【完結】 宿命の和了 【アカギ×咲-Saki-】 作:hige2902
6/26 後半の裏ドラに関する指摘がありました、後日修正します。すみません、指摘してくれた方ありがとう。
声の主は天江衣だった。
「あれ、衣は南郷さんと会ったことがあるのか?」 と意外そうに純。ミルクティーを一口。
「直接の面識は無い。が、その南郷なる男はやつの前座として無謀にもじぃじと打ったことがあるらしい」
「んだよ、やっぱ南郷さん嘘ついてたのか。じゃあそのじぃじに聞けば……」
衣はうつむいて言った。 「じぃじ、旅に出たって」
「旅?」
一が回答を求めるように透華を見やる。しかし彼女にも検討がつかないでいた。眉をひそめる。実の祖父ではないだろう。ハギヨシ、とよく通る声をあげた。
「知っていますわよね?」
主の問いに執事は頷くほかなかった。口を開きかけるが、それを衣が遮って言った。
「いや、いい。ころもの口から話そう」
それは蝉の残響が木霊する、今年の地区予選からの数週間後の頃だった。
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天江衣は高いところを好んだ。少なくとも人ごみではないから、というのも一つの理由ではある。なんとなしに、無意識的に高所にいることが多い。
その日もまた、建物の屋上で風に吹かれていた。天に近い場所は父と母が感じられるような気もする。
ひと満足して階を降りていると、卓を囲んでいる老人達がいた。今更ながら気がつく、ここは高齢者介護施設らしい。
老人たちの麻雀は珍しい光景ではない。昨今の麻雀ブーム以前より、暇をもてあました老人達のボケ防止として雀卓を置く施設は多かった。富裕層がターゲットの経営方針らしく、自動卓だった。
衣は立ち止まり、今まで同年代とばかり打ってきたことから来る物珍しさから、とてとてと近づいて手や河を見て回る。
「おやまあ可愛らしいお嬢さんだ」 卓を囲んでいた老婆が声をかけた。 「初めて見るかい?」
ううん、とかぶりを振って答える。 「ころもも打てるよ」
「へえ、そいつはすごい」 老婆はふと自分の子供時代を思い出して小さく笑った。よく知ったかぶったもんだ。 「わたしがお嬢ちゃんくらいの年のころは、もっぱらハナイチモンメが熱かったよ。大ブーム」
「どうだか」 対面の老人が小粋に鼻で笑う。 「おれなんてもう一週間前のことさえ怪しい記憶なのによ」
「あんたとはオツムの出来が違うのさ」
「オムツは一緒だろう……あ、それロン……それでええと」
「デリカシーのないジジイだね。長生きしないよ」
役と点数計算の一覧表を片手に対面の老人。老婆の捨牌と自身の倒牌に視線をめぐらす。
「うら若き乙女ならともかく、ババアが何を言うか、それに孫に勝つまでは死ねんわ……えー、タンヤオとヘイワ、ドラが一つでメンゼンだから、3900点?」
ひょいと衣が卓を覗く。 「ピンフは両面待ちでしか役にならない、アガリ牌は単騎待ちだからピンフを除いて40符2翻で2600だ」
卓を囲んでいた四人が呆気に取られた表情で小さな採点者を見やった。「こりゃ驚いた、お譲ちゃんは本当に打てるのかい? あとジジイ、ヘイワじゃなくてピンフだっていつも言ってるだろ」
「そうとしか読めねえよ、しっかし最近の麻雀ブームはどえれえな。小学生まで巻き込むたあよ」
衣は頬を膨らませて赤くなった。
それから衣は老人達から先生と呼ばれるようになる。老婆が最初に言ったのがきっかけだった。
いくつかの卓を回って話を聞くのは、ころもにとって有意義だった。同世代がしのぎを削る理由の多くは勝ちたいから、というものだったが老人達は様様だった。
麻雀ブームに乗っかった孫と楽しく遊べるから。見ず知らずの人間と共同生活する際の、人間関係の潤滑油と話のネタ。
施設の世話になる老人は、身寄りが少ない、孤独死を防ぐ、自立的な生活を送ることが困難といった理由が多い。尤もといえば尤もかもしれないが、施設での麻雀は孤独を軽減するコミュニケーションツールとしての役割が大きいように思われた。
娯楽として正しい使い方の一面。麻雀を通してわかりあえた経験のある衣には、それが言葉にできないうれしさだった。
しかもすごく褒められる! 普段は子ども扱いされる衣が先生、先生と引っ張りダコ。こ、これはたまらない。卓を行ったり来たりしていると、ふと視界の端でベンチに腰かける、杖を持ったサングラスの老人が目に入る。
一人でいることが珍しいわけではない。広間でテレビを見ている人や、読書をしている人は多い。奇妙に浮いているのはそう、楽しそうではないからだ。
「ああ、市川さんねえ」 と、隣に老婆が立っていた。 「いつの間にかあそこにいるんだ」
「麻雀がやりたいのかな?」
「わたしもそう思って何度か誘ってみたんだけどねえ……訪ねてくる親族の方もいないみたいだし、心配っちゃあ心配なんだけど」
「老人ホームまで来て一人ってのも味気ねえよなあ。しかもいつの間にかいなくなってるんだ」 と対面の老人。
衣はベンチに駆け寄り、市川と呼ばれたサングラスの老人の隣に座る。座って、静かに視線の先で卓を囲む老人達を眺めていた。人人の会話、牌を打つ音、テレビから芸能人の声、施設内アナウンス。一歩下がってみると、ここだけ隔絶された空間のようだった。
「何か用かい、先生」 市川は視線を動かさず、呟くように言う。先生、に、やや皮肉めいたイントネーションが潜んでいた。
