「そうか、あの時の……」
ヴァイスは寝ころんだまま、そう呟いた。
二年前。ヴァイスはリオレウス討伐のため、アルコリス地方へ赴いた。その時、少女を助けたことを記憶していた。そして、少女を送り届け、あのネックレスを渡したことも。
しかし、当のヴァイスは、クレアに言われるまでその記憶は欠落していた。
どうして忘れてしまっていたのだろう。たった二年。その期間で忘れることがないであろう出来事だったのに。
何かきっかけはなかったかとヴァイスは思考を巡らせる。しかし、思い当たる節は見つからなかった。
だが、他にも疑問に思うことはある。
それはクレアのことだ。確かにヴァイスはあの時クレアを助けていた。今までその記憶を欠落させてたとはいえ、そのことは明確に思い出せた。しかし、クレアは、彼女の憧れている人物が自分であると気が付いていない様子だったのだ。
もちろん、クレアが気づいていないふりをしているという可能性もある。だが、その行動に意味があるかと言えば、それは否だ。加えて、クレアはそういった振る舞いをする人物には見えない。
つまり、クレアは本当に気が付けていないのだ。憧れの人が目の前に現れ、しかもその人に弟子にしてほしいと乞ったことを。
「……」
そこまで考えて、ヴァイスは急に居心地が悪くなった。まるで、自分がクレアを騙しているように思えてしまったのだ。
「……はぁ」
溜め息をつきつつ、ヴァイスがベッドから立ち上がる。そして、洗面所へと向かうと、そこに置いてある鏡を見つめた。
元々、ヴァイスは鏡で自分の姿をまじまじと見るような性格ではない。妙な違和感と嫌悪感を抱きつつ、ヴァイスは自身の銀髪に手を伸ばした。
考えてみれば、二年前と今ではヴァイスは髪型が違っていた。今でこそ肩口で髪を切りそろえているが、その頃は大して伸びきっていない後ろ髪を洒落っ気に結っていた。顔つきも今思えば、現在と違っているように見える。
そんなことを考えていたヴァイスだったが、ここでハッと我に帰る。
「……何を考えているんだか、俺は」
やや自嘲的に溜め息をつき、ヴァイスが鏡から目を逸らした。そして、ヴァイスは自身の装いに視線を移し、ある程度納得した。
現在ヴァイスが纏っているものはギルドガード蒼シリーズ。一方、あの時に身に着けていたのはギルドナイトシリーズ。どちらを身に纏うかによってその者の印象が大きく変化してしまう。
そして、ギルドナイトが防具を変更しているという知識を持つ者は一般人はおろか、一般的なハンターたちも数少ないだろう。
つまり、クレアが新人ハンターだからという理由ではなく、それらの知識を持たないクレアが自分の記憶の中の人物とヴァイスとが合致しないため、このような結果を生んだのだろう。ヴァイスはそう推測した。
だが、その方がヴァイスにとって都合がいい。
仮にクレアがヴァイスという人物が自分の憧れの存在と気が付けば、彼女は自分に依存するかもしれない。そして、自分の力量に合わないことを遣って退けようと無茶をし、仕舞には最悪の結果も起こり得ない。
『ハンターになって成長した暁に狩場で会おう』。ヴァイスとクレアはそう約束した。
そう、クレアはまだ駆け出しハンターである。だから、クレアに真実を明かすのは、彼女が成長したと自信を持って言えるようになった時だ。ヴァイスはそう思っている。
ヴァイスにはクレアの師として彼女を導く義務がある。だが、彼女を騙すということは正直居心地が悪い。しかし、これが彼女のためになると判断したからには、ヴァイスはその時まで真実を明かさないよう決心したのだ。
「まったく……。厄介な事を引き受けてしまったものだ」
口でこそ、そうは言っているヴァイスではあったがその表情は不機嫌という訳ではなさそうだった。
ヴァイスは明日の狩猟をどうするか頭の片隅で考えつつ仕事机へと向かうのだった。
ユクモ村に夜が訪れる。
時刻は夕餉の時間帯を過ぎ、窓から覗く景色に子供の姿は見受けられない。だが、酒に酔って騒いでいる者、湯治客であろう者たちの姿は昼間よりも多く見られた。
「すっかり日が暮れたな」
ヴァイスは仕事に没頭し時間の経過を忘れていたようだ。その表情にも、そこはかとなく疲労の色が見え隠れしている。
しかしヴァイスは、窓から望むユクモ村の様子を静かに見つめ続けていた。
