バタンッ
蹴破るように自室のドアを開け放つ。乱暴に羽織っていたパーカーを脱いで床に叩きつけ、そのままベットに倒れこんだ。感じたことのない激しい怒りが全身を走り抜け、やり場のないその激情を、手近にあった枕を強く握りしめることでなんとか緩和しようと試みる。
『海菜には関係ないじゃない!』
『私の事なんてどうだって良いくせに……』
頭の中を駆け巡るのは絵里が涙ながらに放った二つの言葉。
関係ない……か。
確かに彼女の言う通りかもしれないな。
結局のところ音ノ木坂が存続しようが廃校になろうが俺の周りの環境はほとんど変わらない。あくまで他人事。廃校を阻止しようと頑張る理由もなければ当然義務もないのだ。
それでも俺は……俺なりに精一杯絵里や穂乃果達を応援してきたつもりだ。
そりゃ、音ノ木坂がどうなろうと知ったこっちゃないけれど、音ノ木坂がなくなることで彼女達の顔から笑顔が消え、そして彼女達がしてきた努力が水の泡となってしまうのなら話は別だ。
幼馴染として、そして先輩として。
あいつらの辛そうな顔を見るのは絶対に嫌で。
……だからこそ誠意をもって関わって来た。
でも、俺のそんな想いは絵里に届いていなかったらしい。
「関係ないなんてこと、ないだろっ……!」
俺の放った、押し殺された囁くような声は一人きりの部屋に霞んで消えていく。
関係ないことなんかねぇよ!だって幼馴染だろ!?
今までずっと一緒に過ごしてきて、片方が辛い時はもう片方が寄り添って。
そうして今日まできたじゃんか!
売り言葉に買い言葉から出た一言だったのかもしれない。
しかし、彼女の放ったその言葉は重く俺の心にのしかかっていた。
それに、俺が一番許せないのは先にあげた二つ目の絵里の言葉だ。
「……お前の事、どうでもいいなんて思うハズないだろ」
なんで。どうして彼女はそう思ったのだろう?
世界にたった一人しかいない大事な、大事な女性。
一緒にいた時間なら仕事で忙しい家族よりも多かったかもしれない。初めて出会ってから十年以上。いつも隣には気付けば君が居て、なれあうではなく、依存しあうではなく。時には背中合わせで、時には手を取り合って支え合って来たかけがえのない幼馴染。
俺にとって、絵里は。
なによりも、誰よりも大切な人。
ケンカした今だってその気持ちは変わらないのに。
***
「エリチ、落ち着いた?」
ぺたんと膝を地面につけ、両手で顔を覆いながら時折鼻をすするエリチにそっと声をかける。そばに寄って背中を優しくさすってあげると、やっと顔を上げてこちらを向いた。……こんなエリチ初めて見たよ。本当に一体何があったのだろう。
「どうしよう……海菜が、海菜が!
私、なんて酷いことを……」
エリチは顔を真っ青にしながら慌てた様子で呟くように話しかけてきた。
おろおろとして視線が合わない彼女の手をとり、半ば強引に私の方を向かせる。
「エリチ、大丈夫だから落ち着いて」
「でも、海菜をあんなに怒らせちゃった!私の勝手な思いでっ」
まるで聞き分けのない子供のようにぎゅっと私の手を握り、目に涙をいっぱいにためていやいやと頭を振るエリチ。よっぽど彼の怒声が効いたのだろう、あれだけツンツンしていた態度が一変していた。
震えながら私の手を掴んでいたエリチを抱きしめ、よしよし大丈夫だよと頭を撫でる。
「大丈夫だよ、エリチ。ウチには分かるんよ。古雪くんはこんなことでエリチの事キライになったりせーへんっ」
「希……」
「だって前、古雪くん言ってたよ?俺は何があっても絵里の味方だって」
「でも、私、そんな海菜に……」
エリチは自分が感情のままに吐き出してしまった言葉の持つ意味を、やっと冷静になって把握したのか、震えた声で後悔の意を示す。
「うん。たしかにエリチは絶対に言っちゃいけない事を言っちゃったんや。
それは、ちゃんと分かってるんよね?」
「えぇ……」
「じゃあ、なんであんなこと言っちゃったん?」
事情の全く分からない私から見ても今回の一件は明らかにエリチが悪い。それは間違いないの。……でも彼女が理由もなくあれほど取り乱すハズはない。謝りに行くとしても、彼女の中でその問題が解決しなければ元の関係に戻ることはないと思う。
そしておそらく古雪くんはそんなエリチを許しはしない。
エリチは私の体から離れ、唇を噛みながら考えを巡らせはじめた。
彼女の時折漏らす吐息だけが部屋の中に現れては消えていく。
待ちきれず、再び同じことを問いかけようとしたその瞬間。
彼女は口を開いた。
「わからないの……」
「わからない?」
予想外の答えに思わずオウム返しに聞き返してしまう。
分からないなんて事……。
「きっかけは、多分海菜がμ’sの……たしか矢澤さんと仲良くしている様子を見た事だと思う。それを見て思ったの。『あぁ、そうか。海菜は私じゃなくて彼女達の方が大事なんだ』って……」
にこっちと古雪くんが?
