「──へぇ、そんなことが……」
紅茶の淹れられたカップを口元に運びながら、ヴァイスは「まぁな」といつもと変わらぬ口調で返した。
「……美味いな、これ」
カップから口を離したヴァイスが思わずといった様子で漏らす。
それを聞き逃さなかったレーナの口角が上機嫌な様子で持ち上がる。
「そう言ってもらえると嬉しいです。拘りに拘り抜いた茶葉を使っていますので」
レーナも伊達に紅葉荘に勤めていない。
些細なことでも宿泊客を満足させる。この紅茶からは、そういったレーナなりのプロの意識をひしひしと感じる。
その琴線に触れた影響なのか。はたまた、ただ単に紅茶を味わっているだけなのか。ヴァイスが短く、「ほぅ……」と息を吐く。
そんなヴァイスの様子を、レーナがじっと見つめていた。
「どうした?」
「あ、いえ……。ただ、珍しいなと思いまして」
「珍しい?」
怪訝そうな表情を浮かべるヴァイスに対して、レーナが小さく頷く。
「そうして、どこか明後日の方を向くような眼をして、物思いに耽っているヴァイスさんの様子ですよ。今日みたいなヴァイスさんの表情は、初めて見ましたから」
「そうか……。いや、そうかもしれないな……」
レーナに指摘されると、ヴァイスもやれやれといった様子を見せ、そして腰かけている椅子の背もたれに身を投げ出した。
「そういえば、昔も似たようなことを言われた気がするな。まったく、何年経っても結局変わってないんだな、俺は」
どこか自虐めいた表情をして、肩を竦める。
だが、それも一瞬のことで、次の瞬間にはいつもの涼しい表情をしているヴァイスの姿に戻っていた。
「悪いな。見苦しい物を見せてしまって」
「見苦しいだなんてそんな。物思いの一つや二つ、誰だってしますよ。もちろんあたしだって……」
ふと、レーナの顔に影が差す。
見ていると、どこか胸が締め付けられるような、そんな儚げで切ない表情だった。
だが、レーナもすぐさまはっとなって、ぶんぶんと勢いよく首を横に振った。
「す、すいません! なんかあたしも、らしくないところ見せちゃって……」
つい先ほどレーナから指摘を受けたヴァイスであったが、間髪を置かずに立場が逆転していまっていた。それを滑稽だと感じてしまったヴァイスが小さく噴き出す。
「お互いにお相子ってことで、この話は終いにしよう。このままだと、埒が明かなくなりそうだ」
自分で言っておいて余計重苦しい空気を作り出していまったレーナにとって、ヴァイスの提案は渡りに船であった。
それこそレーナらしくない──照れ隠しの意味も含まれたぎこちない笑みを浮かべると、「紅茶淹れ直してきますね」と言い残し、そそくさとカウンターの裏手へと姿を消してしまう。
一人その場に取り残される形になったヴァイスは、手持ち無沙汰な現状のむず痒しさを誤魔化すように、やや乱雑に前髪をかき上げた。
「少しは注意しないとな……」
何か悩みごとがあると、人眼も憚らずあれこれ思い詰めてしまうのが悪い癖だ。
それこそ、昔に比べれば自覚しているつもりであったが、人という生き物はやはりそう簡単には変われないものらしい。
自分に都合の良いように自分に言い聞かせながらも、今後は自重するべきだと改めて戒める。
そうしていると、紅茶を淹れ直したのであろうレーナが足早に戻ってきた。
「どうぞ、ヴァイスさん」
「ありがとう」
淹れたての紅茶から感じる味が、どこか甘酸っぱく感じるのは気のせいだ。
まるで素直になれない子どもみたいだと自分で思う。だがそうやって開き直ってしまえば、幾分か心も晴れやかになるものだった。
カップをソーサーに戻したことで空虚になった右手を、ヴァイスはじっと見つめた。
「やっぱり、あいつと俺は似た者同士なんだろうな」
「似た者同士って、それは一体……」
口では疑問を口にするレーナであったが、彼女もある程度は察しが付いていた。
だが、それでもヴァイスの言葉の真意を理解したいと思ったレーナは、テーブルを挟んで向かいの椅子に腰を落ち着けようとする。
そんなレーナの心の内を悟ったのか。彼女が椅子に腰かけるのを待って、それからヴァイスは言葉を続けた。
「それこそ、俺も昔は一人で悩み続けて。挙句の果てには常人では考えられないような行動に走って……。まるで、理性を失った獣のそれだったな」
失意、諦観、後悔。
言葉こそ、そうして自分に刃を向け虐げるようなものであったが、それを口にするヴァイスの様子はどこか吹っ切れたようだった。