「なにも」 気にした風でもなく、衣。足をパタつかせ、老婆に貰ったフルーツ牛乳のパックにストローを刺す。老婆曰く、これは身体を大きくする、栄養のある飲み物だ。衣は信じて疑わなかった。
老婆と対面の老人が軽口を叩きながら小休止していた。なんとなく、夫婦に思えた。
「仲良きことは美しき哉。施設に来る前から既知の間柄なのかもしれない」 なんとなしに衣は口からこぼす。
「どうかな」 と、不感無覚に市川。
「良いことだ、孤独は辛い。ころもも少し前はそうだった、今は違う」
「人それぞれさ」
「ならどうしてこんな場所にいる。ここでは静寂とは無縁だ」
「獄刑と未練かね」
老人の消え入りそうな声に衣は疑問を抱いたものの、口にはしなかった。昔の自分に似ている気がしたので。
衣はそれから、たびたび老人ホームに顔を出した。牌効率などの野暮ったいことは後回し。エンターテインメントとして重要なのはリスクとリターン、アガリの速さと役の高さのトレードオフ。そしてそれらを一蹴してしまう配牌やツモの運、だから気持ちが良い。自分がツイているということを実感できる瞬間。
まず大事なのはそういうこと。好きこそ物の上手なれ。楽しむことが大事なのだ。
たびたび卓に入りもした。意識的に場を支配することなく、狙えそうなら高い手を積極的に作っていく麻雀。技量はさすがに圧倒するが、まあ打ちかた故にとんとんといった感じ。しばらく遊んで満足すると、市川が座るベンチでフルーツ牛乳にストローを挿す。
「今日も打たないのか」 と衣。
「わしが打つことはもう無い」
「それは贅沢と言うものだ」
「贅沢?」
「打つ相手には困らない。昔のころもには相手がいなかった……いたが、一度でも対局するともう打ってくれない者がほとんどだった」
「おまえが面子に困ろうが困るまいが、わしには関係ない」
「たしかに。だがころもは麻雀が好きだ」
「それで?」 市川はにべもなく突き放すように言った。
「ふむん。だが二度と打ってくれない者が多かった故、勝利自体に疑問が沸きもした。さりとて軽率に敗北を甘んじたくはない。いま思えば既にこの時の深層心理にこそ解式があった。ころもが負けたとき、それを認知する過程を経て、ようやく心の底から麻雀を楽しめた気がする」
「知らねえよ、そんなこと」
「だろうな。言葉にすれば如何にも安っぽい、認める。耳障りの良い言葉を並べたところで表層的に過ぎない」 衣は頷いた。 「主観的な価値感を他者に理解させることは難しい。子供の頃に両親からもらった安価なおもちゃが、子という一個人の主観でどれほど大切であっても他者の主観ではガラクタ同然だろう。理解するにはまず子を理解する必要がある。やはりそれと同じように、ころもにとっての麻雀に対する勝敗の価値観は理解してもらえなかった。逆もまた然りで、敗者の価値観を理解することは難き道だった、なぜ二度と打ってくれないのかということを」
その日はそれで終わった。
次に衣が施設を訪れたときも、市川に話しかけた。単なる同情心からではない。なに不自由ない老人ホームを獄と言い切った彼が、どうにも過去の自分と重なるのだ。強大すぎるが故の隔離。それは自覚にある。有象無象では相手にならぬと評すれど、様様な人間と打ちたいという未練。
この老人が衣と同一の理由を持っているとは思えない。しかしながら、本質は同じなのではないのだろうか。
なぜ、市川にとってここは獄なのか。未練とはなんなのか。
「要は、ころもはじぃじに本質的な類似性を見出しているので解決したい、ということだ」
このとき市川は初めて表情を崩した。衣に向けた表情は、口が半開きに歪んでいた。すごく嫌そうな顔。
「なんだ、じぃじってのは」
「一番の年上と聞いた。今日も打たないのか」
市川はサングラスの座りを直して、小さく溜息をついた。 「またそれか。何度も言うが、もう打たねえ。関係ないだろう、おまえには」
「なぜ打たない。個人が問題を抱えていないと主張したところで、それが客観的に問題であれば、指摘することには少なからず正当性がある」
おもしろくなさそうに、市川。短く言った。 「相手がいねえ」
衣は和気藹藹と卓を囲む老人達を見やる。 「それは自分に見合う力量の相手がいないということか?」
市川は口をつぐんだ。
「勝っても負けても、麻雀は楽しめる。たぶん囲碁とか将棋も同じだろう」
「……そうかな、信じられねえアガリをされて壊れちまうこともあろう。おまえがこないだ言っていた、敗者の敗北に対する価値観を勝者は主観視できねえって話さ。それでもおまえが本当に楽しめてるってんなら、そいつは面子に恵まれてるだけのこと」
「認める。前者はもとより、後者については尚のこと」 衣は市川の手を取って立ち上がる。 「だからころもも、ころもがじぃじにとっての恵まれた面子になってやろう」
老人は半ば強引に卓まで移動させられた。お、市川さんもやってみるかい、おもしろいよと老婆。いやわしは――市川はしかし、席に手をかけていた。かけざるを得なかったのだ。杖をベンチに置いたまま。
「むむ、オサム。丁度いい」 衣は職員である一人を呼び止めた。ここの施設の中ではおそらく一番強い。たびたび老人達にせがまれて卓についていた。
オサムは相手が市川と知って狼狽するが衣に押し負ける。
面子は衣、オサム、老婆。市川は、断ることも出来た。どうせ馴れ合うつもりなど無い。しかしなんとなく流れに身を任せる。それに座るしか、卓に着くしかない。なぜなら市川は杖なしでベンチに戻れない。
老婆が自動卓のスイッチを操作し、山がせり上がる。衣は対面の市川をちらと見やった、あそこまで言い切ったのだから相当の打ち手なのだろう。しかしながら、宮永咲のような気配は感じられない。
