ジンオウガの捕獲を成功させたヴァイスたち一行は、疲れ切った身体を引きずるように拠点へ帰還した。
意識を失ったソラも、それは一時的なものであったため、意識を取り戻し、容体が安定するのを確認するとすぐさま渓流を発った。
そして、ガーグァの牽く荷車に揺られること数日。ヴァイスたちの視界にようやくユクモ村が見えてきた。
既に時刻は夕暮れ時だ。太陽は山々の向こう側に傾き、その赤光がユクモ村をぼんやりと映し出す。神秘的な光景を目の前に、クレアが息を呑んだ。
「綺麗ですね、ユクモ村……」
「ああ、確かに……」
激しい狩猟を終えた後のためか、四人の表情には未だに疲れが見えていた。御者を務めているヴァイスにも、それがはっきりと窺える。
荷車は山間の獣道を進み、徐々にユクモ村へと近づいていく。そして、いよいよ到着かという際にヴァイスが後方に声を掛けた。
「さて、もう到着だ。それぞれの荷物を整えていてくれ」
そう言ってから数分足らずでユクモ村に到着する。集会浴場の北側に位置する農屋にガーグァと荷車を戻すと、そこから続く坂道を登っていく。
無論、その先に続いているのは集会浴場だ。四人が集会浴場に足を踏み入れた途端、そこは大きな歓声に包まれた。
「おぉっ!? この村の救世主が帰っていたぞ!」
「さあ、歓迎だ歓迎だ!」
そんな調子で声を上げ、村人たちがヴァイスたちに群がって来る。一瞬にしてヴァイスたちは、村人たちに飲み込まれてしまう形となる。
「いやぁ、アンタらのおかげで助かったよ!」
「本当に、なんてお礼を言ったらいいんだか……」
周りから聞こえてくるのは、そんな村人たちの感謝の言葉ばかりであった。
しかし、状況を読み込めない当の四人は困惑したっきりである。
「し、師匠! 一体どういうことですか、これ!?」
「いや、俺に訊かれてもな……」
戸惑う四人をさし置き、村人たちの勢いは止まることを知らない。いやそれどころか、その勢いはどんどんエスカレートしているようである。
これは、どうしたものだろうか。
いよいよ場の収集が付かなくなったと誰もが思い始めた頃、不意に村人たちの歓声が途切れた。その不自然な現象に、四人も何事かと思う。
見遣ると、村人たちの合間から誰かがこちらにやって来ている様子だ。人混みを掻き分けるようにしてその姿を現したのは、村長とギルドマネージャーその人だった。
「いよぅっ! 派遣隊から報告は聞いてたぜ。無事にジンオウガを捕獲してくれたようじゃないか!」
「本当に、本当にありがとうございます、皆さま。村人を代表し、心からお礼を申し上げさせて頂きますわ」
ギルドマネージャーはいつものように飄々とした様子で感謝を、また村長も深く頭を下げてヴァイスたちに礼を述べた。
二人の感謝を受け、ヴァイスが一歩前へ出る。
「ユクモ村に被害が及ばなかったようで何よりです。俺たちとしても、皆が無事で安堵しています」
村長と同じようにヴァイスも頭を下げた。すると、ギルドマネージャーはバシバシと乱暴にヴァイスの肩を叩く。
「相変わらず容赦ないですね」
苦笑いしつつも、ヴァイスの表情に不快の色は無い。そんなヴァイスを見透かすように、ギルドマネージャーはニッと大仰な笑みを浮かべる。
「ひょひょっ! チミが謙遜なんざするからさ! チミたちはよくやってくれた、胸を張ってくれ。それでこそ、この村の救世主ってモンさ!」
「爺さん……」
ギルドマネージャーの言った言葉に嘘偽りは無い。大仰な笑みの下にある柔和なその表情は、そのことを裏付けていた。
ヴァイスの後方にいるクレアたちも、嬉しそうな表情を浮かべる。
この村の人々が、自分たちをどれだけ頼りにしていてくれていたのか。それを改めて知ったとき、四人が心に抱いたのは、誇りや同慶の念。それを思えば、ジンオウガを捕獲できて本当によかった。心の底からそう思える。
