「はぁ……、はぁ……。何とか、なりましたね……」
「あぁ……」
近くの岩場に凭れ掛かりながら、ヴァイスとグレンは呼吸を整えていた。二人とも肩を上下させており、防具も埃塗れになっていた。表情にも、かなり疲労の色が現れている。
「でも、あの二人も無事に逃れてくれたみたいで何よりです」
グレンの言葉にヴァイスは「全くだ」と同意する。
ヴァイスとグレンは、大きなダメージを負ったソラと、その彼女を無事に退避する手助けをしたクレアの二人を別のエリアに逃すべく、今までジンオウガを惹き付けていた。グレンの言う通り、幸い二人は無事に逃れられたらしく、残ったヴァイスたちも今はエリア6へとやって来ていた。
今までの激闘がまるで夢だとも思えてしまうほど、エリア6は静寂していた。月の明かりさえ、今は雲に阻まれ差し込んでこない。唯一特殊なのは、先程投擲したペイントボールの臭気が微かに漂っていることくらいだ。それらが、言いようもない不気味さを辺りに醸し出している。
そんな中グレンがやや躊躇いがちに口を開いた。
「突然どうしたんでしょうね、ソラは……」
グレンの問いかけに、ヴァイスもしばらくは答えようとはしなかった。
それはヴァイスには、グレンの口ぶりから察するに、彼もまたある程度は分かっているようにも思えたのだ。どうしてソラが、突然動きを止めてしまったのかということを。
グレンは、ヴァイスの回答を催促するようなことはしなかった。だがやがて、木々の合間から再び月がその姿を覗かせた時、ヴァイスはようやく口を開いた。
「……それは、俺が言うべきことではないだろうな。おそらく、彼女自身から聞き出すべきだ」
言葉を選ぶようなヴァイスの返答にグレンも「そうですか……」とだけ答えた。
グレンも改めて理解した。やはり、これはヴァイスからではなく、本人の口から切り出してくれるのを待つしかない。だからこそ、ヴァイスは闇雲な憶測を口に出すのは避けたのだろうと。
ヴァイスが身体を起こすと、グレンもそれに倣う。そして、今一度周囲を見渡してみた。
「二人は、拠点に戻ったんでしょうか」
目視していた限りでは、クレアとソラの二人もエリア6に向かっていったはずだった。この場に二人の姿が無いとなれば、一旦拠点へと戻ったことは容易に想像が付く。
「おそらくな。ここに留まっていてもジンオウガがやって来る可能性も否めない」
ヴァイスも周囲を警戒するように一瞥し、それから拠点へ向かう道を進み始めた。
グレンもヴァイスの後を追って拠点へ向かって歩き出す。その足取りは、仕舞いにはグレン自身でも驚くほど早歩きになって、拠点に続く道を急いだ。
拠点へ帰ってきた時、再び辺りが薄暗くなったように感じた。空を仰ぐと、そこにあった金色の満月が暗鬱な雲に覆われてしまっていた。今夜は満月だけあって、余計に辺りが暗闇に包まれたように感じてしまう。それがグレンを更に落ち着かなくさせていた。
急かす気持ちを何とか抑え、二人はようやく拠点へ辿りついた。そこに置かれている篝火が遠目に見えてくると、その隣に自分たちの帰りを待つクレアの姿もまた見られた。
彼女にもこちらの姿が確認できたのだろう。こちらに走り寄ってきた。
「良かった。二人とも、大丈夫そうで何よりです」
肩を上下させつつも、クレアは安堵した表情を浮かべる。だがその表情も、今は曇り気に見える。
「俺たちは大丈夫だよ。今はそれよりも――」
「はい、分かってます」
クレアも頷き、ゆっくりとした歩調で三人は歩き出す。その途中、クレアはソラの容体について伝える。
「大きなダメージを負ったみたいなんですが、意識はしっかりしています。今は拠点のベッドに横になっているので、しばらくすれば回復すると思いますよ」
「それならよかった……」
意識があるのならもう大丈夫だろう。グレンも安堵し、胸をなで下ろす。
しかし、安堵したのはそれこそ一瞬だ。この目でソラの無事を確かめない限りはやはり安心などできない。ヴァイスとクレアをその場に置き去りにして、グレンはソラの元へと向かって行った。
「グレンさん……」
「余程心配だったんだろうな。ソラのことが……」
二人も、徐々に遠くなっていくグレンの背中を追うように地面を蹴った。
二人が辿り着いた時には、ソラは上半身だけをベッドから起こしている状態だった。クレアの言う通り大きな痛手は喰らったようだが、命に別状は無いようだ。
