グレンの演奏に惚れ込んでからしばらく経つと、外もだいぶ暗くなってきた。上空を見上げてみれば、いつの間にか星々たちが顔を出し始めていた。
「はぁ、素敵な演奏でした……」
クレアがうっとりとした様子で言う。そうすると、グレンも笑顔で「それは何よりだよ」とご機嫌な調子で返す。
しばらくはこの話で持ち切りになるかもしれない。ただ、そうなっては本来の目的が果たせなくなってしまう。それを思ったヴァイスが、名残惜しいながらもグレンにとある提案する。
「グレン。もしよければ、これから温泉に行ってみないか?」
「温泉ですか? それは構わないですが、どうしてまた唐突に……」
「依頼の確認も兼ねて、集会浴場に行こうと思ってな。それに、グレンはまだユクモ村の温泉に浸かったことはないんだろう?」
実は先日、ヴァイスは紅葉荘で、グレン本人がここの温泉に行ってみたいと口にしていたのを聞いていた。温泉自体はギルドと併設されているので、この機会に丁度良いと思ったわけだ。
実際にグレンも、ユクモ温泉には行きたいとは考えていた。ただ、最近この村にやって来たグレンにしてみれば、その機会を得るのが難しい部分もあった。
しかし、こうして借家に移り住んだ今ならばその機会もある。加えて、しばらくすればヴァイスたちと狩猟に赴くことになる。未だに抜き切れない長旅の疲労を癒すには、ユクモ温泉はピッタリだ。
「そうですね。そういうことなら、俺にも断る理由はありません」
グレンの快諾を受けると、今度はクレアに同じ質問をしてみる。彼女もそれにはお供すると即答し、三人連れ立って集会浴場に向かう形となった。
集会浴場の暖簾を潜ってみると、そこには既に多くの人の姿があった。その大部分は村人や湯治客のようだが、中には武具を纏ったハンターの姿も見受けられる。集会浴場はそんな人々の熱気で溢れ返っていた。
「日が落ちると、ここまで賑わうものなんですね。凄い人だかりだ……」
半ば呆気に取られていたグレンが素直な感想を口にする。
「でも、普段から皆さんはこんな感じですよ。毎日のようにお祭り騒ぎなんですから」
一方、移り住んでから長いクレアも言う。そうすると、グレンも堪らず驚きを見せる。
「そ、そうなんですか」
「あぁ。俺のいたドンドルマの酒場もこんな感じだったな。真夜中でも関係なく、酒場ではどんちゃん騒ぎさ」
自分が初めて集会浴場を訪れた時のことを思い出しつつ、ヴァイスもドンドルマの酒場の話を持ち出す。規模の大きさで言えばドンドルマの酒場が明らかに勝るのだが、人々の熱気と勢いはユクモ村も引けを取らないものがあるのだ。
さも当然の光景だと揃って口にした二人を前に、当のグレンはやや困惑の色を見せる。
「何というか、羨ましいです。俺の故郷の村は、こんなに盛り上がる機会なんてそうそうなかったですから」
グレンの発言も致し方ないだろう。彼の村にはギルドに当たる施設が存在していないのだ。故に人の交流が盛んになることも少ないわけだから、村を挙げての祭りでもない限りこのような光景を目の当たりにすることはないだろう。
「まぁ、じきに慣れてくるさ。今はユクモ村に滞在しているわけだから、この雰囲気を楽しめばいい」
「そうですよ、グレンさん。師匠の言うとおりです!」
二人に背中を押されつつ、グレンもそれに頷く。
ヴァイスは先に掲示板を見てくるということで、残った二人が先に更衣室に向かう。
着替えを済ませて更衣室から外に出てみると、そこは哄笑の渦で満たされていた。饒舌に会話を交わす者もいれば、挙句の果てに酩酊しているような者まで見受けられる。とにかくそこは、グレンにしてみれば衒われた空間に変わりなかった。
「ほら、グレンさん。ボーっとしてないで、早く湯船に浸かりましょうよ!」
いつの間にか着替えを済ませていたクレアに促され、グレンは湯船に足を入れる。
「あぁ、気持ちいい~……」
