ふう、とアンリエッタは自室で息を吐く。今日も一日働いた、と呟くと、寝間着に着替えることなくベッドへと飛び込んだ。暫しそのままぐったりとしていた彼女は、ノロノロと起き上がると杖を振る。着替えがクローゼットから飛んできて、彼女はドレスを脱ぎそれを身に付けた。
「……自分のことは自分で、だったかしら」
自身の師の教えの一つとして、何かを行う時は自ら動くというものがある。無論ノワールがそんなことを素直に言うはずがないので回りくどく皮肉を交えた分かりにくいものではあったが、ともあれアンリエッタはそう解釈し普段から実行していた。
本来であるならば侍女を付け着替えなどを行うべきであるのをこうして一人で勝手にやっているのもその一環である。おかげで通常の仕事が無くなった侍女は余計なスキルをモリモリ学んでいるらしいが、ここでは割愛する。
「しかし、マザリーニ宰相もやってくれますわね」
王位にはつかないと未だ気ままな姫稼業をしている彼女へと彼が回す仕事は最近とみに増えてきていた。王位につけば楽になれると言わんばかりのその量は、明らかな嫌がらせに感じられるほどだ。
まったく、と彼女は溜息を吐く。言われずとも、もうすぐ王位は埋まる。自身の立場も姫から王妃へ変化するはずだ。
「そう、わたくしと、ウェールズ様が……うふ、ふ、ふふふふ」
枕を抱きしめキャーキャー言いながらアンリエッタは転げ回る。ついに自身の夢が叶うのだ。これまで色々とやらかしてきたのも、全てはこの時のため。気兼ねなく恋愛にうつつを抜かすために、世界を平和にしたのだ。
「まあ、まだ問題は山積みですけれど」
実際に平和なのは一部、火種が残っている場所は少なくない。それでも一時期と比べれば格段に平和だと、平穏にしたのだと胸を張って威張り散らせる。
だから今この疲れも彼女にとっては心地よい疲労であり、ぐっすりと眠るための睡眠導入剤であった。さて今日も寝よう、そんなことを思いながら目を瞑り。
「……?」
コンコン、とドアをノックする音が聞こえ目を開いた。夜も更けているこの時間に一体全体何者だ。そんなことを思いつつ、彼女はどなたですかと声を返す。それに答えずに、ノックの音は再度部屋に響いた。
「聞こえなかったのですか? わたくしは起きています、とりあえずどなたなのか名乗ってください」
暫しの間、そして、僕だ、という短い声が聞こえた。
「ウェールズ様? どうしたのですか?」
「少し君と話したくなってね。入れてもらえるかい」
勿論、とアンリエッタは立ち上がり、しかしそこで動きを止めた。ドアの鍵を開ける前に、何かに気付いたように動きを止めた。
今は夜。自身はネグリジェ姿。そして、扉の向こうは結婚を間近に控えた愛しい婚約者。ここから導き出される答えは一つである。
「ウェールズ様!? ま、まだ少し早いのではないでしょうか!?」
「何がだい?」
「何って……わ、わたくしの口から言わせようとしているのですか!?」
降って湧いたようなタイミングで行うことがまさかの羞恥プレイ。などとアンリエッタの思考にあるかは定かではないが、ともあれ普段の彼女らしからぬ混乱した状態のまま、何故か扉の鍵を開けてしまった。まだ早いとか何とか言っていたくせに、中に招き入れてしまった。
「すまない、アンリエッタ。こんな時間に」
「いえ、大丈夫です」
彼女らしからぬギクシャクした動きで、アンリエッタはウェールズに座るよう勧める。その言葉にありがとうと頷いたウェールズは、その前に、と彼女を抱き寄せた。
「う、ウェールズ様!?」
「駄目かい?」
「だ、駄目……では……ありま、せん」
ウェールズの顔が近付く。今まで何度もしていたはずの口付けが、何故か今だけはとても甘美で、まるで悪魔の誘惑のように感じられた。
とろけるようなその感触に、アンリエッタの意識はゆっくりと溶けていく。
王宮がやけに静かだ。そこで働いている貴族達はそんな感想を抱いた。そしてその原因は何なのだろうかと考え、元凶がいないからだと結論付ける。
結論付け、そしてどういうことだとざわついた。トリステインの王女、アンリエッタの姿が見当たらないのだ。普段ならばとっくに行動していなければおかしいのに。
と、本来ならばなるところなのだが。悲しいかな、アンリエッタの放浪癖は既に周知であった。どうせ今日も魔法学院か、あるいは城下町で騒いでいるのだろう。臣下はそんなことを考える始末である。
何より、ウェールズと共に行動していたという情報が流れているのだ。これで心配する方がどうかしている。
「……だ、そうですよマザリーニ宰相」
「どいつも、こいつも……!」
