夕暮れの逢魔ヶ刻。
陽は遠ざかり、オレンジ色の光が僅かな間、世界を染め上げる。
空は瑠璃色に変わり、早くも明星が輝き始めていた。
そんな夜の帳が降りつつある街中で、必死の逃走劇が繰り広げられている。
中学の制服を着た少女が、息を切らせてビルとビルの隙間を縫うように駆け抜けていった。
できることなら、人通りの多い場所に逃げ込みたい。
だが追っ手のことを考えれば、とてもそれを許してくれるとは思えなかった。
「はっ……はっ……!」
息を切らせ、少女はひたすら走り続ける。
腕には裂傷があり、制服は所々血が滲んでいた。
悪夢だ。
夢なら覚めて欲しい。
そんな風に、酸欠気味の脳味噌はひたすら現実逃避したがる。
どうしてこんなことになってしまったのか、少女は意味もなく追想してしまう。
――放課後、少女はいつものように仲間達と街を散策していた。
別に目的もなくふらふらしていたわけではない。魔女を捜すためだった。
少女は最近魔法少女になったばかりで、同じ学校に通う魔法少女グループに所属していた。
幸い、先輩の魔法少女達は気の良い人ばかりだったので、魔法少女としての活動も最初に思っていたほど苦痛ではなかった。
そんな時、彼女達の前に二人組の見知らぬ魔法少女達が現れたのだ。
『チョリーッス! あんたら狩りに来た者ッス。必死の抵抗を期待してるッスよ!』
一人は和装風の衣装を着ており、『魔忍』と刻まれた鉄板の額当てを右目を覆うように掛けていた。
背中には漆黒の長刀を二本指しており、抜刀するのは難しいように思える。
だがどんな仕掛けか、少女が気付いた時には刀は既に抜かれており、二つの切っ先が斜陽に反射して殺意に輝いていた。
『無駄な抵抗を期待してどうするのですか。ああ、貴女達は何もしなくて結構です。全てこちらで処理しますので』
もう一人は修道服に似た衣装を着ていた。
その一見するとシスターのように見える小柄な魔法少女は、相手のことなどお構いなしに銀の十字架を掲げる。
『
その瞬間、鉄の棺桶が仲間の一人を呑み込んだ。
鋼鉄製の棺桶は聖母を模して作られ、一瞬だけ覗いた内部は無数の針で埋め尽くされていた。
慈悲深き顔を浮かべ、聖母は罪人をその腕に抱く。
そして罪人は、涙を流して懺悔する。
決して慈悲に縋るわけではなく、単に苦痛から逃れたいがために。
その、突如として現れた有名すぎる拷問道具に、誰もが言葉を失った。
中から鮮血が、赤々と溢れ出てくる。
『いやああああああああああ!?』
その時叫んだのは、果たして誰だったのか。
少女だったかもしれないし、他のメンバーだったかも知れない。
少女達のグループには、少女を含めて五人の魔法少女達がいた。
だが一人は早々に棺桶に捕らわれ、残った半数、二人の仲間が激情のまま二人組に襲いかかる。
少女は足が竦んでしまい、それを見ていることしかできなかった。
『っざっけやがって!!』
『貴様等ぁああ”あ”!!』
少女がかつて見たことのない形相で、仲間の二人がそれぞれの武器を手に襲撃者達へ逆襲する。
『良い殺気ッスね。けど、ぜんぜんヌルヌルッス』
斬。
その時なにが起こったのか、少女には理解できなかった。
ただ瞬きする間もなく、攻撃したはずの二人の仲間はバラバラにされ、汚物のようにアスファルトにぶちまけられていた。
『……ちゃんと殺してない、ですよね?』
『もち手加減したッスよ。ちょっと両手両足と声帯を切断しただけッス』
『普通に致命傷じゃないですかッ! このお馬鹿さん!』
言うが早いか、修道服の魔法少女が銀十字に魔力を込める。
すると灰色の箱のような物が出現し、バラバラになった肉片が独りでに跡形もなく詰め込まれていった。
『ほら、そこはシスターの仕事ッスからね。虫の息でも、生きてさえいれば良いんスから、むしろ無力化という点では一番の方法ッス』
『あなたはショック死という言葉を知るべきです。いくら魔法少女とはいえ、下手したら即死もののダメージですよコレ』
ほんのつい数分前まで、笑顔で会話をしていた仲間達が、ただ死ぬよりもおぞましい目に合っているのに、襲撃者の二人はなんてことのない日常のように会話をしていた。