「さて、これから祝杯を挙げようじゃないか! ここにいる救世主たちに乾杯だ!」
その声に反応し、村人たち全員が「おぉっ!!」と高らかに声を上げる。ヴァイスたちは村人たちに腕を掴まれると、そのまま集会浴場の外に連れ出された。
普段ならば、高く聳え立つ集会浴場の影がユクモ村に落ちている。だが、今日に至ってはその影が見えない。村中の至る所に篝火が設置され、村内を明るく照らし出しているからだ。
さらに、そこに屯する村人や湯治客たちは、いつも以上の盛り上がりを見せている。豪勢な食事や御酒が振る舞われ、人々は陽気に談笑しつつそれらを楽しんでいる。
「す、凄いです……」
「確かに。こんな光景は、今まで見たことがないぞ」
ユクモ村の人々は毎晩毎晩お祭り騒ぎをしていると思っていたが、目の前の光景はそれ以上である。ユクモ村の滞在期間が比較的長いクレアでさえ、ここまでの様相は目の当たりにしたことはない。
「ささ、こっちですよこっちですよ!」
顔を紅潮させた、明らかに酒に酔った中年の男が四人の背中を押す。石段の途中にある開けた場所に設置された長椅子に四人を座らせると、今度は別の方から声が上がった。
「この四人の救世主たちは、この村を救ってくれた! 四人の救世主に感謝を表して、乾杯だ!!」
「乾杯ーーーっ!!」
村人全員から放たれた乾杯の祝辞は、金色の月が顔を出し始めた静寂の夜空に轟いた。それを期に場の熱気が一気に上昇する。
呆気に取られている四人の前に、でかでかとした木製のジョッキが運ばれる。
「えっ!? こ、これ!」
「さぁさぁ。遠慮なんざするなって!」
躊躇いを見せるグレンの目の前に置かれたジョッキの中身は間違いなく酒である。どうやらヴァイスにも同じ酒が振る舞われ、クレアとソラにはさすがにジュースが出されたらしい。
だが、グレンはブンブンと勢いよく首を横に振った。
「遠慮って、これ普通に酒ですよね!?」
「別に、お前の年齢なら酒は大丈夫じゃないか。いいから飲めよ!」
「そういう問題じゃ……って、ちょっ!?」
グレンに迫る一人の中年男性は、有無を言わさぬ勢いで彼の口に酒を押し流した。この男性も、完全に酔っている様子である。
一方、同じ酒を出されたヴァイスは、そのグレンの様子を冷やかな目で見ていた。助けてください、とグレンの視線は訴えていた気がするが、この状況では助け船も出せないのでヴァイスは見て見ぬふりをしてジョッキを手に取った。
「これは、黄金芋酒か」
「あぁ。今日という日のために、そいつを買いためておいたのさ!」
一部地域では“酒の王”とまで呼ばれるものがこの黄金芋酒だ。と言うのも、素材に使われる黄金芋が希少なために市場に出回る機会がそう多くない代物なのだ。
ユクモ村で黄金芋が栽培されているという話は今のところ聞いていない。村人の言うとおり、比較的市場に出回りやすい地域から購入していたのだろう。何とも贅沢な話である。
「師匠たちだけお酒を飲んでいるとか、ズルいですよ! ソラさんもそう思いますよね?」
「わ、わたしは別に大丈夫なのです。それに、まだ未成年ですので……」
頬を膨らましながらクレアは不満を述べる。すると、近くにいた村人の一人にもそれが届いたらしい。ニヤリと笑みを浮かべ、近くの酒樽を指差した。
「それなら、嬢ちゃんたちも一杯飲んでみるか? なぁに、今日くらい羽目を外してもいいってもんよ!」
「えっ、いいんですか!?」
途端に目を輝かせ立ち上がろうとしたクレアを、ヴァイスが速攻で引き留める。
「面倒なことになるのが目に見えているから、頼むからやめろ」
「ちょっ!? 私師匠に変な偏見持たれているんですか!?」
「あぁ、悪い。クレアとソラにジュースをもう一杯ずつ持ってきてやってくれないか?」
これ以上絡んでも厄介なことになるのは予測できたため、ヴァイスはクレアをスルーすることに決めた。
