「美羽さん、感情を高ぶらせて感覚を研ぎ澄ますってどんな感じなんですか?」
「えっ、急にそんな質問をしてどうかしたんですの?」
兼一の質問に不思議そうな顔をする美羽。兼一が尋ねたのは動の制空圏の基本。静の者であり、しかもその極みである流水制空圏まで会得した彼にとっては無用の技法の筈である。
「いえ、別に特に意図があるわけではないんですが。ちょっとした好奇心です」
笑って言う兼一に対し、すこし考えて美羽はある問いかけをした。
「そうですわね。兼一さんはいらいらした時とか、普段気にならないようなちょっとした物音とかにも敏感になったことはありますでしょうか?」
「え? ええ、ありますけど」
「でしたら、それが兼一さんの問いに対する答えですわ。動の制空圏の感覚はその延長線上にあります」
「えっ!?」
関係の無い話をされたかと思えばそれが答えと言われ困惑する兼一。しかもあまり日常的な話題で、洗練された技法とはかけ離れたような話を聞かされ、思わず疑い反論めいたことを口にする。
「幾らなんでもそんな。いらいらした状態なんて、不安定で危ないじゃないですか」
「ええ不安定で危険です。ですので動の者は心の奥に冷静さを保ち、それを楔とし命綱を繋ぐ必要があるのですわ。それができなければ単なる暴走となってしまいます」
「えっ、心に冷静さって、それは静の戦い方じゃあ」
動の戦い方は静の間逆の筈。にも関わらず、まるで静の戦い方のようなことを口にされ、疑問に思う兼一。
それに対し、美羽は彼の首に向けて指を突きつけた。
その行動に兼一はビクリとする。
そして反論ばかり口にした性で怒らせてしまったのかと不安に思うが、直ぐに気づく。彼女は彼の首ではなく、その直ぐ近く、襟につけられた太極バッジを指差していることを。
「以前、その陰陽太極図について話したこと。覚えていますでしょうか?」
「ええ、勿論。確か……あっ、そうか!!」
美羽との昔の会話を思い出し、そこで彼女の言いたいことを察する。陰陽太極図は光と闇を正反対としながら、それぞれの中心にその反するものを描いている。それはすなわち、光の中にも闇があり、闇の中にも光があるということを意味しており、これは動と静の場合にも当てはまるのだ。
「わかったようですわね。そう静の者で、心の奥底には熱い動の心を持ち、動の者であっても、心の奥に冷静さを秘める。どちらか片方に完全に偏ると言うことはありませんですの。ですから覚えようと思えば、私のように動の者でも静の技を覚えることはできますし、兼一さんも動の技を覚えることはできますわ。あまりお勧めはできませんが」
「なるほど、勉強になります」
「なかなか、面白そうな話をしてるじゃな~い」
美羽の話を聞いて関心する兼一。そこで、彼の背後から肩を掴み、顔を出すものが居た。二人の友人、ボクサーの武田一基である。
「あっ、武田さん」
「やあ、兼一君、ハニィ。特に立ち聞きするつもりはなかったが、興味深い話につい聞きこんでしまったよ。それで思い出した事があるんだが、ちょっと聞いてくれるかい?」
「ええ、いいですわよ」
「ええ、勿論です」
武田の言葉に頷く二人。
そして武田はある過去話をした。
これは兼一がまだ、高校2年生の時に交わした会話で、この時の武田の話の中に一子育成のヒントが隠されていたのだった。
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兼一が一子の師匠になった翌日、行ったことは制空圏の修行ではなく組み手だった。制空圏を教える前に、武術家としての一子をもう一度見直したいと考え提案したのである。
この案を秋雨も承諾し、基礎鍛錬と組み手を繰り返すこと3日、そこで見定めが完了する
「一子ちゃん、今日から制空圏の修行を開始する。この闘忠丸が24時間、君に奇襲を仕掛けるから一度でもそれを事前に察知できれば合格だよ」
制空圏の修行を開始することを告げる兼一。しかし、説明する彼の手のひらには予想外の存在が居た。
「えっ、ネズミさん?」
「ぢゅー」
手のひらの上で任されたとでも言うように右手を上げる闘忠丸。ネズミが修行相手と言うことに驚く一子。そんな彼女に対し、兼一は嗜めるように言う。
「言っとくけれど、闘忠丸を舐めちゃいけないよ。技量だけなら達人級で、何か、ネズミの平均寿命とかも無視してるし。正直、身体の大きさが同じだったら、僕、勝てる自信ないかも」
自分で言っておいて軽く落ち込む兼一。しかし直ぐに復帰して指示をだす。
「とにかく、これが君の修行だ」
「わ、わかったわ!! とにかく、ネズミさんの攻撃を防げばいいのね」
ネズミが達人級と言う話しに流石に半信半疑ながらもやる気を見せる一子。
しかしそこで兼一はとんでも無い爆弾を投下する。
「ああ、この修行をクリアーするまで、他の武術の修行は一切禁止するから。嫌だったら頑張って早くクリアーしてね」