「自分でも、このままだと駄目だということは分かってる。だが、分かっていても止めることができない。一度止まってしまうと、自責の念に駆られて今度こそ自分を許せなくなる。あいつは、自分で自分を追い込めながらも、相当焦っているんだ」
「ヴァイスさん……」
彼はまるで、過去に自分が経験した痛みを打ち明けるように。否、経験したからこそ分かる、心の奥底に封じ込めた悲痛の叫びを代弁している。
その痛みはレーナの心を貫き、同様に彼女のそれをも蝕んでいく。
「だが、それでも受け入れないと駄目なんだ」
「えっ……?」
迷いない口調で言ってみせたヴァイスの言葉が、その痛みを和らげる。
「どれだけ道を間違えたと思っても、どれだけ後悔したとしても……。それでも、そんな弱い自分の全てを受け入れることができて、ようやく前に進むことが出来るんだと思う」
「道を間違えて、後悔したとしても、それでも受け入れる……」
その言葉を、レーナは自分に言い聞かせるように反芻する。
叶えたくて、叶えたくて仕方がなかった願いを、どうしても諦めざるをえなかった一人の弱い少女。
心の底に閉じ込めたはずの少女が、今更になって鎌首をもたげようとしてくる。
だが、それでも“ソレ”を抑えこむことが出来たのは、ヴァイスの言葉に救われた自分がいたことに他ならなかった。
「ヴァイスさんは──それでも受け入れることは出来ましたか?」
口を挟むつもりはなかった。だが、そんな意思は他所に、本能が求めるように言葉を紡いでいた。
「……どうだろうな」
目を伏せながら答えたヴァイスの返答は、レーナの求めていたそれとは異なっていた。
しかし、それでいて大した感想も浮かべられなかったレーナに対して、ヴァイスは続ける。
「だが、少なくとも俺は、あれから変わることができたと思ってる。まあ、それもただの自己満足かもしれないけどな」
「いえ。こうして客観的な視点に立つことができているんです。あたしは、それがヴァイスさんの自己満足から得られたものではないと思います。ちゃんと自分と向き合って、そして前に進むことができたんですよ」
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
面と向かって言われると、どうにもこそばゆいものだったが、ヴァイスは素直に礼を言う。
「だからこそ、俺は余計にあいつが放っておけない。間違いなく余計なお節介だと思われているだろうけどな」
面倒くさい性格をしているな、と自分に重ね合わせて肩を竦める。
しかし、内心そう思うヴァイスの声色には、憐憫の情が見え隠れしていたことにレーナは気付いていた。
「……グレンさんは、立ち直ることができると思いますか?」
「それは、あいつ次第さ」
核心を突いてくるレーナの問いかけに、ヴァイスは肯定も否定もしない。それは、彼女の予想していたものと一言一句違いのないものであった。
「もちろん、俺はグレンが立ち直るために最善を尽くすつもりだ。それでも、最後は自分の力で立ち直らなければ、またいずれ打ちのめされてしまう」
「ええ、それは分かっています。でも……」
レーナとて、ヴァイスが口にした言葉の意味を理解できないわけではない。
だが、レーナにしてみても、グレンとはもはや赤の他人という言葉で済ませられる程度の関係ではない。
数日の間の宿泊客だったといえど、彼女にしてみれば尊敬するハンターの一人なのだ。今更になってグレンが抱える悩みから目を逸らし、素知らぬふりをして振るまうことなど、レーナには到底できないことだった。
そんなレーナの心情を察して、ヴァイスが「心配するな」と穏やかな口調で言った。
「俺はグレンのことを信じてる。どれだけ遠回りしたとしても、もう一度立ち直ることができると。だから、レーナもあいつのことを信じてやってくれ」
「それは、もちろんです!」
そんなこと、ヴァイスに言われるまでもない。レーナは深く首肯する。
「ヴァイスさん。あたしが言うのは変かもしれませんが……」
様子を改め、姿勢を正したレーナはそう前置きして、そして頭を下げた。
「どうかグレンさんのこと、よろしくお願いいたします」
「ああ。任せてくれ」
短く、そして力強く返すと、ヴァイスは椅子から立ち上がる。
自然とレーナの視線は、そんなヴァイスを見上げる形になり、その表情──特にその双眸に目を奪われた。
魅入られるような彼の瞳は、彼に託した想いをも孕ませた、迷いや淀みの無い澄んだ蒼をしている──そんな風に見えた。