頼んだジュースがやって来る前に、四人の前に運ばれてきたのは温泉たまごだった。この村では、酒のつまみには温泉たまごが定番なのだ。
するとすぐさま、ヴァイスは後方から肩を叩かれた。振り返ってみると、そこにいたのはレーナだった。
「ヴァイスさん。今回はお疲れ様でした」
レーナが頭を下げてヴァイスを労う。そして、先程オーダーした二人のジュースと、ヴァイスとグレンの分のジョッキが渡された。
「グレンの分はいるか?」
苦笑しながらそう言うヴァイスに対し、レーナは口元を綻ばせ、そしてグレンの方に視線を向けた。
「あの様子だと、まだまだ飲めると思いますよ?」
視線の向こうで、グレンと先程の男性のやり取りは続いていた。ジョッキを空にしたグレンに対し、周りから「もっと飲めよ」という野次が飛び交っている。
「おぉっ! ちょうど二杯目がやって来たぜ!」
「なんでしれっと二杯目が用意されているんですか!?」
村人たちにもみくしゃに飲まれ、グレンが渋々と、そして観念したように自分からジョッキを呷った。その途端に上がるのは、周囲からの歓声だ。
それを目の当たりにしたヴァイスは、思わず失笑した。
「お前は容赦無いな……」
「そうですかね?」
ヴァイスとは裏腹、レーナはあっけらかんとした様子である。レーナと言えば、以前にもグレンを弄ぶような言動をしていることは確かである。
すると、レーナはグレンから視線を外し、すっとヴァイスと目を合わせた。
「あたしもこうしていられるくらい、村全体が賑わっているっていう証拠なんです。ヴァイスさんたちには、本当に感謝していますよ」
そう言ったレーナの表情は、その嬉しさと入り混じって何処か安堵しているようにも見える。
レーナもユクモ村の住人の一人だ。そのユクモ村がジンオウガ襲来という脅威に陥ったならば、レーナが不安や恐怖を覚えるのは当然だ。そして、ユクモ村を救ったヴァイスたちに感謝することも。
ヴァイスはそうして、ある程度は納得できた。
「そう言ってもらえると、俺たちとしても嬉しい。ジンオウガだけではない、色々な問題を抱えての狩猟だったからな」
「えぇ、分かっていますよ。だからこそ感謝しているんです。ジンオウガや、それにソラのことだって……」
視線を、今度はソラの方へ移したレーナが言った。ヴァイスも、それには静かに頷くだけだった。
ほんの少しの間、二人の間には静寂が流れた。だが、次の瞬間にレーナは気持ちを切り替えていた。身を翻し、ヴァイスに軽く手を振って見せる。
「メインのお料理の方はこれからになりますよ。もう少しだけ待っていて下さいね」
「あぁ、楽しみにしているよ」
同じくヴァイスも手を振り返し、レーナの背中を見送る。
人混みの中にレーナの姿が消えていくと、ヴァイスは新たなジョッキを手に取って黄金芋酒で口を湿らせた。そして、先に出された温泉たまごを食そうかと思ったところで、またしても後方から声が掛かった。そこにいたのはレーナではなく、今度はソラだった。
「えっと、ヴァイスさん。少しの間だけ大丈夫でしょうか?」
そう尋ねるソラの表情は真剣味を帯びていた。ヴァイスにも、これからソラが何を語ろうとすることを薄々と理解できたのだ。
「そうだな。場所を移動しよう。ここだと話しづらいだろう?」
「そうですね……、そうかもしれないのです」
ソラはその言葉に素直に従い、ヴァイスと連れ立って人気の無い場所へ向かった。
ちょうど二人の近くには、ヴァイスの家が位置していた。その裏地ならば誰もいないはずだと、ヴァイスはそこへ案内した。
ヴァイスの言うとおり、そこには誰の姿も見えない。あれだけ騒がしかった喧噪も、ここではまるで隔絶されたようにも思えてしまう。
「あの、今回はこのような機会を与えてもらってありがとうございました」
周囲に人の視線が無いことを確認するや否や、ソラは頭を下げた。