王宮にいる者の情報を集めたアニエスがマザリーニに報告したのが上記の通りであるが、どうかしているらしい筆頭の彼は大分参っていた。このままでは心配のし過ぎで倒れてしまうのではないかと本気で考えてしまうほどに。
宰相、とアニエスは声を掛ける。何だねと鋭い目を向けられた彼女は、しかし平然とした様子で差し出がましいのですがと言葉を続けた。
「そこまで心配なさることなのですか?」
「普通は自国の王女が失踪してしまえばこうなるのだ!」
「失踪、ですか」
「……まさか姫殿下がいつものようにどこかをふらついていると考えているのかね?」
「まさか」
そう言って肩を竦めたアニエスを見て、マザリーニは表情を歪めた。そういう君は何故そうも平然としているのだ。そう尋ね返すと、彼女はそれは勿論と言葉を紡ぐ。
「殿下を信頼しているからです」
「信頼?」
「あのお方は、この程度の事件でどうにかなるようなものではない。そう確信を持っております故に」
「む」
はっきりとそう言われてしまえば、マザリーニも思わず黙ってしまう。彼も心の奥底では同じ考えを持っている。が、いかんせん生来の性格上それならば問題ないなどと考えられるほど図太い神経をしていなかったのだ。
息が地面につくほど長い溜息を吐いたマザリーニは、仕方ないと頭を振った。アニエスの名を呼び、ウェールズ皇太子に事の次第を報告するよう命令を出す。
が、命じられた当の本人は何を言っているのだと言わんばかりの表情を見せた。
「既にご承知のはずですが」
「……そうか、なら、もう、いい」
適当に動ける者を使ってくれ。それだけを言うと彼はフラフラと彼女から離れていった。執務室へと足が向いているところを見ると、アンリエッタがいない間の仕事をある程度こなしておこうという腹積もりなのだろう。
そんなきっと長生き出来ないであろう苦労人の背中から視線を外したアニエスは、その足でウェールズの部屋へと向かう。失礼します、とそこに入ると、彼は既に出掛ける準備を済ませていた。
「ああ、ミス・アニエス。丁度良かった」
「魔法学院へと向かわれるのですか?」
「ああ。アンリエッタの足取りの手掛かりがあるかもしれないからね」
もしなくとも、その場合は彼女達の手を借りられる。そう続けながら、手伝ってくれるかいと彼はアニエスに問う。無論ですと頷いた彼女は、では早速馬の手配をしましょうと踵を返した。
「あ、いや、待てよ」
「どうかしたのかい?」
「マザリーニ宰相から、動ける者を適当に使って良い、と言われておりますので」
彼女のいる場所に向かうならば、文字通り閃光の速さで移動出来るあてがある。そう言うとウェールズに向かい、こちらへと先導するように足を進めた。
向かう先には、グリフォン隊の宿舎が見えた。
「アニエスと、ウェールズ殿下、と」
「ルイズ! 会いたかった」
「……ワルド」
何だこの組み合わせ。そんなことを思いながら、ルイズは訪問の理由を尋ねる。それで少し気を引き締め直した三人は、今朝からアンリエッタ王女の行方が知れないと答えた。そんなわけだから、王女がどこにいるか知らないか。そう尋ね返した三人に向かい、ルイズは知らんと短く答える。
「その様子だと、どっかふらついてるってわけじゃないのよね?」
「ああ。それは間違いない」
アニエスの言葉にルイズは少しだけ表情を引き締める。少し考える素振りを見せた後、皆を呼んでもいいかとウェールズに尋ねた。勿論と彼は頷き、彼女はそれに笑顔を見せる。
ワルドはその言葉に嫌そうな顔をしていたが、既にいつものことだと相手にされないらしい。
そうして集まってきたキュルケ、タバサ、そして才人を交え、改めてとテーブル席に座った一行は説明を行う。情報交換という名目であったが、生憎どちらも有用な情報など持ちあわせてはいなかった。精々が、アンリエッタはウェールズと行動を共にしていたらしいという誰とも知れぬ目撃談くらいである。
「ウェールズ王子と一緒に姫さまがいる? って、おかしくね?」
「そうね。殿下はここにいるもの」
「三人でわざわざあたし達をからかいに来たってわけじゃないでしょうから」
「……偽物?」
タバサの呟きに、まあそうかしらねとルイズは頷きつつ難しい顔を見せる。ウェールズの偽物に引っ掛かったアンリエッタが誘拐された。そんなストーリーを想像し、んなわけあるかと首を振った。
「あの姫さまが、そんなあっさり偽物に引っ掛かるわけないじゃないのよ」
「まあ、ねぇ」
「わざとじゃない限り、不可解」
ううむと三人娘は首を捻る。そこはウェールズ達も同意見のようで、同意するように頭を掻いた。