……たしか最近は赤点取りそうなμ’sの三人に海菜君が勉強を教えてあげてたんよね?それは私もよく知ってる。さすがに私が彼女達の面倒を見ることは出来なかったから、私からも彼に軽く頼んでおいたんよ。
生徒会の仕事も忙しくなってきたし、あからさまにエリチの傍で彼女達の助けをするのは気が引けたから。海菜君もおそらく進んで彼女に自分のやっていることを伝えようとはしていなかったのだろう。
話を聞く限りその勉強会の様子を偶然目撃してしまったらしい。
「……それからどうしたの?」
「……わかんない。でも、なぜだか凄くイライラして、どうしようもなくなって……」
焦点の定まらない目で虚空を見ながらとつとつと語る。
「エリチ……」
「わからなかったのよ。自分がどうしてこんなにも腹が立つのか。
考えれば考えるほど、二人が仲良く歩く姿が目に浮かんで胸が痛くなって……」
「……」
「どうして私の味方で居てくれないの!なんて思ったり。
笑っちゃうわよね?
海菜が誰の味方をしようが彼の勝手のハズなのに。そんなこととっくの前から分かってた。でも、それが嫌で嫌で。凄く辛い気持ちになったの!」
「うん……それで?」
「そんな身勝手な自分自身が許せなくて、でもそんな自分が生まれちゃう理由も分かんなくて、どうしようもなくなって、……海菜に会いたくないって思った。
それでさっき彼の顔を見た途端……胸の中にあったいろんな感情が溢れてきてっ!」
エリチはそこまでほとんど息継ぎ一つせずに一気に吐き出し、ぜぇぜぇと呼吸を乱す。
「なるほど、そんなことがあったんやね……」
「希は……私が言ってる意味が分かるの?」
「うん、わかるよ」
エリチの紡いだその不揃いで不細工な言葉たち。
それでも私には確かに伝わった。
それはきっと、『恋』なんて言葉で表現される気持ちのことだよ。
私のこの胸に隠す感情と同じもの。
恋っていうのは決して相手の事を一番に考えるものじゃない。
自分を……自分だけを見て欲しい。
自分だけの事を考えて欲しい。
自分の傍に居て欲しい。
そんなある意味自分勝手な想い。
きっとエリチは初めて自分自身のそんな気持ちと出会ってしまったのだろう。
小さいころから今まで、ずっとそばに古雪くんが居てくれたおかげで感じることのなかったその感情、心の乱れ。いつも隣に居てくれたその人がどこか遠くへ行ってしまうのではないかという焦燥感。
真面目なエリチはそのわがままな気持ちが自分にあることを放っては置けなかったのだろう。なぜこんな気持ちが生まれるのだろう?なんで?なんで?
古雪くんの事を想えば想うほど膨らむその黒い感情。
その問いかけの答えをエリチは知らない。
だからこそ苛立ちだけが募って、どうしようもなくなって爆発しちゃった。
きっとそうに違いない。
μ’sがどうとか、学校がどうとかなんてことは、あくまで彼女の奥底にあった気持ちを表に浮かび上がらせた一つのきっかけに過ぎなかったんだね。
ほんと、不器用な親友。
相手の事を思いやるがゆえに自らが傷ついて、自分の心に素直になれない。そんな友達。
「希、教えて?」
懇願するような瞳でこちらを見てくるエリチをそっと抱きしめる。
「ダメだよ、エリチ。それは自分で気が付かなきゃいけない事だから」
「考えたわよ!何度も何度も一人で!」
「じゃあ、なんで古雪くんと話をしようとしなかったの?
古雪くんが原因ならちゃんと話し合わなきゃダメでしょ?」
「それは……」
彼女が古雪くんを遠ざけた理由。
自分の気持ちに素直になるのが怖いエリチが、無意識のうちに作ってしまった壁。
それを自分の力で壊して進まなきゃ。
私が言葉だけ並べたって何の意味もないから。
「まずさっき古雪くんに言ってしまったことを謝ってから、今エリチが話した事、全部素直に伝えてみよう?そうすればエリチが探している答えが見つかるハズや」
「でも、私、海菜を本気で怒らせてしまったわ……。どんな顔して会えばいいか……」
「大丈夫だよ。……ウチが傍に居るから」
私に出来るのはそれくらい。
だってこれはエリチと古雪くんの問題やからね。
「エリチが逃げ出しそうになったら支えてあげる。
古雪くんが怒ったら諌めてあげる。……ウチのこと信じてみてくれないかな?」
「希……」
静かに見つめ合う。
「分かったわ。ごめんなさい、希。迷惑ばかり……」
「それは言わん約束やで?困ったときはお互い様やし!」
「……ありがと」
エリチは涙を拭い、毅然とした態度で立ち上がる。
その動作は彼女の決意の揺らぎなさを端的に示していた。
エリチの覚悟は決まったみたいだよ、古雪くん。
それに私の出来る事は全部やった。
後は……君にかかってるからね!