「ああ。ソラが何か掴めたのなら、俺も嬉しい限りだ。……だが、真に言いたいことは、また別なんだろう?」
その言葉で、ソラは頭を持ち上げた。ソラは言葉で答えることはなく、ヴァイスにただ首肯した。
そして、短く深呼吸をしたソラは改めてヴァイスに向き直った。
「はい。ヴァイスさんには、お願いがあるのです」
そうしてソラは、ヴァイスに“お願い”の内容を告げた。
「あぁ~、まだ辛いなぁ~……」
早春の昼間の日差しが天から降り注ぐ中、グレンは気怠そうに頭を左右に振った。
ユクモ村に帰還した夜は、グレンにとっては苦痛だった。あまり好みもしない酒も村人たちの成すがままに飲まされ続け、そして翌日には案の定二日酔いに陥る。
更に宴会もその晩で終わりかと思ったが、翌日も村人たちはお祭り騒ぎであった。二日酔いに苦しむグレンにとって、その喧噪は文字通り頭痛の種に変わりなかった。しかも、それがその翌日にまで尾を曳いているのである。何とも哀れな話だ。
「そういえば、昨日はみんなに挨拶に行けなかったなぁ……」
みんな、とはヴァイスを始めとする面々である。特にグレンが話をしたかったのはソラだ。色々なことが起こったにせよ、ソラは再び立ち上がる決意をしてくれた。グレンにすれば、それはジンオウガの捕獲と同じほどに嬉しいことなのだ。
改めてソラと面と向かい、話をしたい。グレンはその気持ちで一杯だった。
「えっと、ソラは確かレーナの宿屋に寝泊まりしてるんだっけ……」
未だにハッキリしない頭を覚醒させるように、グレンが思考する。
ソラが紅葉荘に世話になっていることはグレンも知っている。時間帯としても、今尚布団の中にいるということもないだろう。それを鑑みて、グレンは紅葉荘に足を踏み入れた。
「あら、グレンさん。もう大丈夫なんですか?」
「全く、誰かさんのおかげで一昨日は散々だったよ」
一昨日の件について、レーナが村人たちに加担していたということはある人物から聞いていた。これでもかという皮肉を込めてレーナにぶつけてみる。
「それはそれは、残念でしたね」
しかし、グレンの皮肉にもレーナは動じない。表情一つ変えず、レーナはカウンターの向こうで筆を握る手を動かしていた。
グレンも早々に諦めたらしく、「はぁ……」と観念したような溜め息を吐く。そして気分を入れ替えるように、わざとらしい咳払いを一つして本題を切り出そうとする。
「それよりもだ。ソラはまだ部屋にいる? 会って話をしたいんだけど」
しかしその瞬間、グレンはレーナの表情が崩れるのを見逃さなかった。何と言うか、「意外だ」という表情を彼女はしている。
さすがにグレンも、その様子に疑問を抱く。
「どうしたんだよ?」
「いや、グレンさん聞いていないんですか……?」
「聞いていない?」
グレンはこの時、妙な違和感を覚えた。まるで胸がざわつくような、平静でいられないような、そんな妙な気持ち。自然と心臓の鼓動が早くなっていくのを、グレンも生々しいまでに感じていた。
そして、その違和感が限界にまで達しようとした直前、レーナがゆっくり口を開いた。
「――ソラは今朝早く、ここを出て行きました」
この瞬間。グレンの違和感は現実となる。そして、頭部を思いっきり殴られたかのような衝撃を覚えた。
「は……?」
今、何と言った?
ソラが出て行った?
それはどういう意味だ?
頭の中がぐちゃぐちゃにかき乱される。
つまりは、そういうことだ。
目の前に起こっていることは夢などといった生易しいものではなく、ソラはユクモ村を出て行った。その事実を、突き付けられた。
それを頭でようやく理解した途端、グレンの身体は次の思考より先に動いた。
「っ!」
「あっ!? グレンさん!?」
レーナの制止を振り切り、グレンは紅葉荘を飛び出した。
ソラが出て行った。それも、事前に何も告げずに。
どうして、どうして、どうして――!?