**********
「奇襲なんて本当にくるのかしら」
梁山泊に住み込んでまだ月日が浅く、闘忠丸の頭の良さを理解していない一子。修行をクリアーできるかと言うこと以前に、そもそも修行になるのかと言う懸念を覚えていた。
しかし彼女は直ぐに知ることになる。自分の不安が杞憂であると同時にこの修行が如何に過酷であるかを。
「あっ、痛」
「ぢゅー」
「せ、洗濯物の中にネズミさんが」
洗濯物の中に紛れ込んでいた闘忠丸が針で一子の指を刺したのである。
そして甘いとでも言うように舌を鳴らす。
「うっ、馬鹿にしてるわね!」
その態度に闘志を燃やす一子。次は防いで見せると決意する。
しかしその後も尽く闘忠丸の奇襲は成功した。ある時は勉強机の中に潜んでいたり、寝込みを襲われたり、ある時は普通に背後から這いよられたり。その度に彼女は決意する。
「う~、今度こそは!!」
しかしその決意は実ることは無く、結局1週間の間に100回以上も奇襲を受けながら一子は一度もその奇襲を事前に察知することができないのであった。
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「ネズミさんがつかまらない、修行したい、ネズミさんがつかまらない、修行したい、ネズミさんがつかまらない、修行したい」
食卓でぶつぶつと呟く一子の姿、それを見て逆鬼が心配する。
「一子の奴やべえんじゃねえか」
「終始狙われているストレスと他の修行の一切を禁止されているストレス。ダブルで来てかなり答えているみたいね。兼ちゃん、意外とスパルタね」
「うん、加減あり……でも……闘忠丸の奇襲を防ぐのは……難しい」
身体が小さいというのはそれだけで存在が察知されにくい。まして技量は達人並みの闘忠丸となれば、並みの達人であってもその奇襲を防ぐのは困難だ。弟子級の一子に課す試練ではないとやや非難めいた言葉が飛ぶ。
「いやいや、これは意外といい修行じゃよ。武術の才能はまるでないが、兼ちゃん意外と教える才能はあるのかもしれんの」
「ええ、まさか初日で自分と一子ちゃんの違いに気づき、これほどの修行を思いつくとは思っていませんでしたよ」
しかし反対する視線の多い中、長老と秋雨はこの修行を賞賛して見せた。
「うう、そう言っていただけると力が湧きます。正直、今の一子ちゃんの姿を見ていると罪悪感が刺激されてくじけそうで」
その言葉に救われた表情になる兼一。
「ほう、じじいと秋雨が褒めるってことは何か、意味があるみてえだな。おい、兼一、一体、何を考えてるか教えてみろ」
長老の言葉に逆鬼が興味を持ち、兼一のそばによって問い詰める。
それに対し、兼一は言葉を選んで答えた。
「え、ええ。この修行なら一子ちゃんの欠点を正して、才能を上手く引き出せるんじゃないかと思って」
「一子の欠点と才能だあ。ああ、あれのことか。なるほどな、そう考えりゃあ確かにこの修行はいいかもしれねえ。やるじゃねえか、兼一」
「うん、それなら確かに」
「アパパ、兼一すごいよ。これなら一子強くなるよ」
僅かなヒントから答えに辿りつく達人達。一方、半分壊れた状態だった一子が復活し話に出てきた聞き逃せない言葉について、尋ねる。
「ねえ、今、兼一さんが言った言葉。もしかしてアタシ武術の才能があるの?」
「いや、ねえな」
「ない」
「ないよ」
「ないね」
「アパパ、ないよ」
「ないねえ」
「ないですわね」
「みなさん、誰が相手でも容赦ないんですね」
期待に胸を膨らませていたのに、全員にきっぱりと否定され、へこみ涙目になる一子。
「ううっ、じゃあ、才能って武術には関係ないの」
「いや、関係ないということはないよ。武術に限らず、何にでも応用が利く才能だ」
「もっとも、今のまんまじゃ、使い物になんねえだろうがな。だが、このまま兼一の出した修行をクリアーしていけば、多分、そろそろ妙手の段階に手が届くぜ」
「妙手?」
初めて聞く単語に疑問顔になる一子に長老が解説する。
「妙手とは弟子級を卒業し、達人に辿りつくまでの中間に位置する段階のことじゃよ。長く険しい道のりであり、武術家としての方向性を完成させる不安定な時期でもある。長年、自らに厳しい修行を課したこともあり、一子ちゃんは自分で思っとるより強い力を持っておる。しかしその力を上手く引き出せておらん。兼ちゃんの課した修行を達成すればその蓄えた力を自由に引き出せるようになるじゃろうて」
「弟子を卒業……あっ、それでアタシの才能って一体どんななの? それに欠点もあるのよね?」
「それは無理に知らない方がいいね。下手に知ると意識してしまって、かえって才能を生かせなくなることがあるからね。まずは兼ちゃんの出した課題を達成することだけを考えるね」
「気になるけど、そういうならみんなを信じるわ!!」
自らの才能と欠点が秘密扱いにされても前向きな姿勢を見せる一子。その素直さに、皆、微笑ましい表情になって頷く。
そしてそれから更に3日が過ぎるのだった。