市川の手牌を作る手は震えていた、山の位置を探って彷徨う。初めての自動卓ということもあったが。
「悪いが捨て牌は発声してくれ」
「そりゃいいけど」 と老婆。オサムが申し訳なさそうに答える。 「市川さんは、目が、その」
「見えねえのさ、小言は聞き飽きたからよしてくれ」
一切を跳ね除けるようなその物言いで、東場は始まった。
場は、というより卓全体がうろたえていた。盲人と打つということ。なにより、隠された市川自身の葛藤。当然、中途半端に局は流れる。唯一、衣は自然体だった。やがてそれが、純粋無邪気に麻雀を楽しむ姿勢が感染したかのように、市川のぎこちない打牌は徐徐にだが過去を取り戻していた。
忘れかけた牌の感触、手牌を読む思考、牌効率、まくるための点数差から逆算する役作り。
連鎖するように老婆とオサムの市川に対する姿勢も変化していく。
オサムは聴牌時。実は市川の振り込みを見逃すという選択肢が脳裏に浮かんだ。隠さず言えばハンディキャップを背負った人間に対する配慮、裏を返せば偽善。どうせ河の全てを記憶してはいないだろうという、ある意味自然な考え。張り替えてもいいが、ツモってもわからないだろうと。
が、やめた。この老人には、それなりの理由を求めて卓についた気がする。昔の経験から来る単なる勘。
驚くべきことに市川は直近三巡の河、つまり河の九牌と自身の捨牌を記憶していた。老婆はもう市川が盲人である事を忘れて打っている。つまりいつもどおり楽しんでいた。
市川にとって慣れぬ赤ドラ入り。これだけで切るべき牌は驚くほど違ってくる。というよりまくられない方法。
が、それでも彼は東場が終わったときには二位だった。一位は衣。
すごいですね、とオサム。本心から言った。「河を覚えてるんですか」
「さあな」 市川は暗い感情を隠して言った。
たったの直近三巡。
もう以前のようにはいかないようだ。ブランクのせいか、時間が脳を削り取ってしまったのか。無様な有様だと自嘲する。嘲り?
東風戦が終わった。その日はそれで終わり。市川はオサムに杖を取って来てもらい、ふらりふらりと自室へ向かっていった。久久の打牌はくたびれた老体に堪えた、ベッドに横になる。やがて夕食が運ばれてくる。職員が皿の位置を時計の時刻で教える。いつもと同じく味を感じない、なにを食べているのかわからない、たぶん粘土でも気に留めない。お茶を飲む、水だったか? どうでもいい、どんな料理だろうとここでは意味を見出せない。
食後はもうやることはない、光が差し込まない闇の世界で無為に時間を浪費する。
たぶんこれと同く、と市川は手入れの行き届いた洗いたてのシワ一つないシーツを握る。
普遍。
何の変化もない。染みがついても、シワがよっても次の日にはま新しいものになるだろう。繰り返される無色。熱くもなければ寒くもなく、痛くもなければ癒しもなく、居心地がいいわけでもなければ耐え難いわけでもない。しかしこの獄刑は甘受せねばならないのだ。
握り締める。このシワも翌日には消える。付随する情感も。なにもかもを諦めているから。
それにしてもと市川は自らを蔑む。直近三巡、加えて自分の捨牌しか記憶できなくなっているとは。それも数回振り込んでしまう始末。あの子供が強いのか、自分が弱いのかの判断もつかなくなっているほど倦怠の泥に沈んだ思考。
やがて眠りにつく。
この夜、一つの染みがついた。
あの日以降、空虚にされたはず市川の魂に。
消えない染みが、色濃く。
衣は週に一回ほど施設を訪れ、老人達と一通り戯れてから最後に市川と東風戦を打つのが習慣になった。オサムの手が空いていれば老婆を入れた面子。
衣が市川の麻雀に危うい気配を感じたのは通算で四回目の対局だった。ちらと市川を盗み見る。まくられるかもしれない。
既に彼の理牌やツモに迷いと戸惑いは消えていた。どうやら今のところはただのブランクのようだったと市川は胸をなでおろす。記憶力は直近六巡までに回復。安堵?
衣から見た市川の打ち筋は王道であり、つまり麻雀の持つ合理性を武器にしていた。隙が無い。たとえ100点差でも順位をひっくり返されようものなら、逆転は困難を極めるだろうという予感に満ちた打牌。衣が高速高火力の麻雀を得意とするのなら、対極の堅牢さを感じさせた。なるほど、相手にならないと豪語するだけはある。
しかしながら、どこか手を残しているような気配。いや、それは衣の方かと自答して窓を見やる。突き抜けるような晴天。だが――
自答して、感覚を過動させる。
「じぃじはなかなか強いな、経験をつめばプロになれるかもしれないぞ」
「興味ないな」 市川は軽く答えながらも、こいつは妙だと心中で眉をひそめた。どういうわけか異様に手が進まず、鳴けもしない。
「でもインハイ経験のある天江ちゃんに迫る勢いじゃないですか」 とオサム。対面の老人が後を続けて言った。 「同年代のプロがいるとなったら話題になるよ、九蓮宝燈も出やすいかもしれない」
「九蓮宝燈?」 後ろで見ていた老婆がこぼした。
「出したら死ぬって役満なんだと、そろそろおれにも出てきてよさそうなもんだが……」
流局で終わった。衣のみが聴牌。
次局、またもや市川の手牌は粘りついてもがいていた。二向聴で七巡目を迎える。記憶が白濁する領域。
市川は内心で舌打ちした。試合を中断して他家の河を触って確かめたくはない、遠い昔にその地点は通り過ぎた。今更そんなまねが出来るものか、たとえ対局が終ってからでも他家の河には触らないという意地。見栄?