「ヴァイスさん、グレンさん……」
ソラの方も申し訳なさそうに二人から視線を逸らす。そうすると、これから何を切り出せばいいのか、それに悩みグレンとクレアはソラに声を掛けあぐねていた。
そんな二人を横目に、ヴァイスが口を開いた。
「身体の方は大丈夫か?」
「は、はい。少し休んでいたので、だいぶ楽になりました」
「そうか」
それだけ言って、ヴァイスはちらりと背後を――クレアとグレンのいる方を見て、そして頷いた。二人には、そのヴァイスの様子が「頼むぞ」と語り掛けてくるようにも思えた。
そして、ふと思い出す。
元々ソラとパーティーを組むことになったのは、彼女の自信を取り戻すためという面目だった。
当初は、ヴァイスが彼女の悩みを聞き入れ、そして解決してやろうと思っているのだと考えていた。それこそ、自分たちと同じように。
だが、それは違った。それはヴァイス本人も「ソラはクレアやグレンを頼るだろう」と言っていた通りだ。ヴァイスは最初から、ソラの事を二人に任せようとしていた。
クレアとグレンも、最初からそのつもりだった。ソラを助けてやりたい。似たような思いを、経験をしてきたからこそ、その二人の想いは断固たるものだ。
例え、互いが彼女に抱く個々の想いは違えど、根底にあるそれは同じなのだ。それが、二人を突き動かし、そして今に至る。
グレンは決心し、一歩を踏み出した。途端にヴァイスとクレアの視線が痛いほど突き刺さる。だが、そんなことはグレンには関係無い。意識は目の前にある、まるでかつての自分を連想させる少女だけに向けられていた。
「――ソラ」
何を言うべきか。何を言葉にすれば、彼女に伝えられるだろうか。身体が先行し、頭の中で言葉が見つけられていない。だがそれでも、グレンは無意識の内に何かを伝えようとした。
だがグレンを口を開きかけた直後、先に言葉を発したのはソラだった。
「ごめんなさい……」
ただ、それだけ。今にも消えてしまいそうな程までに弱々しい口調でソラは謝罪の言葉を述べ、頭を下げた。すると、彼女の肩が小刻みに震え出した。
その光景にグレンは面食らっていまい、思考も、身体すらも凍り付いてしまう。
「あっ……」
だがその瞬間。クレアの頭の中には“あの時”の光景が蘇った。
それは、初めてヴァイスと狩猟に出た時のことだ。あの時も、この渓流やって来て、そしてクレアは何度も失敗してしまった。だがヴァイスは、そんなクレアを責めることなく、逆に慰めてやった。その時のヴァイスの言葉は、今でも鮮明に覚えている。そして、その言葉にどれだけ勇気づけられ、励まされたかということも。
「――ソラさん」
クレアもまた一歩踏み出し、彼女の名を呼ぶ。できる限り穏やかに、そしてその言葉に自分の想いを乗せるように。
「ソラさんは本当に頑張ってくれてる。ジンオウガを相手に一人で私たちの援護をして……」
まだソラは顔を上げてくれない。だが、クレアは続ける。ソラの前にしゃがみ込み、そして、彼女の肩に自分の手を乗せた。
大丈夫、気にしなくていいよ。
それを、伝えるために。
「失敗は誰だってするものだよ。私だって、最初は失敗だらけだった。辛い体験も何度もあった。でも、私は……、私には師匠がいてくれた。師匠が私を励ましたり、慰めたりしてくれた。その時、本当に嬉しかったんだ」
こうして話しているとよく分かる。ソラは泣いている。自分の失敗を悔やみ、そして仲間に迷惑を掛けたことが申し訳なくて、その感情に押しつぶされて泣いている。
それは本当に、かつての自分の姿そのものだった。目を背けたるほどの、だが放っておけないこの有様を目の当たりにして、クレアは心が締め付けられるような思いを感じた。
だが、一番辛いのは当のソラだということは、クレアは痛いほど分かっている。
だから、ソラを助けたい。力になりたい。その強い想いをクレアは改めて言葉に乗せて言う。
「ソラさんは一人じゃない。私たちが一緒だから。だから、私たちを思いっきり頼って。迷惑だなんて、私たちは全然思ってない。むしろ、ソラさんには感謝してるんだから。それに、ソラさんを心の底から信頼してる。だから、ソラさん。顔を上げて、ね?」
「クレアさん……」