「紅茶、ご馳走さま。また機会があったら、今度は俺がご馳走するよ」
「はい。楽しみにしていますね」
屈託のない、柔和な笑みを浮かべたレーナに見送られ、ヴァイスは紅葉荘を後にする。
そして、自宅に戻ってきたヴァイスは、手荷物を整えるとその足で集会浴場へと向かった。
「──ひょっひょっ。チミもなかなか頑張っているようじゃないか」
集会浴場にやって来たヴァイスを迎えたのは、普段の調子と変わりないギルドマネージャーの陽気な笑い声だった。
「色々と抱えてるものも多くて、こちらも大変ですよ」
苦笑しながらそう口にするヴァイスに対して、ギルドマネージャーは大仰に頷く。
「なぁに、それはお互い様さ」
ギルドナイトであるヴァイスも大概だが、ユクモ村のギルドを総括する存在にあるギルドマネージャーも多忙な日々を送っているはずだ。
と言っても、当の張本人は温泉に入り浸り、挙句の果てに朝から浴びるように酒を飲んでいたりするのだ。一般の湯治客やハンターたちがギルドマネージャーの言葉の意味をそのまま信じるかと問われると、素直に首肯するのは難しい。
もっとも、ギルドと繋がりの深い、ギルドナイトという立場にあるヴァイスには、ギルドマネージャーの言葉の重さを重々と承知していた。
「こちらが、先日お話させていただいた資料になります」
「おう。お疲れさん」
ヴァイスから受け取った書類の束に軽く目を通すと、ギルドマネージャーはニッと口角を吊り上げた。
「さすがチミだ。仕事が早い」
「ありがとうございます」
ギルドマネージャーはそうして褒めたてるが、ヴァイスはそれに一喜一憂することなく、淡々とした様子で返す。
その様子を間近で目の当たりにしたギルドマネージャーが、どこか呆れたように苦笑いを浮かべた。
「チミは相変わらずだな。少しは感情を表に出しても、誰も文句は言わないぜ?」
「と言われましてもね」
今度はヴァイスが苦笑いする番であった。
子どもの頃から、あまり感情を露わにするような性格ではなかった。そうすることが苦手だったとか、恥ずかしかったわけではなかった気がする。ただ単に、そうする必要がなかったからしなかっただけ。
これといって特に深い意味は無いため、そこを追究されると弱ったものである。
「それを言われるのは、爺さんで何人目になりますかね……」
自分に対して似たようなことを口にしてきた者の顔を思い浮かべてみる。その中でも特に鮮烈に思い出せるのは、お調子者で飄々とした──それこそギルドマネージャーのような者たちばかりであった。
「まぁ、チミも若いわりには苦労しているようだしな。ただの老いぼれた爺であるアタシが言うと説得力が無いかもしれないが、チミなら大丈夫さ。これからも上手くやっていける」
「まさか、全然そんなことはないですよ。その言葉に救われます」
まるで、父が息子を見守るかのような慈愛に満ちた瞳が、じっとヴァイスを見据える。
「『女神の騎士』、チミはアイツに認められた唯一の存在なんだ。自信を持て」
「『女神の騎士』ですか。その二つ名は、本当に久々に聞いた気がしますね……」
──『女神の騎士』。
その二つ名を、文字通り噛み締めるようにして、ヴァイスは頭の中で反芻する。
かつて憧れ、そして今でも尊敬する者。それこそが『女神の騎士』その人であった。
その二つ名は驚くほど自然に身体に馴染み、いつの間にか忘れていた胸の高鳴りと、そして謂れもない“後悔”の念がごちゃ混ぜになって押し寄せてくる。
──嗚呼、やはり自分はまだ縛られているのだ。
レーナに対して、「あれから変わることができたと思ってる」と言ったのはどこの誰であったか。
所詮はただの強がりで、本当に焦っているのは自分ではないか。
もしかしたら、目の前にいる明哲の翁は、ヴァイスの胸の内を全て見透かしているのかもしれない。
「大丈夫。チミなら上手くやれる」
ほんの一瞬だけ。それを口にしたギルドマネージャーの姿が、そんな“あの人”に重なって見えたのは気のせいか。
いや、それはきっと気のせいだろう。
いつまでも後ろ向きではいられない。
何度も自分に言い聞かせ、自分の中に住まう、もう一人の煩わしい自分を頭の中から振りほどく。
「ええ。やってみせます」
今はそれで十分だ。
そう言いたげに、だが決して口にはせずに、ギルドマネージャーは満足げに頷いた。
「期待してるぜ」
背中を乱暴に叩く荒療治でヴァイスを前に向かせる。
文字通り痛いほどの期待をその身に受けるが、それでいて心地良いものだった。