衣のリーチ一発海底撈月でオーラスは終わる。
その夜、市川は自室のベットで渦巻く思考の中にいた。様様な疑念が寄せては返す。
ピンフ、チャンタ、三色……役と記憶に刻んだ河を照らし合わせる。偶然か、おそらくだが河と手牌を合わせても聴牌すらできず、よくて一向聴の局の連続。しかも鳴けず、聴牌できないのだからアガレない。
ツモが偏りすぎている。サマか、いや自動卓。すり替え、三人全員のツモは不可能だし、声色からして年端もいかぬ年齢。牌を握りこむには手が小さすぎるだろう。
とそこまで考えて苛立った。判断材料が少なすぎる。思索の糸は六巡で途切れているのだ。
ノックの音で覚醒する。夕食の時間だった。
いつものように、意識を向けぬまま口にする。が。
「なんだこれ」 と市川。一口食べて固まった。
「あれ、お嫌いでしたか? たまーにメニューに出てくるんですけど、いつもの物ですよ」
「いやそういう意味じゃあない」 ゆっくりともう一口。薬味は醤油と鰹節、しかし妙な食感、なにを食べているのかわからない。さっぱりしているようで濃厚。農産物か、あるいはモツの類か練り物?
「アボカドという果物ですよ、野菜のように食べるのが一般的ですけどね。次から別のものに変えておきましょうか」
「ふーん。ま、悪くない、嫌いじゃない」
「隠し味としてグリーンカレーにペースト状にして入れてもおいしいんですよね。栄養豊富だし」
「緑のカレーか。最近はおかしな食べ物がたくさんあるな」
「イエローとレッドカレーもありますよ」
市川は食べ終えてから、眠る間際になって、そういえば自分が空腹だったことを思い出した。満腹という感情が久しぶりだったので。
この夜、一つのシワが寄った。
あの日以降、虚無にされたはず市川の心に。
消えないシワが、彫り深く。
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「ツモ、海底ツモ」
衣が海底撈月でアガル。市川は必ず衣以外が聴牌できない局があるという結論に達した。七十パーセントの確信。残りの三十パーセントはどうあがいても七巡目までしかもたない記憶力がそうさせた。おそらくそうだという曖昧で不確定、不定形さを残す。
七巡、これが限界なのだろうかと市川は陰鬱に牌を摘んだ。
天江衣とかいう子供と打ってから既に約二ヶ月。月に三、四回の対局で七巡目までは思考を取り戻したものの、ここらで打ち止めらしい。
認めるしかない。ブランクではなく老化し、取り戻せないほど歪んでしまった思考。
しかも最近、天江はそこを察知した打ち筋を見せてくるようになった。おそらくだが、数巡の聴牌が遅れる程度であれば、手を崩してでも待ちや役を見抜かれそうな牌を早早に切り、必ず八巡目以降のリーチ宣言。容赦がない。
加えて山を見透かしているようなリーチ一発海底撈月。
異形の業。
少しでも牌を把握したい。市川はその念からアガリを放棄した。中張牌を捨てて鳴きやすいヤオチュー牌を抱えるという戦略。鳴いて自身の手元に牌を置いておけば、フーロ回数分の他家捨牌一枚をいつでも触って確認できるからだ。
だから手はばらばらでいい。市川は内心で呟いた。ひたすらトイツ。チートイツで聴牌は出来ないだろうから、五つのトイツと三枚のカンチャンチー待ちという奇形を目指す。いかに鳴きづらい流れとはいえ、この手ならと。
二フーロできればよしとする。その二枚に河を合わせ、他家の手牌の数枚を推論する。それで八十パーセント。
が、市川。十巡たっても鳴けず。戦略は効果を発揮してくれない。
牌はばらばら。トイツは三つ。散乱するチー待ちのヤオチューハイ。
国士無双、三向聴。空ぶった思惑は別の形で回答を示しつつあった。
こいつは、と市川は手牌をなぞる。その疑惑をかき消すようにに衣が【中】を発声。彼女からしてみればションパイ。
『ポン』
市川はそう蠢めきかけた喉を制御するのに多大な精神を消費した。
短く猜疑を思索に走らせる。
わしの中張牌で汚れた河は、素人目に見ても国士かチートイツ狙いと読める。そこへ終盤にさしかかろうという時にも関わらず、ほぼノータイムでションパイの中をツモ切り? なぜ迷わない。僅かではあるが役満振込みと言う可能性に、なぜ些かの葛藤もくれてやらない。確信があるのか? 必ず通るという。つまりわしが聴牌ではないという。
衣の切りは市川の脳裏にある人物をちらつかせるのに十分すぎた。自然と二人の影が重なる。異形の業。そんなものは認めない。わしの合理が負けるものか。
次巡、市川はまだ手にしていなかった【白】をツモ。浮いていた萬子を切る。二向聴。更に三巡後、あっけなく国士無双聴牌。北単騎待ち。
国士は例外なのか? 市川はまだ記憶にある衣の河に浮かぶ【中】をねめつける。罠か……あのとき鳴いていれば聴牌できなかった。
山が天江以外に国士を除いて聴牌できないように積まれているという仮定を満足する場合、鳴けばツモ番が狂い、物理的に天江のツモ牌は他家に渡る。したがってこの状態ならば他家も聴牌できるだろう。故に天江が鳴くべきセオリーは鳴いても高速で高い役を組める手か、他家の鳴きによって狂ったツモ番を矯正する場合に限る。これならツモ番が狂ったところで自分は数巡は手が進んでいるのだから、他家がアガル確率は低い。逆説的に先の中ツモ切りはその証左なのではないか?