その余りに狂った光景を目にし、少女の心は決壊した。
『うわぁあああああああああああああ!!』
少女ともう一人の仲間は、逃げ出した。
まだ息のある仲間を見捨てて逃げる罪悪感だとか、仇を討つべきだとか、そんな余裕のある考えは一切浮かばなかった。
ただ目の前で起こった災厄から、自分の身を守ることしか考えられなかった。
たとえ死んでいないとしても、あんな目には合いたくないと魂が悲鳴を上げていた。
惨劇はひたすら恐怖心を煽り、逃走へと駆り立てる。
仲間の一人は人通りの多い場所を目指したが、少女は逆に人通りの少ない場所を目指した。
まともな思考の末の決断ではない。ただ本能的に分散した方が逃げきれる確率が高いと判断していた。
そしてまず追いかけるなら、人通りの多い方へ逃げた仲間の方だろうと、そこまで無意識に考えていたのかは定かではない。
ガチガチと歯の音が鳴り、ひどく汗を流しているのに、体の芯から冷え切っていた。
コンクリートを背に、周囲に誰もいないことを確認した少女は、ビルの隙間に腰を下ろした。
息を荒げ、自然と顔は上を向く。
そこには、襲撃者の姿があった。
壁に垂直に立っており、そこだけ重力が狂ったように佇んでいる。
自称忍者である魔法少女は、囃し立てるように少女に言った。
「ありゃりゃ、もう諦めたッスか? 根性ねーッス。お仲間の人はもちっと頑張ったッスよ?」
「ひっ!?」
その仲間とは、逃げたもう一人のことを言っているのだろう。
その結末は、襲撃者がここにいる時点で察せられた。
腰が抜けて立てない少女を、黒衣の少女がケラケラと笑う。
「おー、ちょっぴりホラー映画のお化けの気持ちが分かった気がするッス! 脅かすのが癖になりそうスね。案外、お化けの方もノリノリなんじゃないッスか?」
「お化けなんて、いるわけねーです。ほんと、お馬鹿さんですね」
少女の逃げ道となる場所から、もう一人の襲撃者、修道服の魔法少女が現れる。
「えー、魔法少女がいるんスから、お化けがいたって良いじゃないッスか」
黒衣の少女は壁から飛び降りて仲間と合流する。
少女の逃げ道を塞いだ彼女達の顔には、少女が期待するような慈悲は、欠片も見当たらなかった。
「なにっ、なんなのよアンタ達!?」
追いつめられた少女の言葉に、二人は困ったように顔を見合わせた。
「なんだと言われてもッスね」
「あなたと同じ【魔法少女】としか言い様がないです」
「同じ魔法少女なら、どうして私達を襲ったの!?」
ブラウンの癖毛をいじりながら、修道服の魔法少女が答える。
「それがお仕事ですから。理由なんて、それで十分でしょう?」
勿論、そんな理由で襲われた少女が納得できるはずもない。
「ば、馬鹿にして! ふざけないで!?」
「良い殺意ッスね。殺るなら受けて立つッスよ。ハリーハリーハリー!」
忍者マニアでゲーム脳で、おまけに戦闘狂な所もある相方に、修道服の魔法少女は溜息をついた。
「あのですね、遊ぶのはいい加減に……」
その隙に少女はソウルジェムを握りしめ、魔法少女へ変身しようとする。
だがその前に、強烈な蹴りが少女の腹部に直撃した。
「しなさい、デス!」
魔法で強化された一撃は内臓を破壊し、少女に地獄の苦しみを与えた。
「……ぅ……ぁ……っ」
金魚のように喘ぐ少女の髪が、無造作に掴み上げられる。
手からソウルジェムがこぼれ落ちた。
「あーあ、つまんないッスね。それじゃどうするッスか、コレ? もうジェムが限界くさいんスけど?」
釣り上げた魚を見るような目で、地面に転がるソウルジェムの濁り具合を確認すると、傍にいる同僚に問いかけた。
シスターは端末を取り出して、獲物の情報を確認する。
「ちょっと待って下さい。いまそれの魔力パターンを照合しますから……ああ、これですね。うん、ランク評価D級の……特に指定はないようです。
ここで魔女化処理しちゃいましょう」
「投薬もなしッスか?」
「期待値も低いですし、勿体ないのでナシで行きます」
「りょーかいッス」
