さらり、さらり。
波頭の泡粒が優し気な音楽を奏でるのが聞こえる。
広がる空、映し出す海。水平線に沈む夕日が赤橙色に輝いていた。それはあまりに豪奢で煌びやかな色、そして同時にどこか哀愁漂う雰囲気を漂わせている。霞み消えゆく雲のせいか、切なげに打ち寄せる波のせいか。それとも他に何か理由があるのか。
かぶりを振ると叙述的な表現で具体的な思考から逃げる自分を制する。
そっと空を見上げながら俺達は季節外れの静かな浜辺を歩いていた。
さらり、さらり。
冬空の下、打ち寄せる波は穏やかで。
一瞬、どうしてここに居るのかさえ忘れさせてくれた。
――静寂。
絶えず言葉を交わし、笑い声を上げ。
常に音の絶えなかった俺達の間に沈黙が満ちていた。
海の音色に身を委ね、各々が物思いに耽る。
――あぁ、きっと大切な何かがこれから起きるんだな。
漠然とした予測が浮かぶ。
俺達三年生は今日、半ば強引に引っ張り出されて騒がしい休日を過ごした。きっとそれは彼女たち下級生の思い付きや意図の無い行き当たりばったりの企画などでは無い。穂乃果達が一生懸命考えた末に起こした行動に違いない。センター試験が終わって、束の間の休息期間とは言えいたずらに俺を誘うほど彼女たちは抜けては居ないだろう。
何か。……何かがあるのだ。
三年生の知らない何かが。
下級生が決めた何かが。
穂乃果の表情に浮かんでいたのは覚悟の光。
無言で歩く彼女の背中が不思議と大きく見えた。華奢な背中が自信なさげに。それでも俯くこと無く、曲がること無くしゃんと伸びて空を仰いでいる。そして、それは他のメンバー達も同じ。俺は一番後ろでその姿を見ていた。いつもの場所、定位置。
皆の背中が見える所。皆の頑張りを見守れる所。ほんの僅かでも、彼女たちの背中を支えられる所。
「…………」
すぐ前を絵里が歩いていた。その隣には希。少し前ににこ。
僅かな違和感。
何故だろう。俺はしばし逡巡する。
別段不思議は無さそうで、何故か見慣れないその景色に困惑しながら思考を巡らせた。砂浜を歩くにはあまり好ましくないスニーカーが柔らかな砂浜に僅かにその身を埋め、足取りを重くする。絡まり付く砂粒が忙しさで手入れの施されていない靴の繊維に入り込んで行くのが分かった。
――あぁ、そうか。
そして俺は遅ればせながら気が付いた。
別に大した理由がある訳ではない。単純に殆ど存在し得なかった光景だったというだけ。
――絵里が……一番前に居ないんだ。
絵里は、俺の幼馴染は今日、下級生たちの後ろを歩いていた。
彼女は天性のリーダーシップを持っている。これは別にμ'sにおける穂乃果の役割を否定している訳ではなく、絢瀬絵里という女の子の一つの大切な特性の話にすぎない。学級委員長に留まらず生徒会長を。そして自らの立場を弁えて常に年上として正しく振る舞おうとする彼女の特徴だ。もちろん穂乃果の放つ輝かしい光に照らされ在るのがμ'sの本質ではあるけれど、同時に絵里が九人を纏め上げてきたのも事実。
彼女が紡ぐ言葉は大きな影響力を持ち、常にグループの進むべき道を選択してきた。
その選択は誰よりも冷静で、そして誰よりも正しかった。俺のように少し凝り固まった考え方じゃなく、客観的に見て最も正しい答えを導き出せる力がある彼女は、μ'sに入ってから今まで。懸命に、少し未熟な部分の多い下級生たちを引っ張って来た。
希が歌を作りたかったと言った一件で、絵里は半ば強引にラブソングを推した事もあったっけ。本来なら即却下されてもおかしくないその意見を真姫や海未が真剣に捉えたのもその証拠だろう。絵里が紡いだ言葉だからこそ彼女たちに影響を及ぼした。
そして他でもない、すべての選択を下級生に任して自分たちはそれに従う。その方針を決めたのも絵里だ。だからこそ俺達はそれぞれの意見はありながらもアクションを起こすこと無く穂乃果達に誘われるがまま、この場所に来た。
そして、絵里は今、俺の目の前に居る。
そして、絵里は今、穂乃果の……一年生と二年生の後ろを歩いていた。
きっと今日はμ'sというグループが立つ大きな岐路になると思う。
自分たちが進む道を選択する大切な日になるのだと思う。
