その1
「よく来てくださいました」
男の目の前には、そう言って微笑む少女の姿がある。年若く、子供と言っても差支えのない年齢の彼女は、対面に座っている男を前にしても僅かな揺らぎもない。明らかに年上の、メイジの、貴族の。そんな修飾語がいくつもつくような男を前にして、平然としているのだ。
男はそんな少女を見て薄ら寒くなった。こいつが本当にそうなのか。そんなことを一瞬思い、むしろだからこそかと納得する。そんなことを一通り思考すると、彼は少女に向かい声を掛けた。
ジョゼット殿、と男は少女の名を呼ぶ。はい、と笑みを消さぬままジョゼットは男に言葉を返した。
「私の身分の保証をしてくれるというのは、本当ですかな?」
「ええ。勿論ですわリッシュモン様。貴方様の誠意は十二分に伝わりました。その恩義を裏切るような真似はいたしません」
それは良かった、とリッシュモンは笑みを浮かべる。トリステインのあの野蛮な姫がいつ自身を害しに訪れるか分からないので、そんな事を言いながら目の前の紅茶に口を付けた。
それを聞いたジョゼットは、あらあらと頬に手を当てながら小首を傾げる。噂に聞いていたよりも随分物騒のようだ。本心か話を合わせたのかは分からないが、そこに反論することなく彼女も紅茶に口を付けた。
そこでリッシュモンはふと気付く。彼女の手にはまっているその指輪。赤と青の違いこそあれど、彼の記憶が衰えていなければ確か。
「始祖の指輪ではありませんか?」
「あら? この指輪のことを知ってらっしゃるの?」
「これでもトリステインの元高等法院ですからな」
アンリエッタ姫殿下が付けていた指輪と同じものである、とリッシュモンは続ける。それを聞いたジョゼットは少しだけ目を細めると、その指輪をそっと撫で、背後の棚に置いてあったオルゴールを手に取った。
「とある事情で手に入れたものですので、正確なことは分かりませんの。でも、そうですね……もしそうだとすれば、きっと始祖のお導きでしょう」
「と、いうと?」
「ロマリアで見付かった予言の一つに、虚無の担い手というものがあります。始祖は己の力を四つに分け、その担い手も四つに分けた」
それと指輪に何の関係が。そう言い掛け、やめた。続きがあるといわんばかりの表情を見せていたのが一つ。予想を思い付いてしまったのがもう一つ。
そして何よりの理由は、小娘に気圧されてしまっていたからであった。
「担い手を見出すには、指輪をはめ、始祖の秘宝を手にすればいいそうです。……そして、王家でもないこんな場所にその指輪があるということは」
本気で言っているのだろうか。そんなことを思いつつ、リッシュモンは口を挟まない。もし本当ならば、始祖の秘宝を彼女が手にすれば虚無に目覚めるということになる。
自身の新たなる後ろ盾となってくれる者が虚無の担い手、そうなれば自分をどうこうできる輩など殆どいなくなるに違いない。願ったり叶ったりの状況を思い浮かべわずかに口角を上げたリッシュモンはただ素晴らしいと彼女の言葉を肯定し、称賛した。
「ふふっ。ありがとうございますリッシュモン殿」
ジョゼットはそう言うと、手にしていたオルゴールの蓋を開ける。思わずそれに注目したリッシュモンの目の前で、オルゴールはゆっくりと回り、そして。
「壊れているのですかな?」
「そう思いますか?」
違うのですか、とリッシュモンは眉を顰める。ジョゼットはそれに答えず、まるで何かの調べを聞いているように目を閉じ、そして少しだけ俯いた。
ゆっくりと蓋を閉じる。微笑を浮かべながら彼に再度目を向けると、仕方ありませんわと彼に述べた。
「ちょっとしたマジックアイテムですわ。このオルゴールが奏でるのは望郷の音色。その思いがないものには聞こえないのでしょう」
「……成程」
納得は行かなかったが、しかし追及するまでもない。そう思ったリッシュモンはそこで話を打ち切り、他愛もない雑談へと興じることにした。
彼は知らない。彼女の持っていたそれは、ちょっとしたマジックアイテムなどというものではないことを。
彼は知らない。そのオルゴールは『始祖のオルゴール』と呼ばれているもので、その音色を聞くことが出来るのは虚無の担い手でしかないことに。
「いい加減、ウェールズ様としたいのです」
アンリエッタのその言葉で、才人は思わず飲んでいた紅茶を吹きむせた。そんな彼の隣にいたルイズは、あからさまにしかめっ面をして才人を見やる。