少女にとって、永遠とも思える地獄が始まる。
彼女達の手には、悍ましい拷問道具の数々が握られていた。
それからしばらくして、一体の魔女が生まれ出る。
だが生まれたばかりの魔女は、誰に知られることもなく滅ぼされてしまった。
後に残ったグリーフシードを回収した頃、二人の背後にゴスロリ衣装の魔法少女――神名あすみが現れた。
それを当然のように、二人は迎える。
何故ならこの小柄な少女こそが、彼女達二人の上役なのだから。
「……二人とも、終わった?」
「あ、リーダー。こっちの作業は終わったとこッス」
黒衣の忍者風魔法少女、シノブは刀を鞘に納めながらあすみに応じた。
魔法で出来た刀身は、骨肉を幾ら切り刻んだところで刃こぼれ一つなく、血糊も込められた魔力によって払われていた。
修道服の魔法少女、サリサは魔女となった少女へ鎮魂の祈りを捧げる。
犠牲となった少女のためではなく、彼女の信じる神へ捧げるために。
一通り祈り終えると、サリサはあすみへと報告する。
「これで本日の依頼は全て達成です。そちらは問題ありませんでしたか?」
「……後詰めとして逃走経路を封鎖しただけし、特には。あとは多少ゴミ掃除をしたくらい」
あすみが逃走経路を見張っている最中、路地裏で中学生くらいの男子が、エアガンで猫を虐待している場面に遭遇したのは、互いにとって不幸な出来事だった。
結果だけいえば、あすみは片目の潰れた猫を保護した。
代わりに近年増加傾向にある行方不明者が、また一人増えただけのつまらない話だった。
「あ、猫ちゃんですね。かーわいー! この子、隊長が飼うんですか?」
あすみの腕に抱かれている黒猫に、サリサが歓声を上げる。
撫でようと手を伸ばしたが、何故か盛大に威嚇されてしまい、サリサは名残惜しそうに手を引っ込めた。
「……どうかな。アレの許可がないと……ダメだったら処分するわ。どうせこんな目じゃ、誰も拾わないだろうし」
あすみは一応、リンネに保護されている身分だ。
今住んでいる場所もリンネに与えられた物であるし、望むだけの金銭もリンネから与えられていた。
たまに神出鬼没な変態女が沸いてくる点を除けば、奴隷としては十分な好待遇だと言えた。
だが所詮は、銀魔女の走狗にして奴隷の身分だ。
許可が下りなかったらあすみの手で、責任を持って苦しませずに殺すしかないだろう。
遅かれ早かれ運命が同じなら、それがせめてもの慈悲なのだとあすみは考えていた。
深刻に考えるあすみとは違い、シノブは気楽そうに言う。
「ボスなら大丈夫じゃないッスか? あの人リーダーには甘々ッスから」
「……ちっとも嬉しくないのだけど」
憮然とした表情を顔に浮かべるあすみに向かって、サリサは低い声で忠告する。
「羨ましい……いくら隊長とは言え、主の御慈悲に甘えるばかりではいけません。
あんまり不敬な態度を取られ続けると、そのうちブチコロガスデスヨ?」
突如サリサの纏う雰囲気は豹変し、濃密な殺気をあすみへと叩きつけた。
肌を刺すような魔力が放たれ、ビリビリとした緊張感が高まる。
サリサはシスターの格好をしているとはいえ、信仰しているのは真っ当な神様ではない。
あの邪悪を型に填めたような女、【銀の魔女】を信奉する邪教の徒だった。
「……あなたの宗教観に付き合う気はない」
一見すると好戦的なシノブの方が問題児に見えるが、実際は真逆だ。
サリサのような銀魔女の狂信者というのは、あすみにとって心底理解できない存在だった。
シノブというストッパーがいなければ、とうに殺し合いになって刻印の世話になるハメになっていただろう。
刻印はその反逆防止機構の一つとして、刻印を持つ者同士の殺し合いを認めていない。
実行に移せば体が痺れ、半日は身動きが取れなくなる。
その間にあすみ達のような銀魔女の粛清部隊が派遣され、良ければ拘束、悪ければ処理される運命が待っていた。
あるいは最悪、銀魔女お抱えの人形部隊が投入されるか。
そうなれば髪の毛一つ残らないだろう。
連中は銀魔女の命令一つあれば、街を焦土に変えるだけの戦闘力をそれぞれ持っているのだから。