考えれば考えるほど、底知れぬ沼に引きずり込まれてしまう。
グレンの頭の中は真っ白だった。それ以外に何も頭に浮かぶことができず、ただ本能の赴くままに身体を動かす。その先にあったのはクレアの家だった。
「クレア、俺だ! いるか!?」
荒々しく扉をノックすると、家の中からクレアが顔を表した。
「グレンさん!? どうしたんですか、そんなに慌てて!?」
息を切らし、切羽詰まった表情のグレンを見たクレアも血相を変える。
呼吸を整えることもままならないまま、グレンは何とかして事態を告げようとする。
「あ、ああ。実は――!」
事の成り行きをクレアに話す。すると、クレアも驚愕に満ちた表情を浮かべる。
「そんな! 私もそんなことは初耳ですよ!?」
「そ、そうだったのか!?」
グレンも堪らず驚く。
ソラは自分はおろか、クレアにまで無言で出て行ったのだという。事の成り行きが、ますます理解不能になっていく。
その中、クレアは思いついたように手を叩く。
「そうだ、師匠ですよ! 師匠なら必ず何か知ってますよ!」
「そ、そうか! そうに違いない!」
そうと決まれば、と二人はヴァイスの家まで全力で駆けた。しかし、肝心のヴァイスは家を留守にしているようだった。いくら呼びかけても、中から返事が返ってくることはなかったのだ。
その後、二人は村中を駆けまわったが、ヴァイスを見つけることはできなかった。しかし、ここで二人は有力な情報を入手する。つい先程、ヴァイスが集会浴場に入っていくのを目撃したという村人がいたのだ。
それを聞いて、二人は今度こそと集会浴場に続く階段を駆け上がった。滑り込むように集会浴場に入って二人が目撃した光景は、ヴァイスと、そしてなんとソラの姿だった。
「師匠! ソラさん!」
「お、お二人とも……」
クレアが声を張り上げると、ソラが肩を震わせた。
それに有無を言わせず、二人はヴァイスとソラの元に突っ込んだ。
「ソラ! どうして……、どうして何も言ってくれなかったんだ!?」
「は、はい……?」
「そうだよ、ソラさん! いくらなんでも、それはあんまりだよ!」
「ど、どういうことなのですか?」
二人して食ってかかると、ソラもさすがに困惑の色を隠せない。あまりの威圧に、ソラも思わず縮こまってしまう。
「おい、二人とも。様子がおかしいぞ。どうしたんだ?」
「どうしたも何もないですよ、師匠!」
ヴァイスの制止すらも振り切り、クレアは尚も声を張り上げた。そして、グレンも続く。
「クレアの言うとおりです、ヴァイスさん! こっちは事前に何も知らされていないんですから!」
「確かにお前たちの言うとおりだが、それにしてもだ。一体どうした?」
さすがにこのままでは埒が明かないとヴァイスも理解したのだろう。取り敢えず、熱り立つような二人を宥めようとする。
「順を追って話してくれ。一体どうしたんだ?」
「レーナから聞きました。ソラが、村を出ていくんだと。それで――」
「ちょっと待て」
唐突なタイミングで制止を掛けたヴァイスにグレンも不満を抱く。その不満を口にしようかと思ったところで、外野からの会話がこちらにも届いた。
「ギルドマネージャー。これは……、そういうことですよね?」
「おぅ。そういうことになるな」
何やら、あちらはあちらで会話が成り立っているようだ。だが、当のクレアとグレンにはさっぱりである。
短い会話を交わしたギルドマネージャーと受付嬢は、おかしそうなものを見る様子で吹き出した。
「いやぁ、実はな――」
「いや、爺さん。どうやら俺たちに落ち度があったらしいです。それは俺たちで解決することにします」
ギルドマネージャーの言葉を遮ってまでヴァイスは静止を掛けた。そのヴァイスは、頭が重い様子で額に手をやっている。隣に立つソラも、何やら落ちつかないのかソワソワしている様子だ。
はぁ……、と重たい溜め息の後、ヴァイスが口を開く。
「どうやら、お前たちは重大な勘違いをしているようだ……」