何度もあったμ'sの危機や転機に常に先頭に立って九人を纏め上げてきたのが絵里。しかし、今日は全てを下級生に委ねどこか穏やかな表情で歩みを進めていた。きっと俺はそれに違和感を感じたんだと思う。グループを牽引してきたはずの彼女がいつの間にか――導かれる側に居ることに。
でもきっと、それが卒業すると言うことなのだろう。
なんとなく、そう感じた。
ふと、曖昧だった卒業するという感覚が分かったような気がする。
『卒業する私達が……μ'sを旅立つ私達が余計な事を言うべきではないわ』
これは絵里の変わらない意見だ。
今日この瞬間まで、俺はこの言葉を心の底から納得して受け入れることは出来なかった。卒業するとは言え、俺は……俺達はμ'sの一員であり仲間でも在る。例え数カ月後に居なくなるとしても今居るグループに対してきちんと責任を持ちその行末を決定する義務がある――そう考えていた。
この意見もまだ抱いては居るし、俺達なりの意見を表現することも大事だと思う。にこの様に『続けなさい!』とハッキリ言うのもまた一つの考え方であり正解だろう。
でも――もしかしたら下級生に委ねる事もまた大切なのかもしれない。
μ'sを旅立つ俺達は自分の意見を示す責任だけじゃなく、残るメンバーを信頼して全てを委ね託すのもまた最後には先輩としてやらなければいけないことなのかも……そんな事をぼんやりと考えていた。その二つの対立する行動をどれほどの塩梅で示していくのか、どれほどの比率が正しいのかは分からないけれど。
さらり、さらり。
波頭の泡粒が優し気な音楽を奏でるのが聞こえる。
いつの間にか心地よく耳朶を打る柔らかな足音が止まっていた。
一〇人は足を止めて向かい合った。
――三年生と、一・二年生。
四人と六人。穂乃果達は夕日を背にして俺達へと真っ直ぐな瞳を向ける。下級生を後ろから照らす夕日が眩しくて俺はそっと視線を下に落とした。知らず知らずのうちに握り込んでいた拳をゆっくりと開いて、再び握り込む。
さらり、さらり――。
さらり、さらり――。
「あのね……?」
穂乃果の口から砂粒のように、ゆっくりと零れ落ちた初めの言葉。
彼女たちの表情は六者六様だった。
穂乃果は彼女らしく無く、哀しげに視線を落とす。
ことりはそんな幼馴染の気持ちを察してか、困ったように笑いながらその隣に寄り添った。
そして二人を優しく見守るのは海未。
凛は切なそうに足元を見つめて俯き。
対象的に花陽は努めてか、それとも自然にか。柔らかな微笑みを浮かべていた。
真姫。彼女はやはり彼女らしく、決意を強く込めた瞳で凛と前を向いている。
「あのね……!」
穂乃果が――顔を上げた。
潤んだ瞳、震える声。
だけど。
――あぁ、この表情だ。
俺は胸に去来した確かな感覚を噛みしめる。
この顔を、俺は見たことが在る。何度も、何度も。
高坂穂乃果がμ'sのリーダーとして、何かを決断し、選んだその道を信じて歩いていこうとする時の彼女だ。これからこの娘は、この娘なりに一生懸命考えて導き出した結論を俺達に真正面からぶつけてくれるのだろう。
「私達、話したの。あれから六人で集まって、これからどうしていくか」
なぜだろう。俺は……それが凄く。
凄く……嬉しかったんだ。
「希ちゃんと」
希は少しだけ不安げな表情を。
「にこちゃんと」
にこは眉を潜めて真剣な瞳で。
「絵里ちゃんと」
絵里はそっと微笑みながら続きを促す。
「海菜さんが卒業したら『μ's』をどうするか……」
俺は……静かに頷いた。
「一人一人で答えを出した!」
俺は目の前に立つ六人の後輩に視線をやった。いつの間にか彼女たちは全員が顔を上げて真っ直ぐに俺達を見つめている。その瞳には優しげな色と確かに見える決意の光……そして数人の目尻には大粒の涙が浮かんでいた。真姫でさえ、今にも泣き出しそうに唇をへの字に曲げ、それでも絶対に涙は零すまいと両拳を握り込んで確固たる意志を俺達に示している。
「そしたらね……?」
あぁ。
声にならない相槌――。
「全員一緒だった。みんな同じ答えだった……! だから……だから決めたの!! そうしようって……」
僅かな沈黙。
潮騒が規則正しく寧らかに聞こえた。
「言うよ!! せぇっ……」
穂乃果は言葉を詰まらせた。他のメンバーが心配そうに見守る。