身体の表面だけでなく、肺腑までをも包むような心地よいお湯加減に、グレンも呑気な調子でそう漏らす。
グレンの隣にクレアもちょこんと座り、二人は温泉を満喫する。
そうしてしばらくは、居心地悪さを感じない無言の時間が続いた。するとそこに、遅れてやって来たヴァイスが合流する。
「ヴァイスさん、依頼の方は決定したんですか?」
グレンがそう問うと、首だけをこちらに向けてきたヴァイスが「ああ」と頷き返した。
「色々考えてみたが、今回はギギネブラの狩猟に凍土に向かう」
「ギギネブラ、ですか……」
そのモンスターの名を噛み締めるが如く、グレンが難しそうな表情でそれを反芻した。
その毒素は、あらゆるモンスターの中でも群を抜いて強力だ。並みの人間がその毒素を食らえば、僅か数分足らずで命を落とすのだという。
つまり、ここでポイントになるのは、ギギネブラの毒素に対し如何に対処していくかということになる。
そこで鍵を握るのが、狩猟笛を使用するグレンだ。攻めを重視しギギネブラの弱点である火属性の狩猟笛を選択するか、演奏による援護に回ることを踏まえた狩猟笛を選択するか。グレンにはその選択が迫られる。
相変わらず気難しい表情を浮かべているグレンを見て、ヴァイスも「そこまで気難しく考える必要はない」と肩を竦める。
「武器の選択はもちろんグレンに任せる。その上で自分の立ち回りも考えてくれ」
彼の武器の選択をヴァイスが助言するという手も確かに存在する。だが、今回の目的はあくまで“グレンの採点”だ。実戦での能力もそうだが、狩猟を組み立てる能力もハンターには不可欠である。グレンにその選択を課したのは、その能力を見極めるためである。
「師匠。私はどうすればいいですか?」
グレンを挟んで向かいに座るクレアもそう尋ねてくる。
「そうだな。クレアについても、俺から何かを言うつもりはない。自分なりの考えで狩猟に臨んでみてくれ」
クレアに関して言えば、ギギネブラの狩猟経験は無い。そんな中で、クレアもここ二ヵ月の努力の成果を発揮できるかどうか。それが重要になるだろう。
「出発は明後日の早朝だ。それまでに準備を整えておいてくれ」
手短に予定を伝えると、ヴァイスもしばらくは温泉を堪能した。
その後、ヴァイスは先に戻っていると伝え、立ち上がった。未だに気難しい表情で考えを巡らせている二人はその場に残し、ヴァイスは集会浴場を後にした。
凍土の凍てつく空気は、相変わらず身体に凍みる。
時間帯で言えば、現在は正午を少し過ぎたくらいだ。だが、上空には重い曇天の空が広がり、太陽の光が届くことはない。代わりに降り注いでくるのは、ひんやりと冷たい白の結晶である。
純白の雪を踏みしめやってきた凍土の拠点は、前回と変わらず閑散としている。加えて、凍土のこの極寒にも身体を蝕まれる。ここで気を抜いてしまうと、静止した無為の時に永遠と飲まれてしまうのではないか。無意識にそんなことを想像してしまう。
「うぅっ…、相変わらず寒いですね……」
「あぁ。だが、それも仕方ない……」
男性陣二人は、この極寒の中で何とか体温を上げようと試みている。だが、その二人の隣に、この寒さを物ともしない少女がいるのは何とも不思議な光景である。
「やっぱり、この防具は凍土では便利ですね~」
「こういう時には、本当にウルクシリーズは羨ましいよ」
初めて雪を目の当たりにした子供のように振る舞うクレアを横目に見て、グレンが思わず溜め息を漏らす。
しかし、無い物ねだりをしたところで状況が改善するわけではない。ヴァイスとグレンもまた、凍土に持ち込んだ道具の整理を開始した。
今回の標的であるギギネブラは火属性が弱点である。それを踏まえたヴァイスは、ドスバギィの狩猟の際と同じく飛竜刀【椿】を携えてきた。
一方、その際にコマンドダガーを使用していたクレアも防具に変更は見られない。しかし、以前と唯一異なるのは、武器に更なる強化を加えてきたことだ。
