海菜による半分悪ふざけの企画があった翌日。
私は集合場所となっていた穂乃果の家に行く前に、海菜の家に寄っていた。
彼も今日の話し合いに参加する予定なので単純に迎えに来たという理由もあるんだけど……いくつか聞きたいこともあったの。昨日はゆっくり話せる時間が残ってなかったし、海菜は憂鬱そうな雰囲気のまま帰ってしまったから。
「やっぱり……ちょっと変だったわよね昨日の海菜」
確かに感じた幼馴染の違和感。
十年以上一緒に過ごしてきた私のその感覚はまず間違いないと思う。
あの状況で、ほとんど何も発言しなかったのは明らかにおかしい。
もちろん、海菜の基本的なスタンスがμ’sの進むべき道はμ’sに決めて貰うといったものだってことは良く解ってる。必要以上に介入することは絶対にしないし、誰かの意見を一生懸命引き出そうと努力することはあっても自分の意見を押し付けることはない。
本当に大事な時にだけ、自身の考え方を説明して、その上で最終的な決断は私たちに任せてきたの。
でも、今回は他でもない希に関係する話。
そんな大切な事に、彼が口を挟まないわけがない。
アイツは誰にでも優しいなんて殊勝な性格はしていないけれど、自分が大切なモノだと感じてる対象には何処までも一生懸命になれるヤツよ。そして、彼にとっての希は、その『大切なモノ』。
彼女を想う気持ちは私も彼も同じ。
――だからこその違和感。
何もせず、成り行きに任せるなんて。……彼らしくない。
私は哀しそうに沈黙を守ったまま、ひたすら希を見つめていた海菜の姿を思い出していた。
どうしてそんな顔をしていたの?
どうして黙っていたの?
今日はどうして私達のために時間を割いてくれるの?
止めどなく溢れる疑問。
私はそれを問いただそうと、インターホンを押し込んだ。
リビングに鳴り響くチャイムの音が、入り口のドアを介してほんの僅かに耳に届く。
「はーい!」
すぐに、おばさんのよく通る声が返ってきた。
ガチャリ、と勢い良くドアが開き、彼女が顔を覗かせた。
「あら、絵里ちゃん! もう、インターホンなんか鳴らさず入ってきてくれていいのに」
くしゃり、と崩れた愛らしい笑顔を浮かべておばさんが迎え入れてくれる。
やっぱりこの笑顔を見ると、海菜のお母さんなんだなあと実感してしまうわね。結構厳しい一面もある人だけど、根っこの部分は本当に優しい女性。私にとってはお母さんも同然ってくらいお世話になっているのよ。海菜が『おかん、俺より絵里のほうが好きだからな』って言うくらいには可愛がって貰ってる。
「海菜に用? もしかして約束でもあった?」
「はい。えっと……」
「あのバカ息子! 絵里ちゃんほったらかして爆睡って……叩き起こしてくるわ」
「ちょ、ちょっと待って! 私が約束の時間より早く来ただけだから!」
「そう? 久々に愛息子の寝起きにビンタ出来るチャンスだと思ったのに」
うん。
この親にしてあの子あり、ね。
本気で残念そうにするおばさんに招き入れられて、私は海菜の部屋へと向かった。
こんこん、と二回ノック。
返事は無いので遠慮無く入らせて貰うことにした。彼に至ってはノックすらしないんだもの、文句は言わせないわ。
「おはよう」
一応挨拶を一つ。
しかし、当然返答は聞こえてこない。
「すぅ……、すぅ……」
代わりに、規則正しい寝息が静かに冬の朝の寒い部屋に溶けた。
ぽふ、と私は海菜の寝るベッドの端に腰を下ろす。僅かにクッションが凹むけれど、熟睡している彼は気付くこと無く眠り続けている。おそらく寝る直前まで読んでいたのね、使い古された英単語帳が開かれたまま枕元に置かれていた。
「かーいーなー」
ちょっとだけ顔を近づけて、静かに囁いてみる。
僅かに開いた口と、心地よさげに上下する胸、少しはだけたジャージ姿。情けなくて、みっともなくて……それなのに愛おしく思ってしまう。この隙に唇を奪ってしまおうかしら? そんな考えさえ頭をよぎってしまい、一人顔を真っ赤にして再び彼と距離を取った。
つんつん、と頬をつつきながら私は彼の顔を伺う。
寝ていてもはっきりと伺える目元のクマ。体質のせいか基本的に出来やすいタイプではあるらしいけど、なんとなく普段より濃いような気もするわね。やっぱり、睡眠時間足りてないのかしら?