そんなギルドマネージャーに背を押され集会浴場から外に出る。風が吹き抜け、それがヴァイスの頬を撫で上げる。
雲一つないの蒼昊の元、ユクモ村を吹き抜ける冬季の風は、どこか暖かく感じた。
太陽は西に沈み、空が赤みを帯び始める。
この冬の時期でも、山間にあるユクモ村では日の入りが遅いように感じる。
だが、村の喧騒は、昼間のそれから夜のそれへと徐々に移り変わっていく。
夜になると、仕事を終えた村人たちや暇を持て余している湯治客たちの姿がより一層際立つようになる。胃袋を刺激する食事や酒の匂いが村中に溢れ、誰もが時の流れを忘れるように楽しむ。
周りを見渡してみれば、既に宴会の準備に取り掛かっている者たちの姿もちらほらと見える。
道行く間にすれ違う人々は皆楽しげで、それに釣られるようにして自分の心までもふわふわと浮かれてしまいそうになる。
ユクモ村出身でない者が初めてこの光景を目の当たりにすると、皆誰しもが驚くのである。そして、それはクレアとて例外ではなかった。
ユクモ村に来て数年にもなるクレアにしても、昼間とは違う顔を見せるユクモ村の光景が相変わらず好きであった。
そうして、どこか浮き足立ってしまいそうな自分を自制しながら、クレアは目的の場所へ進む歩を止めなかった。
商業区から程外れた居住区の一画。ここまで来ても村の喧騒は耳に届いてくるが、それでもどこか物寂しさを覚える。
この空間だけが切り抜かれたような奇妙な感覚を覚えるのは、きっといらぬ緊張を覚えているからだろう。
そうクレアは解釈しながら、目的の住宅までやって来た。
「たしかここで合ってる、はずだけど……」
不安に駆られる思考を振り払い、控えめに扉をノックする。
しかし、反応は無い。
もう一度。今度は家の中にいるであろう人物にも聞こえるよう、気持ち強めにノックしてみた。
これでも反応が無かったらどうしよう。
またもや憂いを覚えるクレアの目の前で、その扉からカチャリという音がした。そして、開け放たれた扉の向こうには、気だるげな様子をしたグレンの姿があった。
「クレア……」
クレアがここに来るとは予想していなかったのだろう。呆けるようなグレンの装いは、狩猟に出ていた時の物ではないとはいえ、その様子からまるで別人のようにクレアは思えてしまい、身体が硬直する。
「何の用なんだ」
むすっとした様子でグレンが口を開くと、途端にクレアも我に返る。
懐から一枚の紙切れを取り出すと、それをグレンに差し出した。
「次回の依頼の内容です。相手はボルボロスになります」
「ボルボロス……」
クレアから渡された、詳細な依頼内容が記された用紙を見ながら、グレンはそのモンスターの名前を口にする。
まさか、昨日の今日で狩猟へ連れていかれるとはグレンも想像していなかった。
未だに凍土の拠点でヴァイスに言われたことが脳裏から離れず、あれからやりようのない気持ちを燻ぶらせては悶々とした日々を過ごしていたのだ。
こうして思い出すだけでも気が引けてくる。
「……ヴァイスさんは?」
そうして、少し考える素振りを見せた後、尋ねるべきか否か迷っていたその疑問をグレンは口にする。
対して、クレアはおずおずとした様子で首を縦に振った。
「もちろん師匠も同行します。ただ、グレンさんには私から伝えておこうかと思いまして。それで、私が師匠の代わりにお邪魔させてもらいました」
クレアの返答に、グレンも「なるほどね」と素直に納得した。
先日、ちょっとしたいざこざがあった二人だ。その二人を対面させることを躊躇われたのであろうクレアが、こうして自分の元を訪ねてきているのだろう。
グレン自身も、今ヴァイスと向き合うのは憚れるところがある。だが、クレアには申し訳ないとは思いつつ、どうにも余計なお節介を掛けられているように感じてしまい、思わず溜め息を吐いてしまった。
「……分かった。依頼の内容にも異論はない。出発の日までには準備を整えておくから、またその時によろしく頼む」
「はい。分かりました」
それだけ言い残して、グレンは家の中に閉じこもってしまう。
その様子を見届けたクレアも、自宅に向かって踵を返す。
自宅までの道中、クレアの頭の中は次の依頼のことで頭が一杯であった。
自分自身としては、今までの成果を発揮できれば、相手がボルボロスであっても立ち向かえるだろうと思っている。
しかし、グレンのあの様子から、果たして何も問題無く依頼を達成することができるかどうか。
それがしこりのように残り、クレアの心をざわつかせていたのであった。