紺碧を帯びた鋭い刃。その刀身には、先のドスバギィの狩猟で得られた素材を用いた特殊な加工が施されている。それこそが、睡眠毒の付与だ。睡眠袋に含まれる睡眠毒をコマンドダガーに付着させたことで、相手モンスターさえをも魔の眠りに陥れる。
その他にも、アイシスメタルでコマンドダガーの刀身に磨きをかけ、峰や柄も更なる衝撃に耐えられるようドスバギィの素材をここでも用いている。
攻撃力、切れ味、その他性能を見ても大幅に強化された片手剣。それがこのレムナイフだ。
睡眠属性の付与のため、このレムナイフは他の武器と比較してもかなり特殊な部類に入る。それをクレアがどのように使いこなせるのか。その辺りは大いに見物になるだろう。
「解毒薬は……。よし、大丈夫だな」
ギギネブラの狩猟の際には必須のアイテム、解毒薬も今回は調合分を含め多めに持ち込んだ。
それ以外にも回復薬やホットドリンクという必需品の確認も怠らない。大タル爆弾やシビレ罠も拠点に置かれた手押し車に乗せて、雪が積もらない位置にまで運んでいく。
「グレン。そっちの準備は大丈夫か?」
「ええ。丁度終わったところです」
持ち込んだ狩猟笛を担ぎ直したグレンが答える。
結局、グレンは防具はペッコシリーズのまま。また、選択した狩猟笛はドロスヴォイスと呼ばれるものだった。
ロアルドロスの素材が用いられたドロスヴォイスには水属性が付与されている。しかし、水属性を帯びた一撃ではギギネブラに対して効果を望めない。それと引き換えにしたのは、ドロスヴォイスの演奏効果の一つ『体力回復【小】&解毒』だった。
毒素を用いた攻撃がギギネブラに対し、この演奏は大きな威力を発揮する。例え解毒薬が底を突いたとしても、この演奏があれば解毒に関しては心配することはないのだ。
他にもドロスヴォイスは『スタミナ減少無効【小】』、『防御力強化【小】』、『風圧無効』など、援護的な演奏を奏でられる。これを見れば、グレンがこの狩猟でどう立ち回ろうとしているかが見て取れる。
「なるほどな」
頭からつま先まで、グレンの装いを改めて見回したヴァイスが小さく頷く。
「えぇ。今回の狩猟では、俺は援護に回ろうと思ったので、この狩猟笛を選択しました」
自分の選択に後悔は無い、とグレンは改めて断言する。
「そういうことなら、俺とクレアでギギネブラの体力を削っていく。後方援護と小型モンスターの討伐はグレンに任せるぞ」
「分かりました」
初めてパーティーを組むとは思えない、手短な狩猟方針を確認すると各々は互いの獲物を肩や腰に装着する。
先日伝えた通り、今回の狩猟ではクレアとグレンには好きなように動いてもらう。そうすることで、二人の実力を改めて確認するという狙いだ。
自らの装いを確認したヴァイスが短く息を吐き出す。集中力を高め、そして鈍色の上空を仰ぐ。
「……もしかしたら、荒れるかもしれないな」
囁くようにそれだけを呟くと、クレアとグレンの方へ身を翻す。共に二人の準備が整っていることを確認すると、ポーチから取り出したホットドリンクを飲み干す。
「さて、行こう。狩猟の開始だ」
空になった瓶は拠点に置かれた木箱に納め、ヴァイスが静かに首肯した。
罠や爆弾類は拠点に置いておき、身軽な状態で三人が歩を進め始める。
川沿いに道を進んでいると、降り頻る雪の勢いが徐々に強まっていくように感じた。エリア1に辿り着く頃には、視界の悪化も懸念される程にまで天候は荒れてきていた。
「くっ……。この天候だと、まともにギギネブラを発見することもままならない」
そうしている間にも、天候は更に悪化していく。風も次第に強く吹き荒び、瞼を開けていることさえも辛い。こんな状況でギギネブラと対峙するのはあまりにも危険である。
「師匠! 今はとにかく、エリアを移動しましょう!」
「あ、あぁ……!」
クレアの提案にはヴァイスとグレンも素直に従う。