無理をするのはいつもの事だけれど、見ているこっちは気が気じゃないのよ……分かってるのかしら、このバカは。
大方、今日穂乃果の家に行く分、前日である昨日の晩にいつもより多めに勉強していたのだと思う。それに加えて、コイツが希のことを考えていないわけが無いから……その心労もあったに違いない。それが分かるから、私は彼を起こすこと無くそっと目を閉じた。
本当は早めに起こして、質問をぶつけるつもりで居たけれど。
やっぱりやめた。
こんな顔して寝る幼馴染を起こすことなんて出来ないし、それに。
――海菜ならきっと、希を助けてくれる。
私の中には確かな信頼があった。
彼が考えていることや、想いを全て推し量ることは出来ないけれど……彼が彼女を大切に思っていることは事実なの。だったら、私は私で希のために頑張る。そして、海菜は海菜の立場で希に協力する。彼が私に何も言ってこないってことは、言う必要がない、お互いの想いで行動すればいいという海菜自身の考えに違い無いわ。
だからこそ、私はそっと微笑んで彼の頭を撫でた。
寝てる時くらい、ゆっくりしてなさい?
私がちゃんと、ここで見守っててあげるから。
~四〇分後~
「だー、もうっ! なんで君が一緒になって寝てるんだよ!」
「しっ、仕方ないじゃない! 海菜の部屋寒かったから、出来心で布団の端っこに入らせて貰って……思いの外気持ちよかったのよ!」
「人んちで二度寝する女の子は日本探しても絵里くらいだぞ! 隣で君が寝てるの見て本気で焦ったんだからな……遅刻しそうだし!」
「だから謝ってるでしょう!?」
「謝ればいいってもんじゃねーの! ばーか、ばーか!!」
***
「ごめんなさい! 少し遅れたわ」
「絵里……別にいいわよ、十分くらい」
「全く、今度から気をつけるんだぞ」
「いや、アンタも遅れてるのよ!」
素直に頭を下げて謝る私と、ふんぞり返る幼馴染。
そして、私がそれに反応する前に秒速でにこのツッコミが入った。途端、けらけらと笑い出す幼馴染。……なんで貴方は嬉しそうなのよ、ばか海菜っ!
「大丈夫ですよ。私達もつい先程集合したばかりですから。それに、いつもは穂乃果の遅刻で絵里に迷惑をかけているので、私達も強く言える立場じゃありません」
「えへへ」
「穂乃果、なぜ照れるのですか。嫌味を言ったつもりなのですけど……」
海未はにこりと私に微笑みかけると、呆れた様子で穂乃果を見る。
他の皆もさして気にしてはいないのか、いつも通り笑顔で会釈を返してくれた。
「ほら、いいから座んなさい。皆で歌詞を考えるわよ」
そう言われて指し示された机の上には、十枚の白紙が広げられていた。どうやら相談しながらラブソングの歌詞を考えていたらしい。シンプルだけど、一番分かりやすくて良い案が出そうね。何より、皆で考えるって感じがして希の願いと綺麗に合致する。
「絵里ちゃーん」
「なぁに? 穂乃果」
「さっきから考えてたんだけど、難しいんだよー」
指さされた位置に座った途端、穂乃果が右から私に抱きついてくる。
スキンシップの多い彼女らしいそのアクションに苦笑しながら答えた。
「そうね。ラブソングって、好きって気持ちをいかに表現するかだから……いつも真っ直ぐな穂乃果には難しいのかも知れないわね?」
「むーぅ」
「真っ直ぐって言うより、単純なだけよ」