「それ、どういう……」
グレンが全てを言い終わる前に、集会浴場の入り口から誰かが走ってきた。それはレーナで、こちらの存在を確認すると「あー……」とこれまた奇妙な様子になってしまう。
ここまで走ってきた呼吸を整え、レーナがこちらに歩み寄った。クレアは数歩後ろへ退いたようだが、彼女には目もくれない。レーナはグレンと視線を合わせると、やれやれと言いたげに首を横に振った。
「グレンさん。人の話は最後まで聞くものですよ」
「は……?」
未だに状況が飲み込めていないグレンが思わず素っ頓狂な声を上げる。ここまで来ると、レーナも哀れを通り越してむしろ関心してしまう。
「だから、グレンさん。あたしはソラが出ていくとは言いましたけど、この村を出ていくとは一言も口にしていないんですよ?」
「えっ……」
ようやくグレンも、自分が盛大な勘違いをしていたと自覚してきたらしい。額に妙な汗を浮かべているのが、誰の目から見ても明らかだ。
泣き面に蜂を刺すように、レーナは一気に畳みかけた。
「ソラはこの村を出ていくんじゃありません。出ていくっていうのは、あたしの宿屋を出ていくっていうことですよ」
全てが解決した。
グレンの熱も、ここで急激に冷まされる。今まで何を勘違いしていたのか、そして周囲を見れば何事かとこちらを窺う人だかりがいる。羞恥に耐えられなくなったグレンが堪らず頬を染める。
そしてそれから間を置かず、グレンの絶叫がユクモ村に木霊した。
それからしばらくして、クレア、グレン、ソラの三人はヴァイスの家に招かれた。盛大な誤解をしていたクレアとグレンにちゃんと状況を説明するには、集会浴場は不向きだったためだ。
クレアとグレンから改めて事情を聞いたヴァイスは、呆れたように溜め息を吐く。
「……なるほど。ある程度は事情を理解できた」
「本当にすいませんでした……」
事の発端であるグレンは、先程からこのような様子が続いている。
やや早とちりする癖のあるグレンだと思ったが、まさかここまでとは。それを思えば、ヴァイスもグレンの思考回路には呆れるどころかむしろ関心してしまう。
「私も本当にびっくりしましたよ。突然グレンさんがやって来て、ソラが村から出ていくとか言い出すんですから」
一応被害者に当たるクレアも、他の面々と同じような様子である。
しかし、クレアに見え隠れしているのは、グレンに対する怒りではなく、安堵であった。彼女の言うとおり、突然ソラが村を出ていくと告げられればショックを受けるのは当然だろう。クレアが安堵するのも無理はない。
「でも、どうして二人は集会浴場にいたんですか?」
クレアの問いかけに、ヴァイスも思いついたように「あぁ」と相槌を打った。
「そこはまず、ソラ本人から話をしてもらうか」
ヴァイスが促すと、ソラが席を立ちあがった。そして、深々と頭を下げる。
「わたしは、これからもこのパーティーでお世話になることになりました。皆さん、改めてよろしくお願いするのです!」
緊張を帯びたソラの声色に、クレアとグレンはまたしても驚いたような反応をする。しかし、今回の驚きはショックなどいったそういう類いの様子はなく、むしろ喜びの色が見受けられた。
「し、師匠! それって……!」
「ソラの言葉通りだ。これからも俺たちは、このパーティーを組むことになる」
ヴァイスの言葉で、クレアとグレンの喜びは明らかなものとなる。
詳しい話を聞くと、ソラ本人からヴァイスに対し、このパーティーに留まりたいという旨の相談をユクモ村に戻ったその日にしたのだという。ヴァイスもそれには快諾し、ソラの正式なパーティーの加入を歓迎した。
「集会浴場にいたのは、爺さんにもそれを伝えるためだな。村長も空き家をソラに貸してくれるらしく、その辺りの手続きも兼ねて集会浴場に向かったんだ」
どうやら村長も気を利かせてくれたらしい。そうすると、レーナの言った「ソラが出て行った」という発言の意味もようやく理解できる。それはソラが、新たな家に移り住んだという意味だったのだ。
