案内人とやらが来たのはそれから一週間も後のことだった。私は台所で八十日間旅行記を読んでいた。二十年も前の小説だが、生き残った本の中で旅行の予習になりそうなものはこれしかなかった。
砂袋でカウチポテトしながら活字を眺めていると、がらがらと外に馬車が止まる音がした。中くらいの幌馬車であったのは見えたが、中身については判然としない。私はそれまでに二回透かしを食らっていたので、今更馬車が来たくらいではしゃいだりはしないのであった。一度目は新聞屋、二度目はアイボを見に来た客だった。そういう訳で硬派にカウチポテトを継続していると、父から応接間に来いと呼ばれた。待ち人来たれり、と。
私は勇んで応接間へ向かった。そこは普段アイボの見せ物を行うときに使う場所である。必要最低限のスペースしかなく、小さな机とイスが三つ入ったらいっぱいとなるような部屋だ。かつては懺悔室として機能していたらしい。
部屋にはいるとすでに人は待っていた。待ち人は二人いた。一人は私と同い年くらいの青年、もう一人はまだ子供とでも言うべき少年だった。私が来たと見ると、青年の方はすぐに立ち上がってにこやかに右手を突き出した。
「やあやあ、どうも。僕はウィルバーという者だ。しばらくの間だが、どうぞよろしく」
彼は少しもったいぶったような口調で言った。ウィルバーと名乗る青年はこの砂漠の辺境で背広を着込み、さらにはフォーマルな黒のオーバーコートを重ねていた。そんな丁寧な服装とは反対に、少し赤みがかった髪はトルネーディに乱れ、目元も人が良さそうに少しだけ垂れている。先ほどの口調も併せて、全体的に彼は没落貴族のような雰囲気を纏っていた。
「私はミランダです。ミランダ・ローレンツ」
私が差し出された手を握ると彼は満足そうにうなずいた。外界の人はこうしないと気を悪くするのだ。
「こっちの小さいのはヤンソンという。僕の付き人だ」
小さいのと言われ彼はむっとしたようだったが私に軽く会釈をした。ワイシャツに緑のチョッキを着込んでいる。小粒でもぴりりと辛い目つきをした少年だった。
私も会釈を返したが、照れてしまったのか顔を背けてしまった。ういやつめ。
それにしても彼らのうち年長者のウィルバーでさえ私と変わらないくらいの年に見える。つまり彼らは父がこの砂漠に住み着いてからの知り合いということだ。そんなことがあるだろうか。
ヤンソン君は黙ったままで、ウィルバーはなぜか満足そうにうんうん頷いたり手帳になにやら熱心に書き込みをしたりしていた。しばらくかりかりと鉛筆の音だけがあったが、沈黙も毒となってきたので私から話した。
「あの、父とはどういったご関係で?」
ん? とウィルバーは書き込みを止め、ぱたんと手帳を閉じた。ゆっくりとそれらを鞄にしまった。じつにもったいぶった動作である。彼はこちらに向き直すと言った。
「君のお父様は実にすばらしい方だ」
「はい?」
十余年父と住んで彼のことはわかったつもりだったがそんなことは初耳だ。というか質問の答えになっていない。彼は鞄からしわしわになった紙を取り出した。どうやら隣町の広報紙らしい。
「君のお父様がここに案内人の募集をかけていてね。それで彼と出会ったのだ。ほらここ」
彼は広報紙の右下を指し示した。
二、三ヶ月くらいいなくなってもだれも困らない人、旅行慣れしている人などのいくつかのなかなかハードな募集要項の最後に奇妙な文言がある。
――当方妖精ノ同伴アリ。詳シキ者歓迎。
なぜこんなことを。
「僕たちはこういうオカルトでオモシロイものを探して旅行していてね。先日この地方の妖精の話を聞いて隣の町にたどり着いたのだが、そのときにこの記事を見つけた。妖精と同伴で旅行できるなら大変オモシロイ」
父の無用な文言は、この町によくないものを運んできてしまったようだ。しかし贅沢もいえない。この条件を満たす人間はそういないだろう。
「もしかして民俗学の先生とか、ですか」
これは私の精一杯の抵抗というか、現実逃避というか、とにかくそういう類の質問だった。
「ただのオカルトマニア」
ヤンソン君がぼそりと独り言のように言った。
「しかも下等の下等。調べ始めたのも旅行し始めたのも半年前だから、大して旅行慣れしてるわけでもないし」
現実は非常だった。
「しかし、オカルトマニアというのはそこらの民俗学者なんかよりはオカルトについてなら上等なものだよ」
ヤンソン君に反論して、ウィルバーは大胆な自説を展開した。