すぐににこが横槍を入れてきた。相変わらず素早い反応ね。
しかし、彼女の手元の紙も真っ白で、人の事を言えるような状態じゃ無い。目ざとくそれを見つけた希がにやっといたずらっぽい笑みを浮かべてにこをつつく。
「と言ってるにこっちも、紙真っ白やん?」
「こ、これから書くのよ!」
慌てて同級生に噛み付いて見せる。
かといって、希もお世辞にも順調とは言えない状況みたいだ。
うーん、ラブソングの歌詞を考えるって思っていた以上に大変なのかもしれない。
「えー。俺も考えるの?」
「あったりまえにゃ! 運命共同体ですよ、かいな先輩」
「や、やっぱり、男の人の意見も大事かなって思ったんです」
基本的になんでも器用にこなす海菜も、こと、歌詞作りに関しては専門外だったらしく頭を抱えていた。一年生二人がその両脇で彼と話をしている。
「男の意見? 可愛い娘がエロい衣装で踊ってりゃもう九割方目的達成だからなぁ」
「身も蓋も無さ過ぎにゃ!」
「ぐぬぬ。流石にそれは冗談だけど、恋の歌かぁ……」
「海菜さんは、ラブソングとか聞くんですか?」
「うん、有名所や好きな歌手の曲なら聞くから。でも、ラブソングだから聞いてる! って感じじゃなくて、曲がいいからとか声が好きだからとか、皆でカラオケ行った時ように覚えておこうとかそんな感じが多いかな」
「あ。何となく分かります。私も、好きなアイドルグループの歌だから聞いてる事が多くて、改めて恋の歌って意識するとなんとも……」
「だよね」
「はい。ですが、やっぱりどのアイドルも代表曲は恋の歌であることが多いです! ユニットを構成するメンバーの年齢などを考えても、彼女達と歌詞が絶妙にマッチしますし、元気の良いダンスが不思議と映えるんです! もちろん、バラード調の曲も大好きですが、私が好きなのはやっぱり見てるこっちが笑顔になっちゃうような元気が良くて明る……もぐもぐもぐ」
急にスイッチが入り、話し始めた花陽の口に――海菜は容赦なく穂むらまんじゅうを押し込んだ。
何の躊躇もなく丸々一個食べさせる。然程大きくないとはいえ、年下の女の子にあそこまで出来るものなのかしら……。何も言わずに咀嚼する花陽も花陽だけど。
「もぐ……ん。ごっくん。それで、私が一番推してるのは三年ほど前に流行った、少し昔の曲ではあるんですけど今でもちょくちょく耳に入ってく……もぐもぐ」
「うんうん。それでそれで?」
「ん……。ごくん。ふぅ……。それで、グループ名が……もぐもぐもぐ」
「なるほどなるほど、グループ名が?」
「あむ。……ごっくん。ですから……もぐもぐもぐもぐ」
「へー」
「かいな先輩、かよちんの扱いも最近雑になって来てないかにゃ?」
はぁ。
この娘達を観察していても、恋愛の歌詞に関するヒントは出てこなさそうね。
私は溜息をつき、にやにやと笑いながら花陽を餌付けする海菜から目を離して……もう一人の一年生に視線をやった。
――ジロリ。
私は、そんな効果音が付きそうな目線で逆に見つめられていることを知る。
もちろんその視線の主は真姫。そうよね、この娘は……私の様子がおかしかった事に気が付いてるわよね。
一応、和を乱すことが無いように座って考えているフリはしているものの、その瞳には明らかな猜疑心が湛えられていた。
――どうしてラブソングに固執するの?
ひしひしと伝わってくる。
――絵里、貴女は何を考えているの?