あすみ達のような狗は、魔法少女の暗部ともいえる場所深くに存在している。
必然的に、あの魔法少女の裏切り者である銀魔女の悪行は、あすみ達には周知のことであった。
それでもなお、銀魔女を信奉する者は少なくない。
そんな邪教徒の心理など、あすみに理解できるはずもなかった。
「どーどー、クールになるッス。ほんとシスターはボスのことになるとおかしくなるッスね。リーダーも、今日の仕事は上がりでオッケーッスよね? そんじゃ解散ッス! ほら行くッスよシスター!」
「……うっせーデス。エセ忍者」
「ひどっ!?」
最後まで騒々しいまま、二人は去って行った。
もし、あの女に刻まれた呪いがなければ、とあすみは夢想する。
「……全員、不幸にしてやるのに」
銀魔女に刻まれた【聖呪刻印】が疼き出す。
もしも人類の全てが死に絶えれば、世界は平和になるはずだ。
そんな世界の終焉も悪くないのではないかと、あすみは最近特に思うようになっていた。
世界が平穏で優しいなんてのは嘘っぱち。
一皮剥がせば、絶望と狂気の渦巻く地獄でしかない。
「……みんな、死ねば良いんだ。それしか、救いなんてないのに」
闇色に広がる空を見上げ、あすみは一人呟いた。
そんなあすみの頬を、片目の猫がざらりとした舌で舐める。
あすみの不得手な治癒魔法で一応出血は止まったものの、その右目は二度と光を見ることはないだろう。
「……お前も、あすみに殺されるかも知れないのに、呑気なものね」
その目を奪われ、人間に虐められたくせに。
あすみに気を許すなんて、獣としての誇りはないのだろうか。
馬鹿な猫だ。
あすみは端末を取り出し、与えられた任務の完了を報告した。
掌に収まる程度のコンパクトな端末は、銀魔女の配下に貸し与えられたオーバーテクノロジーの塊だ。
普通の携帯端末のような機能の他にも、魔法少女や魔女の魔力同定、膨大な魔法関係の知識が集積された【アーカイブ】へのアクセスなど、独自のネットワークが構築されている。
仕事の必需品であり、どんな風に調べ上げたのか、獲物の魔法少女についての詳細な情報も、気が付けば更新されていた。
端末同士で念話する機能もあったが、あすみは専らメールを使っている。
昔はそうでもなかったが、今は喋るのが億劫で、苦手意識すらあったからだ。
報告文の末尾に、猫を飼って良いかさりげなく書き込んで送信すると、ピロリンと速攻で返信が来た。暇なのだろうか。
『お仕事ご苦労様。猫? もちろんOK! ちゃんと可愛がるのよ? あとで写メよろ(^_^)v』
「……うざ」
文末の顔文字に舌打ちするものの、取りあえず許可は下りた。
ここはきちんと世話をしなさい云々の、お決まりの説教をされずに済んだことを喜ぶべきだろう。
なぜかあの魔女は、隙を見てはあすみの母親面をしたがる。
心の底からお断りだし、そんなことをされても嫌悪感しかないのだが。あの■■■■に言っても無駄だろう。
地面に降ろしても一向に離れる素振りを見せない黒猫を抱き上げ、あすみは淡々と言い聞かせる。
「……残念だけど、なにも善意であなたを拾うわけじゃないから」
人間に虐められている猫を見て、勝手に共感を覚えた。
片目を失った哀れな姿に、自身の姿を重ねた。
もしもあの時、伸ばした手に猫が怯えて逃げたなら、あすみは決してそれを追いかけようとは思わなかっただろう。
だが黒猫は、あすみの手を舐めた。
目から血を流しながら、つい先ほどまでニンゲンに虐められていたというのに。
その姿を、あすみは憎らしいと思った。
どこまでも愚かなその姿に、在りし日の自分の姿を見たような気がしたからだ。
――救いなんて、どこにもないというのに。
だからあすみは、その黒猫を飼うことにした。
この猫が人間に絶望する姿を、間近で観察しなければ気が済まなかった。
それがどんな感情によって引き起こされたものなのか、あすみには分からない。
「……あなたも運が悪いわね。わたしに拾われるなんて」
自嘲気味に発したあすみの言葉に、黒猫は呑気に「にゃあ」と鳴いて答えた。
ストックの残りは二話です。