「きったないわね」
「ご、ごめん。でも、仕方ないだろ」
「何でよ」
「え? いやだって姫さまが」
そこまで言って、自分がどうしようもない勘違いをしていることに気付いた才人は、何でもないですと消え入りそうな声で述べた。首を傾げるルイズとタバサ、ニヤニヤと笑みを浮かべるキュルケ。そんな三人の注目の的になっている彼を見ながら、アンリエッタは話を続けましょうと紅茶に口を付ける。
「この間の訪問を見る限り、テファは既にアルビオンの顔となりつつあります」
「結局なっちゃったんですよね、あの娘」
「ま、しょうがないわよぉ」
「あの状況でならないはずがない」
やれやれ、と肩を竦める三人であったが、しかしティファニア自身は割と充実してそうだったのでまあいいかと思い直した。彼女を笑顔にする、というアンリエッタの宣言は結局達成されたのだ。彼女の野望の足掛かりのついでに。
「ガリアとの友好も上々。ですよね、ミス・オルレアン」
「……まあ、一応」
目の前の彼女と身内のアレらが結託するのは正直気が進まないのだが、イザベラの心労が大分緩和されている現状を考えると文句も言えない。そんな複雑な心境でタバサが出した言葉はこれであった。
よろしい、とアンリエッタは微笑む。これで後は実行するだけだ。そんなことを言いながら、彼女は傍らに置いてあった鞄から一冊の本を取り出した。分厚いそれは机に置かれるとドンと音を立て、なんじゃこりゃと才人は思わず目を見開く。
「これは?」
「知っての通り、トリステインの王族の結婚式には選ばれし巫女に詔を詠んで貰うことになっています」
この、『始祖の祈祷書』を使って。そう続けると、アンリエッタはそれをゆっくりとルイズに押し付けた。
へ? と素っ頓狂な声を上げるルイズに向かい、アンリエッタは笑みを湛えたままよろしくお願いしますねと述べる。ここまで来て分からないほど彼女は鈍くはない。が、かといって快く了承するかといえば勿論。
「何でわたしが!? 嫌ですよそんなの!」
「そういうの苦手だしねぇ、ルイズは」
「創作センスは大分酷い」
「あ、やっぱそうなんだ」
「やかましい!」
がぁ、と吠え、しかしがくりと項垂れると、まあ確かに事実なんだけどと自嘲気味に笑った。そんなわけなんで無理です。そうルイズは続けたが、当たり前のようにアンリエッタは聞く耳を持たない。
「ルイズ」
「何ですか姫さま」
「わたくしがそんなことを知らないとでも?」
「やっぱりわざとか! 嫌がらせか! こんちくしょー!」
思わず立ち上がったルイズを見てクスクスと笑ったアンリエッタは、しかし急に表情を真剣なものに変えた。思わず気圧されたルイズはそのままストンと椅子に座り、彼女の次の言葉を待つ、待ってしまう。
「貴女はわたくしの恋路のために尽くしてくれました。ウェールズ様も、わたくしも、貴女には感謝しているのです」
「……」
「恩人であり、わたくしの大切なおともだちであるルイズ、貴女にやって欲しいの」
「……そんなこと言われたら、断れないじゃないですか」
普段のからかいではない本気の言葉を聞いてしまった以上、ルイズに反発するという選択肢はなかった。何だかんだで、彼女にとってアンリエッタは大切な幼馴染の一人なのだ。
ありがとう、とアンリエッタは微笑む。では、改めてお願いね、と『始祖の祈祷書』を指差すと、そろそろ準備をしなければと席を立った。
「そうそう」
「はい?」
「その本は国宝ですから、もし何かあった場合借金が山のように増えるのであしからず」
「ちょ!?」
毎度毎度の嵐のような君主の訪問は終わり、毎度毎度のようにルイズ達はやってらんねぇとばかりに机にグダリと体を預けた。特にルイズとタバサの疲労度は相当なものである。
「んで、その『始祖の祈祷書』だっけか? には、その結婚式の詔を読む参考みたいなのが書いてあるのか」
「あー、そうね。これを見れば少しは参考に――」
そう言いながらグダリとしたまま本を捲る。真っ白な頁が目に飛び込み、彼女は思わず眉を顰めた。体を起こすと更に頁を捲る。次も、その次も、そのまた次も。そこにあるのは何も書かれていない白紙のみ。
「なんじゃこりゃぁ!」
「これは酷いわねぇ」
「うわ」
何ぞ、とそれを覗きこんだキュルケとタバサも、思わずそんな感想を持つ。何も書かれていない本なんぞ渡されても、何の参考にもならないではないか。三人揃って出した結論はそれであった。