天江は他家が国士以外聴牌できないことを確信しているからこそ、それを察知していそうな他家に対して鳴けそうなヤオチュウ牌やファン牌を切り出す。ツモ番狂いによる聴牌から、向聴地獄に対する疑念を九分九厘の確信に至らせず、後の役作りに迷いを残させる迷彩の太刀。かつ国士殺しという二段構え。
衣の捨牌でオサムが鳴いた。おそらくオサムは聴牌するだろう。ここでオサムがアガリ、衣が数千点を吐き出したとしても痛手にはなるまい。オサムの心境が手に取るようにわかる。なんだ、聴牌できるじゃないか。まあ、一向聴で足を取られることはままあるもの。
こうして次局以降も呼吸ができるかできないかという水量ぎりぎりで打たせられる。間違いない。異形の業、天江衣による沼の配牌。今は息継ぎさせてもらっているにすぎない。苦しいところへやってきたフーロと聴牌という酸素。飛びつくが必然。そこで目の前の幸運に対してもまだ疑念を抱けるかどうか。凡百の打ち手ならあの切りに太刀打ちできまい。なますにされているだろう。
そこでふと、市川は自分が闘牌に埋没していることを知覚した。あの日以来だろう、やつと対局したとき。忘却の彼岸に置いてきたはずの狂念が滾りだす。
やめろ。冷静に徹するのだと理が自制する。しかしそうして一歩下がってみれば、先の中切りに対する考察は異形の業を認めないとのたうつ本能を裏切っていた。
業を否認する理が、業を判断材料として結論づけたのだから。
この論理的矛盾に市川は動揺を隠せない。
嘲り、安堵、見栄、不安。人間を人間たらしめんとする欲が抜け殻の市川に満ちてゆく。それが本来の正しい形。
「何を恐れている、なぜ」 衣は静かに言った。無論、市川に。 「全力を尽くさねばこの局でトブだろう」
「言ってくれるぜ」市川は小さく唇を吊り上げる。「おれは昔、こいつで飯を食ってたよ」 応答するぎこちない小さな笑い。抱える矛盾を整理できない。
「てことは雀荘かなんかで働いていたのかい」 と老婆。
「……まあ、そんなところさ。わしは強かった、そんじょそこらのプロなんてカモ同然だと思っていた」
悲哀と過去のさび付いた栄光を懐かしむような言葉だった。
みな、聞き入る。手を動かしながら。止めてはならないような気がした。卓は恐ろしく静かだった。なぜだか周囲の喧騒を、牌の干渉しあう僅かな音がかき消しているようだった。
「ある日、無名の輩が雀荘に喧嘩を吹っかけてた。わしは代表として卓に着く。雀荘には顔がある、負けて泥を塗っちまったら終わり。わしかやつがトブまで続くという変則ルール。どちらかが破滅するまで終わらない。わしは本気で殺しにかかった。やつもそうさ。そうじゃなきゃ収まりがつかねえ。それにわしもやつも、博打に対してどうしようもないほどに狂っていた。だから気にいらねえのさ、同類がのさばっている事に。偽者なんざ殺しちまえってな」
衣は二フーロ。聴牌色濃厚。光の届かないほどの深い、暗黒の海の底も近い。
「あらゆる技巧と経験と理をすりつぶして戦ったが、負けた。わしの合理性がやつの業に敗北した。代打ちとしての責任があった。莫大な金がやつに転がり込んだ。やつはそれを種にもう一勝負と抜かす」 ツモを切り飛ばす。あの時の悪夢を引き裂くように。
オサムと対面の老人は物騒な言葉に顔を見合わせる。
堰を切ったように、今まで無口だった市川が語った。怨嗟と贖罪の吐露にも似た呪詛のようでもあった。本当にそうなのかもしれない。
「わしはその勝負を受けるべきだった。そういう性分なのだと、ここに入れられて再認識した。ここにわしの求めていた気が違いそうになる勝負はない。老いと、やつの神がかった才と折れてしまったわしの勝負勘。それにこれまでの組への貢献が加味され、身寄りのないわしをこの生ぬるい獄へと縛る組の決定なぞ蹴ってしまえばよかった。そんな温情など蹴って、死ぬべきだった。周りの人間はこぞってやつになら負けても仕方がないと言う……仕方がない……仕方がないだと? 仕方がないってなんだ? 負けて仕方がないなんてことがあってたまるか。わしは組の資金をまるまる溶かしてもやつに挑むべきだった! どれほど無様になっても己を奮い立たせて悪魔のようなやつと対峙すべきだった!」
天江の鳴いた牌には赤が二枚。残りは河に流れている。
市川はツモを盲牌し、白濁の瞳で天江を見やった。引いたのはションパイ。偶然か必然か、奇しくもあの夜と酷似。牌を摘んだ手が動かない。ドラは全て見えている、河に一枚とオサムのポン。跳満出費でない限りトビはしないだろう。
三つの偶然が重ならない限り。じっとりとした嫌な汗が市川の額を伝った。
やはり本質的に、と沈黙を続けていた衣が口を開く。 「ころもと市川は似ている、ベクトルは対極を向いているが。かつてころもは感覚の命ずるままに打っていた。ありえぬ配牌、ツモ、待ち、アガリ。よくそう評されたものだ。対して市川の麻雀は言わばデジタルの極地、緻密の最奥、合理の頂にあるといっても過言ではない。しかし転じて数的理論の命ずるままに打っているに過ぎないのではないか」
やつの言葉が市川の脳裏に浮かんでは残響する。認めたくない。合理がやつの業に敗北を喫したなど。業そのもの、あってはならない。合理こそが――
だが――と、市川のツモ牌を摘む指に力が入る。
だがどうしてか、ツモ切りすればトブだろうという悪魔めいた確証が市川の心中にとぐろを巻く。天江の手は最高打点でも満貫か。しかしただただ、感覚が過去を参照し囁いている。あるわけがない、大明槓され、新ドラが四枚まるまる乗り、嶺上ツモされるという三重の偶が起こるなど。殺されるなど。――おれの嶺上すり替えを――
汗が滴り落ちた。切れと感覚が告げる。呼吸は乱れていた。