「民俗学者という連中は昨今の無神論に飛びついて、悪魔とか、妖精とか、そういうのがいないことを前提に研究しているのだよ。己の信じていないもののために人生を捧げるとは、なんとも馬鹿馬鹿しい連中だと思わないかね。
古今人類は己の信ずるものについて時に舌戦を交わし、時に刃を交えた。信仰というのは己の主義信条、ひいては実存に関わるものだから当然だがね。“われ思う、故に我あり”、コギト・エルゴ・スム、だ、分かるかね。
それが今の民俗学者ときたら、東に奇跡の泉があれば、温泉の薬効だと説き、西に悪魔に憑かれた村があれば、行って麦芽菌の仕業だと抜かす。そしてあらゆる伝承伝説、フォークロアを先人の教訓、訓戒、まあ要するに法螺だとするわけだ。それは余りにも早計だと思わんかね。
それだけならまだしも奴ら僕にそれを押し付けるのだ。“君、今時悪魔や妖精なんて古いよ。神は死んだのさ。これからは超人の時代だよ”だとあの高慢ちきのとんとんちきめ。あいつら神がいないことを布教してくるのだ。奴らは信仰しないことを信仰しているのだ」
だんだん彼は白熱してきた。そして脱線している。ヤンソン君は火に水を差す。
「でも実際そういうことばっかじゃない。ほら、聖人の遺体が腐らないのも奇跡じゃないらしいよ。死蝋化現象とか言って――」
「それは、まあ、そうだったとしよう」
ウィルバーはヤンソン君を止めた。
「悪魔は存在している。妖精もだ。妖精についてはこの娘さんが証明してくれるらしいし、悪魔の証明は僕ができる。やはりオモシロイものは未だ健在なのだ」
なんとこの私が六年前に断念した悪魔の証明を彼がやってのけるというのか。
「驚くなかれ、僕には悪魔が憑いているのだ」
「そんなまさか」
彼については何かにとりつかれているにしても、それが悪魔とは限らないだろう。それに先日見た火の悪魔は見目おどろしい姿をしていたが、彼はまるきり人間である。
「君、信じていないな」
私が頷くと、彼は残念がってはいたが、自分から証明しようとはなかなか言い出さなかった。
「君が妖精を見せてくれたらば、私も証明してあげよう。妖精の同伴は案内の条件でもある。君から見せてくれたまへ」
ふむ、ならばおののけ。私は立ち上がり、机の下でぷるぷるしていたアイボの腹? を両手で掴んでよっこらせと持ち上げた。さながら子猫を持ち上げるかのような登場である。実はこの部屋に入った時から付いてきていたのだが、特に話題にのぼらなかったのでずっと足元でふよふよしていたのだ。
彼らはまるで未知の生物の登場に目を見張っていた。ウィルバーはまた手帳を取り出し、書き込みをしている。
「どう? びっくりしたでしょう?」
私はヤンソン君に話しかけた。彼はかぶりを振った。
「確かに変わった生き物だけど、妖精かというと、違う気がする。妖精ってのは羽が生えて、ふよふよ浮かんでいるものじゃないと」
ウィルバーとは打って変わって彼は懐疑的だった。ウィルバーと同種だと思っていたから驚きだ。しかし小生意気だ。
「そういう妖精もいるということよ」
「砂漠の秘密成分を取り込んだナメクジじゃない?」
「でもこの子、何も食べないし、糞もしないし、普通じゃないでしょ」
「どこかでつまみ食いしてるんじゃないかな」
そんなナメクジは存在しない。しかしウィルバーの付き人がこのような態度で務まるだろうか。二人が共に旅していることは不思議だった。そうやって見ていると、ヤンソン君はこちらの思考を読んだように言った。
「僕はウィルの付き人じゃない」
「じゃあどういう関係?」
「もともと一人で暮らしてたんだけど、あいつに家を壊された。どうしようもなくなったから弁償してもらうまでつきまとってたかってる」
「それはひどい」
年齢や性別、ひょっとすると人種も違うかもしれないが、寝床のない悲しみは万人共通のものだ。しかもまだ自称とはいえ、悪魔に寝床を奪われた同志にここで出会えるとは。これは羽毛布団の天使の導きであろう。
「悪魔とは、夜中の安寧を奪う存在と見たり。少年、私も君と戦おう」
彼はきょとんとしていたが、私の出した手を取ったので共感してくれたはずだ。
「なんだか大変な誤解が生まれていないかね」
横からウィルバー。眼中にアイボしか入っていないと思われたが、一応話は聞いていたようだ。
「僕が彼の家を壊してしまったのは不可抗力で、それは彼もわかってくれているはずだよ。さらに家なき彼の面倒を見ている僕には、感謝と畏敬の念を抱いているはずだ。それよりも――」
途中でヤンソン君が物言いたげだったが彼はさっさと話を変えてしまった。