「そうだったんですか……。それなら、ソラさんも早く伝えてくれればよかったのに」
「ご、ごめんなさい! 村長に空き家を貸してもらうことになったのは、つい先日決まったことでしたので」
「ううん。でも、本当によかった」
クレアが胸を撫で下ろす。それはグレンも同様だった。
「ソラ、ありがとう。このパーティーに残ってくれる決意をしてくれて」
「いえ、それは皆さんのおかげです。皆さんのおかげで、わたしはもう一度立ち上がろうって決められたのです。感謝したいのは、わたしの方です」
今思い返せば、ソラとの出会い、そして共に挑んだ狩猟は偶然の一言では済まされない気がする。
自信を取り戻す手がかりを求めてやって来たソラ。そして、そのソラに手を差し伸べたヴァイス。ソラを助けようと奔走したクレアとグレン。ティガレックス、そしてジンオウガの狩猟の中で、それは大きな意味を成していたのだ。
ジンオウガの狩猟の際、何故ヴァイスが単独で狩猟を行わないのかという一抹の疑問が、それも今となっては答えが出た。
自身の成長の為だけではない。もがき苦しむソラを助ける手立てが、その狩猟の中にこそ存在していた。その狩猟は無事に成功し、だからこうして笑い合える。これからも、共に歩んで行ける。ソラが目指そうとする遥か高みまで、それは続いていく。
「さて、改めてソラの歓迎会でもするか?」
「あっ、いいですね! 私は賛成です!」
「ええ、俺も賛成です」
ヴァイスの提案に、クレアとグレンは早くも乗り気である。
こうして、ソラは温かい歓迎を受け、パーティーに加入することとなった。その時に浮かべたソラの笑みは、これまでにないほど溌剌で、それは彼女の嬉しさと感謝を大いに表していた。
「ふう……、これで全部だな。レーナ、そっちはどうだ?」
「ええ、こっちも終わりましたよ」
グレンとレーナの二人が互いに告げると、額に滲んだ汗を共に拭う。
ソラの空き家が決まってからしばらく経ったが、ようやく今日に荷物の搬入が可能となった。
紅葉荘での仕事を一通り終えたレーナと、暇を弄んでいたグレンはこうして荷物の搬入を手伝っていた。
「お客が減っちゃうのは残念ですが、でもソラがユクモ村に留まってくれるなら嬉しい限りですね」
「同感だよ」
そう言うと、二人して笑みを浮かべる。あまり話には聞いていなかったが、この様子だとレーナの方もソラに思い入れがあるようだ。
「あれから話も聞きましたよ。狩猟は大変だったらしいですが、それでもソラは皆さんに感謝していると」
「ああ。本当によかった」
そうして、二人の間にしばしの沈黙が流れる。
まるで、取って作られたかのような妙な沈黙。普段は感じない奇妙な感覚に、グレンもむず痒さを覚える。
「――『天使』」
それは余りにも唐突だった。レーナがその単語を発したのは。
しかし、グレンにはそれが何を指すのか理解できない。況してや、どうしてレーナがそれを言ったのかなど。
すると、レーナが顔を上げた。グレンも釣られて同じ方向を向く。その先にいたのは、新たな住処の窓を開け放ち、遠くを見遣るソラの姿だった。
「かつて、ロックラックで期待されたハンターの少女。ガンナーである彼女は、攻めよりも援護を重視するスタイルだった。的確なその援護から、ハンターの一部からは『天使』と呼ばれていた」
「それは……」
グレンも押し黙る。
『天使』。その二つ名の持ち主は誰であるのか。そんなこと、考えるまでもないはずだ。だが、それでも疑問を抱く。
攻めよりも的確な援護を行う『天使』。だが、グレンの記憶に存在するその姿は、レーナの言うこととは真逆である。
しかし、それと同時にもう一つ、あることがグレンの脳裏に過る。
『天使』はどうしてユクモ村にやって来たか。それは味方に行った誤射による自信の喪失。そして、それを取り戻すべく、『天使』はユクモ村にやって来た。