そうして、ようやくソラが顔を上げる。目が若干赤みを帯びているのを見ると、やはり泣いていたのだろう。そんなソラに、クレアが優しく微笑みかけた。
しかしそれでも、ソラの表情が浮かぶことは無かった。
「それでも、わたしは……」
内心、ソラも嬉しいのだ。自分を頼りにしてくれていることをクレア自身から伝えてくれて。
しかし、ソラは未だに自信が持てずにいた。ジンオウガの強大さの前に打ち拉がれ、自分だけでなく同行する仲間をも危険に瀕しさせてしまった。このまま自分が再びジンオウガと対峙し、果たして仲間の期待に応えられるだろうか。足手まといになるだけでなく、仲間を再び危険に晒してしまうのではないかという不安がソラには未だに残っていた。
「わたしは、もう――」
期待に応えることはできない。そう言おうとした。
だが、それをさせなかったのがグレンの放った言葉だった。
「――ソラ!」
グレンは先程まで何を言うべきかと悩み、そして躊躇ってしまった後、クレアの言葉の前に一言も言葉を発そうとは思わなかった。何故なら、クレアの言ったことは、自分が言いたかったことを代弁したようなものだったからだ。
だが、それはすぐに変わった。再び頭を下げようとしたソラに、そうはさせまいと声を張り上げ、そしてこちらにその顔を向けさせた。
その時に見たソラの表情は、グレンの脳裏を焦がす程までに悲哀なもので、そして見ているこちら側も心が痛んだ。
もう、そんな
不器用な自分に今できることは、こうして自らの想いを言葉に――感情の赴くままに乗せて伝えることだけだった。
「ソラは何も悪くない。むしろ誤りたいのは俺の方だ。無理にソラを説得して、ジンオウガを討伐しようと言ったのは他でもない俺なんだ。だけど、ソラは決心してくれた」
「そ、それは……」
そこまで言われて言葉が詰まる。
確かに、本当はジンオウガの討伐に向かうことにソラは乗り気ではなかった。だが、グレンの説得の前にソラは折れる形となり、そしてこの地を訪れて今回が二度目なのだ。
そう、次は。三度目は無い。今度こそジンオウガの討伐に失敗すれば、それこそユクモ村だけでなく、近隣の集落にも甚大な被害を及ばすことになる。それだけは、絶対に阻止しなければならない。
しかし、今の自分には自信が無い。ジンオウガの討伐を成功させるという自信が。
「正直、俺もソラの自信を取り戻すことは難しいって分かってる。だけど、それでも俺はソラを信じてる」
「……」
グレンの言葉にソラは押し黙る。何かを言いたそうで、だが意志に反して言葉を発することができない。そのもどかしさはグレンにも伝わってきた。
「でも、ソラがそれでも自信を取り戻せないって言うなら――」
グレンも、ここで再び、この先の言葉を言うことを躊躇った。
だが、それでは駄目だ。ソラに約束した張本人が躊躇っていては、ソラを導くことなど不可能だ。だからこそ、言う。今まで秘めていた、真率で自分勝手な、だが揺らぐことのなかった自分の本心をソラに投げかける。
「俺は、ソラの翼になってやる!! 一人で駄目なら、俺が――、いや俺だけじゃない。クレアもヴァイスさんだっている。悩んでるなら、俺たちに打ち明けてほしい。迷ってたら、いつだって頼ってほしい。俺は……、俺たちはソラを導くための翼になりたいんだ!!」
その言葉にはグレンだけではない、クレアの伝えきれなかった想いも、ヴァイスの秘めた想いも込められていた。
ソラはグレンの方を見遣り、そして、その瞳に、表情に視線を奪われた。
澄んだ紫水晶のような瞳には、彼の断固たる意志が見て取れた。
真剣な面持ちの表情は、自分勝手で、でもこんな哀れな自分を助けてくれようと必死になっている想いが見て取れた。
そう。彼だけではない。みんな、いい意味で自分勝手すぎるのだ。
助けを求めてやってきたのは自分なのに、その自分は自発的にどうしようという意志はほとんど持ち合わせていなかった。迷惑だって散々かけてきた。
自分は依然閉塞的なままで、怯えの殻から抜け出そうとしなかった。だが、目の前にいる三人は、そんな自分を救おうと悩み、行動してくれた。こんな自分勝手な人間を助けてくれる人が目の前にはいる。
その彼らの熱意と想いが、ソラの中にもようやく伝わったのだろう。分厚い氷壁は熱で徐々に溶かされ、彼女の本心がようやく露わになってきた。