そんな中、二人ほど。その言葉に同意しかねている者がいた。皮肉にも彼等はいがみ合っている二人で、異議を唱えるのが自分達だと分かるとあからさまに嫌な表情を浮かべお互いを睨む。
「何だ使い魔。大した考えも無いくせに異議を唱えようとするんじゃない」
「こっちのセリフだっつーの髭面。ルイズにいいとこ見せようとか考えてんじゃねぇのか?」
無言で立ち上がると、二人は、ワルドと才人は腰に下げている己の得物に手を掛けそれを抜き放ち。
その直前に、やめんかバカ二人とルイズに怒鳴られ着席した。心なしかしょんぼりしているように見えたのは気のせいではあるまい。
「で、ワルド、サイト。アンタ達の意見は何なのよ」
「いや、何。姫殿下といえども結婚を間近に控えたこの状況では恋する乙女になってもおかしくない。普段のあのお方らしからぬ行動をしてしまうこともあるかもしれないと思ってね」
「……今の姫さまっていつも以上にウェールズ王子しか見てない感じだったし、変装とかじゃない偽物――ケティ十号みたいなあの、スキルニル? になら案外騙されるんじゃねぇかな?」
お互いそう述べると、真似するなと睨み合う。奇しくも二人合わせて一つの意見だと言わんばかりになったそれを聞いたルイズは思わず吹き出し、しかし成程と頷いた。
どうだろうか、と周りを見渡すと、彼女と同じように何かを考え込む仕草を取っている一行が見える。その様子を見る限り、どうやら二人の意見を前提として話を進めることになりそうであった。
「しかしそうなると。アンリエッタは一体どこに?」
ウェールズの疑問に答えられる者はいない。誘拐される手段についての目星を予想したところで、アンリエッタを助け出せるかといえば答えは否。肝心要の居場所が分からない限りどうにもならないのだ。
トリステインの国内にいるのか。それとも国外へと向かったのか。そこに至る手掛かりが少な過ぎる。
「いなくなった時点ですぐに行動をしていればまた違ったんでしょうけど」
「普段からあっちこっちにフラフラしてるからこういう時問題になるのよ」
まったく、と顔を顰めたルイズはしかし何とかして現状を打破しようと思考を巡らせる。が、いかんせんこういうことに普段頭を使わない彼女ではいいアイデアなど出るはずもなく。
とりあえず、とタバサはそんな彼女を見つつ口を開いた。まだ国内にいるのならば、国外に出られないよう手配をすべきだ、と。
「あ、ああ、確かに。よし、早速行おう」
ウェールズはそう言うと立ち上がる。学院にいる伝令係にその旨を伝えるために部屋を出ていき、残った者はそんな彼の背中を目で追った。
そんな折、先程から無駄に考えていた才人はふと思い付いたことがあった。アンリエッタが誘拐されたとして、犯人は現在の情報から推測する限りウェールズの偽物。そして、いくら現在乙女脳になっているとはいえ、アンリエッタはアンリエッタだ。怪しい素振りを見せれば我に返り全力で抵抗するに違いない。
「なあ、ルイズ」
「ん?」
「姫さまとウェールズ王子の思い出の場所とか、心当たりないか?」
「思い出の場所? そうねぇ」
本人に聞くのが一番手っ取り早いでのはあるが、ウェールズは案外そういうところに無頓着なきらいがある。当然本人にも聞くのだが、まずは親しい相手が思い付くような場所から潰していくのも悪い選択ではないはずだ。
ともあれ、才人のその問い掛けにルイズが出した答えは一箇所であった。自身もある程度関わっているために覚えていたその場所が、真っ先に思い付いたのだ。
「ラグドリアン湖は?」
「らぐどりあんこ?」
「そう。トリステインとガリアの間にある巨大な湖よ。水の精霊が住んでいて、そこで交わされた誓いは決して破られることがないと言われているわ」
何だか随分とロマンチックな場所だな、と才人は思った。そして、成程それは確かに思い出の場所になり得るだろうと同時に思った。
そのタイミングで戻ってきたウェールズにそのことを話すと、暫し考え込むような仕草を取った後、ラグドリアン湖へ向かおうと述べる。どうやらルイズの出したそこに心当たりがあるようであった。
「以前、そこで彼女と誓いをしたことがある」
何を誓ったか、などと聞くのは野暮であろう。そう判断した皆はその言葉に頷くのみ、では行きましょうと身支度を整え、グリフォンとシルフィードを使い一刻も早くラグドリアン湖に向かわんとする。
「あの時は」
その行動中、ウェールズは一人呟く。この間から、漠然と抱いていた不安。それが更なる大きさとなって、今彼を押し潰さんと両手を広げていた。
アンリエッタを幸せにする。ウェールズにとって、それは。
「……誓うさ、今度こそ」
何かを決意したように、彼はギリリと拳を握った。
もうちょっとだけ続くんじゃ。