いま市川は岐路にあった。
感覚は、切れば間違いなく飛ばされるだろうとうずく。矛盾を抱えた理は、故にオリろと鼓動する。
後者は感覚を参照しつつも後を引く打ち方だった。例えば天江が聴牌していないかノーテン覚悟で手を崩して張り替えるか、あるいは他家がアガる場合はこの感覚を裏打ちする物証を何一つとして得られないからだ。
もしもこのションパイを切ったとしたら飛ばされていたかどうか、という疑念は、死ぬまで市川を苦しめるだろう。感覚という業を半分は認めつつも、どこか見下す理による自己保身の打牌。
切れば死ぬ。この感覚こそが、やつがあの時、暗刻を崩したという業なのか。
切って振り込め。確かめるのだ、やつに似た感覚という業を己が擁し得るのか。腕を振り上げる、そこで再び止まった。まるで肩から先が自分のものでないかのように動かない。自己の中にある合理がその切りを、感覚による打牌を認めようとしない。それは罪なのだと、業であると鎖で縛る。ひとまずトイツの中を落としていばいいと。
歯が欠けんばかりに食いしばる。眼球が充血する。この打牌は今まで生きてきた数十年に及ぶ闘牌の否定。過去の自分の殺害。
市川は苦悶のうなり声をあげた。次第に周囲が何事かとざわめきだす。衣だけが、静かに市川を見守っていた。
枯れた指で牌を握りこんだ。拳の骨が軋む。涎が漏れる、口に鉄の味。意識が朦朧とするその刹那。
――合理的正当性だけを杖とするのではなく、感覚を選択肢の一つとする――
それは天啓と表現するに十分すぎた。
生命を振り絞るような低い叫び声とともに、牌を握りこんだ拳を河に叩きつけた。遅れて上体が卓に突っ伏された。市川の手牌と山が崩れる。力を出し切った脱力から、牌が手よりこぼれ落ちる。
「カン、ツモ、嶺上開花、赤二ドラ四。跳満」
衣の目には、なぜだか涙が一杯だった。同時に直感する。市川は、眼前で卓に伏し、息も絶え絶えの老人は入神の域にある。
「ありがとよ、倒牌してくれて。天江とかいったな。助かったぜ、本当に」 市川は顔だけを対面の衣に向けて本心から言った。
「名は」 何者なのだろうか。これほどの打ち手をここまで拘縛せしめる人物は。
「おれをもう一度トバしてみな。そうしたら教えてやるよ」 ひいひいと椅子に背を預ける。
「大丈夫ですか、市川さん」 と職員の一人が駆けつけるも、大した事じゃねえさと市川。
「大した事じゃねえ、ちょっとばかし耄碌した老いぼれが駄駄をこねただけさ」
喉を鳴らして小さく笑ったその顔にはしかし、誰の目にも駄駄をこねるといったような小賢しい真似をするようには微塵も感じられなかった。サングラスの奥の瞳は理知的であり、かつ大胆な自己肯定の均衡。オサムは昔、似たような人を見たことがあった。小さく身震いする。
老婆と対面の老人は市川を心配し、オサムに少し休むように促すも彼は対局を東風戦と限定して尊重する。まわりの職員は何か言いたそうだったが、事実上のオーナーを兼任しているオサムに従った。
「休んだほういいよ市川さん、わたしゃ見てらんなかったよ」
「そんなら、わしらは降りるよ。また今度やりゃあいいじゃないか」
「構わねえよ、それで」
二人打ちなら諦めるだろうという老人二人の目論見を一蹴。また今度、などはもう来ないかもしれないのだ。明日、いや次の瞬間にもわしや、天江が死ぬ可能性はある。市川はそう感じていた。
「いえ、二人打ちだとルール決めも大変でしょうし、ぼくが続投しますよ」 とオサム。先の市川の異変に動じない。二人が打つことになんらかの理由はあるのだろう。あの人ならそうするという単なる勘。
三人打ちでサイが回る。東家はオサム、南家は市川、衣が西家。
誰の作為もなく、意図せずして市川に有利な状況が形成された。三人打ちには北家がいないのでツモアガリだと一人分点棒が少ないツモ損。つまりロンアガリで直撃を狙うほうが得。ニ萬から八萬を除いた牌で打つので確率的に国士を狙いやすい。四人打ちよりもアガリやすいため、早アガリ防止の意味でチーは禁止されている。
これらが意味するところは、海底アガリの点が少なく、場の支配下でも闘いやすく、衣の持ち味である鳴きを混ぜた高火力早アガリがやや鈍る。
場がひりつく。まず衣が意外に思ったのはオサムの打ち筋。素人のものではなかった。人数あわせのためではなく、勝ちを狙うという意思がある。
東一局、オサムの親番。衣にとって初の三人打ちだが場の支配がエラーなく機能した。
となれば衣の手は二つ。一向聴で硬直する二人を尻目に高めの役を作って振込みかツモを待つ、あるいは海底撈月で確実にあがるか。
後者は論外。ただでさえ国士は狙いやすくなるのだ。時間をかける必要はない。チーできないものの、トイツ、カンツ、ジュンツは通常より作りやすい。委細は安めか高めか、既に市川の記憶力は完全回復したと見て戦うべきだ。その市川の腕によっては安め早早に親を蹴っても良いが……思考し、微笑む。あちらを立てればこちらが立たず。自分が老人達に教えたことだ。楽しさはここにこそある。
いや、トバさねば名は明かしてくれないのだった。狙うは高めの直撃、【中】を暗刻に抱えてのダマテン。
だからオサムの振り込みは見逃される、案牌は現物と同順フリテンのみ。と市川は思考していた。赤がやっかいだ。数度の跳満でトブ。しかも天江のやつ、張ってやがるな。
数巡し、衣は再度市川の守りに舌を巻いた。限られた牌でも放銃する気配がまるでない。張り替えてみるも、見透かされたように対応される。濃霧を相手しているような錯覚。
衣の打牌で市川がダイミンカン。支配が崩れる。天江のツモ牌はごっそりと市川にまわる。それを戻すには鳴き返すしかない、しかし鳴けば一役さがる。