「うぅっ……」
ソラは俯き、肩が再び小刻みに震え出す。そして、微かな嗚咽も耳に入ってきた。それから間を空けず、ソラが再度顔を持ち上げた。
瞳には涙を浮かべ、それは今にも頬を伝って流れ落ちようとしていた。だがそんな中でも、ソラは何とか声を絞り出す。
「クレア、さん。グレン、さん。ヴァイス、さん……」
一言一言、覚束無い口調ながらも三人の名を呼ぶ。すると、三人は頷き返しソラの視線を受け止めた。
「わたしは、わたしは……っ」
懸命に涙を堪えようとしているソラだが、その意志に反してついに一筋の涙が頬を伝って流れ落ちた。
そうなると、もう止められない。未だに懸命に堪えようとしているソラの前に、クレアとグレンが歩み出た。そして、どちらからでもなく、彼女に手を差し伸べた。
「ソラさん、大丈夫。私たちがついているから」
「一緒に行こう。だから――」
そう言って、二人は笑みを浮かべた。
今のソラに、その笑みはとても羨ましく、そして安心させられるものだった。
自分もいつか、この人たちのように強い人になりたい。誰かに助けの手を差し伸べることができるような、そんな強い意志と自信を持った人になりたい。心の底で、ソラは無意識にそう思ってしまっていた。
そして、今差し伸べられた救いの手に。ソラは自分の手を重ね合わせた。すると、二人はその手をしっかりと握り返し、そしてソラを地面に立ち上がりさせた。
自分を失意の底から引き上げようとしてくれた二人のありがたみを改めて痛感し、ソラは涙を流した。だが、それは先ほどの苦悩の色に染まったものではない。三人に対する感謝と、そしてこれからもう一度頑張って行こうという意志が秘められたものだった。
そして、今できる限りの笑顔を作って見せた。
「皆さん、ありがとうございます……!」
夜空に輝く金色の月が再び顔を覗かせ、ソラの横顔を眩しいくらいに映し出した。
依然として溢れる涙は止まらないまま、だがそんなことも吹っ切れるくらい清々しい気持ちで、ソラは感謝の意を込め三人に頭を下げた。
そのソラの表情を見た三人もつられて笑みを浮かべる。
クレアはソラの肩を優しく叩き、そして顔を上げさせてから言った。
「泣くのは狩猟が無事に終わってからだよ。まだ、私たちにはやるべきことが残ってる」
優しさの裏に真剣味を帯びたクレアの言葉に、ソラの涙もようやく治まった。
そう、ここで感謝しているだけでは駄目なのだ。クレアの言う通り、今は成すべきことを――ジンオウガを討伐しなければならない。
「俺たちの力だけじゃジンオウガの討伐は無理だ。だから、ソラ。協力してくれないか?」
「……はい! もちろんです!」
ソラは涙を拭い、そして即答した。
三人に感謝の意を示そうとするなら、ここで活躍しなければならない。いや、感謝の意を表すチャンスはここしかないのだ。
ジンオウガは手強い。そして、置かれている状況も厳しいものだ。だが、この大きな壁を突破してこそ、何かが掴めるのかもしれない。ここでやらなくてはならない意味が存在しているのだ。
「決まりだな」
今まで傍観を決め込んでいたヴァイスが静かに言った。その口調は既に緊張感を帯びたものだったが、満足げな様子も何処と無く感じられた。
今一度三人を見渡した後、ヴァイスが口を開いた。
「ここから先は一気に畳みかける。そして、ジンオウガを追い込んだら捕獲を試みようと思う」
捕獲。その言葉に反応したクレアとグレンがソラに視線を移した。二人に続き、ヴァイスもその視線をソラに向けた。その意味するところはもちろん、ジンオウガの捕獲をソラの捕獲用麻酔弾の射撃でもって行おうということだ。
「ソラ、頼めるか?」
「はい、任せてください!」
ソラは力強く首肯した。その反応を見たヴァイスも頷き返す。
「分かった、頼むぞ。援護の方も期待している」
この様子ならもう大丈夫だろう。そう確信したヴァイスは余分な事を口にすることは無く、そして再び意識を狩猟の方に傾けて行った。
一旦大きく息を吐き出し、そして三人を一瞥してから言った。
「さあ、決着を付けるぞ」
三人がそれに返答するように首肯したのを見て、ヴァイスは身を翻した。そして、ヴァイスを先頭に拠点から続く獣道を進み出した。
満月は依然と静まり返った渓流を照らし出し、四人はその静寂の中を歩んで行った。