「これが、ユクモ村の夜の姿なんだな」
昨日は旅の疲れのため、早々に眠りに落ちてしまった。そのため、ユクモ村の夜の姿を見られなかったのだ。
だが、こうして初めて見てみると親近感を抱くのだ。それは、今の人々の様子が、村の雰囲気が、ドンドルマのそれに近いように感じるからだろう。
そう考えていると、ヴァイスはあることを思い出す。それは、この村の温泉のことである。ユクモ村の温泉にはヴァイスも興味を持っているわけだが、未だに湯治に行っていないことに気が付いたのだ。
おそらく、この時間帯は混みあっているだろう。だが、ヴァイスはこれといってすることが他にないのも事実だ。
加えて、明日はクレアを同行させ狩猟に向かう予定だ。今日のうちに疲れを癒しておきたいものだった。
「そうしよう」
潔く自分の考えに従い、ヴァイスは集会浴場へ向かうため家を後にした。
先ほど窓越しに見た景色が目の前に映る。外に出たことで喧噪も聞こえてくるようになり、より親近感が沸いてくる。
ヴァイスはその景色を横目に集会浴場に続く石段を登っていった。そして、集会浴場に足を踏み入れる。
やはり、この中は普段から熱気に包まれているようである。温泉が隣接しているため仕方ないことだが、その中に長時間留まっている受付嬢たちは平然とした顔をしている。
そして、その受付嬢は依頼の受注を行っている様子だ。カウンター越しに四人組のハンターたちが受付嬢に依頼書を渡していたのだ。ハンターたちはヴァイスの存在に気が付くこともなく村を後にしていった。
ヴァイスはその様子を眺めつつ、集会浴場入り口の右側にある暖簾へ向かって歩いていく。
近づいていくと、座布団の上にちょこんと座り、扇子片手に着物を着ているアイルーがヴァイスの存在に気が付いた。
「これはこれは。ユクモ温泉にようこそいらっしゃいましたニャ。私はこの温泉の番台を務めている者ですニャ。以後、お見知りおきを」
番台アイルーが律儀に頭を下げる。
「ヴァイス・ライオネルだ。これからしばらく世話になると思うが、よろしく頼むな」
「ええ。私も存じ上げております。こちらこそ、当温泉をよろしくお願いしますニャ」
ヴァイスが名乗ると番台アイルーは再びぺこりと頭を下げた。
「今日は温泉に浸かりに来たのですかニャ?」
「ああ、そのつもりだ」
ヴァイスが首肯すると、番台アイルーは髭をピンと伸ばす仕草をして見せた。
「左様でございますか。今宵の湯はまた一段と素晴らしいものとなっていますニャ。疲労回復などの効能も然る事ながら、
さすが、口の達者なアイルーだ。この温泉の宣伝も完璧にこなしてみせる。ヴァイスは「そうさせてもらうよ」と番台アイルーに返した。
「なお、当温泉は混浴になっておりますニャ。奥の更衣室でインナーの上からユアミタオルを巻いて入浴をしてくださいますようお願いしますニャ」
「ああ、分かった」
番台アイルーとの話を終えたヴァイスは暖簾を潜る。すると今度は、赤と青の暖簾が掲げられていた。ヴァイスは青い暖簾を潜り更衣室へ向かう。そこでインナーの上からユアミタオルと呼ばれる物を腰に巻き、湯治場へ向かった。
そして、もう一度暖簾を潜ると目の前の視界が一気に開けた。
「これは……」
屋内にあるとは思えないほどの大浴場。奥の方へ目をやれば、その辺りの天井や壁は取り払われており外の景色が一望できるようになっていた。
温泉には多くの人の姿が見られた。湯船の中で晩酌を交わす者。外の景色を堪能している者。この温泉の湯にただ浸っている者。皆、それぞれの方法でこの湯治を楽しんでいる様子だった。
ヴァイスは向かって奥の方向へ向かい、そこで湯船に浸かった。
身体全体が柔らかい絹に包まれたかのような感覚。身体の芯から温まり、疲れが取れていく。それはまるで、身体がとろけてしまいそうなほどの心地よさだった。
ヴァイスは無言でそれを堪能する。そして、外の方に目をやった途端、ヴァイスは今度こそ言葉を失った。
夜空に輝く月がユクモ村を照らす。その下で木々が風に吹かれると、紅葉が良夜に舞った。
「凄い……」
無意識にヴァイスはそう呟いていた。
他に形容する語が見つからないほどの光景。その様子はまさに、絶景と呼ぶに相応しいものだった。この絶景を眺めつつ温泉に浸かる。番台アイルーの言っていた事はこのことなのだろう。