もちろん、今までの曲をやるべきだという意見からその視線を送っている部分もあるだろう。しかし、優しい真姫の事だから、ラブソングを作ること自体に反発している訳ではないと思うの。彼女がこんな顔をしている理由はきっと、私が何かを誤魔化しているのが分かるから。
でも、私には本当の事を告げることが出来なかった。
だって、そんなことをすれば希が気にするから。
彼女は自分のために皆が揃ってラブソングを作るとなれば申し訳無く思うはずよ。
――ウチのワガママに皆を巻き込むわけにはいかないよ。
少しだけ鼻にかかる、可愛らしい声が聞こえてきそう。
希は……そういう女の娘だから。
私は静かに真姫から視線を外した。
「じゃあ、参考に恋愛映画とか見てみない? ことりのオススメの映画、持ってきたんだ」
***
う……、思いの外のめり込んでしまったわね。
私は恥ずかしげもなくこぼれ落ちていた涙を拭って皆の方に向き直った。
ことりがオススメと言うだけあって、すごくいい映画だった。テレビの直ぐ側で正座をしながらいつのまにか夢中になってしまったようで、海菜が呆れた様子でこちらを見ている。昔から泣ける映画には弱かったので、彼からしてみれば見慣れた光景なんだろうけど……。
ウチの幼馴染は未だに名作と呼ばれる映画の素晴らしさが分からないみたいね。
そして、μ’sの面々の様子もそれぞれ違っていた。
私の両脇には満足そうに涙を拭う花陽とことり。机にはズビズビと鼻を鳴らしながら『安っぽいストーリーねぇぇぇ』と心にもないことを言ってのけるにこと、彼女を白けた目で見る希の姿。真姫も海菜もさして映画には興味がなかったのか、微妙な表情で並んでいる。
そして。
「むにゃ……。あれ? もう終わったのかにゃ?」
「すぴー……」
凛と穂乃果は完全に眠りに落ちていたようだ。
もう、この娘達は本当に……。
「穂乃果ちゃん、開始三分で寝てたよね……」
「むにゃ……。ことりちゃん……うーん。ゆっくりした映画だなーって思ったら、急に眠たくなっちゃって」
悪びれること無く可愛らしく伸びをしてみせるリーダー。
海菜は溜息をつきながら彼女に声をかけた。
「穂乃果。いや、ことりでも良い」
「なんですか?」
「はい……?」
彼はそっと身体を傾けると、くいくいっと自分の背中を指差した。
指し示した通りに様子を伺うと、ちらりと艶やかな長髪が海菜の背後で小刻みに揺れていた。あれは……海未?
一体何があったのか、彼女は海菜の背中にしがみついてぷるぷると震えている。
「なんか、映画が破廉恥過ぎたらしいよ」
「だ、だって! 人前でキ……キ、キスなんて!」
「あー、確かに。あ、……からかったら凄い怒られそうだったからさすがの俺も弄ってないからな、そのへん皆誤解するなよ」
「か、海菜さん。もう終わりましたか?」
「終わったって……セーター伸びるからそろそろ離してくれない?」
「う……スミマセン」
海未はおそるおそる顔を上げて辺りを見渡すと、安心したように彼の背後から出てきて溜息をついた。
初心な娘だと思ってはいたけど、ここまでなのね……。
ここまでそれぞれのリアクションが違うとちょっと面白いわよね。
そんな呑気なことを考えている余裕がないことくらい分かっていたけれど、そう思わずにはいられなかった。
「絵里ちゃん、これからどうする?」
穂乃果がそう問いかけながら机の周りに戻ってくると、他の皆もぞろぞろと集まり始める。
私は暫し逡巡して口を開く。
そして、
「うーん、なかなか映画のようには行かないものね。それじゃ、もう一度皆で言葉を出し合って……」
仕切りなおそうとした。
――その時。
「待って!」
真姫が厳しい表情で鋭い声をあげた。
「もう諦めたほうが良いんじゃない!?」
唐突に放たれる、残酷で、そして同時にどうしようもなく正しい言葉。
『え?』
全員が口をそろえて疑問の声を上げて彼女の方を向いた。
真姫は全員の視線を堂々と受け止めると、自身の考えを正しく言葉に置き換えていく。
「初めから歌詞と曲を作って、ダンスも歌の練習もこれからなんて……完成度が低くなるだけよ」
確かに。……確かにその通りよ。
言い返しようがない正論。
紛れも無い事実。
――それでも。
それでも、私は頷けない。
「だ、だけどね、真姫……」
しどろもどろに紡がれる、小さく情けない声。
私はちらりと海菜の方を伺った。
しかし、彼は口を開かない。
昨日と同じ。厳しい表情で希の様子を見つめているだけ。
「実は、私も同じことを考えていました」
海未が真面目な表情で口を開く。
彼女にも思う所があったのだろう、正直に胸の内を明らかにしてくれた。
「無理をしてラブソングに頼らなくても……。私たちには私たちの歌があると、私はそう思います」
「確かに……」
「相手はA-RISE。下手な小細工は通用しないわよね」
追従するように穂乃果とにこが相槌を打った。
次いで、他のメンバーも頷いてみせる。
だ、ダメよ。このままじゃ……。
「でも!」
私の要領を得ない言葉が空虚に響きわたる。
物悲しい余韻。
希のための、無様な足掻き。
しかし。
そんな私の声を遮ったのは――他でもない東條希、その人だった。
「確かに皆の言う通りや」
え?