「ですが、それは裏を返せば、相手に対する信頼の度合いの裏付けとも読めますよね。リスクを冒して攻めることは滅多にしない、それは保守的に動き続けているだけに過ぎないんですから」
その名を呼んだハンターたちは、そんなことを考えもしなかっただろう。
しかし、怯えの殻に籠ったその姿こそが、『天使』であった。実際はそうだったのかもしれない。
「自信を失った、とは言いますが、それでも閉じこもった殻を破るには、相手に対する信頼も必要ですよね」
だが、それでも彼女は何とかして立ち上がろうとした。狩猟を通して、何かが掴めるのかもしれないと。その時に見た彼女の姿。それは、それこそが――、
「彼女は分かっていたそうです。この人たちなら、助けてくれるかもしれない。もう一度、立ち上がれるかもしれない。思い込みじゃない、そこにあったのは確かな信頼です」
そう。最初から彼女は、自分たちを信頼してくれていた。
自信を失った彼女にとって、唯一縋れるのはその信頼だったのだ。信頼を抱けるような人なら救ってくれる。身勝手なことを想いながらも、彼女はここに流れ着いた。そして、自分たちと出会う。
今まで見てきたものは、そんな彼女の姿だったのだ。
「グレンさん」
彼女からの視線を外し、グレンをしっかりと見据えたレーナが呼びかける。グレンも、レーナとの視線を合わせる。真っ直ぐで率直な視線が、グレンを見据えた。
「――ソラのこと、頼みますよ。ソラは、皆さんを心の底から信頼してくれているんです。それに、ほら」
もう一度、レーナは顔を上げた。グレンも同様に顔を上げると、ソラがこちらに向かって手を振っていた。
グレンは笑みを浮かべて手を振り返すと、身を翻した。
「もちろんだよ。任せてくれ」
それで十分だった。
この人たちなら大丈夫。ソラの信頼に応えられる。それだけで確信できる。
レーナもソラに手を振り返すと、グレンの後を追うように走りだす。
その二人の後姿を、ソラは二人の背中が見えなくなるまでずっと見つめていた。
二人は手を振り返すと、そのまま行ってしまった。二人の背中が見えなくなると、再び空を見上げる。
どこまでも高く、そして青い空だ。
こうした気持ちで空を見上げるのは、いつ以来だろう。もう一度自由な空を仰いだとき、胸に抱くのは大きな希望だった。
するとふと別のものに視線を奪われる。目をやると、そこにいたのは四羽の白い鳥たちだった。
家族なのか、仲間なのか。それは分からない。だが、仲睦まじい雰囲気だけは確かに伝わってくる。見ているだけでも微笑ましい光景だ。
だがしばらくすると、うち一羽が大きな白い翼をはためかせ、大空へ舞い上がった。それに続き、残りの者たちも飛び立って行く。
しかし、そこに一羽だけ取り残されてしまう。他の三羽に比べて身体が小さく、そして頼りがいが無い。大空へ飛び立とうと思い立つが、自信が沸かずそれを行動に移すことはない。
そうこうしているうちに、他の三羽の姿はどんどんと小さくなっていってしまう。このまま一歩を踏み出さなければ、群れからは置いてかれてしまう。
頑張れ。もう一歩、勇気を振り絞って――!
その心の声が聞こえたのかもしれない。鳥は一歩を踏み出し、そして地面を蹴ると翼を広げた。しかし、上手く体勢を整えられず、バランスを崩したまま地面に向かって急降下する。
危ない――!
だが、その鳥が地面に降りることはなかった。何とか体勢を立て直すと、そのまま翼をはためかせ、今度こそ大空へ羽ばたいた。
覚束無くて不安になるが、それでも群れに追いつくことができたらしい。四羽の姿がそのまま青空へ消えても、そこから視線を外さない。
何者にも縛られることなく、自由に蒼穹を舞う鳥たち。そんな彼らに憧れを抱いた日もあった。
だが、今なら飛んでいけるかもしれない。あの鳥のように、勇気を振り絞って一歩を踏み出して翼を広げれば、その先には壮大な世界が待っている。
自信という名の翼を広げ、いつかまた、あの青い空へもう一度飛び立とう。
そうして少女は今日も、蒼穹を仰ぐ――。