきゃ、好きな男の為に死んだこの娘に対する侮辱になると思うの」

 

 彼女は言葉を繋げ、

 

 「それに君を怒ったり殴ったりしたら。あの娘が泣いちゃうじゃない。あの娘、泣き虫だしね」

 

 苦笑し、「そこだけは何時になっても直らなかったのよねぇ」と言った。

 それから、冥理は真九郎と正面から向い合った。目と目が合う。真九郎は逸らしてしまわないように意識しながら、彼女の瞳を見つめていた。

 

 「私は、君はこれまで一生分、懺悔して後悔したと思う。だから、君はこれ以上泣いたりしなくていいと、私は思うの」

 

 だから、

 

 「君は前を向いて。そして、君が成し遂げるべきことを成し遂げて。

 きっと、この娘もそれを望んでると思う」

 

 その言葉に真九郎は、頷き、

 

 「――はい」

 

 そう返事をした。

 

 

 

 

  ***

 

 

 

 

 雲の多い空の下。一雨来るか来ないかそんな瀬戸際を嗅ぎつけた人々が足早に住処を目指し、歩き出した頃。

 東京エリア全域に酷く不快な声が流れ出した。

 それは、平穏の終焉を示し、絶望の到来を表していた。

 

 「HelloHello。東京エリア民諸君」

 

 テレビ、パソコン、スマートフォン、ラジオ、挙げ句の果てには自動販売機のモニター。つまるところ、この東京エリア一帯に広がる通信網に接続され、スピーカーとモニターがどちらか、もしくは揃っているもの。

 其れ等全てに一人の女が映し出され、声が流れ出し始めた。

 東京エリア全域に声が響き渡る。闇夜の静寂を掻き乱し、人々に不安感と不快感を同時に与え、そして、恐怖を芽生えさせていく。

 

 「私達は星噛。東京エリア民諸君の敵よ」

 

 一方的な宣戦布告。二度目の宣戦布告。

 醜悪に、悪辣に女は壮絶に嘲笑う。全てを嗤い、全てを愛でるように見下す。

 

 「で、私達は、このエリアに二つの事を行おうと思うの」

 

 一本の瓶を片手に、頬を赤く染めた女はやや呂律の回らない舌で言葉を紡ぐ。一本の瓶、とあるが彼女の様子から見れば、瓶の中身は酒だろう。ただ、よく見ると瓶に消毒用と書いてある辺り、普通ではない

 

 「一つ目。このエリアに、ガストレアを放ちましたー」

 

 と同時に画面が四分割され、映像が切り替わった。そこには平和で騒がしい雑多な繁華街、色々な人が電車を待つ地下鉄のホーム、足早に人が歩き行くスクランブル交差点、家族連れに恋人達、友人同士で楽しげに歩いているショッピングモール。

 

 「私達が放ったガストレアは一つの特徴をもっていまーす」

 

 そーれーは。勿体ぶるように間延びした調子で女は嗤い、最悪の言葉を放った。

 

 「人に擬態します」

 

 四分割された画面の内の一つ、ショッピングモールの歩いていた一人の女の躰が弾けた。まるで内側で爆弾でも炸裂したかのように見事に、綺麗に、その躰は散華した。周りの人々が反応する前に、それは、その哀れな嘗て女だったそれは变化した。

 再生する。DVDを巻き戻す様に、綺麗に、元へ戻っていき――――そして、異形へ昇華した。

 まず、手足が増えた。そして、手足が伸び、手当たり次第、周りの人々へ襲い掛かり始めた。

 女の頭であったそこには、巨大な口があった。それに比例する様にして、躰は肥大化。元々の質量など完全に無視して、巨大化を始めた。

 補足、捕獲、捕食。補足、捕獲、捕食。補足、捕獲、捕食。

 地獄が広がっていく。人々の痛みに満ちた断末魔と臓腑を震わす絶叫と精神を掻き毟る悲鳴は、その地獄を彩るスパイスだった。

 誰もが目を開けたままだった。現実を理解できない。いや、寧ろ現実を飛び越しすぎて、映画か何かの撮影にしか見えなかったのだろう。故に、誰もが普段通りに動いていた。しかし、目はその映像から離れない。その忌まわしい声を、グロテスクな、心臓を凍らせる音を遮るために耳を塞がない。塞げない。

 そして、彼らは思い知る。

 これは現実だと。

 次に変化が起こったのはスクランブル交差点。

 次は地下鉄のホーム。

 次は繁華街。

 次は――――――――。

 画面が次々に分裂していく。八、十六、二十四――――。

 

 「とまあ、こんな感じ」

 

 映像が元へと戻った。しかし、この声を聴けるものは少数だろう。何故か。単純な話、誰もが生き残るのに精一杯だからだ。パニックが巻き起こり、サイレンが鳴り響き、至る所で火の手が上がっていく。それらを彩るのは、怒号と悲鳴と絶叫と断末魔と狂笑の五重奏(クインテット)だ。

 そう、此処は正しく地獄だった。

 

 「で、次に」

 

 これ以上、何があるというのだ。誰もが絶望を浮かべながらも、その声を聴いていた。聴きたくない筈なのに、その筈なのに。

 

 「このエリアに、ステージⅤガストレアを召喚するから」

 

 女、いいや、これは、そんなものじゃない。これは人の皮を被った何かだ。悪魔だとかそんなものだ。こんな事を、人が出来るはずがない――――違う。そう信じたいだけだなのだ、きっと。

 これは紛れもない人の悪意であって、これが人によって齎された地獄であることを信じたくないが故に。

 

 「東京エリアの諸君、二十三区、モノリスの近くにある教会で私達は待っている」

 

 止めたかったら、此処を滅ぼされたくなければ。

 

 「抗って、私達に」

 

 直後。ノイズが画面を覆い尽くした。音声が止み、耳障りなノイズ音が代わりに流れ始めた。

 終わったようにみえる、否、そんなわけがない。

 そう、地獄は始まったばかりなのだから。

 


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