この温泉は素晴らしい。村人が口々に自慢するユクモ温泉の凄さをヴァイスはようやく理解できた。
「いい湯だな」
ヴァイスは物静かに呟き、夜空に輝く月を見上げた。
ユクモ村の夜は静かに深けていった。
翌日の正午。ヴァイスはギルドガード蒼シリーズを着込み、その背に飛竜刀【椿】を携え集会浴場を訪れた。
と言っても、これからすぐに出発するのではない。これから、クレアと共に受注する依頼を決定するためだ。
ヴァイスは何気なくクエストボードを眺めていた。すると、ヴァイスが待っていた人物がやって来た。
「すいません。お待たせしました、
クレアが頭にかぶった笠をちょこんと持ち上げ頭を下げた。
クレアと師弟関係になったとはいえ、やはり“師匠”と呼ばれるのは違和感を抱く。しかし、これは至極当然な事のため時期に直に慣れていくことだろう。それまでの辛抱だ。
そのクレアの装いは昨日出会った時のものと変化無かった。
彼女が扱う武器は片手剣。その片手剣はユクモ村で使用されている鉈を狩猟用に鍛え直したものだ。そのため比較的安価で入手でき、主にこの辺りの新人ハンター専用の武器と言っても過言ではない。その名をユクモノ
防具も同じである。主な素材のユクモの木に鉄鉱石などで補強を加え、ある程度の衝撃にも耐えられるようになっている。これは、ユクモノシリーズと呼ばれる。
「気にするな。それより、受注する依頼を決めるぞ」
「はい!」
クレアがヴァイスの横からクエストボードを覗き込んだ。
依頼にはさまざまな種類がある。討伐、撃退、採取などがその主だ。時には護衛依頼、防衛依頼などという変わり種な依頼を受け付けていることもある。
ヴァイスも依頼内容を一通り目を通す。これまでヴァイスが対峙してきたモンスターの名や、資料でしかその名を見たことのないようなモンスターの名がちらほら存在していた。今回の場合はクレアの実力をある程度知り、依頼を決定する必要がある。
「クレアは訓練所でハンターの知識を学んだんだろう? 具体的にどんなモンスターと対峙したことがあるんだ?」
「そうですね……。大型モンスターを討伐した経験はないですけど、ジャギィくらいなら討伐したことはありますよ」
「そうか」
クレアの返答にヴァイスが考え込む。
やはり、予想通りといったところだ。ならば、最初はこの辺りに現れるというドスジャギィの討伐辺りが妥当な線だろう。しかし、クエストボードにはドスジャギィの討伐依頼は掲示されていなかった。
どうするべきか、とヴァイスは頭を働かせる。すると、ヴァイスの後方から声がかかった。
「ヴァイスさん。ちょっといいですか?」
振り返ってみると受付嬢が手招きをしている。どうやら、彼女がヴァイスに声をかけたらしい。
ヴァイスはカウンターへ向かっていく。
「どうした?」
「実は今、新たな依頼が入ったんです。どうやら、依頼主はドンドルマの王立書士隊らしいです」
「ドンドルマの?」
ヴァイスは受付嬢から手渡された依頼書を確認する。
そこに表記されていたのはアオアシラの討伐。依頼主は確かにドンドルマの王立書士隊であった。
王立書士隊とは、モンスターの生態を観察、研究している組織のことを指す。彼らはギルドナイトと同じく、遠方へ派遣され生態調査を行うこともある。
「名指しの依頼なのか?」
「いえ、そういう訳ではないらしいです。ですが、一応ヴァイスさんの耳に入れておこうと思いまして」
「なるほどな」
ヴァイスは、今一度依頼書に目を通した。
場所は渓流。アオアシラも渓流もヴァイスは資料上での知識しか持ち合わせていない。だが、アオアシラは飛竜種まで手強くはないと聞く。ならばこの依頼は、ヴァイスにとって好都合かもしれない。
「よし。この依頼を引き受けよう。同行者は一人だ」
「はい、分かりました。では、手続きを行いますね」
受付嬢が受注の手続きを行う。契約金を引き渡し、狩猟に向かうことが可能になった。
「クレアは構わないか?」
「はい、大丈夫です!」
「分かった。なら、すぐに準備を整えここで待ち合わせだ」
「分かりました!」
ヴァイスとクレアは狩猟の準備のため一旦解散した。そして、二人が準備を終え集会浴場に集合すると、渓流に向けて村を発ったのだった。