そのクレアを先頭にして、吹雪の中をとにかく進んでいく。
エリア3に出ても、吹雪の勢いは収まらない。どうやらギギネブラもエリア3には姿を見せていないようだ。それを幸運に思いつつ、三人は尚も足を進める。
そして、何とか洞窟の中――エリア5にまで到達した。
「はぁ……。ここなら、まだ何とかなりますね」
周囲を見渡したクレアが胸を撫で下ろす。
エリア5は、岩場の間にぽっかり空いた洞窟になっている。相変わらず容赦無い冷気はここにも流れ込んでくるが、少なくとも吹雪の影響は受けずに済みそうである。
「だが、油断するな。どこにギギネブラが潜んでいるかは定かではないからな」
慎重に辺りを一瞥したヴァイスが、緊張を帯びた静かな声色で注意を促す。それを受けて、クレアも「そ、そうですよね……!」と小声で頷く。
凍てつく風が吹き抜ける音だけが響くエリア5。妙に張り詰めた雰囲気に、グレンもじっとしていられなくなる。
とりあえず、前方に真っ直ぐ伸びる洞窟をゆっくりとした足取りで進んでいく。そして、突き当りの岩盤が視界に入ってくるのと同時に、別の物体も目に飛び込んでくる。
「あれは……」
遠目から見ただけでは、それが何か判別することはできない。ただ、蜘蛛の巣状に張り巡らされた糸のように細い物体に、上部が欠けた白い卵型の何かが付着している。
見ただけでも不気味な光景。だが、それ以上に、一体これが何なのかということに興味を持っていかれる。
「これは、まるで――」
そうしてもう一歩それに近づこうとした時、グレンの身体に強烈な寒気が走った。これは凍土の寒さによるものではない。もっと違う――言うなれば、身の危険を感じた時に起こる心地悪い寒気だ。
背中に感じる恐怖の正体を明らかにしようと、グレンが首だけを後ろに向けた。
太陽が昇っている時間帯であっても、洞窟内は薄暗く、目の前の岩壁も黒一色に染まっているはずだ。だが、その黒に染まるはずの一部だけが、不気味に白く浮かび上がっている。
よく目を凝らしてみると、それは天井から釣り下がり、グレンの背後の岩壁に吸い付いた“何か”だった。そして次の瞬間、二つの薄紫の閃光がグレンの視界に移り込んできた。
一定のリズムで行われる息遣いらしき音。それが静まり返った周囲の空間に反響し、グレンの鼓膜を震え上がらせる。
「うあ……、あぁ……っ!」
恐怖で言葉が出てこない。思考は凍りつき、身体も震え上がって言うことを利かない。
だが、それでもハンターとして培ってきたグレンの身体は無意識に動いた。それに背中を向けて、瞬時に距離を取る。それから間髪を入れずに、それが地面に落ちてきた。
沈黙の空間に響き渡った突然の地響きに、ヴァイスとクレアも瞬時に警戒態勢に入る。そして、地面に下りた白のそれが目に入ると、二人もまた背筋を舐められたような悍ましい感覚を覚えた。
「ギギネブラ……!」
ただそれだけ。まるで、人間が抱く恐怖と不気味という感情の権化であるその名を噛み締めると、そいつもこちらに身体を向けてきた。
だが、その次の瞬間に覚えたのは、途轍もない違和感だ。
モンスターといえども、それには頭部があり、そしてまたそこには眼が存在しているはずだ。だが、このギギネブラにはその眼らしきものが見受けられない。その為に、ギギネブラがこちらに向けているのが頭部なのか尻尾なのかすらも見当がつかない。
眼の代わりになるように、ギギネブラの頭と尾には毒々しい紫色の二筋の閃光が浮かんでいる。これこそが、ギギネブラの不気味さを醸し出す正体、毒腺なのだ。
他のモンスターとは似ても似つかないグロテスクな外見。それを目の当たりにすると、今までとは違う寒気が全身を支配する。
凍てつく闇に舞い降りた毒怪竜が、こちらに身体を向けた。洞窟にその咆哮が轟く中、ヴァイスたちはギギネブラを見据え、各々の獲物に手をかけた。
身を切るような荒れ模様の狩猟の火蓋が、今ここに切って落とされた。