鳴いて支配しなおすか、メンゼン直撃に拘るか。
後者を選ぶ。技巧の勝負、というところで三順後、衣は市川に聴牌の気配を感じた。あのダイミンカン直後から打牌は打って変わって攻勢の色。間違いなく場の支配は見抜かれている。
あっさりと市川がツモ。白、チャンタの3200はツモ損により2400で1600-800。
市川の親番。衣は一つの試みを実行した。
やはり場の支配。市川の手は進まない。が、オサムは早い段階で鳴き、対応するようにして衣が鳴き返して即座に場の支配を戻す。
今回は拘るのか、と市川。連荘で仕留めるつもりではいたが。それにしてもオサムがやけに好調の気配。
「ツモ、トイトイホーサンアンコ、赤2ドラ3裏3」
24000がツモ損により18000で12000-6000。
やられた。市川は足を掬われた気分、だが悪くない。そういうことか。自身の本来の高速高火力ツモ牌をしょっぱなからオサムがツモるような山にし、かわりにわしと手前を国士以外一向聴の沼に引きずり込んだ。まずわしからの振り込みはないと確信し、それならば警戒の薄いオサムへの放銃の期待と、ツモアガリによって親であるわしから多く点棒を吐き出させる胎。まあ、こいつはおまけだろう。本命は連荘阻止。
そして天江がツモアガリを狙わなかったことはやはりオーラスで殺すという意思。わしの持ち点は27400。この局、たとえ天江が役満をツモっても16000の出費にしかならず、勝負は結局のところオーラス。そこでもう一度、場を支配しながら三倍満以上をツモって残り11400点を一気に削るか、他家を完封連荘して地道に奪うしかない。あるいはダイミンカンによる責任払い。どのみち一度は役満をツモらねばならぬなら、いっそこの局はオサムに手を委ねて次の親番で刺すが甲と天江は判断したのだ。
次局、東三局オーラス、衣の親番。
今度はオサムの手も沈み込んでいた。当然市川も、そして衣自身も。
場の支配。支配者までもが自らの意思で底のない沼に投身する暴挙。しかし転じて、技巧では格上の市川に対抗する隠し技、どちらが先に国士をツモるかという業。
とはいえ三人打ち、単純にツモ回数は増えるので、限られた牌では終盤にでもなれば国士以外でも聴牌はできるだろう。しかしそれまでに誰も国士をあがらないという保障はどこにもないのだ。
「リーチ」 おもむろに市川が言った。 「トバしてみろなんてほざいておいて、逃げようと思っちゃいないさ」 リー棒を卓に置く。
衣はその打点を感じ取った。耳が痛くなるほど静穏に過ぎる聴牌。無意味な役満リーチ。なるほど、と衣は口元を緩めた。手出しと同時にリーチ宣言。
感覚という業に一切合財を任せる理。やつの名が表に出るも出ないも、それは天が決めるだろう。
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「またな、じぃじ」 言って衣は手を振って施設を出た。見えているとかいないとか、あまり関係ない。ご満悦で帰路に着いた。多くの知人は衣と名前で呼ぶが、市川は天江とぞんざいに呼ぶのが気に入っていた。大人っぽい。
それにしてもと、鼻歌交じりに迎えの車に乗り込む。市川が敗北した最後の夜の、やつとの死闘の話は凄まじかった。世は広い。
「ありがとよ」 誰に聞こえるでもない呟きで、衣を見送るとよろよろと市川。自室に戻った。
市川は国士無双十三面待ちを必ずアガルという確信があった。なぜならたぶん、きょう死ぬだろうから。
感覚が己が死期を察知した。あれが最後の闘牌、だから当然にアガレる。運の全てを出し切ったのだから。あの一瞬に限り、まだまだ麻雀を楽しむであろう天江に比べて運の濃度は凌駕して当然という考え。
ベットで横になり、自嘲した。まったく論理的ではない。
夕食を済ませ、やがて消灯時間。夜も深くなった頃、杖をつき、自室を出た。まるで見えているかのように職員用のトイレの窓から這いずり出た。
市川は施設を抜け出した。
肌寒い秋の夜をとぼとぼと歩く。施設はちょっとした山の上にあるから、しばらく下っていれば町に出るはず。通りに出て点字ブロックを頼りにしたいところ。しばらくは民家の壁伝い。
なぜ抜け出したのか。それは市川自身にもよくわからない。ただ、自分はあんな恵まれた場所で死ぬべきではないと思った。幾人も麻雀で殺しておいてふてぶてしいにもほどがある。わしのような小悪党は野垂れが相応しい。オサムらには悪いことをしたな。
それにしても。と、壁に寄りかかり一休み。
あの悪の本質とも呼べるやつは、どうしているだろうか。もしも今のわしとやつが戦ったらどうなるだろうか。
よっこらせと再び歩を進める。業理を手にしたわしとやつ……いやそもそも、わしのような半端な悪がその本質に勝てるわけがないのか?――
点字ブロックをなぞる市川の体が唐突に小さく跳ねた。サングラスが壁に当たって欠けた。車が遠ざかる音、アスファルトと擦れた肌が血で滲む。たぶん、右足はもう使い物にならないだろう。遅れてやって来た鈍痛がそう物語っていた。組だろうか? いや、獄刑は言えどそれはわしからすればというだけ。組からすれば退職金代わりのようなもの。甘んじたのは、やつから逃げ出した自責の念もあった。
飲酒運転か、そんなところ。ツいてないが、しかたがない。運はもうからっきしで残っていないのだから。
それにしてもこんなものかと最後の力を振り絞って仰向けになる。まあわしのような悪たれには妥当。
先の思索の糸を手繰り寄せる。
――だとしたら勝機はそこにあるのか? 半端な悪では歯が立たない。ならば善では? 対抗するにはやはり対極。本質的な善であれば?