「これはあんまり妖精っぽくないね。確かに見たことはない生き物だけれども。羽ないし、なんかテカテカしてるし」
「そういう妖精なんです」
「でもそれだけでは犬猫とあんまり変わらないよ。やはり何かしらオモシロイことができないと。僕が南の方で見た妖精は人知の及ばない芸当ができたよ」
どいつもこいつも注文の多い客だ。ねずみを獲らない猫もいるし、吠えない犬だっているのだ。羽根がなくて飛ばないヌルヌルテカテカした妖精がいてもいいではないか。彼らの言い分に、私は友人を貶されているような腹立たしさを覚えた。友人はいないのでわからないが。それにこの出来損ないにも、オモシロイかは分からないができることはあるのだ。私はアイボを驚かせることができれば、驚きの芸当を披露すると言った。
ヤンソン君とウィルバーはしばらくこそこそ相談していたが、やがてウィルバーがアイボに向き直った。
「ならばとっておきを、ひとつ」
彼はそう言って両手の拳を突き合わせると、俯いて何やらブツブツ唱えだした。
「なにしているんです?」
「お静かに。変身するには集中が必要なのだ」
そう言ってまたブツブツ言い出した。私はヤンソン君にいつも変身するときはこうなのかと尋ねたが、いつもはすぐできるのだけど、今日はもったいぶって演出にこだわっているらしい。
「彼、本物なの?」
「一応、たぶん」
まだ会って三十分くらいだが、あの懐疑的かつ寝床消失の同志である彼が言うならそうなのかもしれない、と思って見ていると異変が現れた。
突き合わせた拳にみるみる黒銀の毛が生えだした。ものの数秒で彼の手は真っ黒に美しく覆われた。禍々しさはあまりなく、光を浴びて鈍く輝くその拳は、鋼鉄の持つ冷気を帯びているように見える。毛並みの下の肉質も変化して見え、金属のしなやかさと頑強さを兼ね備えているかのようだ。
彼は拳を解くと立ち上がり、言った。
「今からこの生き物を殴るフリをする」
彼は私に、後ろに回るように指示した。私は先程までとは違う真面目口調に重々しく頷いて、それに従った。ヤンソン君も一歩下がって私に並んだ。机の上のアイボにはウィルバーのみが対峙した。彼はゆっくりと、冷気をまとった鉄拳を挙げる。満身の力を込めた握り拳からは、焚き火越しに火の悪魔と退治した時と同じ妖気が感じられた。室温が冷たく感じる。机の上ではアイボが明らかに警戒した様子で全身にさざ波を立たせていた。
これは、来る。
私はウィルバーが本物であることを確信した。一瞬のち、悪魔の拳が振り下ろされた。私は両手でヤンソン君の目を塞ぎ、自分も目を伏せた。部屋に眩い閃光が走った。
◆ ◆ ◆
「聖ペテロの解放」という、十六世紀のラファエロの絵画を知っているだろうか。ヘロデ王の命によって投獄され、2本の鎖につながれて二人の兵士の間に寝ていたペテロのもとに突如として神の御使いが現われ、同時に光が牢を照らした。天使の発する光を浴びた二人の兵士は、深いまどろみに誘われる。天使はペテロの脇腹を叩いて起こし、「急いで立て」と言った。すると鎖が手から落ちた。ペテロを助けるにあたって迫害の尖兵たるローマ兵さえ傷つけないという天使の光は、神の深い愛を表しているといえる。
大昔にこの絵を図鑑で見た私は、この光をなんとも素晴らしい力だと思った。まつらふ者を解放し、逆らふものには睡眠を。描かれた兵士の寝姿は無邪気なもので、私もいつまでもこのように寝られたらと思った。天使の名はつまびらかではないが、それ以来、私はこの天使を「羽毛布団の天使」として信仰している。
何故このような中世西洋画の講義をしたかといえば、アイボのオモシロイ能力はこの光と似ているからだ。アイボはびっくりすると体全体から虹色の閃光を発し、その光を見たものを眠らせてしまう。これだけなら羽毛布団の天使に似たありがたい能力に思えるが、この光で寝ると延々悪夢を見てうなされ、起きたあとにも頭痛に苛まれる。一度だけ見てしまったときは、水牢の中で座ることもできずに、ひどく眠りを誘うような素人無声映画をずっと見せられる夢を見た。
本当なら是非二人共救ってあげたかったけれども、塞ぎたい目は四つに対して私の手は二本なので仕方がない。私とヤンソン君は、うーうー唸るウィルバーの両手両足を持ち、えっちら外の幌馬車の荷台まで運んで放り込んだ。凍えるといけないので毛布で三重に簀巻きにする。
そうするとヤンソン君は明朝、夜明け前に出発だと言った。随分早い。到着した昨日の今日で疲れはないのだろうか。