「……ごめん。言うよっ……」
しかし穂乃果はすぐに目に浮かぶ涙を乱暴に拭い、再び顔をあげた。
彼女が何を言おうとしているのか、どんな言葉に乗せて決意を伝えようとしているのかはまだ分からない。だけど、穂乃果が込めたその気持ちが、その決意がどれほど重いものなのか。それだけは痛いほど伝わってきた。
だから、俺達は待つ。
彼女が――彼女達が全員で紡ぐ答えを。
「せーのっ!!!」
穂乃果。
ことり。
海未。
花陽。
凛。
真姫。
にこ。
絵里。
希。
そして――古雪海菜。
μ'sが紡いできた物語が――。
『大会が終わったら、μ'sは、お終いにします!!!!』
***
何故だろう。ずっと前から知っていた気がする。
決断したのは穂乃果達。答えを導いたのは穂乃果達。
だけど、心の何処か奥底で分かっていた気がする。
こうなるんじゃないかってこと――こうなって欲しかったこと。
「やっぱりこの一〇人なんだよ! やっぱりこの一〇人がμ'sなんだよ……」
穂乃果は一歩踏み出す。
「誰かが抜けて、誰かが入って。それが普通なのは分かっています……」
海未はそう前置きした。そして一年生たちが続く言葉を紡ぐ。
「でも。私達はそうじゃない」
「μ'sはこの一〇人なんです!」
「誰かが欠けるなんて考えられない……」
飾りのない台詞が胸を打つ。
「一人でも欠けたら、μ'sじゃないの!」
いつもは優しく穏やかなことりが言う。穂乃果の意見を尊重し、そっと支えることに徹してきた彼女が自らの意志で叫んでいた。ことりにとってもまたこのμ'sは何よりも大事な存在なのだと思う。一度はここを離れようと決意した彼女だからこそ『一人でも欠けたら』という言葉には重みがあった。
俺は下級生たちから同級生へと視線を移す。
そこには呆気にとられた様子のにこ、穏やかな表情で頷く絵里。そして今にも泣き出しそうに目を伏せる希が居た。俺は……俺はどんな顔をして良いのか理解らず、後輩たちからの視線から逃げるように視線を逸らす。
「そう……」
頷く絵里と、
「絵里!?」
振り返り驚愕の声を上げるにこ。
「ウチも賛成だよ?」
「希……」
希はくしゃっとした笑顔を見せる。目尻にはもう既に隠し通せないほどの涙の粒が溜まり、笑った瞬間すうっと頬を伝って落ちた。その表情はどこまでも澄み切っていて、どこまでも――美しく感じた。彼女がμ'sに掛けて来た想いが人一倍大きかったからこそ……。
「当たり前やん、そんなの……! ウチがどんな想いで見てきたか……名前を付けたか。九人のメンバーと古雪くん。この一〇人だけなんよ。ウチにとって、μ'sは、この一〇人だけ!」
そう言って希は顔を背けた。
一つ、二つと流れ落ちた涙が足元の砂に溶けて行く。俺はどうしていいか理解らず……だけど、ただ黙って見ていることも出来ず。静かに彼女の背中に手を置いた。華奢な背中が小刻みに揺れる。μ'sを、九人の女神を支えた女の娘が、グループの終わりを知って悲しみではなく喜びでもない不思議な涙を流していた。
「そんなの、そんなの分かってるわよ!」
にこの叫びが木霊する。
「私だって、そう思ってるわよ……でも、でも、だって!」
「にこちゃん……」
俯きながら、それでも力強く彼女は一歩前へ進み、全員の顔を見渡した。
「私がどんな想いでスクールアイドルをやって来たか、分かるでしょ? 三年生になって諦めかけてた、それがこんな奇跡に巡り会えたのよ!? こんな素晴らしいアイドルに……仲間に巡り会えたのよ!! 終わっちゃったらもう、二度と……」
その言葉には三年分の想いが乗っていた。
俺達がμ'sとして、スクールアイドルに触れてきたのは一年にも満たない期間。しかし、にこだけはずっと一人でそれに憧れ、目指して来たのだ。終わることでその全てを自分たちだけの大切なモノに出来ると考える希と、終わってしまえば失われてしまう……そう捉えるにこ。二人共μ'sに懸ける想いと心は同じで、どちらの意見も理解することが出来た。
そして、それは下級生も同じだったのだろう。
真姫が――飛び出した。プライドの高い真姫が涙を零しながら、情けない表情を晒しながら。それでも伝えたかった先輩への想いを、自分たちの意見をぶつける。