案外、ノーレートなら天江といい勝負かもしれない。あいつの無垢さはやつに眩しかろう。
辺りが急に静かになった気がした。天江、海底撈月、魔法かと思った。そういえば今夜は月が出ているのだろうか。
市川は夜空に震える手を伸ばすと、ぽつり水滴が落ちてきた。暗雲。とことんな最後にいっそ清清しい。あっというまにどしゃ降り。がたがたと体が音を鳴らした、ひどく寒い。
ゆっくりと目を閉じた。
雨水を跳ねて駆ける足音が、遠く聞こえた。
意識が覚醒すると市川はどうやら車内に横たわっているらしかった。毛布がかけられている。ばかなと瞠目して心中で驚愕する。わしはきょう死ぬ、業理がそう囁いたはず。ありえん。
おそらく運転手が朗らかな口調で言った。
「オサムさまからあなたが施設を抜け出したらしいと一報がありまして、あなたさまはともかく、わたしの運は良かったようです」
「おまえは」
「衣さまの付き人です。聞くところによると、なにやらただ事ならぬ事態らしいとのことで、みすみす衣さまのご友人を放っておく事はできません」
わけがわからず、理にかなっていない出来事に市川は沈黙した。それも当然のこと。
一個の矮小な存在に過ぎない人間が自らの死期を察したところで、それは人間の業理にすぎない。より大きな天の意思には逆らうことすら許されない。
いつの間にか雨は晴れて明瞭の夜。満月はしずしずと輝いていた。
天が市川に、生きろと言っていた。
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「じゃあハギヨシさんも市川って爺さんの行方は知らないって事かー」
「天江系列の病院に入院後、治癒の見込みの診断が出ると、言付けを残して出て行かれました。内容は、旅に出る、世話になった、いずれ借りは返す。とのことです」 腕を組み、自答する純にハギヨシは答えた。
「初耳ですわ」 と透華。非難めいた口調。
「主に対する報告義務内容に該当する事柄かどうかを見極めるのも執事としての勤めと考えております。市川さまは、失礼ながらお年を召された方。本来であるなら完治後に介護施設に入るのが世の道理でございます」 一泊置き、神妙に続けて言った。 「故にです。道理を捻じ曲げてまで成さねばならぬものの為、行方をくらましたのではないでしょうか。世話になりたくないというプライドもあるやも知れませんが、少なくとも雲隠れしたということは余計な詮索を受けたくないという表れなのだと思います」
「それが見極めの境界線と言うわけですのね。聞かれない限り答えない、聞かれれば答える、というのは」
「さようでございます。主に対して害意を及ばず、緊急を要しない場合に限り、市川さまの意思を尊重したく思います」
なるほど、それで市川老人の存在を一人知っていた衣はハギヨシに施設から別れた夜以降の、旅に出たという情報を知っているのかと一同は合点をいかせる。しかし同時にある一つの感情も沸いた。
昼間とはいえ、衣をしてああまで言わせるほどの打ち手。実在するのか?
なにも衣やハギヨシの発言を疑っているわけではない。おそらく、事実なのだろう。そうであると認識することはできているが、それは理解とは違う。
一が埒を開かせようと大きなノッポの古時計に目をやり、提案した。
「じゃあさ、せっかくだしオサムって人に話を聞きに行ってみようよ。介護施設って、あのガソリンスタンドのところ右折して真っ直ぐ登ったところだよね」
まだ太陽が傾くには早い時刻。そのようなわけで一向は、えっちらほっちらと汗を流して長い坂を登って行った。秋とは言え、白い太陽が頭上で輝いている。
「あちーよ。ハギヨシさんに頼んで車に乗っけてもらえばよかったんじゃね」
「まったくですわ」
純と透華は愚痴をと汗をこぼすが、室内に篭もりっぱなしで卓を囲んでばかりでは身体に悪い。運動して汗をかいたほうがいいというのも道理。
まあ、衣が楽しそうだったのでどうでもよいことだったが。
そんな彼女らを、施設近くで停車中の車中から偶然にも目撃した男が言った。
「なんてこった。もしもあいつの父親が手品師ならとんでもない巡り合わせだ……」
「はあ? あいつって、あの頬にペイントしてるガキか? それがおれたちの市川探しと何の関係があるんだ」
「関係はないがしかし……おれたちは市川を探し当てる事ができるかもしれん、契約的に」
「契約って、誰との?」
「やつとのだ。というのも、こいつはやつに関する根も葉もない噂話の一つなんだが……」