唯一違う感想を持ったのは一人。こういう時はあれだ、と何かを思い付いたように手を叩いた才人である。
「きっと見えない何かが書かれてる」
「は?」
「この手の本のお約束だろ。選ばれし者のみが読めるとかさ」
「……アンタは読めるの?」
「いや、俺選ばれし者じゃないし」
「その理屈だとわたしも選ばれし者じゃないわね」
「あたしもそうねぇ」
「同じく」
つまり結局ただの真っ白の本でしかないわけである。はぁ、と溜息を吐いたルイズは、まあいいやと本を閉じた。自分の力のみで考えなければいけなくなった以上、これ以上こんなものと睨めっこをしていても仕方がない。
「四大系統に対する感謝の辞を韻を踏みつつ詠み上げる……か」
「無理なんじゃないかしらぁ」
「うっさい!」
ならちょっと一つやってみなさい。そうキュルケに言われたルイズはうぐぅと唸る。しばし視線を周囲に彷徨わせながら頭を捻っていたが、これでどうだとばかりに視線を前に戻した。
「火は熱い」
「……」
「……」
「……」
「あ、熱いから、きおつけろ」
「ごめんルイズ、あたしが悪かったわ」
「な、ななな何よその生暖かい視線! なんだってのよ!」
「いや火は熱いから気を付けろってそれ詩でもなんでもねぇし」
溜息と共に吐き出された自身の使い魔のその言葉に、ルイズは唇を尖らせた。文句だけは一人前だ、そんなことをぶつくさ言いながら、もういいと本を小脇に抱えて立ち上がる。
あんたらも一緒に考えなさい。暫し歩いてから立ち止まり振り向いた彼女の言葉に、三人ははいはいと肩を竦めた。
「はぁ……」
所変わってトリステインの王宮。一人の青年がどこか浮かない顔で溜息を吐いていた。ウェールズ・テューダーその人である。そろそろアンリエッタとの結婚式が迫っているともっぱらの噂の、トリステインに馴染んできた他国の皇太子である。
そんな彼の表情を見た王宮の人々は、一体どうしたのだと首を傾げた。結婚はめでたい、そう考える者が殆どであったからだ。が、しかし。その相手を思い浮かべた彼等彼女等は、まあ仕方ないかとその考えを覆した。
それでも面と向かってそれを言うような輩はまずいない。誰だって命は惜しい。アンリエッタが相手だから浮かない顔をしているのだろうなどと口にしてしまえば、次の日には路頭に迷っていてもおかしくないからだ。何より自国の君主、どうしてそんなことを言えようか。
「やはり嫌なのですか?」
そんな考えを持っていない極一部の一人、アニエスはウェールズに思い切り尋ねていた。周囲がざわめく中平然としている彼女は、隣に立つ彼の言葉を待つ。が、ウェールズははははと笑いそんなことはないと首を横に振った。
「彼女と結ばれるのは、自分で言うのも照れくさいが、幸せだ。半ば叶わないと思っていたことが実現したんだ、嬉しくないはずがないさ」
「……では、何故そのような表情を?」
「いや、なに。……こう、いざ間近に迫ると、不安になるんだ。僕は本当に、彼女を幸せにしてやれるのだろうか、と」
むしろ他に誰がいるんだ、という言葉を聞き耳を立てていた誰もが思ったが、しかし寸前で押し留めた。アニエスですら飲み込んだ。これはおそらく、この場で他人が言ったところで解決しない問題だ。そう判断したのだ。
だがその代わり、彼女は別の問い掛けをした。では、結婚を取りやめますか? そう彼に尋ねた。
「……そうはいかないさ。さっきも言ったがそれ自体は僕も望んでいるし、何よりアンリエッタが了承しないだろうしね」
そう言って苦笑すると、ウェールズは用事があるからとアニエスから離れていく。それを見送った彼女は、彼の背中が見えなくなってから溜息を吐いた。そんなことでどうするんですか、と届かない相手に向かって呟いた。
「貴方がいるから姫殿下は今の姫殿下なのですよ……」
これはまた一波乱ありそうだ。そんなことを思いつつ、アニエスも自身の用事を済ませるために足を動かす。研究室へと届け物を頼まれているのだ。幸い今日は憎きコルベールはそこにいない。
「……波乱、か」
ふと呟く。何か問題でも起これば、彼の考えも変わるかもしれない。そんな自分らしからぬことを思い浮かべ、いかんいかんと頭を振った。大分毒されているな、と一人肩を竦める。
どのみち、そうタイミングよく波乱など起こらんだろう。そう自分に言い聞かせるように続け、アニエスは辿り着いた研究室の扉を開いた。
ウェールズ王子がマリッジブルー。