「だから、アイドルは続けるわよ! 絶対約束する……何があっても続けるわよ!」
「真姫……」
「でも、μ'sは私達だけのものにしたい! にこちゃんたちの居ないμ'sなんて嫌なの! 私が嫌なの……!」
彼女が紡ぐ言葉の意味を。そこに込められた気持ちを理解出来ないほどにこは馬鹿じゃない。むしろ逆で、誰よりも人の気持ちが分かる優しい女の子だ。自分が何度も傷付いて来たからこそ、彼女は自分達――先輩達への想いを真っ直ぐにぶつけられ、正しくそれを受け入れた。
にこの目尻にも次第に雫が満ちる。
泣くなよ、ガラじゃないだろ。君が泣くとこっちまでしんみりしてしまう。
「かよちん、泣かないで……凛、頑張ってるんだよ?」
「だって……」
僅かに漏れる嗚咽。
俺はどうするべきなのだろう。
今にも泣き出しそうな、そして泣き出してしまった後輩や同級生を見つめる。しかし、気が付いた。
――きっと、かけられる言葉は無い。
意見が必要な訳じゃなく、そして感想が必要な訳じゃない。俺達はただ避けては通れない一つの岐路に立ち、進むべき道を選び取っただけなのだ。ただ、それだけの事。
それぞれが色んな事を考え、答えを出した。
そこに正解も不正解も無い。純粋に、選んだ道を歩き出すことしか出来ない。今は出来るのは後悔の無い全てに納得した今の選択と……それでも生まれてしまうどうしようもない寂しさや悲しさと触れ合う事。それだけに時間を費やすだけ。俺の言葉で……いや、誰かの言葉でこの時を癒し早めることなど出来はしない。
きっと、この時が。
十人だけの今が――何よりも大切なのだろう。
「あーーーー!!!!!」
突然叫び出した穂乃果。
「電車に乗り遅れちゃう!!!!!」
そう残して彼女は駆け出す。急なことに皆は驚きを浮かべながらも慌てて穂乃果を追いかけ始めた。多分、俺以外の八人には見えていなかったのだろう。全員目を潤ませていたから。
「……電車の時間まで、あと三十分くらいあるだろ」
生憎、スケジュール管理はちゃんとするタイプなんだ。遠出した時の帰りの時間くらいは把握している。
俺は小さく呟き、彼女が残した雫の後を追いかけた。
***
――あのままだと、全員泣いちゃいそうだったから。
そう言って、穂乃果はぺろっと舌を出して見せた。
いたずらっぽい表情に全員が少し呆れた顔をした後に微笑む。なんとも彼女らしい。俺もどうせそんなところだろうと思っていたのでコツンと一発頭頂部を小突くに留めておく。運動不足なんだからあんまり走らせんな! そんな雑なボケツッコミ。全員が笑ってくれた。
そう、全員が笑顔を浮かべる。
きっと、無理をして――笑ってくれていた。
そうしなければ我慢できなかったのだろう。溢れだす気持ちをどうにか抑え込むには無理にでも笑う他無かったのだろう。くだらない事で過剰なほど明るい反応をくれるのはきっとその証拠だ。でも、俺はそれが悪い事だとは思わない。
納得のいく決断をした結果、否応なく生じた悲しみ、切なさ。
それを無くすことは不可能で。だからこそ無理にでも笑って、そんな感情たちと折り合いを付けるのだ。自分は大丈夫だよ、これから最後まで頑張れるよ。口から零れて耳に届く笑い声は崩れ落ちて泣き出してしまいそうな己に送るエール。
俺は話し続けた。
拙い話術で、出来るだけ空気が明るくなるように。
――俺がすべきことは一緒になって泣く事じゃなく、早く彼女達を笑顔にさせることだ。
なのに。
「証明写真で記念撮影? ふふふ、仕方ないなー、狭いから花陽ホラおいで抱きしめてやろ……いやホントすみません!? ごめんなさい謝りますから!」
なのに。
「おぉ、こうみるとこの娘が一番可愛いって……ん、あぁ、コレ俺か」
なのに。
「これ部室に貼っといて! また見に行く……おい誰だ、いま余白小さいから俺の顔に画鋲刺そうって言った奴は」
なのに。
「帰りの電車、みんな女性専用車両で帰るってマジ?」
なのに。
寂れた無人駅のホーム。
――雪崩れる様な泣き声が木霊した。
俺にはどうすることも出来なかった。
ただ、ただ。
声をあげて泣く穂乃果の頭を撫でながら、視線を真下に下ろす。
そこに零れた雫を見て……俺は霞む視界をゆっくりと閉じた。