「でもウィルはその妖精を嫌がると思うんだ。それだったら起きる前に出発しちゃえばいいでしょう。あんなことができるなんてたぶん妖精だけだから、少なくともウィルの条件は合格だよ」
なるほど。まだ話そうかとも思ったが、寒いし、ヤンソン君もおやすみを言ってさっさと荷台に引っ込んでしまったので、私も家へ入った。
◆ ◆ ◆
家に引っ込んだ私はおやすみの挨拶がてら、明朝出発の報告をしに父の部屋へ行った。ノックして入ると、彼は珍しく書き物をしていた。クレーターレイクの友人に、娘をよろしくという手紙を書いているという。
父の部屋は今時なぜかキャンドルなので薄暗い。地図や不気味な標本が飾られていて、なかなかの迫力だった。テーブルには一応私の買った電気スタンドがあるので書き物で目を傷めることはない。私は父に明朝出発であることを伝えた。
「随分早いな。でも台所で寝るのももう嫌だろうし、それでいいか」
父は書き物を続けながら言った。
「食材の来る日とか、新聞やら雑誌やらの来る日とかは台所の机の上に書いといたから」
「わかった」
「新聞とか、捨てないで取っておいてよ。後でまとめて読むんだから」
「ああ、それな」
父は手紙を書き終わったらしく電気スタンドを消して言う。
「新聞はいいんだが、IVORY? だっけ、あれは潰れたらしい。先月ので終わりだ」
「嘘。そんなワケ、ないじゃない」
「これも時勢だな。もともと科学者の道楽でやっているような雑誌だったから、出版部数も少なかったし、いつ終わってもおかしくはなかったよ」
IVORYというのは私が懇意にしている科学雑誌である。こんな砂漠で私に知識を授けてくれた先生のようなものだ。最新の技術や学説について分野に関係なく幅広く紹介しているのだが、およそ購買層を考慮していないのではないかと思うほど、難解な公式と専門用語をこれでもかというくらい詰め込んでいる。しかし記述は正確で、信頼の置けるものだ。絵や図を入れるくらいなら数式をかけ、専門用語の注釈を入れるくらいならデータを羅列しろという商業主義に媚びない硬派な姿勢は一部のマッドでコアなファンから定評があった。
わたしも、そのまま邪道を突っ走れと応援しながら定期購読していたが、だからといって読者になんの断りもなく、販売終了していいはずがない。だいたい、進化論の連載も連続付録の鉱石時計もまだ全然途中じゃないか。古代ローマ時代からボストン紅茶に至るまで、いつだってこういう大資本の横暴の影響をまっさきに受けるのはか弱い消費者なのだ。
かくなる上は出版社と執筆者に謝罪と賠償と復刊を求める所存。私が意見書の内容をぐるるると考えていると、父はアイボについての注意を始めた。人目につくことを避けるのはわかるが、奇妙なことに日光も避けろという。
「なんで日光を浴びせるのはダメなの?」
「ああいう水っぽい生き物は日光が苦手なものだ」
「でも妖精でしょう。そんなジメジメした妖精いるかしら」
「そういう妖精もいるかもしれない。多分大丈夫だとは思うが、一応気をつけなさい」
そういう父もアイボについてはまだよくわかっていない様子だった。そういえば私は父の昔もよく知らなかった。内面や性格は知っていても、過去は知らない。特に詮索する気も起きなかったので、家族とはそういうものなのかもしれない。
「アイボの正体も今度の旅行できっとわかる」
父は言った。
「外の世界はおまえが思っているよりずっと恐ろしく、自由で、その分オモシロイことに溢れている。向こうさんにはいつ到着するとかは言ってないから、自由に寄り道しなさい。
僕は、だからあの二人を選んだのだ。ウィルバー君は悪魔にとりつかれているし、ヤンソン君もオモシロイ子だ。彼らに付いていけば嫌でもオモシロイことに巻き込まれるだろう。そうなったら、流れに身を任せて、目一杯無茶をすることが大事だ。お前はまだ若いから、精一杯無茶しなさい。若いうちは少しくらい無茶しても大丈夫なように、人は出来ている」
珍しく説教臭い。
「わかったわ。旅の恥は書き捨てだもの」
「うむ。しかしお前は女だから、余り破廉恥なことはするなよ」
「じゃあよく見てからするわ」
「ならば良し。これを院長先生に渡しておくれ」
父は先ほどの手紙に蝋で封をして手渡した。
「明日は早いから、もうおやすみ」
彼はひどい低血圧だから、明日は起きられないかもしれない。そうすると今が私の見納めなのにもったいない。こちらから粘るのも癪なので私も挨拶をして、部屋を出た。台所に戻って転がった。砂袋の寝床とはこれでお別れだが、ちっとも惜しくない。明朝に希望を託してさっさと寝ることにした。