2015/06/29
少し編集をしました
後悔。無力。無知。
それは今の彼を言い表すのに最も適切で、最適な言葉だろう。
彼女を護れなかったという後悔。
何も出来なかったという無力。
何も、彼女の事を何も知らなかった、識っていると思い込んでいただけだった。
弱さは、罪。
識らぬは、悪。
彼は識る。それを思い知る。分かっていたはずなのに。
強さなき者は蹂躙されるのみなのだ。その心が正しくとも。悪を挫き、弱き者を護る正義のヒーローあろうとも。
力無き正義は、悪なのだ。
弱者は正義を掲げることも、悪を名乗ることも赦されない。弱き者はただ、どっちもつかずであり続け、隅で頭を抱え、息を殺し、ひたすらに虐げられしか無い。それが弱者の宿命。
そして、これは弱者の末路、結末の一つ。
ここには一つの荘厳な館が建っていた。それはこの国を支配するとある一族達が住まう館であった。けれど、それは強烈な、真っ赤な炎に焼かれてしまった。
そして、降り出した猛烈な雨によって真っ黒な燃え滓に変わってしまっていた。
彼は思う。弱者たる彼は思う。
良い思い出は両手で数えるにはあまりにも多すぎて指が足りないだろう。嫌な思い出も、悔しさが滲んだ思い出も両の指で数えるには多すぎるだろう。けれど、彼女の傍に居られるのは、必要とされるのは、護れるのは、嬉しかった。幸せだった。愛する彼女と共に在れるのは至上の幸福であった。
だけれど、もう、それは此処に無い。
彼女は、もう、居ない。
雨の中、彼は地にその力の抜けた四肢を放り出すようにして転がっていた。ボロボロになった、切り傷と弾痕と血に濡れたスーツが、、彼女がプレゼントしてくれたスーツが泥に汚れる。そんな事、今の彼の頭の中に、それを考慮する思考は残っていなかった。
髪が、雨に濡れて顔に張り付く。涙が溢れて止まらない。
悔しさが、無力が、無知が、それらは彼の躰を地へ縛り付ける。
太く、巨大で強固。
それに彼は雁字搦めされていた。手足は、重い。
雨が彼を叩く。その無力を攻めるような雨に、彼は抗えない。降り注ぐ雨を前に、無力に屈するしかなかった。
けれども、そんな彼の中に満ちる感情の隙間に、一つの火種が燻りだす。彼を攻める雨に負けず、煙を上げ始めていた。
それは彼を狂わせる火種。
それは人の業。
火種は彼に一つの問を投げかけた。
これでいいのか?
火種は彼の中で嗤う。何故なら、彼がこの問に返す言葉を識っているから。否定も出来ず、流すことも出来ず、受け止るしかなく、その後どうするかも理解しているから。
そして、鎖を燃え溶かし、彼の中で一つの感情が誕生した。
途方も無い、際限すら無い憤怒。
ありとあらゆるものを燃え溶かし、降り注ぐ強い雨を受けても消えない。
「――――」
声がでない。
溢れるのは声に満たぬ、掠れた何か。
喉へ張り付いた乾いた血が、喉の機能を殺しているのだ。
だが。
そんな事、関係ない。
無力と無知と悔しさを呑み込み、炎へくべる。何もかも、力に変えてしまうために。
力を、力を。
護れなかった、彼女の手を離してしまった。それは自分が弱いから。
だから、心の底から、全てを投げ出し、全てを売り渡し、力を望む。
敵を、彼女を引き裂き、彼女の笑顔を、彼女の幸せを陵辱した塵を、芥をこの手で――――。
彼の心に、確かな火が灯る。全ての感情に向けて、燃え盛る炎を放った。
それは確かに、彼の原動力となった。確かな一歩をもって、彼は雨の中で立ち上がる。泥に掌を叩き付けて、躰を持ち上げた。
手足はもう、重くない。
赦さない。
呟く。激しい雨音に消えてしまうはずなのに。その声は不自然なまでにそこへ残っていた。
奴らを。
ゆっくり彼は言葉を作る。丁寧に、丁寧に、身内に篭る感情の欠片を織り込みながら紡いでいく。
ぜったいに、赦さない。
感情の欠片で、言葉を、心へと刻みつける。
それは呪い。人の在り方を変えてしまうほどに強力な呪い。
今、この時、掲げた
「――――ッッッッッ!!!!」
声が喉の機能を殺しながら、溢れ出た。
叫ぶ。頭上を仰ぎ、降りしきる雨の中、絶叫する。
それは怒りの咆哮。
修羅が生まれ堕ちたことをこの世へ知らしめる咆哮。
叫んだ。叫んだ。喉が死ぬまで、声が出なくなっても、彼は口を開き、叫んだ。
叫び終わった彼の瞳は、憎悪と憤怒の色に染まりきっていた。
暗い色、海溝の底、深海の闇よりも、真空の宇宙よりも暗い色。
彼の中で蠢く感情は暗さと全く無縁の凄惨で鮮やかな色をしているはずなのに、その瞳は、真っ暗で何も映していなかった。
涙は、もう枯れた。
嗚呼、今ここで彼は新生した。
そして戻れぬ道を歩み始めたのだ。
これは復讐の物語。
失い過ぎた男の復讐。
一直線に歩き出した彼は、もう振り向かなかった。