一瞬、頭の中が真っ白になった。
「今までの曲で全力を注いで頑張ろう?」
な! どうして!?
疑問の言葉があふれだす。
「のぞ……み?」
「今カードを見ると、そっちの方がええって出てるから……」
零れたのは掠れて声にならない声。
彼女の返答は、いつもよりも少しだけ上ずっていた。
だって……。
だって貴女……!
楽しみにしてたじゃない! 皆で一つの曲を作りたいって!
いつも誰かの望みを見ることに一生懸命で、自分の願いを口に出さない貴女が、はじめてそうしたいって言ったんじゃない!
どうして? どうして貴女は今……。
――絢瀬絵里の心情は、戸惑い。
――どうして貴女は自分の望みを捨てようとするの?
私は慌てて海菜の様子を再び伺って……。
そして、私は気付く。私の、幼馴染の感情に。
彼は。
眉間に亀裂のような皺を寄せて――――希を睨みつけていた。
温厚な彼が滅多にしないその表情。
私でさえ数える位しか見たことのないその目つき。
「ちょ、ちょっと待てのぞ……」
初めて彼が口を開きかけ……
「ええんよ、古雪くん!」
それを希は強引に遮った。
まるで彼が喋り出すことを知っていたかのように。いつも彼女が彼にかける声色とは打って変わった、焦りと冷たさを含んだ拒絶の言葉。
海菜は希の迫力に思わずといった感じで押され、口を閉じた。
彼等の視線は交錯しない。
なぜなら、希は頑なに私と海菜と視線を合わせようとしていないから。
――古雪海菜の心情は、憤怒。
私には彼が怒っている理由が正しくは分からないわ。
でも、きっと彼は……希の事を想うからこそ、希に腹が立っている。
今はもう、他の娘に悟られるような顔はして居ない。
僅かに眉を潜めているだけ。
しかし、彼がどうしようもなく怒っていることが私には伝わってきた。
「待って……希。貴女……」
貴女は……貴女は本当にそれで良いの?
囁くようにこぼれ出た私の声に、希が優しく答える。
「ええんよ。……だって」
すぅ。
小さく彼女は息を吸い込み……。
そして。
――どこか満足そうで、それでいて哀しそうに、希は言葉を紡ぐ。
「だって、大切なのはμ’sやろ?」
そう、彼女の口から紡ぎだされた――瞬間。
海菜から迸るような怒りが発せられた。
私だから感じ取れたのだと思う。全身が総毛立つような感覚。
一度、μ’sに加入する前に彼を怒らせてしまったあの時と匹敵するくらい。
燃やし尽くすような感情の動き。
彼はその目に激情を宿しながら希に向けて何かを言おうと口を開きかけ……。
「古雪くん」
たった一言。
たった一言で、海菜の時間が止まる。
静かで。……それでいて力のある声だった。
海菜が口を噤むほどに冷たく、強い言葉。
「それじゃ、今日は解散にして、明日から練習頑張ろっか!」
彼女はにこりと笑うと立ち上がる。
いつもの希。
柔和な笑顔に、心地よく耳朶を打つ優しい声。
他の皆は一瞬だけ変わった空気に戸惑ったものの、素直に頷いた。